第6話 朽葉向日葵という少女



 ―――コンコン―――


 『イエロー』と書かれた扉を昨日と同じようにノックする。

「向日葵起きてるか?俺だけど。部屋から出てこないって竜胆博士が心配してたぞ」

 返事がない。

「あんまり博士を心配させちゃだめだろ?入るぞ?」

 少し大きめに声をかけて、十秒ほど待ってから扉を開ける。かぎはかかっていなかった。

「おじゃましま・・・」

 扉を開けた先には、玄関の前でちょこんと正座をする向日葵だった。

「・・・?」

 向日葵は『まて』をしている犬のようにじっと座ってこちらを見ている。

「えっと、向日葵?」

 向日葵は俺を見たまま首をかしげている。何をしているんだ。

「何か喋ってくれるか?」

「こほん・・・おはよう、お兄ちゃん!僕いい子にして待ってたよ!」

 ひとつ咳払いをして、少し乾いた声で急に喋りだした。

「どうしたのお兄ちゃん、そんなに驚いた顔して・・・向日葵が言いつけ通りちゃんと待っていたのがそんなに意外?」

 言いつけ通りって、まさか。

「昨日俺が出て行ってからずっと待ってたのか?」

「うん。『待ってて』ってお兄ちゃん行ったでしょ?」

 いやいやいや、ちょっと待て。とは確かに言ったが、あれは後日連絡するとか声かけるとかどう考えてもそういう意味だろ。仮に当日のことだとしてもあれから二十四時間以上経ってるぞ。勘違いだと気付いて諦めるのが普通じゃないか。

「あ、もう夕方なんだ。おはようじゃなかったね。間違えちゃった」

 えへへ、と恥ずかしそうに両手で頬を隠す向日葵が着ているのは、昨日と全く同じ服。それすらも気付かずに玄関の前でこうして待っていたのか。

「えっと、ごめん向日葵・・・今度誘うっていうのは後日っていう意味で」

「え?どうしてお兄ちゃんが謝るの?」

 キョトンとした純粋な顔。普通の子供のようなそれに、冷や汗が流れた。

「いや、だって俺がすぐ戻って来ると思って待ってたんだろ」

「お兄ちゃんはこうして戻ってきてくれたじゃん。僕は嬉しいよ?一日でも二日でも、一週間でも、僕はずっとずーっとお兄ちゃんの事待ってるつもりだったよ」

 どういうことだ。何を言っているんだこの子は。

「お前、何を言って・・・」

「僕はお兄ちゃんにならどれだけ待たされても構わないしもし迎えに来なくてもお兄ちゃんの事を恨んだり嫌いになんてならないよ。だからそんな困った顔しないで?」

「そうじゃない、だって俺はそんなつもりじゃなくて」

「!」

 俺の言葉に向日葵の顔が青ざめる。

「そんなつもりじゃない。って・・・も、もしかして僕命令を間違えちゃった?ご、ごめんなさい!ちがうの、お兄ちゃんに反抗したんじゃなくて間違えちゃっただけなの。ごめんなさい、お兄ちゃんの意図をくみ取れない妹何てゴミだよね、いらない子だよね、嫌われても仕方ないよね。僕が間違えちゃったせいでお兄ちゃんをそんな風に困らせちゃった。本当にごめんなさい・・・」

 かろうじて形作っていた心がボロボロと崩れ落ちるかのように向日葵は必死に取り繕い、懇願しだす。

「ごめんなさいごめんなさい許してくださいごめんなさい悪い子でごめんなさい使えない妹でごめんなさい無能でごめんなさい僕は塵くずですごめんなさい迷惑をかけるしか脳が無い貧弱で貧相でそそられない生意気で使ってやる価値もないような安物の身体の僕にせっかく価値を与えようとしてくれたのに簡単な言いつけすら勘違いして守れなくて困らせて不快にさせてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「ひ、向日葵?」

 跪いたまま向日葵から溢れはじめた謝罪は向日葵自身を貶めはじめ、それでもこの子は怯えた表情のまま俺を見つめている。今から思い罰を受ける、処刑前の囚人のように諦めと後悔と恐怖に苛まれ見開かれた山吹色の瞳。ぷるぷると小刻みに震える子犬のような彼女は目の前で見下ろす俺に自らの額を向けている。

「・・・殴って」

 俺が見やすいように斜め上を向いた顔面は、ちょうど俺が拳を振り下ろしやすい高さに備えられていた。

「お願い殴って?命令を勘違いしちゃう悪い妹を殴っていいから、ね?だから許して?嫌いにならないで、ねぇ、殴ってお願い。気が済むまで、何回でも、ボロボロになるまで、大丈夫、博士には僕が転んだって言うから、治るまで素顔のまま部屋から出ないから、お兄ちゃんに迷惑かけないから、もう一度チャンスを頂戴、ねぇ、おねがい、おねがいします」

「何を言っているんだ向日葵、俺は殴ったりなんてしないし・・・」

「あ、そうだよね。殴るだけじゃダメだよね?じゃあ首絞める?それとも僕のお腹をカッターで傷つける?ねぇ、どうしたらいい?どうしたらお兄ちゃんは僕を許してくれるの?ねぇ、お願い、何してもいいよ、何されてもいいよ、何でもするよ、お兄ちゃんの好きなように痛めつけていいから僕の事嫌いにならないで・・・」

 涙を堪えようと充血する唇、どう見ても恐怖に支配されているのに自ら折檻を願い乞う言葉、俺は先程まで半信半疑だった『ヤンデレ』の実態を即座に理解してしまった。第三者から見れば狂気に見えるほどに異常で重たい愛、これが果たして愛情から来るものなのかは定かではないが朽葉向日葵・・・フィランスイエローは異常だと言いきれる。

 初めて目の当たりにした彼女の異常性に戸惑う俺を怒っていると認識してしまったのか、向日葵は震える手でTシャツを捲し上げる。

「包丁でやってもいいよ?お兄ちゃんこれ好き?これやったら僕に優しくしてくれる?」

 つい最近まで小学生だった彼女の柔らかそうな腹部には、何本もの傷跡が残されていた。

「・・・向日葵!!」

「わっ!」

 痛々しいその傷がいつ、だれに、なにで、何故やられたものなのか俺は全く想像がつかない。ただ向日葵はその傷をつけた誰かと同じ事を俺にやらせることで俺からの許しを手に入れようとした、それだけはわかった。そんな苦痛な思考をいとも簡単に導き出す彼女があまりにも恐ろしく、不憫に思えた俺は傷が目に入ったと同時。


 衝動的に、向日葵を抱きしめてしまった。


「お、おにいちゃん・・・?」

 動揺し、彼女の手からシャツの裾が離れる。動揺して震える小さな肩は、細くて、頼りなくて、とても強靭な力をもつヒーローには思えない華奢な身体をしていた。ましてや、小さな勘違いを恥じて自らを折檻するように懇願してくるような女の子だとはとても考えらえれない。

「えっと、お兄ちゃん?何してるの・・・これ、僕全然痛くないから罰になっていよ?」

 昨日はあんなに明るい普通の女の子に見えた向日葵が何をトリガーにこんな風になったのかは理解でいない。俺は内心彼女の異常性に恐怖していた。本能のままこの場で気味が悪い事を言わないでくれと言い放ち逃げ出すことは簡単だ。

「ねぇ、おにいちゃん・・・?」

 でも、そんなことを言ったら向日葵はどうなる。下手したら死んでしまうんじゃないか。そう思えてしまう程にこの小さな女の子は自分を大事にすることを知らない。たった数分のやり取りでそれがわかってしまった以上、俺に出来る最善の行動は彼女を許してあげる事しかないと判断した。

「大丈夫だ向日葵」

「・・・え?」

「俺は怒ってないよ。もう謝らないでいい、許しなんていらない」

 理解できない、共感できない、意味の分からない目の前の女の子が怖い。そう思っても俺の一言二言で彼女がどうなるか予測できない以上、彼女の言葉に寄り添ってやるくらいしか凡夫の俺には思いつくことが無い。

「俺の事待っててくれたんだろ、ありがとう」

 とりあえず今だけは、この子の狂ったごっこ遊びに付き合ってあげるしかない。

「ほんとに、怒ってない?」

「怒ってないよ」

「僕の事嫌いにならない?」

「嫌いになるわけないだろ、俺を信じてくれ」

「・・・うん、もちろん信じるよ。お兄ちゃんを疑うわけないじゃん」

 俺からの許しをもらえると、向日葵はへにゃりと年相応の穏やかな表情を取り戻す。

「待っててくれてありがとう、向日葵。一緒にパフェ食べに行こうな」

「うん!」

 俺が手を放し、再度目を合わせた少女はごく普通の純粋で、明るくて、調子のいい可愛い妹のような向日葵だった。

 そんな風にいとも簡単に元に戻る向日葵を見るとより一層彼女の持つ異常性を認識させられる。改めて、とんでもない事を頼まれて巻き込まれていると実感してしまった。

 俺がフィランスブルーとして期待されているのはこういう事だったのか。俺にそんなことが出来る自信が全くないが、とりあえず今はこの場を取り繕う事だけに集中するしかない。

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