7-9 だあああぁっ、あいつめぇえええ!

 翌朝。


 俺は華々しい音楽で目覚めることになった。

 1LDKの室内に優雅に流れているのは『ヴィヴァルディ』の『春』だった。

 たしか「春」「夏」「秋」「冬」という4曲があり、それらをまとめて『四季』と呼ぶのだったか……いや、今はそんなことはどうでもいい。


「だあああぁっ、あいつめぇえええ!」


 俺はベッドの上にガバッと飛び起き、どすどすと足音を立てて音楽を止めに行く。

 画面をのぞき込むと、画面いっぱいに大きな文字でメッセージが表示されていた。


『おはようございます。ご主人様。

 ご主人様がお一人で起きられるかとても心配でございます。

 ……ですが、ご主人様のことですから、

 きっともうお一人でご起床されているのでしょうね』


「残念だったなぁ、ハジメ! 昨日は疲れて爆睡だったぜ!」


 思わずパソコンに向かって声を張り上げる。

 いったい誰のせいだと思ってやがる。


 音楽を止め、着替えと洗顔を済ませてキッチンへ向かう。

 今日はチーズトーストで済ませようと思ったが、それでは味気ない。

 トマトとキュウリを切り、簡単なサラダを添える。


 昼になるとフランソワ=ジョセフ・ゴセックの『ガボット』が流れ始めた。

 いかにも「さあ、食事の時間ですよ」といった雰囲気の曲だ。

 パソコンの画面には、やはりハジメからのメッセージが表示されている。


『こんにちは、ご主人様。

 そろそろ昼食のお時間でございます。

 面倒くさがらずにきちんと栄養のあるものをお召し上がりくださいませ』


 適当に済まそうと思っていたが、それだとハジメが帰ってきたときに小言を聞かされるはめになりそうだ。


 悩んだ末、重い腰を上げてスーパーへ向かうことにした。

 いくつかの食材と、ついでにジンジャーエールと緑茶も買う。

 自分で淹れたコーヒーなど、とても飲む気になれなかった。


 そういえば、以前ハジメが家を空けたときは惣菜が届いたっけ。

 ふと、そんなことを思い出す。

 でも最近ではずいぶん自炊をするようになってきた。きっとハジメも、今の俺には総菜が必要ないとわかっているのだろう。

 自分が、そして生活が、少しずつ変わっていると感じる。


 食後、いつものコーヒーカップに緑茶を注いで飲んだ。

 見慣れたカップに緑茶が入っている様子はどことなく奇妙な気がする。


    ◇ ◇ ◇ ◇


 午後からはとにかく仕事をこなした。

 三日分の遅れを取り返さなくてはならない。


 夕方になると、パソコンから静かな音楽が流れてきた。

 ドヴォルザークの『新世界より(第2楽章)』だ。夕暮れの物悲しい空気をまとったようなメロディがなんとも郷愁をさそう。たしかこれは『遠き山に日は落ちて』の原曲になっているんだったか。


 パソコンには、いつものようにメッセージが表示されている。


『ごきげんよう。ご主人様。

 そろそろ夕食のお時間です。

 一日の終わりに、どうか美味しい物を食べてくださいね』


 時間を見ると、もう夕食の時間だった。

 仕事に集中していると時間が経つのがあっというまだ。


 キッチンに立ち、チキンソテーを焼き、ニンジンとブロッコリーを茹でる。

 それを食べ終えて食器を洗うと、俺はまた仕事に戻った。スケジュールの遅れもあるが、なにかしていないと気が狂いそうだった。


 次々とイラストを仕上げて、完成したそばから依頼主にメールを送ってゆく。

 いつもより集中しているせいか、相手からの反応はどれも上々だ。特に、なじみの取引先からは「すごい……今回はどのイラストもとても素敵です! 今回は修正なしで、ぜひこのまま使わせてください!」なんて言われた。

 ハジメが戻ってきたら自慢してやる。


 いつもならハジメがしてくれていたメールのチェックも、当分のあいだは自分でしなくてはならない。

 受信ボックスを確認すると、新規の依頼が1件きていた。仕事が詰まり気味なので少し悩む。だが、もしハジメがいてくれたなら、俺はこの仕事を受けていたはずだ。そう思い直し、やはり受けることにした。

 依頼人の要望と納期を確認し、すぐに見積もりを返信する。

 そしてまた、取り憑かれたように仕事をこなしてゆく。


 就寝時間が近付くと、ドビュッシーの『月の光』が流れてきた。

 なだらかなピアノの音が心を落ち着けてくれる。


『こんばんは。ご主人様。

 そろそろ就寝のお時間でございます。

 あまり根を詰め過ぎず、そろそろお休みになってくださいね。

 お会いできる日を楽しみにしております』


「はは……見透かされてるなあ」


 データをすべて保存して、シャワーを浴びる。

 順調といえばあまりにも順調な一日だった。

 俺の生活には、ハジメとコーヒーだけが足りなかった。

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