第4話 青く燃える炎

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ある日、エリザベスがナーサリーからの帰りに行方不明になる。ジャックは意外なほど動揺し、見つかったあと、姪と一緒にいた、腹心の部下の娘シェリルを責めてしまう。ニキは彼の横暴に怒り、叱らなければいけないのは勝手に学校を出て行ってしまったエリザベスのほうだと強い口調でいさめる。


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 エリザベスは午前八時半に家を出て、午後一時半に帰ってくる。まだ小学校付属のナーサリースクールに通っているので、家を離れている時間は短い。しかし送り迎えはカルロスが車を出してくれるので、ニキには十分な時間があった。

 朝食の後片づけをしてしまえば、他に用事がないかぎり、エリザベスが帰るまで何をしてもいいのだ。たしかにいまのエリザベスにはいろいろな配慮が必要だが、ニキにはそれほど苦にはならなかった。自分も小さいころは元気がありすぎる子供で、大人を疲れさせていたものだ。

 それで近所のファストフード店の店員をやるより、はるかに高い給料をもらえるなんて、申しわけない気分になってしまう。

簡単なランチを用意して、カルロスと話しているとき、ぽろりとそんなことをもらすと、彼は指をちっちっちっと振って言った。

「エリザベス嬢ちゃんの世話をする人間には、それだけの給料を払う価値があるということさ。あの子についていける大人は少ない。おれだって無理だ。ナニーが決まるまでちょっと面倒みてたことがあるけど、こんな年寄りじゃ、とても長くはできやしない」

「年寄りだなんて……」

「いや、他のことならともかく、子供を育てるには年をとりすぎちまった。あんたはまだ若いが、時間なんて過ぎちまえばあっという間だ。さっさといい男を見つけて子供を生んだほうがいいよ」

 思い切りセクハラ発言だけれど、あけすけで人のよさそうなカルロスの顔で、その低く太い声で言われると、温かみのある言葉に聞こえる。

「子供は欲しいけど、でもその前に、自分の力で生きられるようになりたいの」

「男は頼りにならないってか?」

「まあ、いろいろあって……」

「ああ、あんたも男にひどい目に合わされた口か」

 すべてわかっているというようにうなずくカルロスに、ニキは苦笑した。

「あなたが想像してるほどひどいことじゃないと思うけど。でも知り合いにシングルマザーが何人かいて、思うような仕事に就けなくて苦労しているわ。養育費を払う父親がほとんどいないなんて、信じられない。だから私は、自分一人でも生活できる自信がつくまで、子供のことは考えられないの。というより、考えてはいけないような気がする」

「今だってちゃんと稼いでるじゃないか」

「子供ができたら住み込みで他人の子を育てることなんてできないでしょう? それにこれほど条件のいい仕事はめったにないし」

「ああ、そうかもしんねえな。エリザベスの世話が苦になんないなら、きっとそうだろうともさ」

「あら、むしろ楽しいわ。ボランティアで行ったタイでも、いろいろなタイプの子供を見たけど、でもこちらが熱心に関わろうとすれば少しずつ近づけると思ってるわ」

「そんなこと言うのはあんたが初めてだ。たいしたもんだよ」

「これまでナニーはみんなそれで辞めたの?」

「まあ、そんなもんだな。ナーサリーの先生は、エリザベスに薬を飲ませたがったらしい」

「薬ですって?」

「ADとかなんとかいう病気があるだろ? そういう子に飲ませる薬があるんだって?」

「ああ、ADHDね。落ち着きのない子がそう診断されることは多いけど……」

 ニキは信じられない思いだった。エリザベスは両親をなくしたばかり。心に深い傷を負っている。必要なのは薬ではないのに。

「旦那はそれを聞いてものすごく腹を立てたのさ。自分はあの子を幼いころから知っている。あの子の置かれた環境を考えてみろってな」

「まあ……」

 ニキはジャックの新しい面を見た思いだった。

やはりエリザベスのことを深く考えているのね。

「おれらが育った時代なんて、六歳の子が落ち着いてるなんて、逆に気持ち悪かったがな。このあたりの高級住宅街じゃ、そうも言ってらんねえのかね。みんな高級車で送り迎えして、遊ぶのはせいぜい家の庭。かわいそうといえば、かわいそうだな。」

 ニキはうなずいた。

「犯罪から守るにはしかたないかもしれないけど、たしかにエリザベスみたいな子は、監視されてるような生活はいやかもしれないわね。ナーサリーのことを聞いても、あまり話してくれないの」

「そりゃ、物足りないだろうよ。幼稚園の子がやるようなお遊戯じゃ」

 ニキは思わずふき出した。エリザベスだってみんなと同い年なのに。

「そんじゃ、そろそろお迎えに行ってくるか。あんたの午後のお仕事が始まるよ」

「ええ、それまでに片づけておくわ。ちょっとしたおやつもつくっておくから、お茶もいっしょにいかが?」

「へえ、そいつはありがたい。楽しみにしてるよ」


 ニキは食器をキッチンへと運んだ。毎日の夕食や休日のランチは料理専門の使用人がつくるが、平日の朝と昼はニキが自分で好きなものを食べ、エリザベスにも食べさせるという約束だ。

このところ朝泳いでいるせいか、エリザベスは前よりも朝食を食べるようになった。ナーサリーから帰れば、やはりおなかがすいているのだろう。おやつは喜んで食べる。それでおやつには、なるべく手をかけた手作りのものを食べさせたいと思うようになった。


 フェレイラ家のキッチンは広々として、大きなオーブンもあり、大人数のための料理もできそうだ。けれども豪華な調理器具は、あまり使われた形跡がない。

 家族が少なく、主婦もいないのだから当然なのかもしれない。ジャックは独身だから、家族ぐるみのパーティもしないのだろう。けれどもジャックは、いつか自分の家族と、この広々としたキッチンやダイニングを使うことを考えて、このような家を建てたのだろうか。ひょっとしたら、もう決まった相手がいるのかも。もしかしたら、あのキャサリンとか……。


 ニキは大きくため息をついた。いったい何をやきもきしているの? ジャックは雇い主なのよ。いくらステキだからといって、あまり個人的な感情は持たないほうがいい。

 そう考えながら、調理台の下にストックされたプレミックス粉を取り出した。今日はカップケーキを焼いておこう。もちろんカルロスの分も。エリザベスにはミルクとフルーツをつければ栄養バランスもいい。まるで家族ごっこのようだが、誰かが自分の料理を喜んでくれると思うとあたたかい気持ちになった。

 

 カップケーキが焼きあがるころには、カルロスとエリザベスも帰っているだろうと思っていたが、今日に限って、二時を過ぎても帰らない。カルロスから特に連絡はないので、ジャックの会社に行ったのだろうとあまり気にしていなかった。しかし二時半になろうとするところで、屋敷の電話がなった。

「ああ……ニキ。嬢ちゃん家に戻ってないか?」

「え? エリザベスのこと? いいえ」

「たしかか? 庭や部屋をちょっと見てくんねえか」

「え、ええ……」

 ニキは子機を持ったまま、二階へあがってエリザベスの部屋のドアを開ける。しんと静まり返っている。階段を下りて今度は庭を見る。プールにもその向こうの木立にも、女の子の姿はない。

「やっぱり戻ってないわ。見失ったの?」

「ああ……なんてこった。いつもどおり学校の前に車を停めて待ってたんだが、いつまでたっても校舎から出てこやしない。それで教室まで行ってみたら、どこにもいない。先生も気づかないうちに、外に出ちまったらしい。ああ、どうすりゃいいんだ」

「まあ、カルロス」

ニキは少し考えた。

「落ち着いて。エリザベスなら一人で外に出て行ってしまうことは考えられるわね。でもこのへんは治安もいいし、子供が一人で歩いても、すぐに危険に巻きこまれる可能性は低いわ。とにかく心当たりを……」

「学校のまわりはすぐに見て回った。子供の足でどこまで行けるもんかね」

「もし帰ってきたら、すぐあなたの携帯に知らせるわ。もうジャックには知らせた?」

「やっぱり知らせないとまずいかね」

 できればジャックに知られる前に、エリザベスを見つけたいと思っているのだろう。

「ジャックはエリザベスの保護者よ。いないのに気がついて、もう一時間近くたっているでしょう? 学校から連絡が入る前に、一本電話しておいたほうがいいのではないかしら」

「ああ、そうだな。あんたはとにかく家にいてくれ。エリザベスが戻ったときのために」

「ええ、もちろんよ」


 それから一時間ほどして玄関のドアが開く音が聞こえた。

「エリザベス?」

 ニキはキッチンから玄関まで急いで行った。しかしそこにいたのはエリザベスではなく、ジャックだった。きつくこわばった顔をしている。

「エリザベスはまだ戻らないのか?」

「は、はい」

「カルロスも?」

「はい、まだです。今のところ連絡はありません」

「いったい、彼は何をやっていたんだ!」

 声を抑えてはいるが、その言葉には怒りがにじんでいる。ニキが働き始めてもう一か月がたつが、家でこれほど怒った姿を見たのは初めてだ。

「カルロスが学校に着いたときには、もうエリザベスは外に出たあとだったようです」

「そういうことがないよう、車で迎えに行かせてるのに!」

 いらだたしげに歩き回りながら、スマートフォンのボタンを押す。しばらくだまったまま耳に当てていたが、いまいましげに通話を切って言った。

「出ない」

「カルロスですか?」

「ああ、そうだ。エリザベスがいなくなったという連絡だけで、あとは一本もかけてこない。今もどこにいるんだか」

 そのときまたドアが開く音がした。ニキよりも前にジャックが玄関へと向かう。今度はそこにカルロス、エリザベス、シェリル、そしてエドワードが立っていた。

「カルロス! これはいったいどういうことだ?」

「申しわけねえです、だんな。行ったときにはもう嬢ちゃんの姿が見えなくて」

「こういうことがないように、お前に送り迎えをさせてるんだ! 言いわけはいらん!」

 ジャックの剣幕にカルロスが大きく目を見開いて絶句する。横にいたエリザベスもびくりとして、身をかたくした。

「いったいエリザベスはどこにいたんだ?」

「学校の先の市営グラウンドに二人でいたんだ」

カルロスの代わりにエドワードが答えた。

「市営グラウンド? なんでそんなところに? そもそもどうしてシェリルが一緒なんだ?」

 きつい、にらむような視線を浴びて、金髪の少女はぎゅっと体をすくめた。白く優しげな顔が、悲しい表情になる。

「ジャック、少し落ち着いてくれ。僕も学校からシェリルがいないと連絡があって、学校の前でカルロスに会ったんだ」

エドワードが娘の前に出てジャックをなだめるように言う。

「きみの娘がエリザベスを連れ出したのか?」

「は? どうしてそうなる?」

「学校から市営グラウンドまで、ナーサリーに行ってる子供が迷わず歩けるわけないだろう? 三年生なら何度か行ったことがあるはずだ」

「ちょっと待てよ!」

「そうでないなら、どうしてシェリルは電話をかけてこなかった? 携帯電話くらい持っているだろう!」

 エドワードの顔がこわばり、血の気が上がって赤くなった。

「ジャック、自分が何を言ってるかわかってるのか? 支離滅裂だぞ」

「自分の言っていることぐらいわかっている。これはきみの監督責任でもある! 学校へ迎えをやるときは、責任もって家まで送り届けさせろ」

 エドワードのこぶしがぎゅっと握られるのをニキは見た。

「僕らだけが悪者か! とてもつきあいきれん」

 エドワードは吐き捨てるように言うと、シェリルの手を取り、きびすを返して玄関のドアを出て行った。何秒後かに車のエンジンの音が聞こえた。エリザベスは身じろぎもせず、すがるような目でニキを見ていた。

「エリザベス、なぜ市営グラウンドに行ったの?」

ニキはかがんで少女と目の高さを合わせてたずねた。

「学校の前をサッカーチームのおねえさんたちが通って……」

「サッカーチーム?」

「ああ、ジュニアの女子サッカーチームのことですかい?」

 ようやくカルロスが口を開いた。

「そのチームなら市営グラウンドでよく練習してますよ」

「サッカーの練習が見たかったのね?」

「うん」

「シェリルもそうなの?」

 エリザベスは首をかしげる。

「わかんない。知らないうちにいた」

「そうだったの」

 ニキは立ち上がると、ジャックとしっかり目を合わせて言った。

「シェリルはエリザベスが出て行ったのを見て、心配で追いかけていったんだと思います。シェリルにどなるなんて間違っているわ」

「なんだと?」

「エドワードとシェリルにあんなこと言うべきではなかった。彼らは何も悪いことはしていません。逆にエリザベスを守ろうとしたんじゃありませんか」

「きみは僕が間違っているというのか?」

 ジャックの鋭いまなざしと責めるような口調にひるみそうになったが、ニキは深く息を吸って心を落ち着け、できるだけ冷静に言葉を発した。

「エリザベスは先生の言うことを聞かず、カルロスを待つこともせず、一人で学校の外に出ていったんです。あなたが叱らなくてはいけないのはエリザベスのほうでしょう」

「エリザベスを叱る?」

「ええ。エリザベスは六歳、来年は小学生です。大人の言うことには従うこと、勝手に好きなところへ行ってはいけないことを、教えないといけない年齢だわ」

 ジャックは虚を突かれた。目の前の海のように青い目が、燃えるように揺れている。

 家族や親せき以外で、自分にこれほどまっすぐ物を言う女性は初めてだ。そして彼女の言っていることは正しい。


 ニキをにらんでいたジャックの目が少しやわらいだ。どこか戸惑っているような表情だ。その視線がエリザベスのほうへ向けられた。幼い少女はきまりわるそうにニキを見上げた。

 ジャックは何かを考えるようにじっと黙った。部屋の空気がぴんと緊張する。やがてジャックはエリザベスのそばによってかがみ、その肩に手をかけた。エリザベスは驚いたように体を硬くして、怯える目で彼を見つめた。

「エリザベス……」

 長い沈黙にニキが息をのむ。

「エリザベス。おまえは一人で勝手に学校を出て、みんなに心配をかけた。それはわかるな?」

 エリザベスが小さくうなずく。

「カルロスは大あわてで、学校のまわりをずっとさがしていたんだ」

 エリザベスが玄関のドアの前に立っていたカルロスを見る。その目に涙があふれ、やがてはらはらと頬をつたった。

「ご……ごめんなさい」

「そうだ。それからシェリルはおまえを心配して追いかけてくれた」

 エリザベスは下を向き、声を震わせながら言う。

「あやまりに行く」

「ああ。おまえだけじゃない。僕もシェリルとエドワードにひどいことを言ってしまった。これから一緒にあやまりに行こう」

 エリザベスが涙でべたべたになった顔をあげ、ジャックに抱きついた。

「ジャック、ごめんなさい!」

 ジャックは飛びついてきた姪を抱きしめ、背中をぽんぽんと軽くたたく。

「よし。よく言えたな」

そして彼は立っていたカルロスを見やって言う。

「カルロス、きみにも理不尽なことを言ってしまった。エリザベスを見つけて、連れて帰ってきてくれてありがとう」

 カルロスは驚いたように顔を上げた。

「そんな……。最初に嬢ちゃんを見つけてれば、こんな騒ぎにはならなかったんですから」

「これからエドワードのところへ行きたいんだが、車を出してくれるか」

「もちろんですとも。いますぐ準備します」

 カルロスはうれしそうに言い、ニキのほうを振り返るとウィンクをした。

「エドワードのところへ行ってくるよ」

「ええ」

「そのあとエリザベスだけ帰すことになるだろう。カルロスにここまで連れてこさせる」

「わかりました」

 ジャックは軽くうなずくと、エリザベスと手をつなぎ、玄関から出て行った。ニキは何も言わず、彼らをうしろから見送っていた。

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