3.0_紅谷翔

┣ 3.1_事情

 満月に近い月がだいぶ高くなった頃、紅谷は自宅マンションに着いた。

 最近は仕事が立て込んで、なかなか早くは帰れない。

 鞄からマンションの鍵を取り出して、エントランスのロックを解除し、部屋に向かった。

 館内は空調が効いていて、外よりはずっと涼しかった。

 ほっと一息をついてエレベーターから自室に向かい、玄関の鍵を開けた。

 いつもなら明かりもつき、賑やかにまとわりつきながらお帰りと言ってくれる娘もいない。

 暗いままの廊下を通ってリビングのエアコンに電源を入れ、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。

 ここの所ずっと一人だったから、食事は仕事場か外で済ませていた。

 カーテンを開けていたから、やわらかい月の光で部屋はほの明るかったが、カーテンを引き、照明をつけた。

 明るくはなったが、誰もいないだけで、部屋は妙に広々として寂しさを感じる。

 メイは少し大きくなっただろうか、妻は久しぶりの妊娠で苦労していないだろうか。

 つい自分より家族の事を考えて、紅谷はくすりと笑った。

 離ればなれでもう1か月、いや2か月は経ったのたろうか。

 まさかたったこれだけの期間で、自分がこんなにも二人を恋しく思うとは、思いもよらなかった。


 ――寂しいのはパパだけか。


 変なところで勘の鋭い事を藍野に言われて、あの時はぎくりとした。

 表向きは妻の里帰り出産、本当は自分の人質なのだと知ったら、きっと藍野アイツ は自分を責めるだろうな。

 誰にも話せない事情をしまい込み、紅谷は私物のノートPCを開いて、妻のTV電話アカウントにアクセスした。

 程なく妻は応答し、元気そうな顔を見せてくれた。


シャン、お帰りなさい。今日はどうだった?』


『まあ、いつも通りの一日だったよ。早くメイや君に会いたいな。体調はどう?』


 父親の声を耳ざとく聞きつけたシュエメイは一人遊びを放り出して、椅子に座るファリンの足元から飛び上がって、強引に膝へよじ登った。


『メイの時よりずっと楽よ。今回は悪阻もないみた……こらメイ! 危ないじゃない!!』


 ファリンはシュエメイを抱え直してやった。


爸爸パパ! メイだよ、ちゃんと聞こえる?』


『ああ、見えてるし聞こえてるよ。メイ、いい子でママ達を困らせてないか?』


 いつものように元気いっぱいの顔を見せるシュエメイに触れようと手を伸ばしたが、指はかつんとノートPCの画面にあたった。

 間抜けなことをしたと苦笑して手を引っ込めた。


『ちゃんといい子にしてるよ。あのね、パパ。メイにね弟が……!』


『ちょっとメイ! パパには内緒って言ったでしょ!!』


 慌てたファリンはメイの口をぱっと塞いだが、間に合わず、少しばつが悪そうな顔をして、視線をカメラから外した。


『ねぇ、弟って……。ファリン?』


 画面のファリンは、いたずらが見つかった子供のように肩をすくめた。


『ごめんなさい、性別はサプライズにしたかったのだけど、バレちゃったわね。お腹の子は男の子ですって。今日分かったのよ。感想は?』


 ほんの少し、間をおいて紅谷は答えた。


『そうか、男の子かぁ……。無事産まれてくれるならどちらでもいいと思ってたけど、俺に息子かぁ。うん、嬉しい。すごく嬉しいよ。ありがとう、ファリン』


 嬉しさを噛みしめ、倖せそうに話す紅谷に、ファリンは顔を綻ばせてメイに話しかけた。


『パパは嬉しいって、メイ』


『メイもね、嬉しいよ! だってメイお姉ちゃんだもん!!』


 抱き上げたメイに頬をすり寄せて、二人は紅谷を見返す。


 本当ならこの報告もこの部屋で、こんな画面越しにではなく、三人で聞くはずだったのにと紅谷はやるせない気分で画面を見返した。


 ※ ※ ※


 TV電話を切断すると、私用でも社用でもない3台目のスマホが着信を知らせてきた。

 相手を確認する事もなく、紅谷は応答した。


『……何だ?』


『俺からは息子に金のアンクレットを贈ってやるぞ。だから百日祝に呼べよ、パパ』


 猫なで声で出産披露の招待をねだる男に無表情で紅谷は言った。


『いらん。用件は何だ?』


『おいおい、冷たいな。友人にはもう少し優しくしてもいいんじゃないか?』


『俺はお前と友人になった覚えはない。用件は何だ』


『やれやれ。パパは薄情だな。今後1週間の動きが知りたい。場所はいつものところだ』


『……わかった。明日、確認して送る』


 紅谷は返事をすると通話を切り、スマホをダイニングテーブルに放り出した。

 たった数分前の家族のプライベートな会話すら聞かれて反応されることへ無性に腹が立った。

 せめて今、ファリンが妊娠していなかったら。

 そうしたら、何とか連絡をつけて二人を香港から連れ出し、どこか安全な場所に……。

 バカげた考えを未だにする自分に自嘲する。

 紅谷はノートPCの画面を切り替えてクラウドサーバーに保存した写真を苦々しく見返した。

 ファリンやシュエメイ、紅谷本人がどこからか隠し撮りで撮影されていた。

 すべてはこの写真が送付された事から始まった。

 紅谷はコウから連絡のあった日の事を思い出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る