第60話 フィランスブルーの告白
*
「鶯さん、好きです」
ありふれて、何の変哲もない言葉が、僕を現実に引き戻した。
「愛しています。だから目を覚ましてください」
その声は間違いなくお兄ちゃんのものだ。でも、話しかけているのは僕じゃない。
「俺を置いて行かないでください。死なないで、お願いです!」
死ぬ? 何の話だろう。
遠くに見えたお兄ちゃんは太い木の向こう側に座っていて、泣きそうになりながら必死で語りかけている。地面はドロドロの筈なのに、そんな事一切気にしない様子で、どうして木に告白しているんだろう?
「鶯さん、鶯さん、鶯さん! お願いだから目を覚ましてください」
あ。そうか、あれ、常盤鶯を置いたところか。そっか、死んじゃったんだ。やっぱりあの人は愛の力が足りない偽物のヒーローだったんだね。僕だったらあれくらいの損傷で死んだりしないのに、耐えられなくて死んじゃうなんて愛の無い証拠だ。
「お、俺の傍にいてください。目を覚まして、俺の手を握ってください。聞こえますか鶯さん・・・えっと、その」
それなのにお兄ちゃんは、あの人の死体の前で泣いているらしい。なんでだろう、変だよ、本当にお兄ちゃんの事を愛しているのはあの人じゃないのに。あの女は自分の命の為ならヒーローじゃなくていいって言うような軽い気持ちしかなくて、お兄ちゃんへの想いも本当に大したことないんだ。なのに、現場に駆けつけてくれたお兄ちゃんが手を握っているのは何故かあの人だ。僕じゃなくて、あの人だ。
僕だって、こんなに頑張ったのに。
「お兄ちゃん、どうして・・・」
僕の何が悪かったんだろう。僕は妹で、あの人は妻だからなのかな。僕の愛だけが本物なのに。
「・・・『欲しい物』だって決まったのに」
やっぱり全部、あの女のものなのかな。駄目だよ、常盤鶯の愛は偽物だ。ヒーローでいることがお兄ちゃんの幸福だと知りながら、自分の為にそれを辞めたいって言うんだ。おかしいよ、本当に好きな人の事を考えたらそんな判断できるはずないのに。
「そいつは、お兄ちゃんに相応しくないよ・・・」
ぐしゃ、と汚い水たまりに踏み出したと同時に、僕の目の前にぐっしょりと濡れた桃色のヒーローが現れた。
「なに?」
フィランスピンクの衣装を着た石竹桃は僕の前に立ちはだかり、悲しい眼で僕の事を睨みつけた。同情されているようで、気分が悪い。
「先輩の邪魔をしちゃダメだよ、向日葵ちゃん」
「邪魔?」
へんなことを言う。お兄ちゃんは常盤鶯の愛が偽物だって知らない。騙されているんだ。
「そう、先輩は今フィランスブルーとしてのお仕事中なの。だから私達が邪魔をするわけにはいかない」
言葉は僕を宥めようとしているものなのに、石竹桃は唇を強めに噛んで悔しそうにしている。自分に言い聞かせているみたいだった。
「あれが仕事なの?」
常盤鶯が死にかけだという事は知っていたけど、任務は終わったから別にどうでもいい。あの人はもうお義姉ちゃんでもなんでもない、お兄ちゃんを愛さない女性がお兄ちゃんのお嫁さんなわけないもの。
「常盤鶯は死んだんでしょ? さっきお兄ちゃんが言ってたよ」
「まだ死んでない。間に合うかもしれない・・・空先輩の力があれば」
力。と言われて僕達が愛情を連想するのは当たり前のことだった。
「無駄だよ、あの人はお兄ちゃんの事を愛していないもの。お兄ちゃんの幸せより自分の身の安全を優先するような人なんだ」
「・・・そうだね、桃もそう思うよ」
そう思うならどうしてそんなに渋い顔をしているんだろう。
「でも、桃の判断は間違っていなかったと思う・・・そうだなぁ。これじゃまだ足りないか」
「何? 何の話なの。無駄な事させたらお兄ちゃんが可哀そうだからやめさせてあげないと」
要領を得ない石竹桃を避けてお兄ちゃんの元へ行こうとすると、素早く僕の目の前に掌が延ばされる。反射的に歩みを止めた僕に投げかけられた言葉で、僕の心臓はズキンと飛び跳ねる。
「向日葵ちゃんの為なんだよ」
あまりにも予想していなかった。頭と一緒に足も止まってしまう。
「えっ?」
僕の為? 意味が解らない。
「空先輩は、向日葵ちゃんを人殺しにしたくないからあんな事をしているの」
「それって・・・」
お兄ちゃんが、僕の為に。
「先輩の好きな人は鶯さんじゃない。知り合いとしての好意はあるけど男女の恋愛感情は無いの。それなのにあえてあんな風に告白するのは向日葵ちゃんの為なんだよ」
あの女を好きではない。本当に? お兄ちゃんは騙されているわけじゃなかったの?
好きでもない女性に告白するなんて嫌な事な筈なのに、それをするのは僕の為?
「確かに桃達能力や博士のバックアップがあれば向日葵ちゃんに前科がつく心配はないと思うよ。それでも殺人を犯したという罪を向日葵ちゃんに一生背負って欲しくないっていう空先輩の想いを、邪魔しないであげて」
僕の為。ただ僕の為だけにやっているの?
「向日葵ちゃんが先輩の事を大事に想うなら、先輩が向日葵ちゃんを大事に想う気持ちも尊重してあげて欲しい。桃だって反対したいけど、先輩の気持ちを無下になんて出来ないじゃん」
石竹桃がずっと辛そうな顔をしているのは、お兄ちゃんが僕を想っている事に嫉妬しているせい?
今この場所で一番お兄ちゃんに想われているのは僕なの?
「そ、そうなんだ」
僕が一番頑張ったから。僕が一番優秀な妹だから。お兄ちゃんは僕の事を考えてくれている。僕の為に頑張ろうとしてくれている。僕を、選んでくれる?
「わかった! 邪魔しないよ、ここで大人しくしてる」
さっき怖い顔をしていたのは僕の事が心配だったからなのかな。
やった、やった、やった。嫌われてなかった、寧ろ、どちらかというと。
「えへへ・・・そっかぁ」
僕の為。僕の為。僕の為。
「これが愛なんだね」
暴力よりずっと素敵だ、ずっと心がポカポカになる。嬉しい。
「じゃあ、お兄ちゃんの言葉は全部嘘なんだ」
「・・・うん、そうだよ」
そう思って耳を傾ければ、お兄ちゃんは酷く苦しそうな声で絞り出すように何かつぶやいていた。
「・・・して、どうして目を覚ましてくれないんだ鶯さん。いや、俺の覚悟が、本気が足りてないんだ。こんな薄っぺらな言葉じゃ駄目だ、もっとちゃんと・・・」
そういえばここで常盤鶯が死んだらどうなるんだろう。あれ、でも生き返ったらどうなるんだろう。よくわからないけど、お兄ちゃんの考えた方法に間違いがある筈がない。僕はどうやってお兄ちゃんにお礼をするかだけ考えよう。えへへ、嬉しくて頭がうまく動いてくれないや。
「考えろ、鶯さんに一番届く言葉を。考えろ、鶯さんが一番欲しい言葉を」
やっぱりお兄ちゃんに喜んでもらえる事で返すのが一番いいよね。
あれ? そもそも、お兄ちゃんの『好き』は常盤鶯じゃなかったら、どこに向いているんだろう。
「―――俺のお嫁さんになってください!!!」
言葉自体はプロポーズだったけど、お兄ちゃんは最大呪文を唱えたみたいに険しい顔をしていて、あんまり幸せそうではなかった。
お兄ちゃんの大きな声は僕にも石竹桃にも・・・そして常盤鶯にも聞こえた。
常盤鶯は小さく返事をしたらしく、お兄ちゃんは涙を流しながらあの人の事を抱きしめた。
僕は、これからどうなるのかと、お兄ちゃんが今何を考えているのかわからなくなって、でもお兄ちゃんが僕を大事にしてくれている気持ちだけは知ることが出来た喜びをのんびりと噛み締めていた。
石竹桃は、ニヤリと笑っていた。
全てがひと段落。解決したように見えたこの日から僕達ヒーローの関係性は大きく歪んでしまう事になる。多分、その事に最初に気が付いていたのはあの女だろう。
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