第55話 不本意な提案1


 木から木へと飛び移る姿はまるでドラマに出てくる忍者みたいだ、とか。小雨が降っていて時々足を滑らせそうになる桃にハラハラしていた、とか。桃のおかげで予定よりもずっと早くこの場所にたどり着くことが出来た事の感謝とか。


 それら全てが一瞬にして吹き飛んでしまうような光景が、そこには広がっていた。


「・・・あ、おにいちゃん」

 向日葵監視用の位置情報アプリ片手に俺がたどり着いたのは県を跨いだ先の山奥。人里から離れ、さらに山頂へ行ったところに工場が一つあるだけの辺境の地だった。

 連日俺達を悩ませていた豪雨は能天気な人間なら傘をささない程度には弱まり、桃は冷静にぐっしょりと濡れた髪を整えている。

 まだ日は出ている時間なのに、うっすらとした雨雲と生い茂る木々のせいでやけに暗く感じる不気味さ溢れる土地に、黄色のヒーロースーツを着た少女が一人立っていた。

「来てくれたんだ、嬉しい!」

 こげ茶色の髪は雨に濡れていつものような元気いっぱいの外ハネを失い、健康的に露出された膝や腕は汚れている。それでも向日葵はニコニコと屈託のない笑みを俺に向けて主人の帰りを待っていた子犬のようにこちらに駆け寄って来た。


 その明るく無邪気な姿が、俺には怖くてたまらなかった。

「向日葵・・・なんで、それ、どうしたんだ」

 彼女の姿に、予知で見た嫌な映像が鮮明に思い出された。眩しい程の明るい黄色の上についた、掠れた赤黒い汚れと幼い顔に似つかわしくない頬に付いた血の跡。誰が見ても悲惨な状況にも関わらずフィランスイエローはいつも通りマスク越しの目を無垢に輝かせている。

 もしかして、間に合わなかったのか。ヒーロー同士の衝突。最も避けなくてはいけない事が起きてしまった事を、血で汚れた黄色いヒーロースーツが示唆しているような気がした。向日葵程のヒーローが馴れた災害案件でこんな血だらけになるなんてありえない。ヒーローを簡単に傷つけられる存在は一般人でも人間でもない、ヒーローだけだ。

「なぁ。何があったんだよ」

 少し不思議そうな顔で俺を見上げる向日葵の両肩を思わず強く掴む。ビクリ、と向日葵の小さな体が震え、俺の手のひらに収まったそれが小さくて薄い、頼りない形をしている事に俺自身戸惑ってしまう。

「どうしてこんなに怪我を・・・」

 肩に乗せていた右手を今度は向日葵の頬にあて、べっとりと付着した血液に触れる。すると、それは綺麗にするりと俺の指先にうつった。露になった向日葵の左頬は綺麗な肌をしている。

 怪我をしたけど、修復した? いや、違う。

「大丈夫、僕は全然怪我してないから」

「これ返り血か?」

「うーん、返り血って言うと僕が襲ったみたいじゃん。僕はあの人の能力を手伝ってあげただけだよ」


 あの人。能力。返り血。最悪の状況を想像するのに時間はいらなかった。


「鶯さんは何処だ!!!」

 向日葵の無事を安心する暇も子供相手に配慮する余裕もなく、俺は怒鳴り散らした。

「わわっ!?」

 ヒーローの強さの格付けを俺は知らない。けど、無傷の向日葵が返り血を浴びている事で何が起きているのか理解できないほどじゃない。相性の問題か戦闘意欲の問題か知らないが、向日葵が強すぎたんだ。

 思わず大声を出した俺に向日葵はよりいっそう小さく縮こまりながら、斜め後ろの大きな木を指さした。

「あ、あっち・・・です」

「ん」

 投げ捨てるように向日葵から手を離し、指示された方へ駆け寄る。この時、向日葵がどれだけ絶望的な表情をしていたのかなんて俺は当然気にする余裕はなかった。


「鶯さん! 鶯さん!?」

 ひと際どっしりとした一本の巨木。その裏側に回り込むと、幹にもたれかかるようにして倒れたフィランスグリーンがいた。背中から外れた大きなタンクのようなもの、首元だけ脱げかけたヒーローマスク。そして、左腕と両足の太もも、不自然な箇所のスーツが破られ、そこから血がにじんでいる。その血は雨に流されて緩やかに鶯さんの足元を赤く染めていた。

「なんだよこれ。どういうことだ」

 わけもわからず鶯さんの体に触れる。雨で指先が冷えているせいで、彼女の微かな呼吸の動きが感じ取れない。そう、雨のせいでわからないだけだ。

「鶯さん、鶯さん起きてください・・・どうしよう、応急処置? いや、その前に救急車・・・違う、桃に頼んで病院まで運んでもらえば・・・」


「悪いけどそれは無理ですよ、先輩」

 狼狽して役立たずと化した俺の後ろに、いつの間にか桃が立っていた。きっと青ざめて頼りない表情を見せているであろう俺に、腕組をしてしっかりと構えた桃は小さくため息をつく。

「このままでは鶯さんを病院へ運ぶことは出来ません」

「無理って、どうしてだ。これは返り血じゃない、大怪我をしてるんだ。早く医者に連れて行かないと・・・」

 こんな山奥でしかもここは土砂崩れがあったばかりだ、救急車が通れる道が残されている保証はない。医療の知識がない俺にもわかる程に大怪我を負った鶯さんだ、きっと一刻を争う。桃のスピードならまだ間に合うかもしれない。

「これだけ衰弱している人間じゃ桃のスピードには耐えられません。衰弱・・・というのは言葉を濁し過ぎましたね。瀕死の人間を背負って飛ぶのはリスクがあり過ぎます」

 瀕死。そうハッキリと告げると桃は俺よりもずっと冷静に鶯さんの姿を観察し、躊躇なく彼女のマスクを剥いだ。

 ぐったりと眼を瞑る鶯さんの唇は覇気のない青紫色に染まり、ドラマで見る死体役を一瞬だけ想像させた。

「鶯さんの能力は血液を扱った物なんです。これは能力の使い過ぎによる貧血でしょうか・・・いや、向日葵ちゃんのあの様子だともっと悲惨な事が起きていたのかもしれませんね」

「まさか、向日葵がやったって言うのか」

 桃がこちらに来てもまだ、最初にいた場所で呆然と立ち尽くすフィランスイエローが巨木をはさんだ向こう側に見える。ここからじゃ彼女の様子はわからないが、微かに上を向いて雨に打たれている様子は、まるで返り血を雨で流そうとしているみたいだ。

「先輩だって気付いているんでしょ、だからあんな風にあの子に詰め寄った。どうやら鶯さん、死ぬ寸前まで血を抜かれています。おかげで任務はクリアしたみたいですけど」

 鶯さんの傍に転がっていた手のひらサイズの装置。画面に写る数値と緑色に点灯したランプを見て桃はそう呟いた。

「死ぬ寸前、と言いましたがこのまま放っておけば死んでしまうでしょう。私達ヒーローの回復能力は気を失っている状態では殆ど作用しない。愛の力という感情が元になっているので意識が無いと一割程度も発動できないんです。今の鶯さんも無意識下で辛うじて体力を保っているみたいですね・・・そのおかげでまだ生きていますが、普通の人間だったらとっくに亡くなっている程の状態です」

 まるで警察や医者のように冷静に状況判断しているけど、これは桃が冷たいわけではなくこんな出来事すらヒーローにとって覚悟出来る範囲の危機だからなのだろう。自分が死ぬ事、誰かの死を目の前にする事、ヒーローにとってそれはいつでも起こりうる筈だった。

 多分、この場で鶯さんの状況にうろたえているのは俺だけだ。


「どうしたら、どうしたらいいんだ」

「一応タオルで傷口を抑えるくらいはしますが、それ以上の事は・・・鶯さんが目覚めるように声をかけるくらいしか」

「このままじゃ鶯さんは死ぬんだろ、どうにかならないのか。俺に出来る事なら何でもする。役立たずのフィランスブルーでいたくないんだ、鶯さんを死なせたくないし、向日葵を人殺しにさせたくない。俺に出来ることは無いのか?」

 向日葵と鶯さんが喧嘩をしているだけだったら、俺が声をかければ二人を仲裁することが出来たかもしれない。でも、既に手遅れ直前となったヒーローに出来る事なんて思いつかない。

「私だって何か方法があれば言っていますよ。でも他人ができる事なんて無いんです。鶯さんが自分で回復して自分で目を覚ますのが一番良いのですけど、元々ヒーローとしての能力も弱い鶯さんでは・・・・・・あっ」

 桃は自身が口にした言葉を捕まえるように目を見開き、その後少しだけ渋るような顔をした。

「桃?」

「・・・」

「何か思いついたのか?」

 桃は明らかに意図的に口をつぐんで、言いよどむような、言いたくないような、複雑な様子で目線を泳がせ始めた。

「難しい方法なのか? なにか提案があるなら言うだけ言ってみて欲しい」

「・・・・・・わかりました」

 そう言って俺から眼を反らす桃の、微かに上げた口角は無理やり笑顔を作り出しているようにも見えたし、何かをあざ笑うかのようにも見えた。こっそりと深呼吸をした後、雨音にかき消されない程度の小さな声で桃は続けた。


「先輩が・・・空先輩が、鶯さんに心から愛を囁けば助かるかもしれません」

 何の冗談を。と、怒り半分に口にしようとしたが、そんな馬鹿げた提案をする桃があまりにも切なそうな顔をしていて、否定する気は失せてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る