第78話 夏の日と向日葵


 *

 蜃気楼が見えてきそうな程熱せられたアスファルトの帰り道を、重たいめんつゆ片手に歩いていると不条理な世界に嫌気がさしてくる。とはいえ、もういくつ寝ると大学生の夏休みという人生で最も気楽でハッピーだと言われている期間が訪れると考えれば、まぁ我慢しがいもあるというものだ。


 七月も終わりが近付く土曜日の昼間、俺は母さんに頼まれた麺つゆを買いに近所のスーパーに足を運んでいた。不運な事に自転車がパンクしていた為、こうして徒歩で行く羽目になってしまった。通学で使って無いせいで、メンテナンスを怠っていた俺が悪いのだけど、何もこんな日に壊れなくたっていいじゃないか。

「・・・なんて、こんなくだらないこと考えていると色々忘れちゃいそうだな」

 色々、とはもちろん色々だ。夏休み前のテスト&テスト&レポート地獄の事は勿論だが、俺が専ら目を背けたがっているのは日本を支える正義の味方達のご機嫌の事だ。


 夏休みに突入すれば俺は大学という口実を失い、必然的に彼女達に会う時間も増える。特に茜さんをデートに誘うという高難易度なミッションに今から震えが止まらない。鶯さんにも「お家で会うのもいいですが今度どこか遊びに行きませんか?」と、ここ最近ずっと言われている。これは俺から提案しろという事だろうな。

 女子と二人きりで出掛けた経験なんて小学校時代が最後の俺にとって、改めてデートに誘うと言うのはかなり気恥ずかしさが邪魔をする。向日葵とパフェを食べに行った時は相手が子供だし、気軽な空気だったから特に緊張することも無かったが、お互いがデートだと認識した状態で計画すると言うのはどうも難しい。


 向日葵と言えば、鶯さんの一件以来まともに連絡が取れていないのも心配だ。あの日、返り血をたっぷりと浴びた向日葵を見て俺は咄嗟に大声で詰め寄ってしまった。実際、俺の嫌な直感は当たっていて、向日葵は鶯さんを殺しかけていた。プロポーズによって鶯さんが意識を取り戻した後、博士に連絡したり病院へ運ぶ準備をしたりしている間、向日葵はずっと俺達の後ろで「ごめんなさい、ごめんなさい」とうわ言のように呟いていた。あの時の俺は鶯さんの命が危険だということで頭がいっぱいだったせいでその言葉に返事をすることは出来ず、それからどうなったのかは知らない。


 何かあればいつでも電話してくれとは言っておいたが、向日葵らしくないそっけない「大丈夫」が返って来たきり。俺が無理矢理聞き出したり、会いたいと言えばいう事を聞いてくれるかもしれないが、自分で判断する事に怯えているあの子にそういった無理強いはしたくない。何より俺自身、あの子にどう接するのが正解なのか未だに判らずにいる。竜胆博士は無理にでもフォローして欲しいみたいだが、もう少しだけ待って向日葵が自分からアクションを起こしてくれるのを待ちたい。


「本当に・・・なんで鶯さんを」

 俺がもっと、気が利いて女性の扱いが上手くて空気が読める奴だったらこんな風にこじれてしまう事はなかったのだろうか。自転車操業みたいな下手でその場しのぎの人間関係対応のせいで、アスファルトから熱が伝わる俺の足の裏みたいにじわじわじりじりと悪い状態になって、いつか大きなおつりが来るんじゃないかと考えてしまう。未来予知だけじゃない嫌な妄想が次から次へと沸いてきて、最近夜眠るのが怖い。



 あと少しで家だ、と思ったところで俺は本当に夏の蜃気楼を見てしまった。

「・・・向日葵?」

 その元気いっぱいの小柄な姿を思い浮かべていたせいだろうか、俺の家の近所というヒーロー基地から離れた場所に向日葵がウロウロしているのが見える。白いTシャツに膝丈のカーキ色のズボンという大変ラフな格好をした彼女は、この暑い中帽子も被らずに住宅街の真ん中を行ったり来たり首を傾げたりしている。

「いや、幻覚じゃないなこれ・・・向日葵!!」

 どうやら実物するようだったので、小走りに近付いて声をかける。


「あっ、お、おにいちゃ」

 警戒心の強い野生動物のように肩をびくりと震わせた後、向日葵は素早くこちらに向き直った。たどたどしい口調で俺を呼ぶと、少しもじもじしてその場に留まる。いつもならボール遊びの最中の犬みたいに元気よく走って来るのだが、今日の向日葵は人見知りの子供のようだ。

「え、えっと、その、あの」

 口をもごもごさせる向日葵の目の前まで到達すると、健康的な肌が酷く真っ赤に火照っていた。

「ぼ、僕、その、どうしていいか、わかんなくて、えっと、れんらく、無視したんじゃなくて、あの、鶯おねえちゃんに、えっと」

 俺を目の前にしてあわあわと目を回す。しかし不自然なほどに汗をかいていない。

「落ち着いて向日葵。えっと、俺に会いに来てくれたんだよな?」

 優しい言葉をかけられたことが以外だったのか、山吹がかった瞳をぱちくりさせてから遠慮気に頷いた。良かった、あれだけ怒鳴ってしまったから相当怯えられているんじゃないかとこっちも心配していた。怯えてはいるみたいだけど、なんとか話が出来そうだ。


 しかし、ちゃんと話をする前にやらないといけない事があるな。

「なんで俺の家を・・・っていうのは、今はどうでもいいか」

 どうせ茜さんや桃も何故か知っていたわけだし、今更驚かない。

「もしかして何時間も探してくれてたのか?」

「えっと、九時くらいから、でも、僕、地図よむのへたで、わかんなくて、でも」

 ぐしゃぐしゃに握りしめている紙切れをさらに強く握りしめる。

「今度から会いに来るなら連絡していいから、留守の時だってあるし」

 無事俺に会えた安心感と、炎天下を三時間近く歩き回っていたせいで向日葵に限界が見える。俺は自分が被っていたキャップを向日葵の小さくて丸い頭にポイと乗せて、昼飯の後に食べようと思っていたレモンのシャーベットアイスを向日葵の手のひらに置いた。

「ひゃっ!」

「こんだけ暑いのに汗かいてないって、何も飲まないで歩き回ってたんだろ? この辺自販機とかないし、とりあえず俺の家まで行こう。一応アイスで首元とか冷やしとけ」

「あ、うん」


 母さんになんて説明しようか。バイト先の知り合いの娘さんとかでいいかな。まぁ、おおざっぱな人だしなんとかなるだろう。今日は父さんが仕事で良かった。

「・・・ありがと、お兄ちゃん」

 サイズのでかいキャップのつばで顔は見えないが、どちらにせよこの暑さで真っ赤には違いない。

「ちょっと母親に連絡するから」

 と、片手でスマホを取り出すと母親から既にLINEが来ていた。はやく麺つゆ買って戻って来いという催促だろうか。


『あんたのお友達来てるよ、女の子。あがってもらったから、早く帰ってきなさい。』

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