第12話 胸をしめつけられる思い
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ジャックの母のイサベルが家にやってくる。足が不自由でも明るくバイタリティあふれる彼女に、ニキはたちまち魅了される。しかし彼女も長男を亡くした悲しみを抱えていた。庭でイサベルと話しているとき、ジャックから母親へのサプライズ・プレゼントが……。
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ジャックの母親のイサベルは七十五歳になるというが、若々しくチャーミングな女性だった。脚が悪いと聞いていたので、ニキを含めて使用人たちは、十分な世話ができるか心配していた。けれどもそんな心配は無用だった。
イサベルは杖をつき、ゆっくりとなら自分で歩くことができる。着ごこちのよいゆったりしたワンピースを着ていることが多いが、白くなった髪をいつもきちんと結い上げ、唇には薄くルージュを差している。
エリザベスも祖母が大好きらしく、家に戻るとすぐに彼女のそばにいく。祖母とはリラックスして過ごせるようだ。
何年もレストランの経営にかかわってきただけあって、バイタリティにあふれ愛想もよい。エリザベスが毎朝ニキとプールと泳いでいるときいて、自分も一緒に泳ぐと言い出して、ジャックをあわてさせた。
「かあさん、自分じゃ大丈夫と思っているかもしれないが……」
ニキはジャックが困っているのを見て、つい口をはさんだ。
「あの、ジャック。プールに入るときは私も必ず一緒に入っているから、ミセス・フェレイラがご一緒でも大丈夫よ。私とエリザベスにまかせて」
エリザベスはもう一人で泳げるし、地面より水の中のほうが動きやすいということもあるのだ。以前高齢者向けの水泳教室を担当していたこともある。ジャックに向かって“すべて任せて”というようにうなずいて見せた。
「そうか……それならきみに任せる」
ジャックはほっとしたように言ってニキに向かってほほえんだ。
プールで泳ぎ、エリザベスが出てしまったあと、ニキがキッチンで片付け物をしていると、思いがけずイサベルがやってきた。
「ニキ、いまちょっと時間があるかしら? よかったら少し話し相手になってくれない?」
ニキは驚いたが、笑顔で言った。
「けさは早くからプールで泳いでいて、お疲れではないですか?」
「あら、いやねえ。あのくらい泳いだうちに入らないわ。とても気持ちがよかった。朝食もたっぷりいただいて元気いっぱいよ」
イサベルが笑うと、目元や口元にくっきりとしわが刻まれる。しかしそれが顔になんともいえない温かみを添える。
「庭の東端に小さなあずまやがあるから、そこでゆっくりお茶を飲みましょう」
ニキは小さなワゴンにティーポットとカップを乗せ、ゆっくりと歩くイサベルのうしろからついていった。
あずまやは周囲にほとんど木がない開けた場所にぽつんと建っている。柱の一本につるが巻きつき、そこに薄紫色の小さな花がいくつもついていた。芝生はきちんと刈り込まれているが、全体的に自然のままの姿を残し、あちこちで野の花が咲き乱れていた。この紫の花もあえて植えたのではなく、野生のものだろう。
「ここの庭は野生の花が多くていいわね」
イサベルはそう言いながら、中のベンチに腰を下ろした。ニキはその前にカップとソーサーを置き紅茶を注ぐ。イサベルがそのようすを見ながら静かな声で言った。
「あなたはエリザベスの面倒をよく見てくれているわ。とても感謝しているのよ」
ニキは思わずイサベルの顔を見た。
「そんな……それが私の仕事ですから、当然のことです」
「あの子の世話をするのはたいへんよ。だからこれまで長く続いた人がいなかった」
「私はエリザベスが大好きです。私の小さいころと似ている気がして」
「ええ。私もあの子が大好き。今はまだ両親を亡くしたばかりで、ショックを引きずっていると思うけど、あの子にはフェレイラの血が流れているわ。フェレイラ家は名門でも何でもないけど、みんな冒険心に富んでいて、自然に世界に出て行くの。大航海時代に新しい土地をさがして海に出て行った一族だと、私は思っているわ。エリザベスもきっと、いつか大きなことをするようになる」
「そうかもしれません。ジャックもあんなに若いのに名声を手に入れています」
ジャックの名前を口にすると、イサベルの顔が曇った。
「ジャックは……。ニキ、あなたは彼の兄のロバートがどうして亡くなったか聞いている?」
「あの、交通事故だということだけは……」
「そう」
イサベルはしばらく考えてから、意を決したように口を開く。
「ジャックの兄のロバートと、妻のジョーンは考古学者だったの。一年の半分くらいは、南米やアフリカに発掘調査で出かけていたわ。エリザベスもまだ学校に行ってないから、家族そろって行けたの」
「考古学者……。ジャックは、お兄さんとはまったく違った道に進んだんですね」
「対抗意識の表れかもしれないわね。小さいころから、いつもロバートのほうが先を行っていて、兄にはかなわないという気持ちがあったと思うの。それで兄にはできないことをやろうとしたのでしょう。ジャックにとって、兄はライバルでもあり、目標でもあったはずよ」
「すばらしい息子さんだったんですね」
「ええ、だから亡くなったと聞いたときには……」
イサベルの言葉が詰まりそうになったところ、ニキがあとを引き取った。
「お察しします」
「山道で車がスリップして……エリザベスは車の中で寝ていたようね。車が大破して二人は即死だったけど、エリザベスはたまたま隙間にいて助かった。地元の警官は、助かったのは奇跡に近いと言っていたわ」
「エリザベスが……」
「事故の連絡があったとき、ジャックが最初に現場に飛んでくれたの。遺体をアメリカに運ぶ手配もすべて引き受けてくれた。ジャック自身もひどく悲しんでいたはずなのに、そんなことおくびにも出さずに」
ニキは何も言えなかった。ジャックはそういう人なのだ。責任感が強くて、家族をしっかり守ろうとする。
「ジャックにとって、あの子は大切な兄夫婦の忘れ形見。奇跡的に生き残ったあの子をどうしても守らなくてはいけないと、ついつい過保護になってしまっていたのね」
「ジャックはよくやっていると思います」
ニキが言うと、イサベルがにっこりと笑った。
「ええ、わかっているわ。私はあの子のほうこそ心配していたの。私のこともエリザベスのことも抱え込んでしまって」
イサベルが首をふって言う。
「私がもう少し若ければ、エリザベスを引き取れたのに。体が思うように動かなくては、とても無理ね」
「今もじゅうぶんお元気じゃありませんか」
「ふふ。私だって若いころは、夫と一緒に世界中を見て回ったわ。十年くらい前までは、スカイダイビングもやっていたのよ」
「スカイダイビングですか!」
ニキは思わず声をあげた。
「夫が亡くなったのは五年前だけど、その直前まで、次はインドに行こうと計画をしていたの。それから何か月もたたないうちに、私も足を悪くしてしまったので、結局、その計画は実行されないまま。それをいまだに残念がるものだから、私がいつかふらっとインドに行ってしまうんじゃないかと、ジャックは心配しているのよ」
「まあ」
「ゆうべもね、ようやく気持ちの整理もついてきたし、もう思い残すこともないから、思い切ってやり残したインド行きを実行しようかしらって言ったら、うめき声をあげていたわ」
イサベルは楽しそうに、くすくすと笑う。ニキもつられてほほえんだ。
そのとき家のほうから、カルロスが走ってくるのが見えた。
「奥様、ニキ。ここにいたんですかい」
「まあ、カルロス、いったいどうしたの? 息をそんなに切らせて」
「いや……その……だんなから連絡があって……」
「ジャックに何かあったの?」
イサベルがうろたえたように叫んだ。
「いや、違うんです。奥様がどこにいるかたしかめてくれって。庭にいてくださってちょうどよかった」
「なあに、どういうこと?」
ジャックの安全にかかわることでないと知り、イサベルは落ち着きを取り戻してカルロスにたずねた。
「まあ、ちょっと待っててくださいよ。すぐ来ますから」
カルロスは、今度は家とは反対側、道路へ続く裏門のほうへと走っていく。イサベルとニキは顔を見合わせた。カルロスがフェンスの途中につくられた裏門を開けると、音楽が聞こえてきた。
やがてラッパやシンバルを持ち、きらびやかな衣装を身につけた男たちが演奏しながら、ゆっくりと庭の中に進んできた。そしてそのうしろからは──。
イサベルが大きな声をあげた。
「まあ、象の行進だわ!」
ニキも思わず口に手をやった。人間の胸くらいの高さの小さな象が四頭、裏門から入ってくる。象にはそれぞれ鮮やかな色のラグがかかっていて、頭には赤や緑のガラス玉をはめこんだ、冠のような飾りをかぶっていた。その横には象使いとおぼしき男が、綱を引きながら歩いていた。
「まさか、ニュージャージーで象が見られるなんて!」
イサベルがおかしくてたまらないように言う。象たちがにぎやかな音楽とともに、ゆっくりとニキたちのほうへ近づいてくる。先頭の象が丸めた紙を鼻で持っていて、それを象使いの指示で、イサベルににゅっと差し出した。イサベルは楽しそうに、それを受け取った。
「これはいったい何のメッセージなのかしら」
紙を伸ばすと、そこには手書きの文字でこう書かれていた。
『望みとは違うだろうけれど、インド行きはこれで我慢するように』
それを読んで、またイサベルがまた大きな声をあげて笑った。
「まったくジャックったら、いつも私を驚かせるようなことをやるんだから!」
象はそれから二日間、週末をフェレイラ家の庭で過ごした。土曜日にはシェリルやサッカーチームの女の子たち、そして近所の子供たちまで集まって、ちょっとしたパーティとなった。
彼らは初めて間近に見る象に目を輝かせ、おっかなびっくり餌をやったりしていた。もちろんエリザベスも大喜びで、象使いの手を借りて、象の背に乗って歓声をあげた。
「ジャックにはあきれちゃうわ。象のレンタルですって? いくら母親を喜ばせたいからって、こんなことする人いないわ」
ポロシャツにジーンズという、ラフな格好のキャサリンが言う。
その日はちょうど、例の「フェレイラ家家計監査の日」だった。子供たちやジャックが象と遊ぶのに夢中になっている間、たまたまキッチンのテーブルで、ニキとキャサリンが差し向かいでお茶を飲むことになった。
「イサベルを喜ばせたいというより、自分が楽しみたかったのよね。きっと」
きょうのキャサリンはふだんどおりだ。しかしニキは、前にここで泣いていた彼女の姿を忘れることができなかった。
「きょうも朝からずっと、象のそばにいるわ」
「まったく、いつまでも子供みたいなんだから。ロバートにもそういうところはあったけれど、ジャックよりは大人だったわ」
「ロバートって、ジャックのお兄さんでしょう? キャサリンがそんなにほめるなんて、きっとすてきな人だったのね」
キャサリンがはっとした顔になる。
「え、ええ……そうね」
「たしか考古学者だったとか」
「そう。南米の遺跡を中心に発掘作業をしていたの。でも南米ばかりじゃなく、いつも世界中を飛び回っていたわ」
「フェレイラ一家は、大航海時代に帆船で世界に出ていった一族の末裔だと、イサベルが言ってたけど、まさにぴったり」
「まあ、イサベルがそんなことを? 彼女らしいわ」
心なしかキャサリンの声が小さくなった。ニキは熱い紅茶を入れようと席を立つ。トレイにエリザベスと一緒に焼いたクッキーとティーカップを乗せてテーブルに戻ると、キャサリンが顔をおおってうつむいていた。目には涙があふれている。ニキは思わず足を止めた。
「キャサリン……」
「ごめんなさい」
絞り出すような声でキャサリンが言う。ニキは何も言わず、トレイを持ったまま、シンクのほうへ戻った。
五分ほどたち、キャサリンが顔をあげて、指で目をこすった。ニキは紅茶をいれなおし、トレイをテーブルまで運ぶ。
「紅茶をいれなおしてきたの。よかったら熱いうちにどうぞ」
「ありがとう……」
キャサリンは手を温めるように両手でカップを持つと、肩をすくめるようにして口をつけた。ニキは何も言わず、彼女のとなりの椅子に少し離れて座った。
「取り乱しちゃって、ごめんなさい、ニキ」
「いいえ」
「……あなたは何も聞かないのね」
ニキはどう答えていいのかわからなかった。何か聞くほど自分はキャサリンのことをわかっていない。けれども、もし何かできることがあるなら、そばにいてあげたい。
「ときどき、ロバートのことを思い出して、たまらくなってしまうの。このあいだもそうだったわ」
「あのときの……」
サッカーを見学に行った日、ジャックが彼女の肩を抱いていたのを思い出す。
「ジャックも私のことを心配してくれるけど、彼はちょっとデリカシーに欠けるのよね。まあ、親戚だから遠慮がなくなるのでしょうけど」
「親戚?」
「ああ……。あなたにも話していないのね。私とジャックはいとこ同士なのよ。イサベルは私にとっては叔母。ジャックの会社に入ったのが身内びいきに見られるのがいやで、人にはあまり言ってないけれど」
「そうだったの」
いとこならば、ジャックの彼女の接し方にも納得がいく。
それからキャサリンは、前を向いたままぽつりぽつりと話し始めた。
小さいころからロバートが大好きで、ティーンエイジャーになったころには、すでに恋心を自覚していたこと。けれども八つも歳が違ったので、女性としては相手にされなかったこと。
「当然よね。ロバートは大学生。私は十三歳のちびちゃんですもの。要するに、私はかなわぬ初恋をして、それを引きずっちゃったわけ」
「本当に、すてきな人だったのね」
ジャックがライバル視し、目標にするような男性なのだ。
「ええ。ハンサムで勉強ができてやさしくて……。世間知らずのティーンエイジャーの目には、理想の王子様みたいなものよ」
キャサリンは自嘲的にくすりと笑う。
「彼は大学を卒業して、同級生とすぐ結婚したわ。そのときもショックだった。でもしかたないとも思っていた。だから私も高校生になってからは、他の男の子とデートをするようになったわ。ロバートはずっと、人生の先輩でよき相談相手だったし。まさか事故であんなあっけなく……」
再びキャサリンの声が震える。言葉が途切れても、ニキはじっと黙っていた。
「死んでしまうなんて反則だわ……」
「キャサリン……」
ニキは思わず彼女の手を握りしめた。彼女は少し驚いたように、ニキの顔を見た。やがてその目から涙がはらはらとこぼれ落ちる。
そのときカルロスに付き添われて、イサベルが庭から戻ってきた。目を赤くしている姪の姿を見て、悲しげに眉をひそめる。
キャサリンは目じりを指でぬぐうと、叔母に向かって弱々しくほほえんだ。
「キャサリン、私の部屋で少し話をしましょう」
彼女は黙ってうなずくと、ニキに軽く頭を下げて席を立った。その目は「大丈夫よ」と語っていた。
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