第32話 鶯と向日葵
*
「おにいちゃんごめんなさい。おにいちゃん。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいおにいちゃん」
滅多に人とすれ違うことの無いこの基地内で、偶然目にした朽葉さんは異様な様子でそう呟きながらどこかに向かっていきました。
「おにいちゃんに愛してもらわなきゃ、はやく、はやく会いに行かないと、僕の事忘れちゃうかもしれない、おにいちゃん、はやく、おにいちゃん・・・」
空さんは今、私の為に竜胆博士の元へ話をつけに行ってくれています。そんな優しい旦那様のために昼ご飯の用意をしようと思ったところで出会った彼女の言葉は、空さんの帰りを待つ私にとって聞き捨てならないものでした。
「朽葉さん」
背後から声をかけた私に、彼女はゆっくりと振り返ります。だらりと四肢を垂れ下げて、首にはなぜかベルトを巻いています。まるで物語に出てくるゾンビの化け物のように無気力で悍ましくて、禍々しい様子で彼女は私の方を睨みつけました。まるで私が声をかけてはいけなかったと責めるようです。
「お兄さんとは、誰の事ですか?」
ですが今日の私は負けません。大丈夫、朽葉さんは蘇芳さんほど狂暴ではないし石竹さんのようにずる賢い子でもありません。必要な事だけ聞いてさっさと去りましょう。
「・・・・・・あぁ、常盤鶯。だっけ」
彼女は私の質問に答えずにそう呟きました。非常に失礼な態度ではありましたが目の前の問題の方が大きいので些細な物は無視するとします。
「そうです。それで、お兄さんというのはまさか・・・空さんのことですか?」
空さん。浅葱空さんは私の夫です。初めて出会った時にずっと私の事を守ってくださるというプロポーズをして頂き、私たちは晴れて夫婦となりました。まだ出会ってから日が浅いこともあり、同居や籍に関しては後回しになっていますがつい先ほど空さんとの絆も確認しましたし、私も妻としての覚悟を改めてすることができました。
ですが、空さんは私にはもったいないくらいに魅力的な方です。他の隊員にいやらしい眼で狙われていてもおかしくはありません。きっとこの幼気で無害そうな顔をした少女、朽葉さんもその一人なのでしょう。
「そうだよ」
悪びれることなく彼女は答えます。どうやら私の嫌な予感は的中していたようです。
ですが『お兄さん』というのは、どういうことでしょうか。まさか本当の兄妹ではないでしょう。なにかのごっこ遊びでしょうか、子供好きな旦那さんというのはとても愛おしいのでそれなら構わないのですが、私は朽葉さんが蘇芳さん達程ではないにしても、ヒーローの力に溺れた愚かな女だということを知っています。彼女は見た目通りの純粋な少女ではなく、一人の悪い女なのです。
その事実を考慮すると彼女の言う『お兄さん』の意味も違って捉える事になります。もしかしてそういったプレイでしょうか?だとしたら私に言ってくださればいくらでもお付き合いしますのに。もしや私は空さんより一つだけ年上で、見た目も幼くない為にそのようなプレイに不向きだから仕方なく彼女を相手に選んだのでしょうか、そういうことでしょうか。
どうしましょう、年齢も見た目も私にはどうすることも出来ません。空さんの趣味ならば可能な限りあわせてさしあげたい気持ちはありますが、本物の女子中学生に勝てる妹になることは難しいでしょう。大体私は妹ではなく妻です。朽葉さんのように完全になり切ることは出来ない気がします。私の中のあり余る愛情のせいで、空さんが求める妹になることは叶わないかもしれません。
「用がないならもう行くから。僕、お兄ちゃんに愛してもらわなきゃいけないんだ」
「あ、愛っ!?」
愛。愛。愛。
それはつまり、『ソウイウコト』という意味でしょうか。空さんとこの子の関係はただの疑似兄妹ではないということですか。
「そ、それは空さんも同意の上で?」
「違うよ。でも僕がこうするとお兄ちゃんは喜ぶはずだよ」
彼女は自信満々に答えます。嘘をついているようには見えません。
「・・・そうでしたか」
空さんが喜ぶ。あぁ、間違いない。この子も空さんの事が好きなんですね。どうやったか知りませんが、空さんを上手く言いくるめる事ができた。つまり彼女は愛人、浮気相手、泥棒猫。この子は自分の幼い見た目を武器に空さんに近付いたのでしょう。正妻で本命で唯一のパートナーである私にはない武器を使って。
「はやく、はやくいかないと、お兄ちゃん、待っててね。はやく僕の事たくさん愛してね。おにいちゃん、僕の事忘れないで、嫌いにならないで、大好きになって、僕の事、はやく、はやくはやくはやく」
その異常な目つきは病気に狂った野犬のようで、とても愛に満たされた女性の姿には見えませんでした。当然です、この子はあくまで愛人で妹。空さんは妻にはない魅力を持った彼女に好意を寄せられて魔が差してしまったのでしょうけれど、そこに愛はありません。いえ、もしかしたら空さんにもその気がなくて、幼い彼女の噓八百な不幸自慢に騙されて同情したのかもしれません。空さんは心配になるくらいに優しい人ですから、その可能性もありますね。
「あの、朽葉さん。卑劣な手で空さんを抱き込もうとするのは辞めた方がいいですよ。彼に本当に愛されているのはあなたではない、ただ空しくなるだけです」
人の夫に手を出した不埒な小娘ではありますが、ここは妻の余裕で見逃して差し上げましょう。彼女が空さんに相手にされていないのは明らかです。
「うるさい。うるさいうるさいうるさい。僕はお兄ちゃんに愛されないといけないんだ、いい子でいるんだ、言われなくてもお兄ちゃんが喜ぶことをするんだ、そうしなきゃお兄ちゃんに好きになってもらえないんだ」
私からの言葉なんてただの皮肉にしか聞こえていないのか、彼女は死んだ眼でそう呟くと、踵を返してそのまま向こうへと歩いて行ってしまいました。
止めるべきなのでしょうか。空さんが彼女に迫られて困っているのならその方が良いでしょう。でも、彼女が空さんの愛人だとしたら、裏で勝手に愛人を蹴落とすような妻になってしまいます。それはどうでしょう、嫌な妻ではないでしょうか。
私は叶うならば空さんのたった一人の女性になりたい。ですが、空さんが多くの女性と関係を持ちたい、既婚の身でも好きなように異性と親しくしたい、と考えていたら私は嫉妬深い面倒な妻になってしまう。空さんに捨てられてしまうかもしれない。そんなのは嫌です。空さんは私の唯一の居場所で、私と永遠の時を過ごす方なのです。空さんにお願いされてもいないのに勝手に愛人を排除することなんてできません。
もどかしい気持ちで朽葉さんの背中を見送り、私は真っ白く無機質な廊下に一人取り残されてしまいました。
朽葉さんの姿が見えなくなっても、まだ胸が痛みます。空さんが他の子のところに行くのは嫌だ、でも嫌われたくない。上手く共存できない二つの感情が私のなかをぐるぐると駆け巡り、頭の中が悲しい妄想でいっぱいになる。
私だけを見て欲しい、私だけを気にかけて欲しい、二人だけの世界になればいいのに。無茶な願いを心の中で唱えてしまう程に、私の心は既に疲弊してしまいました。彼の周りにいるのはただの女性ではなく悪しき正義のヒーロー達、そんな女性が空さんを狙っているのは妻として不安で仕方がない。本当は直ぐにでも距離を置いて欲しい。
ですが、空さんはお人好しと言える程に優しい方。空さんの優しさが他の女の子達を調子づかせ、付け入る隙になってしまう。彼の優しさが好きなのに、彼の優しさが心配。私にだけ優しければどれだけ幸せでしょう。
「そうだ・・・空さんは、話せばわかってくれるでしょうか?」
せめて朽葉さん達が危険な存在であること、そして私が空さんにとって理想的な妻であることを理解していただければこの状況も好転するかもしれません。
色々と悩んだ末に私は、穏便な説得を試みることにしました。
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