第14話 プリンスではなくてライオン
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ジャックの実家のレストランチェーンに、敵対的買収の対象になっているという報道が出た。ジャックはそれを何とかして阻止しようと奔走する。敵には容赦なく叩き潰す、辣腕ビジネスマンとしてのジャックを、ニキは初めて目にする。
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キャサリンの仕事を手伝うようになって、ニキの毎日は忙しくなった。けれどもそれは充実しているということだ。ジャックの自宅の管理については、キャサリンから少しずつ教わっている。いくら個人の家とはいえ、これだけの家を維持していくのは一つの事業だ。たしかに彼女一人では手が回らないはずだ。
ジャックとの関係は、表向きは何も変わっていない。相変わらず雇い主とナニーのままだ。ジャックの仕事が忙しいので、なかなか家でも顔を合わせるチャンスはない。あの夜のことは何も言わず、さりげなく振る舞ってくれていた。けれどもときどき目が合ったり、エリザベスのことで話をしたりするとき、なんともいえないあたたかいまなざしを向けてくれる。あれは彼にとっても気まぐれではなかった。いつかきっと彼は私の聞きたい言葉を言ってくれるわ。ニキはそう信じていた。
ただ一つ気になっていたのは、アーノルドからの電話だった。あのあとすぐに携帯電話の番号を変えた。以来、電話はかかってこないが、心のどこかに不安がくすぶっている。
大丈夫よ。今の私はただの雇われナニーにすぎない。近づいても得することなどないのだから。今はとにかくエリザベスのことと、新しい仕事を覚えることに集中しなければ。
ある日、ニキがキャサリンから経理のソフトウェアの使い方を教わっていると、彼女の携帯電話が鳴った。ニキは気にせずデータの打ち込みを続けていたが、急にキャサリンの声が真剣になり、リモコンでテレビをつけたので、ニキもふと顔を上げた。
彼女は、一日中経済ニュースを流しているケーブルテレビのチャンネルに合わせた。 金髪の女性キャスターが、たんたんとニュースを読んでいる。
「大手外食チェーンの〈ドナルドソン〉が、〈エスペランサ〉を買収する計画を発表しました……」
キャサリンは真剣な顔で画面を見ている。
「〈エスペランサ〉って、まさかジャックの……」
「ええ。いまこのことで電話があったの」
〈ドナルドソン〉は全国に展開している、超大手外食チェーンだ。それがさらなく経営拡大のため、〈エスペランサ〉を買収しようと、大株主に接近して株を買い集めているらしい。
「市場価格よりも高い価格で株を買ってやると持ちかけるのよ。それで心を動かされる株主もいるわ」
「でも、〈エスペランサ〉の株は、ジャックやイサベルが大半を持っているんじゃないんですか?」
「〈エスペランサ〉は株を創業者一族で独占しないというのがポリシーなの。できるだけたくさんの顧客の力で支えてもらいたいとね。イサベルとジャックの持ち株を合わせても、せいぜい三十パーセントくらいだわ。社員の持ち株を入れても過半数に達するかどうか。フェレイラ・インベストメントとも直接の関わりはないし」
ジャックは〈エスペランサ〉の経営にも関わっていると思っていたので、キャサリンの言葉は意外だった。
「〈ドナルドソン〉はさまざまな料理を出すレストランだから、〈エスペランサ〉の客層を狙うのは理解できる。でも今回は単なるビジネス上の理由だけではないかもしれないわ」
「え、それはどういう……」
話している途中で、玄関のドアが開いてジャックとエドワードが連れ立って入ってきた。
「もうニュースで報道されているか」
リビングルームに入るなり、ジャックが言った。
「ええ、さっき一通りのことが解説されていたわ」
「どのくらいの株が集まっているかは?」
「まだそこまでは。ただ〈ドナルドソン〉が株を買い集めようとしているという話だけ」
「そうか……話が公になると、新たに興味を持つ株主がいるかもしれないな」
ジャックがあごに手をやって思案する。
「なあ、ジャック。これは君への意趣返しじゃないのか?」
エドワードが尋ねた。
「私もそう思っていた。〈ドナルドソン〉の今の社長はターナーでしょう? 以前、あなたが乗っ取った会社の会長だった」
「……そうだったかな」
ジャックがとぼけて言う。
「経営者の座から追い出したのを、恨みに思っているんじゃないの?」
さっき単なるビジネス上の理由だけではないとキャサリンが言っていたのは、そういうことだったのね。
「人聞きの悪い言い方をしないでくれ。あのケースは経営者の怠慢に尽きる。あんな放漫経営では社員が気の毒だ。経営を立て直すには、トップを変えることが不可欠だった」
「それは認める。しかしそういう恨みが根底にあるとすれば、協議には応じないだろう。ターナーは、どんなことをしても〈エスペランサ〉を取りにくる」
「そうだろうな。しかしもう母も引退しているし、規模は〈ドナルドソン〉に比べれば、はるかに小さいから、純粋にビジネスだけを考えるなら、手放すという選択肢もあるんだが」
「しかしあそこは君のビジネスの原点だろう? ターナーの手に渡って、経営理念や従業員への保障体系をめちゃくちゃにされていい気分がするかい? ターナーだってそれを狙っているんだ。君に心理的なダメージを与えようと」
エドワードの言葉に、ジャックは口を引き結んでじっと考えていた。
「たしかに利益至上主義の〈ドナルドソン〉と〈エスペランサ〉では、社風が違いすぎる。ドナルドソン流になじめない従業員はすぐリストラされるだろう」
「それに社会貢献活動も狙い撃ちされるぞ。貧困地区で育った学生向けの奨学金などがなくなるのは惜しい」
「ああ、あれはうちの両親のこだわりだったからな。教育に関わる活動には力を入れている。たしかにあれがなくなったら学生たちがかわいそうだ」
ニキははっとした。父のニコラス・プレストンも貧しい子供たちへの教育普及に力を入れていた。ジャックの両親も同じような考え方を持っているのかしら。
「そうだな。無能な経営者の手にあの店を渡すわけにはいかない。よし、なんとしても〈ドナルドソン〉による買収は僕が阻止する!」
ジャックが力強く言った。
「フェレイラ・インベストメントが介入して、株式買取のオファーを株主に出すかい?」
〈ドナルドソン〉が提示した価格よりも高く株を買うといえば、こちらに売る人間もいるかもしれない。そうやって株を過半数集められたら〈エスペランサ〉を守ることができる。
「いや。それをやったら、どんどん値がつりあがって完全なマネーゲームになる。〈エスペランサ〉をそんなことに巻き込みたくはない」
「なるほど。しかしそれならどうやって?」
「正面からではなく、足元から攻めよう。今の〈ドナルドソン〉の経営状態はどうなんだ?」
「うん、まあ、いろいろな噂は聞くよ……」
それからしばらく、ジャックとエドワードはその後の戦略について話し合っていた。ジャックがニキと家で話すことといえば、エリザベスのことがほとんどなので、実際に経営者としての顔を見たのは初めてかもしれない。〈エスペランサ〉の危機かもしれないというのに、ジャックとエドワードはどこか楽しそうだ。獲物を見つけた猛獣のような、高い壁に立ち向かう勇者のような顔をしていた。
〈ドナルドソン〉による〈エスペランサ〉買収計画が発表されたのは木曜日。週末をはさんで次の月曜日、ビジネス専門紙に小さな記事が出た。
『〈ドナルドソン〉社員が集団訴訟。理由は管理職社員によるパワハラとセクハラ』
「同社では以前から上司による部下へのセクシャルハラスメントや、退職を強制させるための嫌がらせが横行しているという噂があったが、会社の上層部がそのような状態を放置し、何の手も打たないことに不満を募らせた社員たちが、会社を提訴に踏み切った……」
ニキは新聞記事を読みながら、これは今回の買収計画に何か影響するのだろうかと考えた。はたしてその三日後には、〈ドナルドソン〉が〈エスペランサ〉の買収を断念したことが報じられた。
「社員が集団訴訟を起こしたことで、〈ドナルドソン〉の好感度は一気に下がった。株価も急降下だ」
早朝ミーティングと称してフェレイラ家で朝食を食べていたエドワードが言った。
「ニキ、このフレンチトースト最高だね」と、お世辞も忘れない。
「ありがとう。エリザベスもこれが大好きなの」
「バターの香りがたまらない。仕事の前にはカロリーがたっぷり必要なのに、ベッキーはカロリーを抑えることに熱心なんだ。バターやジャムは出してくれない」
「奥様はあなたの体を心配されてるんだわ」
「ああ、それはよくわかってるよ。カロリーが足りない分は愛情でカバーしてくれるのさ」エドワードはそう言ってニキにウィンクをした。
「食事は人間の生活の基本だからな。イメージも大切だよ。今回の集団訴訟は〈ドナルドソン〉にとって大きなダメージだ。社員が上層部を訴えるほど問題のある会社の食事なんて、あまり食べたいとは思わないだろう? 少なくとも問題が解決するまでは。今回も君の作戦が大当たりとなったわけだ」
「作戦?」
不思議そうに見つめるニキに、ジャックが苦笑する。
「いや、今回はキャサリンの情報網と、エドワードの人脈のおかげだ」
「集団訴訟はあなたたちが仕組んだものだったの?」
ニキは驚いて言った。
「仕組んだというのは人聞きが悪いな。もともとあそこの内部では、不満がずっとくすぶっていたのをキャサリンが調べ上げてくれてね。組合の有力者をたまたま僕が知っていた。それで、もし行動を起こすなら支援するとほのめかしただけさ」
「まあ……」
ジャックは何も言わなかったが、有能なビジネスマンとしての自信があふれている。
ジャックとエドワードが食事を終えたので、ニキはテーブルの皿やフォークを片付け始める。するとジャックが立ち上がり「ニキ」と声をかけた。
「はい?」
ニキは手を止めてジャックを見た。
「土曜日、買収阻止を祝うため、エドワードの家族と食事をする予定なんだ。そこにエリザベスと君も連れて行きたい。空けておいてくれるかい?」
「私もですか?」
「ああ。何か予定でも?」
「いいえ。何もありません」
「よかった。細かい予定については、今夜帰ってきたときにでも話すよ」
ジャックはそう言い、エドワードと連れ立って出て行った。土曜日に一緒に食事……。ニキの胸は高鳴った。
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