第11話 通い合う心

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ジャックは父親になることの難しさをニキに吐露する。ニキは無理して父親になろうとする必要はないとジャックに語りかける。エリザベスを通じて、お互いの心が通じ合うのをニキは感じていた。


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 シルバーのワゴン車の後部座席に、ニキとエリザベスは並んで座った。後部座席からは顔は見えないが、運転しているジャックはふだんどおりだ。

「グラウンドに行くなんて、何年ぶりだろう」

なつかしむような声で言う。

「ハイスクールのころは、毎日グラウンドを走っていたものだが」

「フットボールのチームにいたのね?」

「ああ。典型的な田舎の高校生さ。学校が終わったら他にやることもない。夜は親の店で働く」

「家族みんなで働いて、店を大きくできるなんて最高だわ」

「今はそう思えるけど、当時はずっとどこか遠くへ行きたいとばかり思っていた。奨学金をもらって大学に行った兄がうらやましくて、僕もどうしても大学に行って大きなことをやるんだと決意したね」

 ニキはジャックの兄がどんな人だったのか、どんな亡くなりかたをしたのか聞きたかった。だが立ち入ったことを聞くのはためらわれた。

「きみは大学でビジネスを勉強したいと言っていたが、それは何か理由があるのか?」

 ジャックに尋ねられ、ニキは少しためらったが思い切って話を始めた。

「このあいだ少し話したけれど、父はシングルマザーのための保育施設も経営していたの。私もそこで水泳を教えたり、子供の世話をしたりしていたのよ」

「ああ、そう言っていたな」

「父が亡くなって借金があるのがわかり、その施設は閉鎖せざるをえなかった。私もしばらくはどうすればいいのかわからなくなったわ。でも働いて何とか自分で食べられるようになると、父が大事にしていたあの施設を、何とか再開できないかと思うようになったの」

「そのために経営学か」

「ええ。やはり長く続けるためには、経営がしっかりしていないとだめでしょう?」

「それは立派な考えだ」

「ありがとう……。でも先は長いし、どのくらいかかるかわからないけれど」

「ああ、でも夢をあきらめる必要はない。経営には体力もいるけど、それについては大丈夫だろう?」

 ニキは思わず笑った。

「ええ、いまも毎日、エリザベスと一緒に鍛えてるもの。ハイスクールでは陸上の長距離もやっていたの。一人で戦うことが性に合ってるみたい。クロスカントリーではけっこういい記録を出したのよ」

それを聞いてジャックはほほえんだ。


 グラウンドには三十分ほどで着いた。ちょうどチームのメンバーが集まっているところで、四十歳前後の女性が来て、パンフレットをジャックに手渡してくれた。ボランティアのコーチだという。


「お嬢さんは六歳ですよね。まずはボール遊びから始めますから、今日は三十分ほど練習に加わってもらいましょう。それでこれからも続けたいと思ったら、正式に入会するということでいかがですか?」

「それでけっこうです。じゃあ、僕らはベンチで見学しながら待っていますよ」

「お子さんがスポーツをしているのを見るのは楽しいですよ」

 コーチはエリザベスに声をかける。

「エリザベス、他の子たちに交じってサッカーをしてみる?」

「うん」


 エリザベスはおずおずとではあるが、その女性のそばに寄り、一緒にフィールドの真ん中へと歩いていった。

 ジャックとニキは観客席のベンチに並んで腰を下ろした。ジャックはフィールドで走っているエリザベスを、しばらくじっと見つめていた。


「エリザベスは体力はあり余っていると思ってたけど、ここではついていくのが精一杯という感じだなあ」

としみじみと言う。

「それはしかたないわ。みんなエリザベスより年上の子供たちばかりですもの」

「でも自分より大きい女の子たちに囲まれて、背伸びしてついていこうとするほうが、あの子にとってはいいのかもしれない」

「ええ、私もそう思うわ。負けず嫌いで、頭がよくて……。ナーサリーだけじゃ物足りなかったんじゃないかしら」

 ジャックは目を伏せて首を振った。

「僕はあの子を守らなければいけないと思って、がんじがらめになっていた。両親をいっぺんに失ったあの子が哀れでならなかったんだ。僕自身、兄夫婦が死んだということを、しばらく受け入れられなかった。奇跡的に生き残ったエリザベスだけは、なんとしても守りたくて、少しでも危ないと感じたことはやらせなかった」

「ジャック……」

「でもあの子にもフェレイラ一族の血が流れている。それを忘れていたよ。僕も兄も権威に抑えつけられるのを、何より嫌っていたのに」

 ニキは黙って彼が話すのを聞いていた。

「僕にとっては、会社を経営するより、父親になることのほうがずっと難しい気がするよ」

「あの……ジャック。無理して父親になろうとしなくてもいいんじゃないかしら」

「え?」

ジャックが驚いた顔でニキを見た。

「うまく言えないけど、父親ってなろうと思ってなれるものでもないと思うの。シェリルのバースデーパーティのとき、あなたはとてもリラックスして、エリザベスや他の子供たちと接していたわ。今はあれでいいんじゃないかしら」

 ジャックは彼女の言葉を聞いて、しばらく考え込んでいた。

私はまたよけいなことを言ってしまったのかもしれない。ニキは不安になった。しかしジャックは別に気分を害したようすはなかった。

「自分では気づかなかったが、そうだったのかもしれない。たしかにあのときは、僕も気楽にエリザベスと遊べた。あんなことは久しぶりだったな。父親らしくとか、そんなことは考えていなかった」

 穏やかな表情のジャックを見て、ニキはほっとした。

「子供ってそれぞれ違うから、最初はどう接していいかわからないけれど、でも一緒に時間を過ごすうちに、自然にふるまえるようになると思う。そのうち父親のようにエリザベスを見られるようになるんじゃないかしら」

「父親のようにエリザベスを守ろうという思いで、肩に力がはいっていたのかな。おかしなもんだな。子供の気持ちがわからないなんて。かつては自分だって子供だったのに」

 ジャックが笑うとクールな表情がゆるみ、少年のような顔になる。ニキはついその表情に見入ってしまった。

「ニキ」

 突然、名前を呼ばれてニキの心臓は跳ね上がった。

「エリザベスのこと、きみにはとても感謝している。子供との接し方を教えてくれた人はこれまでいなかった。少しはエリザベスと気持ちが通じ合ったような気がするよ。あのままきみをくびにしていたら、いまでもどうしていいのかわからず、ただ彼女を抑えつけていただろう。それにエドワードのこともそうだ。きみがいなかったら、優秀な部下まで失っていたかもしれない」

「そんな……そんなことを言ってもらえるなんて……」

 胸の鼓動が大きくなり、ジャックにまで聞こえてしまいそう。

ニキは胸がいっぱいになった。ここまでの地位を築いてきたジャックは強烈な自尊心を持っているはずだ。命令し、人を従わせることに慣れているはずなのに、自分の知らないことはきちんと認め、ニキの言うことにさえ耳を傾けてくれる。彼にこんなに謙虚な面があるなんて。


 ジャックが立ち上がり、ニキに手を差し出した。うれしさにぼうっとしていて気づかなかったけれど、もうエリザベスの練習が終わりそうなのかしら。ジャックの手を取ると、強い力で引っぱり上げられた。脚が伸びきった瞬間、目の横に唇がふれるのを感じた。いったい何が起こったのかわからず、ニキは言葉を失った。

「本当にありがとう」

 ジャックの声が耳元で聞こえ、ブラウンの瞳が間近に迫っている。

「ど……どういたしまして」

そう答えるのが精いっぱいだ。ジャックはにこりとほほえむと、握っていた手を離した。

 帰り道、ニキはほとんど何も考えられなかった。さっきのキスはいったいどういう意味なの? 


期待しすぎちゃだめ。彼はただ感謝を伝えたかっただけよ。唇でなく、ほほへの軽いキス。そう、友人同士のあいさつだわ。そう考えて胸の高ぶりを押さえようとしたがうまくいかない。シェリルのパーティのあとも、もう少しでキスをしそうになった。彼は私に特別な感情を持ってくれていると思っていいのだろうか。

 家に戻ったときには、もう暗くなりかかっていた。料理人が夕食の準備をしているいい匂いがしている。昼食が軽かったからおなかがすいているはずなのに、ニキはまったく食欲がわかなかった。

 家に入ると、ちょうどキャサリンが玄関ホールに出てきたところだった。ジャックと二言、三言、交わしたあと、ニキのほうを向いて無理に笑顔をつくったが、来たときのような快活さはない。目が赤くはれていて、それを見せたくないのか、伏し目がちに横をすり抜けようとした。

「キャサリン!」

急いでドアから出ていく彼女を、ジャックは追いかけていった。

キャサリンはジャックといったいどういう関係なのだろう。仕事を終えて自分の部屋に戻ったあと、ニキの頭の中はその考えでいっぱいだった。ただの上司と部下とは思えない。しかし恋人だったら、たとえエリザベスのためとはいえ、他の女性と出かける日に家に呼んだりはしないだろう。

 そしてあの涙を流していたキャサリンの姿。もしかしたらジャックの気持ちはどうあれ、キャサリンもまた自分と同じように、ジャックに恋しているのではないかと思えてしかたなかった。

 

 ジャックは自分の部屋で、ニキとサッカー場で話したことを思い返していた。やはり彼女はナニーとして一流だ。子供に慣れていない自分に的確なアドバイスをしてくれる。

しかしそれだけではない。ジャックは彼女に惹かれていることを認めざるをえなくなった。

 これまで何人かの女性とつきあったことはあるが、家庭を持つことなど意識しない気楽な恋愛にすぎなかった。だがこの一年、兄夫婦を亡くし、エリザベスを引き取ることになって、家族というものを強く意識するようになった。

 ニキは若く美しい。けれどもそれは表面的なことだ。パーティで見せたあの誇り高さ、そして自制心。父親を信じる一途さ。逆境でなお人を思いやれるやさしさ。エリザベスもそしてルームメイトのあの女性も、ニキを慕いかばっていた。できるなら、ニキのような女性と生涯をともにしたい。そんな気持ちになったのは初めてだった。

 とはいうものの、タブロイド紙の記事とホイーラーとかいう男のファックスにかっとして、彼女をくびにしようとしたのは大きなマイナスだ。

 ホイーラーのファクスには、いかにもニキは大きな秘密を抱えているようなことが書かれていた。そして自分がいかに優秀なテレビマンであるか、さりげなく伝えようとしている。あのあと少し調べてみたら、ホイーラーがテレビディレクターとしてそれなりの地位にあるのは事実だった。けれども周囲の評判はすこぶる悪い。あのファクスだって、よく読めばニキを利用しようとして自分を売り込もうとしていたのは歴然だ。

あんな男の策略に一瞬でも惑わされたとは、いまいましい。そのために彼女を傷つけてしまった。

 しかし僕はこれまで欲しいと思ったものはすべて手に入れてきた。恋愛だって同じだ。欲しいものは必ず手に入れる。

 そのためにはまず、彼女の不安をすべて消して、僕なら彼女を守れると、はっきり見せつけることだ。


 そのときジャックのプライベートの携帯電話が鳴った。発信元を見ると、ニューメキシコ州に住む母親からだ。ジャックははっとして、急いで電話を取った。

「やあ、母さん。どうかしたかい?」

 兄が亡くなってから、母はしばらくひどく落ち込んでいて、とても目が離せず、三か月ほどジャックの家に滞在していた。しかし半年過ぎたころから気持ちが落ち着き、もともと気丈な女性だったこともあって、自分から家に戻ると決めて帰っていった。そしてここ一か月は電話もほとんどなく、うまくやっていると思っていたが……。

「ジャック? そちらはみんな元気でやっているの?」

 思いのほか、明るい声が聞こえてジャックはほっとした。

「ああ。みんな元気だ。エリザベスのために新しいナニーを雇った。とてもよく面倒を見てくれている。それで僕も安心して仕事ができるし、エリザベスとの関係も前よりうまくいくようになった」

「私もだいぶ気持ちが落ち着いてきて、久しぶりにエリザベスの顔が見たくなったの。またしばらくそちらに行っていいかしら?」

「もちろん。いつでも歓迎するよ」

「ありがとう。そのエリザベスの新しいナニーにも会いたいわ」

「そうだな。きっと気が合うと思うよ」

 ジャックはふと思いついたことを口にした。

「そうだ。こちらへ来るなら、キャサリンとも話をしてもらいたいんだ」

「キャサリンと……あの子、まだ立ち直っていないの?」

「表面的にはよくやっている。社員としても有能だ。しかしまだ気持ちが外に向かないみたいでね」

「もちろん、助けになりたいところだけど、私に何ができるかしら?」

「母さんの言葉ならきっと心が動くと思う。悲しみを共有してきたんだ。あいにく僕が何を言っても、あまり効果はないんだな。昔から彼女はロバート一辺倒だったから」

「きっと本当の兄が死んだような気がしたのでしょうね」

「ああ。でも、いつまでもこのままでいいとは思えない。誰もが前へ進まないといけないんだから」

「そうねえ……。わかったわ。私がいる間に、彼女とも会えるようにしてちょうだい」

「ありがとう、母さん」

 ジャックは小声で母への感謝を伝えた。

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