【最終章】家に帰ったらコーヒーを

7ー1 かならず迎えに行ってやる

 俺の一日は、ハジメの声で始まる。


「おはようございます。ご主人様」

「おはよう。ハジメ」


 最初は慣れなくて戸惑っていた挨拶も、ようやく自然に返せるようになってきた。

 それでも、毎朝考える。

 自分がより良い主人であるために、どうすればいいのかと。


 洗顔と着替えを済ませ、それから朝食をとる。

 食べ終える頃になると、こじんまりしたキッチンからコーヒーの香りがただよい始める。

 それを飲みながら今日のスケジュールを聞く。


「お仕事のご予定を申し上げます。園芸□□様からのお仕事が1件。締め切りは12日後でございます。***町内会様からのお仕事が1件。締め切りは14日後です。△△△コーポレーション様からのお仕事が4件。締め切りは17日後です。〇〇〇〇洋食店様からのお仕事が1件。締め切りは29日後です」


 ハジメがすらすらと予定を読み上げる。

 その中にすっかりなじみとなった洋食店の名前を聞き、ふと嬉しくなる。


 最初にオムライスのイラストを依頼してきたあの店だ。

 何度も修正依頼を出され、ハジメと二人で苦労しながらどうにかこなしたのだった。それが今じゃすっかり常連で、新規メニューがあるたびにこうして依頼をくれる。


「あの店もうまく軌道に乗ったみたいだなあ。そのうち食べに行くか」

「予定を登録なさいますか?」

「そうだな、来月の予定に入れてくれ。日付はあとから調整する」

「かしこまりました。『〇〇〇〇洋食店様へのご訪問』1件。来月の予定に登録いたしました」

「うん、ありがとな」


 残りのコーヒーを味わっていると、ハジメが言葉を続けた。


「続きまして、プライベートのご予定を申し上げます」

「あれ、なんかあったっけ?」

わたくしの定期メンテナンスの時期が近付いております。以上1件になります」


 そう言われて、ふと目を細める。

「……ああ、もうそんな時期か」


 前回の定期メンテナンスのことは、まるで昨日のことのようにはっきりと覚えている。

 あれからもう季節が一巡りしたのかと思うと、感慨深いものがある。


「最短で予約が取れるのは?」

 そう尋ねると、ハジメはすぐに予定を調べてくれた。

「最短では、来週の火曜日に空きがございます」

「じゃあ、その日にしよう」

「かしこまりました。では、来週火曜日に予約いたしました」

「うん、ありがとな」


 そういえば、ハジメが家にいないのは前回のメンテナンス以来かもしれない。

 せっかくだし、たまには一人で羽を伸ばすのも悪くないか。

 そんなことを考えていると、ハジメが不安そうに言った。


「私が留守のあいだ、ご主人様が他のアンドロイドにうつつを抜かさないか心配でございます」

「……あのなぁ」


 呆れてため息をつくと、ハジメはいっそう不安げに顔を曇らせた。

 言ってやりたいことは山ほどあったが、どうにも形にならず、頭をがりがりとかく。


「かならず迎えに行ってやる。だから大人しく待ってろ」

 そう言い聞かせると、奴はようやくほっとした表情になった。

「かしこまりました。約束ですよ」


    ◇ ◇ ◇ ◇


 メンテナンス当日、俺たちはレンタカーに乗って工場へ向かった。

 隣の市まで、片道三十分。


 ハジメは相変わらず助手席から「スピードが出過ぎている」だの「もっと早めにウィンカーを出せ」だの「もっとよく周囲を確認しろ」だのとダメ出しをしてくる。

 それでも、工場に到着するとすっかり大人しく黙ってしまった。


 受付で機体番号を記入し、控えを受け取る。

 そのあいだ、ハジメはずっと不安そうな顔で俺を見ていた。


「……なんだよ。そんな顔するなって。たかがメンテナンスだろ」

「私はご主人様の身を案じているのでございます。よろしいですか、お帰りはくれぐれも安全運転でお願いします」

「あーそうだな、気をつけるわ」

「朝は私がいなくてもお一人で起きられますね?」

「おう。目覚ましがあるから心配するな」

「お仕事の予定は、お渡ししたスケジュール表をご覧ください」

「ああ、アレな。見やすくて助かるわ。ありがとな」

「お食事は、面倒くさがらず栄養のあるものをお召し上がりください」

「わかってるって」

「夜はあまり夜更かしをなさらぬように。睡眠は重要でございます」

「わかった、わかったってば」


 破損個所さえなければ、メンテナンスにはさほど時間はかからない。

 傷んでいる部品は去年交換したし、問題がなければ翌日の昼には引き取ることができるはずだ。


 それでもハジメはずっと不安そうだった。

 おそらく前回のメンテナンスのことを思い出したのだろう。それは俺も同じだ。


 結局、俺たちは受付時間の終了まで他愛もない話を続けた。


    ◇ ◇ ◇ ◇


 家に戻ると、午前11時半を過ぎていた。


「……ただいま」


 なんとなく声に出してみるが、返事はない。

 部屋の中はしんと静まり返っている。まるで深夜のようだ。

 床板を踏む音さえも高く鳴り響き、静寂が耳に沁みた。


 部屋着に着替え、ダイニングのソファに深く座る。

 どうにも落ち着かず、そのままごろりと横になる。

 慣れない運転に疲れたこともあり、しばらくぼんやりする。


 ふと、コーヒーが飲みたくなった。


「ハジメ、コーヒーを……」


 そう言いかけてめる。

 いつもコーヒーを淹れてくれるハジメは、今ここにはいない。


 自分でコーヒーを淹れる気にもならず、買い置きしていたペットボトル入りの炭酸水を持ってきてちびちびと飲む。


 そのままソファでだらけていると、隣の部屋から音楽が聞こえてきた。

 最初は空耳かと思ったが、そのわりには軽やかなバイオリンの音がはっきり聞こえてくる。

 立ち上がって隣の部屋を覗いてみると、仕事用のパソコンから音楽が流れていた。


 画面にはメッセージが表示されている。


『こんにちは、ご主人様。

 ごきげんいかがですか。

 そろそろ昼食のお時間でございます。

 私の不在により、寂しさでお食事が喉を通らないかとは思いますが、

 お体のためにもどうかきちんとお召し上がりくださいませ』


 時計を見ると、ちょうど正午だ。


 そういえば前にもこんなことがあったなぁ、と思い出す。

 あれは最初の定期メンテナンスで奴が家を二週間空けたときのことだ。


「わかった、わかった」


 音楽は止めず、部屋のドアを開け放してキッチンへ向かう。

 パスタを茹で、そこにベーコンと卵、牛乳を加えてカルボナーラにする。塩コショウで味をととのえ、上からたっぷり粉チーズをかける。


 食器と調理器具はそのまま水につけておいた。

 夕食のあとにまとめて洗えばいいだろう。 


    ◇ ◇ ◇ ◇


 仕事はまったく手につかなかった。


 一応かたちだけは努力してみたものの、すぐに投げ出して諦めることにした。

 どうせ今日だけの辛抱だ。明日になればハジメは帰ってくる。

 一日サボったことで小言を聞かされることになるかもしれないが、それでもいいやと思えた。

 あいつがいないと思うと、あの小言さえも恋しく思えた。


 ソファに腰かけ、ぼんやりと映画を眺める。

 もう何回も見た作品だ。

 セリフを完璧に覚えるくらい見ているはずなのに、なぜかその日はまったく内容が頭に入ってこなかった。


 なんとなく手持ちぶさたになり、左手の薬指につけている指輪をなぞる。

 そして、ハジメの指にも指輪がついたままなのを思い出した。メンテナンス中にくすといけないし、外させたほうがよかっただろうか。


 だが、奴のことだから嫌がりそうだ。

 なにしろ奴は例の輪ゴムの指輪でさえもまだ大事に保管してあるらしい(しかも俺が勝手に捨てると思っているらしく、絶対にその場所を教えてくれない)。


 気がつけば夕方になっていて、またパソコンから音楽が流れ始めた。

 今度は、夕食を促すメッセージが表示されている。

 そういえば、いつもならハジメが「そろそろ夕食のお時間です」と声をかけてくれる頃か。


「……あいつめ、いてもいなくても同じじゃねぇか」


 そんな強がりを口にして、一人で笑ってみる。

 だが、それに応える者はいない。


 夕食は冷凍保存しておいたハンバーグとポテトサラダにした。

 溢れるほどかけたはずのデミグラスソースの味は、よくわからなかった。


 夜が深まってくる頃、またパソコンから音楽が流れ出した。

 曲は『オールド・ラング・サイン』。たしかスコットランド民謡で、作曲は不詳だったか。日本では『蛍の光』として知られている曲だ。

 ハジメの選曲センスに思わず笑いがこぼれる。


『今日はもうおやすみください。

 明日お会いできるのを楽しみにしております』


 画面に表示されたメッセージを読んで、俺は小さく頷く。


「そうだな」


 シャワーを浴び、布団にもぐって電気を消した。

 明日になれば、また日常が戻ってくる。

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