第58話 フィランスグリーンになるまで2


 あれは、私が中学生になって初めてのテスト返却日のことでした。


 去年まで私はこの日がとても憂鬱でしたが、その日からは違うと意気込んでいました。

 というのも、小学校のテストでいくら百点をとっても褒めてくれない母が、姉の持って帰って来る学年順位の書かれた成績表を見ると大喜びするのをずっと羨ましい気持ちで見ていたからです。あの時の私は幼く、さらに可愛げのない事を考える子供だったので「小学校のテストなんて簡単に百点が取れるんだからお母さんが喜ばないのも当然だ」と結論付けていました。

 ですから、自分も中学に上がって母に成績を褒められるのが楽しみだったのです。中学生になった今回からは、テストの度にお母さんに褒めてもらえる、喜んでもらえるに違いないと喜び勇んで早足で家に帰りました。

「ただいま!」

 と、元気よく帰宅すると既に台所で姉が母の絶賛に照れ臭そうにしているところでした。

「凄いわね、学年5位なんて! 翡翠は本当に努力家で嬉しいわ。はやくパパにも報告してあげなきゃ」

「もう、大袈裟だよお母さん。そんなにはしゃがないでよ、たまたま勉強したところが出ただけだって」

 先を越されてしまった悔しさはあったけど、私の手のひらにある『1/126位』という成績表の輝かしい文字を見て思わず頬が緩みます。初めてのテストで1位を取るために毎日努力した結果です。中学の勉強は正直とても難しくて毎日遊ぶ時間も寝る時間も惜しんで自習するのは辛かったですが、これなら私も褒めてもらえる。そう確信して私も台所へと向かいました。

「ただいま!」

「あら、おかえりなさい鶯」

「ふふ、テストの結果返って来たよ」

 私が笑顔で学年1位の文字を見せつけると、母は「まぁ」と大袈裟に手を挙げて私と、隣にいる姉をがばっと抱きしめました。

「娘が二人ともこんなに賢いなんて嬉しいの。二人ともよく頑張ったわね」

 お母さんは心から嬉しそうにぎゅっと私達を抱きしめました。姉は困った顔をしていましたが、私はこんな風に抱きしめられたのは数年ぶりだったのでなんだか嬉しくなってしまいました。


 だからでしょう、少しだけ調子に乗った私は母の言葉に微かな不満を抱きました。

「お姉ちゃんが一年生の時でも1位は取ったことないよね、私のほうがすごいよね?」

 ちょっと冗談交じりに行ったその言葉は、「二人とも」とまとめて片付けられた言葉に対するささやかな反抗のつもりでした。

 私は姉を超える為に学年1位を目指し成し遂げたので、もっと褒めてくれてもいいんじゃないかと物足りなさを感じたのです。私の努力と優秀さが証明されれば母も父も私にもっと興味を持ってくれる筈だと、その一心で勉強したのですから、子供ながらに見返り欲しさに出た言葉です。「二人の娘」じゃなくて「鶯が」凄いと一言でも褒めて欲しかったのです。

「・・・鶯!!」

 ですが、私の言葉を聞くと母は私達を抱きしめていた手をパッと放し、私の手の中から成績表を奪い取りました。

 ペラペラの長方形の紙は、私の手を綺麗に抜けそこなって数学と理科の文字を境に真っ二つに破かれてしまいます。

「あっ」

「なんでそんな酷い事が言えるの!」

 破れてしまった私の『1/126位』には全く気を留めず、母は先程までと打って変わって鬼のような形相で私に怒鳴りだしました。

「お姉ちゃんは貴女と違って身体が弱いの、具合が悪いのに毎日コツコツ頑張っていい成績を取れているのよ。どうしてそんな心無い事を言うの!? お姉ちゃんが可哀そうだってどうして思えないの!?」

「で、でも。勉強頑張ったのは私だって一緒だから、もっとちゃんと褒めて欲しくて・・・」

「貴女は健康なんだから、いくらでも頑張れるのは当たり前じゃない!」


 私の頑張りを『当たり前』で片づけられたショックと、私は自分が『特別に』褒められたいと望むのはそんなに罪なことだったのかという悔しさで、首を絞められたように何も言えなくなってしまいました。

 夜遅くまで勉強していた事も、朝早く図書室に行って自習していた事も、大好きなテレビを我慢していた事も、全部知っている筈なのに、この人は姉のついででしか私を褒めてくれないし、それ以上を望む事は「酷い事」だと言うのか、と。

「どうしてお姉ちゃんはこんなに良い子なのに、鶯はお姉ちゃんの努力を軽視するようなことが言えるの? お姉ちゃんは鶯の何倍も何十倍も努力しているのよ」

 あなたに、私のしている努力の量がわかっているのですか? と、聞きたかった。

「大体、どれだけ良い成績を取れたとしても、そうやって他の人の気持ちを考えられないような子は碌な人間にならないわよ」

 あなたは今、私の気持ちを考えられているのですか? と、問いただしたかった。

「弱い人には優しくしなさい。人の上げ足ばかりとらないで、ちゃんと頑張りを認められる人にならないとだめよ」

 あなたは親で、私はあなたの子供なのに、認めてくれないのですか? と、叫びたかった。

「・・・はぁ。鶯。貴女もお姉ちゃんを見習って、いい子になって頂戴。勉強はもちろんだけど、人間にはそれよりもずっと大事な事が沢山あるの。優しさとか思いやりとか・・・そういう当たり前のことが出来ないとどれだけ優秀な人だったとしても誰からも愛されないで、いつか一人ぼっちになっちゃうわよ」

 私は今まで一度も、この家で「一人ぼっちじゃない」と思った事はありません、それは私が愛されていないからですか? と、泣きたかった。

 泣きたかったけど、喉は締め上げられたかのように苦しくて、呼吸をするのが精いっぱいで、言いたいことも反論もたくさんあるのに、私はただただ俯いて母の言葉を浴びる事しか出来なかった。

「お母さん。鶯も頑張ったのに・・・言い過ぎだよ。私は全然気にしてないから」

 姉の言葉で、その場は収まりました。いや、ただ解散しただけで何も収束していないし、私の中では何も満たされないままでした。


 一度でいいから姉のオマケではなく私自身を認めて欲しかった。学校の成績はわかりやすい手段の一つで、私はそれ以外の生活でも良い子でいようと心がけていた。真面目で、素直で、手のかからない、健康で健全な。物分かりが良く、わがままも言わない、好き嫌いせず文句も言わず、ただただ都合の良い娘でいようとして生きてきた12年間。

 それは、母には何の評価もされない、どうでも良い事だったみたいです。

 多分この日から私は明確に自分が愛されていないと感じるようになりました。



 いざ意識すると日常の細かい部分も目に付くようになって、嫌な事は毎日のように増えていきます。


 母の運転で出掛ける時に助手席に座るのはいつも姉だし、3人でファミレスに行った時に母の隣に座るのも姉。連休に帰って来た父親のお土産は二人に向けたものなのに姉の趣味のものばかり、夜遅くなった時に私の時は母の方から連絡をくれる事はないのに姉が少しでも遅くなると心配してオロオロし出す、三者面談も私の時間はとっても短い。父とテレビ通話した時も姉の近況の話題ばかりだし、姉の誕生日には好物を用意して何日も前から予約したケーキを食べるのに私の時は出掛け帰りに買ってきた駅前のパン屋さんのケーキだけ。


 比較対象がいなければ、私が鈍感だったら気付かないような些細な些細な違和感が徐々に積もって、積もれば積もる程に気になって、心が蝕まれていくような、勝手に目が閉じていくような、そんな不思議で不快な感覚でした。

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