第34話 鶯と茜


 ―――バキバキバキバキィッ!!―――


 突然鳴り響いた鈍い轟音に慌てて手を止める。甘い溶接のさびた金属を無理やりねじ切った時のような音。

「なっ、なんですか!?」

 音は扉の向こうから。


 ―――バキッ・・・・・・ドゴッ―――


 私が視線を向けた先、この部屋のたった一つの出入り口。しっかりと閉めたはずの扉が勢いよく内開きにひん曲がり、鉄くずと化した扉の奥から衝撃音の犯人は姿を現したのです。

 見慣れたヒーロースーツ。その背後にふわりと纏われた深紅のマントに、私は本能的に敗北を確信してしまう。


「それ以上は駄目だ」

 そこに現れたのは、バキバキに折れた外側のドアノブを握りしめた蘇芳茜さんが立っていました。相手が私だとわかっているからか、フィランスレッドの姿でありながらもマスクはつけていない、露になった彼女の印象的な赤い瞳は地獄の業火の如く燃え上がっているように見えました。


「す、蘇芳さんっ!何故ここに」

 震える声で、辛うじて発せられた私の言葉は、自分でも笑ってしまう程にあまりに無力な響きを持っていて、戦いが始まる前に降参をしているような惨めな気持ちにすらなりました。

「・・・」

 彼女は当然の如く私の言葉を無視し、土足のまま部屋に上がり込んで来ます。足取りは力強く、無表情なのに酷く怒り狂っているように感じられました。

「勝手に部屋に入らないでください・・・」

 私は精一杯の自尊心で常識的で良識的な態度を取りましたが、制止なんて無駄と言わんばかりに蘇芳さんは私の目の前に立ち、私の手から小瓶を奪いそのまま床に投げました。

 パリン、と瓶が割れてカーペットに青緑色の液体がしみこみ、私の能力では抑えきれなかった不快な臭気が微かに漂う。


「なんてことを・・・!」

 無意味と理解しつつも、恐怖しながらの睨みつけで辛うじて反抗の意思を示す。彼女を目の前にすると私は大型肉食獣を前にしたネズミのようにか弱い存在になってしまうことは重々に承知していましたが、それでも今日は素直に許したくは無かったのです。今日は私と空さんとの新たな門出の第一歩、ここから二人の全てが始まるという特別な日だったのに。それを邪魔されたとあれば、いくら相手が蘇芳さんであっても簡単に受け入れたくはない気持ちでした。

 蘇芳さんは私の怒りなど微塵も怖くないと睨み返し、握っていたドアノブを床に落としました。どす、と鈍い音に気を取られた一瞬の間に、彼女は中空から呼び出した武器をしっかりと握りしめていて、凶悪で物騒で荒々しいその武器は彼女の性質にぴったりだと私は思いました。ソレを持っている彼女にそんな嫌味を言っては一瞬にして頭と身体が永久的に離れ離れにされてしまうことでしょうけど。


「これも駄目だ」

 バキッ。三日月のように沿った斧がギラリと煌めいたかと思うと、今度は私の直ぐ隣に置かれていた棚が一瞬にして木屑と化していたのです。

「きゃっ!」

 吃逆のような声が漏れ、驚怖で息が止まり、膝に乗せた空さんの頭をキュッと抱きしめました。怖い。怖い。この人の目的が分からない。

「二度とやるな」

 蘇芳さんは胸を張ったままの姿勢で私の事を見下ろすと、崩された本棚から出てきた一枚のクリアファイルを長い柄で強く突いた。

「蘇芳さん!それは・・・」

 一見無意味なその行動ですが、私は当然そのファイルの中に入っている物を知っています。それはつまり、彼女の行動の意味を理解したということです。


「・・・・・・空さんを奪いに来たのですか」


 その言葉に、今まで純粋な無感情の上に怒りだけを乗せたような武骨な蘇芳さんの表情に『戸惑い』や『嫉妬』のような複雑なモノが過ったように見えました。

 クリアファイルの中に入っていたのは、私と空さんの名前が書かれた婚姻届。もちろんこれだけで手付きを行うことは出来ないので追々準備を済ませてしまうつもりではありましたが、コレを嫌う理由なんて一つしか思いつきません。

「蘇芳さん。あなたも空さんの事が好きなんですね」

 私たちの結婚を阻止しようとしている最大の強敵の存在を目の当たりにして私は全身が強張るのを感じました。蘇芳さんから向けられた強い悪意や憎悪だけで私の声は震え、四肢は強張り、脳みそは撤退策に向かってしまう。それほどの脅威でありながら、彼女は私の空さんに好意を持っている。

「だから私を、空さんに愛されている邪魔な私を殺しに来たというわけですか?」

 蘇芳さんは何も答えませんでした。答えなくとも、恨みの籠った鋭い視線で私を威圧することをやめない。普段なら恐怖しか感じられないその視線が、この時だけは何故か絶望的ながら心地良くも思えてしまったのは、『強者からの嫉妬が心地よい』という本能なのでしょうか。だとしたら、世間に這いつくばる下品で下種でプライドばかり高い女のようで少しだけ不快かもしれません。

「私を殺したって空さんはあなたのモノにならない。寧ろ、私を傷つけたことによってあなたは嫌われてしまうでしょうね」

 目の前の化け物が恋敵であると認識して雄弁さを取り戻した口は、女として負けていられないと言わんばかりに強気なものでした。私にとって空さんは、それだけ大切な人なのです。


「嫌われても構わない」

 ですが、私の皮肉は予想外の言葉で切り捨てられてしまいました。

「つ、強がりは辞めてください。あなたが私に嫉妬しているのは見ればわかります」

「・・・・・・」

 返事は無くとも、柄を掴む右手に力が入ったのを私は見逃しませんでした。


「暴力だけで空さんの心を掴めるだなんて思わないでください。蘇芳さんの力があれば何処かに空さんを監禁することも、無理やり言う事を聞かせることも簡単でしょうね。でもそんなことをしても空さんはあなたのことを好きになりません」

 お腹の中で自分の事を冷嘲してしまいたくなるほどに命知らずな煽り言葉。私の心臓はその身を燃料にして燃え上がり、脳みそををぼんやりと狂わせて感情はヒートアップする。

「彼はあなたみたいな一人でなんでもできる、強い女性なんて興味がないんです。蘇芳さんは彼がいなくても平気で生きていけるでしょう、だから嫌われても構わないなんて言えるんですよね。私には嘘でも無理です。空さんに嫌われるなんて考えただけで息が苦しいし、死にたくなります。それが愛なんです。あなたのはただ欲望をぶつけているだけの、愛情でもなんでもない我儘です。あなたは強い。あなたに救われた多くの命があり、多くの一般市民がフィランスレッドを愛し、尊敬し、期待し、正義の象徴だと思っていることも知っています。でも、だからといって全てのモノが手に入るなんて思わないで、空さんはあなたの暴力に屈してしまうような人ではありません」

 恐怖、興奮、優越感、破滅願望、愉悦。知らない感情が肥大して波のように私の背中を押して「目の前の女は悪である」という正義のヒーローに対する強い敵意が生まれてきます。何故こんなにも、私は強気になれるのでしょう。自分が狂っていくような、不思議な感覚に見舞われてしまいます。

「お願いします、諦めてください蘇芳さん。あなたは空さんに相応しくない。彼に愛されるべきは私だけでいいのです」

 留めの言葉を言い終え、息をつくと私の体内に不足していた酸素が一気に巡ります。

「長いな」

「はい?」

 逆上するか、悲しむか、あり得ないと現実逃避されるか、そのどれかだと思っていました。しかし蘇芳さんの反応は私の予想しないところにありました。

「お前が空に愛されたい言い訳のことだ」

「な、何を知った口を。一言に終わらない程、それだけ私の愛は深いのです」

 蘇芳さんが空さんに相応しくないか、あれだけ丁寧に教えてあげたのに何も理解していただけなかったようです。

「嫌われたって構わない。私が空を愛しているのだから、それだけでいい」

「だからそんな強がりは・・・!」


 シュィン、と分厚い金属が空を切る音。


 それが、たった今鼻先に突きつけられた刃物が発したものだと気付くのに数秒かかってしまう。蘇芳さん自慢のエモノはあと数ミリ突きだせば私の顔面をぐちゃぐちゃにしかねない距離でとどまり、ふと視線をやると嫌悪に満ちた顔つきの彼女が私を軽蔑したような眼で見ていました。それはあまりに突然で、自然で、もし彼女にあと少し常識や技術が足りなければ私の頭は飛んでいたのではと強く意識させるに十分な恐怖でした。


 死。

 一瞬の隙すら与えたつもりもなかったのに知らぬ間に目の前でぎらつく鋼色に、私は本物の死という概念を感じ、無意識に身をすくませました。

「あっ。あ、その・・・っ」

 死の恐怖に興奮状態で暴走していた脳みそは一気に冷えつき、指先は感覚がなくなる程に冷たくなり、私はただただ両手を上げて媚びへつらうように彼女に上目遣いを向ける事しかできません。先ほどの暴走するような感覚が生命としての狩猟本能なら、これは被食者としての本能。喰われる。一方的に蹂躙される。きっとこれは、言葉の通じない化け物を目の前にただ祈る事しかできない無力な人間の姿なのだと思います。

「次は無い」


 私の祈りが通じたのか、先ほどの「私を傷つければ空さんに嫌われる」という言葉が実は効いていたのかはわかりませんが、蘇芳さんは武器をしまうと私の膝の上から空さんを奪い、そのままお姫様を扱うように優しく抱きかかえて部屋を去っていきました。

 へし折れ、人間二人分の体重に踏まれた扉の向こうには部屋の外の白い壁。その向こうへ一人分の足音が遠ざかっていく音を聞きながら、私はやっと自分の身体が震えている事に気が付ける程に正気を取り戻しました。

 愛する夫を無理やり奪われ、ぐしゃぐしゃに散らかった部屋の中でへたり込む間、私の中で何度も何度もいまの光景を思い出しました。力づくで彼女を追い払う事なんて私には出来ません。ありえない事ですが他のヒーローと結託したとしても蘇芳さん一人に勝てるかどうかは怪しいものです。元々獰猛な女性だとは知っていましたがあれほどの強硬手段を取るなんて想像できませんでした。あの口ぶりなら空さんを傷つけるようなことは無いと信じたいですが、それもいつ仮面が剥がれるかなんてわかりません。


 結局解決するには、空さんがあの女を突き放してくれる他ないのでしょう。あの女は例にもれず空さんの優しさを勘違いして、自分でも手に入ると思い込んでいるようです。そんな人間に外野が何を言っても聞いてくれはしない。でもきっと、空さんはいつもの優しさでそんなことしないでしょうね。益々募る不安要素を考えれば考える程、私は己の無力さを恥じ、空さんの優しすぎる性格に悔やんでしまいます。私がもっと強ければ、こんな気持ちにならないで済んだのでしょうか。

「あっ」

 気が付くと私の左腕に青紫色の小さな三日月が滲んでいました。

 またやってしまった、自分を抑えようとするとつい、爪で肌に穴をあけたくなってしまう。無意識の事ですがあまり過激だと空さんにまた心配をかけてしまう。

「また、心配されて・・・」

 そうしたら、空さんは他の女性ではなく私の元にやって来てくれるでしょうか。私を傷つけるあの女を突き放し、私の元へ空さん自ら帰ってきてくれるかもしれない。

 悍ましい考えが頭をよぎると、ぞくりと背中を何かが這うような感覚に襲われます。

「駄目。駄目です鶯」


 安易な考えを振り払うために自分に言い聞かせました。空さんの心配そうな視線は麻薬のように今でも私の脳裏に焼き付いています、今まで感じたことの無い安心感、快楽、高揚感、どんな恋愛映画を見た時よりも胸が高鳴り、惚けてしまいそうでした。私が傷つけば空さんはもっと私の事を見てくれる。他の女が待っていても私を優先してくれる。もしかしたら弱った私が頼めば他の女性からのアプローチもはっきりと拒否してくれるかもしれない。

 空さんは優しいから。優しくて私の事を一番に愛してくれているから。今は私が無事だから色々な女の子に気を遣ってしまうけど、一人しか救えないほどの状況になったらきっと私を選んでくれる筈です。


 既に治りかかっているぷっくりと爛れた手首の跡をひと撫でし、空さんに抱きしめられた時のぬくもりを思い出す。なんとも甘くて、蕩けそうになります。先ほどまで感じていた蘇芳さんへの恐怖や憎しみ、自分の弱さに対する悔しさがすぅっと消えて、たった一つだけの感情が私を支配する。


 もっと空さんの傍に居たい。

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