第9話 誰にも代えがたい女性

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過去の経歴を隠していたため、ナニーを解雇されたニキ。元のアパートに戻って、パティを相手に、ジャックの悪口をさんざん言っていると、当のジャックが訪ねてきて……。


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 ジャックの家を出てから三日目、とにかくもう一度、フェレイラ家に行かなければと思っていた。カルロスにあいさつもしていないし、何よりエリザベスに会いたかった。

 あの日は怒りと悔しさと悲しみで興奮していて、あとさき考えずに荷物をまとめて飛び出してしまったが、エリザベスにだけは説明しておかなければ。

「ニキ、少しは元気でた?」

 パティがマスカラを塗りながら尋ねた。

「ええ。だいぶ落ち着いたわ。ごめんね。ひどく取り乱しちゃって」

 あの日、フェレイラ家からまっすぐこの部屋に戻ると、何があったかパティにすべてぶちまけた。そして夜は二人でワインを飲みながら、ジャック・フェレイラの悪口をさんざん並べ立てた。

「ビジネス界のプリンスなんて言われて、いい気になってるんだよ」

パティが言う。

「そうよ。何が火のないところに煙は立たないよ。ジャックだって最初はビジネスの世界で、さんざんマスコミに批判されたって聞いたわ」

「そうそう、三流紙の記事を信じるなんて、ろくな男じゃないって。さっさと辞めちゃって正解!」


 そう言いながらパティは、夜遅くまでつきあってくれた。

 そう、辞めて正解よ。

いくら給料が高くても、あんな傲慢な男の家で働いていたら、遅かれ早かれこうなるに決まってるわ。

あんな男にほんの少しでも恋心を抱いていたなんて……。彼も私と同じ気持ちかもしれないなんて期待をしたなんて。ばかばかしすぎて笑えてくる。

「いつまでもぼんやりしてるわけにはいかないから、今週中には会社へ行って、次の仕事を紹介してもらおうと思ってるわ」

「ああ。今度はいい雇い主にあたるといいね」

「そうね。フェレイラ家との契約打ち切り手続きも必要だし。でも……せっかくエリザベスが心を開いてくれそうだったのに、残念だわ」

 エリザベスはまたかんしゃくを起こしていないだろうか。次のナニーは彼女の面倒をちゃんと見てくれるだろうか。あの巻き毛や小さな手を思い出すと、また涙があふれてくる。

「ニキ……」

 パティがそっと肩に手をかけて、耳元でささやく。

「さっさと忘れちゃったほうがいいよ。思い出してたらつらくなるばっかりだ」

「ええ。そうね。すぐに忘れるわ」

 親友の肩に頭を預けて、じっと涙をこらえていた。


 そのとき、玄関のベルが鳴った。

「ああ、あたしが出るよ。どうせどっかの宗教団体かなんかでしょ」

 パティはそう言って立ち上がり、玄関のドアを開けた。しかし前に立っている人物を見て、驚きのあまり体を固くした。

「ジャック・フェレイラ……」

 いきなり名前を呼ばれたジャックは、戸惑った顔で尋ねた。

「きみは僕を知っているのか?」

 彼の顔にみとれてぼうっとなっていたパティは、はっと我に返ると威厳をもって答える。

「人を見る目のない、とうへんぼくだってことだけはね!」

「なるほど……他には?」

「すごい金持ち」

 その答えにジャックは苦笑する。

「それが僕に対する評価か。心得ておこう。ところでニキはいるかい?」

「いるよ。でもあんたに会いたいとは思ってないかもね」

「とにかく呼んでくれ」

「人にものを頼むとき、その言い方はないんじゃない?」

「そうか。それなら頼まないですませる」

 ジャックは数歩ドアから中に入ると、大声で家の中に向かって叫んだ。

「ニキ、いるんだろう? 話がある。玄関まで出てきてくれ。ニキ!」

 大声で呼ばれて、部屋の奥に逃げ込み二人のやりとりを聞いていたニキは、出て行かざるをえなくなった。

 あんな大声で呼んだら、まわりの部屋から苦情が出るじゃないの。

メイクもしていなければ、髪もうしろに結っているだけだから、ふだんならとても人前に出られるかっこうではない。でも、そんなことかまわない。

「ミスター・フェレイラ。狭いアパートなんです。そんな大声出さなくても聞こえますから」

「ニキ。うちに戻ってくれ」

「は? いったい何を言っているの? 私はあなたにくびにされたのよ」

「それはわかっている。だが……」

 ジャックはニキの腕をつかみ引っぱった。ニキはよろめくようにして、ドアの外に出ていく。

「ニキ!」

 外に出ると、小さな女の子が飛びついてきた。くるくるとした巻き毛が、あちらこちらを向いている。

「エリザベス! どうしてここへ?」

「ジャックに……連れてきてもらった」

 エリザベスはかがんだニキの首にかじりつくようにして抱きついている。

「彼女は、どうしてもきみじゃないと、だめなんだそうだ」

「エリザベス、本当に?」

「ニキ、うちに戻って……」

 ニキの目から涙がどっとあふれた。すぐにでも彼女と一緒に家に戻りたい。

「うれしいわ。エリザベス。でも私は……」

「僕からも頼む。くびを言い渡したのは間違いだったと、心から反省している」

「反省?」

 天下のジャック・フェレイラが?

「でも、いいんですか? たしかに父の借金の理由はわかっていません」

「きみにはまったく非がないことだ。それにエリザベスには、まだきみが必要なんだ」

「本当に?」

 ニキの胸に喜びといとおしさがこみあげる。

「きみをやめさせたことを話したら、『ジャックのばか!』と怒鳴られた。さっきの彼女といい、きみのまわりには、正直な女性が多いらしいな」

 それを聞いてニキは思わず吹き出しそうになった。

「エリザベス、ありがとう。一緒に帰りましょう。私を必要と思ってくれるかぎり一緒にいるわ」

「ニキ、よかったね!」

 パティも泣きそうになりながら、二人を見ていた。

「これで“とうへんぼく”は返上していいかい?」

「そうだね……ま、エリザベスのおかげとはいえ、くびを撤回するっていうならね」

「それはありがたい」

「ニキはこの三年間、本当に努力してきたんだ。あんたのところに就職できて、ようやく大学進学の夢をかなえられそうになった。理不尽な理由でその夢を奪ったりしたら、私が許さない」

「……仲がいいんだな」

「大親友だと思ってる。彼女には幸せになってもらいたいの」

「そうか。いい友達を持って彼女は幸せだ」


 ジャックは抱き合っているニキとエリザベスを見て、安堵の息をついた。ニキをやめさせたと知ったとき、エリザベスがどんな反応を見せるかわからなかった。また無言で自分の殻に引きこもってしまうのではないかと心配したが、実際はまったく逆のことが起こった。

 大声で泣き、「ジャックのばか!」と叫びながら、小さな手をこぶしにして何度もたたいた。

 自分の家に来て以来、この子があれほど感情をあらわにしたのは初めてだ。ニキが姪の心を開いてくれた。子供にこれだけ慕われる彼女は、ナニーとしてえがたい女性だ。ジャックはそれでニキを呼び戻す決心を固めたのだ。

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