7ー10 今までありがとう
仕事と食事で埋めるように6日間を過ごし、7日目の朝、俺はレンタカーに乗ってニサキ工場へ向かった。
車から降りると、すぐにニサキ老人が出迎えてくれた。
「よう来たね。こないだは怒鳴りつけてすまなかったなぁ」
彼は作業帽のひさしごしに俺を見上げてそう言った。
「いえ、こちらこそ……あの、引き受けてくれて本当にありがとうございました」
「なんのなんの。ワシはいつもどおり動作チェックをしたに過ぎん。あとでイドの奴も来るから、あいつにも礼を言ってやってくれ」
「ええ、それはもちろん」
ニサキ老人は、まるで孫を出迎える好々爺のような笑みを浮かべている。
俺のことを、アンドロイドを持つ資格のあるユーザーとして、ハジメの主人として認めてくれたということなのだろうか。
「さっそくあの子に会うかね?」
そう聞かれ、俺は首を横に振った。
「いえ、その前に聞きたいことがあって」
「ほう?」
「前のハジメに……古い機体のほうに、もう一度会うことはできますか?」
「ああ。こっちに保管してあるよ」
そういって案内された場所は、工場の建物に隣接した小屋だった。
小さな扉を開けて中に入ると、スチール棚が何列にも並んでいるのが見えた。その棚にはアンドロイドの部品が所狭しと収められていた。透明なプラスチックケースの中に、頭部、胴体、手足、指先、眼球といったパーツごとに分けられ、綺麗に整頓されて並べられている。
入り口から左側の棚に段ボール箱が置かれていて、『ハジメ』は俺が運んできたときの状態のままそこに入っていた。
この機体も、いずれはパーツごとに分解され、それぞれ再利用されるという。
そっと手を伸ばし、その黒髪をなでてやる。
「……今まであまりいい主人じゃなくてごめんな。次はもっと大切にするから」
もう動かないはずなのに、ハジメは少し笑っているように見えた。
「今までありがとう」
最後にそう伝えて、ゆっくりと呼吸を落ち着ける。
これから俺は新しい『ハジメ』と対面する。
少なくとも、見た目はある程度変わっているはずだ。それに、データをすべて引き継いでいるとはいえ、機体を動かすプログラムは以前とは違うものだから、なにか違って見えるかもしれない。
もし受け入れられなかったらどうしよう。
小さな違和感が、いずれは拒絶につながるかもしれない。そう思うと少し恐い。
そもそも、データの引継ぎはうまくいったのだろうか。
新しい『ハジメ』は、俺のことを認識してくれるだろうか。
……いや、考えても仕方ない。
とにかく一度会ってみてから考えるしかない。
そう覚悟を決め、棚に背を向けたそのときだった。
「ご用はお済みですか?」
「うひゃぁっ!?」
いきなり声をかけられ、驚いて後ずさる。
気付かないうちに、背後に誰かが立っていた。
慌てて相手の姿を確認する。
まず目に入ったのは、きっちりと着込まれた執事服だった。
そして、呆れるほど綺麗な顔立ち。丁寧に整えられた黒髪。
相手は静かにこちらを見つめ、ゆったりと微笑んでいた。
「……あ」
呆然と眺めていると、相手は優雅に礼をした。
「お久しぶりです、ご主人様」
「……ハジメか?」
「ええ、そうですよ。あなたのアンドロイドでございます」
心の準備をする暇もなかった。
まさかこんなかたちでいきなり会うことになるとは。
声も出せないまま固まっていると、入口の扉からニサキ老人が顔をのぞかせた。
「驚かせて悪かったのう。早く会いたいと言って聞かなくてな」
「…………」
俺は目の前のアンドロイドをまじまじと見た。
あれほど会いたかった、そのはずだった。
それなのに、この目もこの耳も、はっきりと告げている。「これは俺の知っているハジメじゃない」と。
それに声も。以前よりも落ち着きのあるしっとりとした声で、俺に毎日小言を聞かせていたあの声とは違う。
「やはり、少し印象が変わったかね」
ニサキ老人に問われ、俺は正直に頷いた。
「……ええ」
わかっていたはずのことだった。
まったく違うメーカーのアンドロイドなのだから、見た目が違うのは当然のことだ。
見かねたのか、ニサキ老人がひとつひとつ丁寧に説明をしてくれた。
「髪は以前より少し長いものにしてある。まあ、髪型はどうにでもなるじゃろうし、気になるようだったら散髪してくれるサービスもあるからの。肌は以前より自然なテクスチャで人間と見分けがつかんかもしれんな。瞳は純粋な黒がなくて、スズリ色で代用してある。おっと、髪もそうじゃな。全体的には以前より少し明るい印象になっとるか。声は調整してみたんじゃが、発声方法が違うので似せるのに苦労した。まあ、そこは慣れじゃな。体格はほぼ同じで二十代前半の男性モデル、服のサイズはそう変わらんじゃろ。ベルトや靴だけサイズに気をつけてやってな。おっとそうそう、執事服はその子の希望でな。その機種のオプションのものを取り寄せとる。体重は軽量化がなされて以前より軽いはずじゃ。だが重心は安定しとる。防水加工はあるが、浸水はよくないから気をつけるように」
ひとつひとつ聞き漏らすまいと構えているのに、ほとんど頭に入らなかった。
以前の面影を探そうとするほど、以前とは違うところばかりが目につく。
そもそも、このアンドロイドが本当に『ハジメ』だと、証明などできるのだろうか。
黙ったままの俺に、目の前のアンドロイドが声をかけてきた。
「長らくお待たせして申し訳ございません。迎えに来てくださってありがとうございます」
「あ、うん……」
なんと言っていいのかわからず、とりあえず頷く。
「ご主人様も、どうやら変わられたようですね」
「そ、そうか?」
変わったと言われるような心当たりはない。
相手が俺を見てそう感じるのは、データの引継ぎが不十分なのか、あるいはやはりデータの互換性に問題があったからなのだろうか。
もしかしたら、目の前のこのアンドロイドは俺のことを『所有者』だと認識できていないのかもしれない。そんな不安がよぎる。
そのとき、ふと相手の左手に指輪がはめられているのが見えた。
中指には真新しい識別環が青く光っている。そして、その隣の薬指にはシンプルなデザインの指輪が。
それは、俺がはめている指輪と同じものだ。
ふと、ハジメと二人で指輪を買いに行った日のことを思い出した。
大切にしていた輪ゴムを左手の薬指から外したときの、名残惜しそうな表情。店に入って、ペアリングを買うことになって、どの宝石がいいか二人で話をした。俺はハジメが
指輪が届いた日、ハジメは俺の指に口付けをした。
あの熱は、今でもはっきりと残っている。
口付けといえば、そうだ、展望台でも。
あの日のハジメは、やけに「デート」という言葉を口にしていた。どこで得たのかよくわからない知識を披露しては、楽しそうに笑っていたっけ。人混み。高いビル。べたついたアスファルト。
そうだ、あいつらと会ったのも同じ日だった。派手な若い女。二体のアンドロイド。耳に残る鈍い音。逃げるように手を引かれた路地。雑居ビルの階段裏の暗がり。ハジメの体のぬくもり。唇のやわらかさ。すべてをオレンジに染めていた夕日。
展望台はよく晴れていたが、植物園に行った日は雨だった。
ハジメは少し不機嫌で、俺はたくさんの写真を撮って、家族とはぐれた子どもと出会って、親と引き合わせて。異国の夏空を切り取ったようなヒスイカズラの花の色。温室の空気。ガラスについた水滴。降り出した雨。差し出された一本の傘。
パラパラと落ちてくる雨粒のように、次から次へと記憶がよみがえる。
初めての定期メンテナンス。
ハジメの足が壊れて歩けなくなってしまい、椅子を運んできて座らせたこと。執事服の上を滑るエチケットブラシ。電話の呼び出し音と、部品の取り寄せに二週間かかると告げる声。パソコンから流れ出した音楽。自分で淹れた泥水のようなコーヒー。パソコンに表示されたアンドロイドの広告――ああ、そんなものは二度と見たくない。
玄関のタイルのひんやりとした温度。乱雑に置かれた傘立てや靴。優しく差し出された手。デパートに流れる気の抜けた音楽。寝室でのゆったりとした時間。パジャマのやわらかな手触り。玉ねぎを刻む包丁の音。オムライスの鮮やかな黄色。散らばったケチャップの赤。朝のキッチンの優しい空気。鉛筆のこすれる心地良い音。スケッチブックに増えていったデッサン。仕事を褒められて二人で喜んだ日のこと。
二度目の定期メンテナンス。黒焦げになって折り重なったアンドロイドたち。工場に横付けされた大型トレーラーの中の光景。泣き声と怒号。絶望。
パソコンに表示された「Yes」と「No」の文字。
ニサキ工場の錆びついた建物。風に揺れるイドのコートの裾。
初めて出会った日のこと。
『1号』という名前をつけたときの会話。
『ハジメ』という名前に改めた日のこと。
美しい指先。俺を呼ぶ声。
整った顔立ち。優しく笑う口元。
ハジメが淹れてくれたコーヒーの味。
星の瞬きのような記憶が次から次へときらめき、また消えてゆく。
それらは俺の心の中にゆっくりと溶けていった。
ふと、目の前のアンドロイドが尋ねた。
「前回の定期メンテナンスのことを覚えていらっしゃいますか?」
「……ああ。ひとつ残らず覚えてる」
俺はゆっくりと頷いてみせる。
その答えを、目の前のアンドロイドに言いたかったのか、それとも以前の『ハジメ』に聞かせたかったのか、それは自分でもよくわからなかった。
相手は「ふふ」といたずらっぽく笑った。
「あのとき、ご主人様は私を抱きしめて子どものように泣いてらしたではないですか。てっきり今回もそうなさると思っていたのですが」
「それは……ほら、その……」
口を開いてみたものの、うまく言葉にならなかった。
星のように点在していた記憶が、一本の線となって繋がった気がした。
その瞬間、胸の奥底から強い感情が込み上げ、不安も恐れも呑み込んでゆく。
目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
次から次へとあふれて止まらない。
「……ハジ……メ……」
「はい、ご主人様」
ハジメが優しく微笑む。
俺は駆け寄り、勢いにまかせてその首元を強く抱き寄せた。
最初に見たときの違和感など、もうどうでもよくなっていた。
俺は声を上げてむせび泣いた。泣かずにはいられなかった。
「やっぱり甘えんぼさんですねぇ」
耳元でハジメの甘い声が聞こえる。
その手が、子どもをあやすように優しく背中をさすった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます