┣ 3.2_接触
高坂家から公安が離れて正式に低ランクへ変わり、調査チームは解散になった頃、紅谷は見覚えのない番号からショートメッセージで、ファリンとメイ、そして自分の写真を受信した。
どこから撮ったのか、メイは保育園の園庭で遊んでいる姿、ファリンは仕事場近辺の通勤姿、紅谷は二人と近所の公園に出かけた時の写真だった。
調査員という仕事柄、恨みを買っている自覚はあり、数えきれない。
どこから撮られたのか場所を確認しようと、私用で使っているクラウドサーバーに写真をアップロード後、公衆電話から着信があった。
写真の事もあり、着信を取ると男の声の話し慣れているだろう、癖のない英語でこう言った。
『ミスター紅谷。あなたとあなたの家族を調べました。我々の言う通りにしないとご家族の命の保証はしません』
紅谷には聞き覚えのない、男の声だった。
『そんな脅迫、俺が信用すると思うのか?』
紅谷は返事をしながら、スマホを操作して通話を録音し始めた。
『そうでしょうね。私達も信用して頂けるよう、もう一つ用意しました。楽しみにしていて下さい。それではまた連絡します』
一方的に電話は切られ、紅谷は幾分気味の悪さを覚えながらも、写真やアングルを調べて帰宅した。
※ ※ ※
その夜、メイを寝かしつけてリビングに戻ると、ダイニングテーブルにはカップに入ったコーヒーが置かれていた。
一緒に暮らし始め、お互いが話したいとき、必ずこうしてコーヒーを出すのが合図となっていた。
だが、今日はファリンの分が烏龍茶だった。
紅谷が椅子に座り、コーヒーを一口飲む様子を見ながらファリンは言った。
『ねぇ、
ファリンは手の中でカップを転がし、少し視線を彷徨わせて言いにくそうにしていた。
『どうした? 何か困った事でも起きた?』
紅谷は口をつけたカップをコトリとテーブルに置き、話を促した。
『ううん、まず報告。あのね……私、お腹に赤ちゃんがいるのよ!』
ファリンはそっとお腹を撫でて、嬉しそうに微笑んだ。
『本当? いつ病院行ってきたの? 言ってくれれば一緒に病院行ったのに!』
『少し前よ。ちょっと胃の調子が悪くて病院に行ったら、今、3か月って言われたわ』
ファリンはコトリとカップを置いた。
『で、相談は育休か退職かって事?』
『そう。私、どうしたらいいかしら』
紅谷は律儀に相談してくれるファリンに目を細めて言った。
『勿論、前に話した通りファリンが望む方でいいよ。君は営業行きたかったんだろ。辞めて出産や育児が落ち着いたら、今度こそ営業職に行くのもいいし、そのまま子供たちと一緒に家にいるのでもいいよ』
以前からファリンに「もし子供ができたら、仕事を一旦辞め、改めて営業職に就きたい」と相談されていた。
妻の思う通りにすれば良い。この先、妻が働かなくても妻と子供2人を充分養っていける収入もあった。
紅谷も反対する理由はなかった。
『ありがとう、シャン。私、仕事辞めるわ。明日会社に話してくるわね』
迷いのない、すっきりした表情でファリンは決断を下した。
※ ※ ※
今後について話した次の日の昼前、珍しくファリンが弾んだ声で紅谷に電話をしてきた。
『ねぇ、聞いて、シャン!!』
『こんな時間にどうした? メイのお迎え行けなくなったか?』
『いいえ、違うの。あのね、私……産休後に営業部へ異動できるかもしれないのよ!!』
退職について上司に相談したところ、熱心な引き止めに合い、出産後営業職への異動を打診されたという。
あまりに嬉しくてつい電話してしまった、とファリンは言ったが、産休後でいいなんて、そんな都合のいい話はあるだろうかと疑問が湧いた。
『うん……良かったじゃないか。ずっとやりたがっていたもんな。ところで、君の会社では産休や育休に入る予定の人にも異動命令なんてあるの?』
紅谷は不思議そうに言った。
『基本ないわよ。今回みたいないい話は特にね。普通は復帰後も時間を減らしたり、楽な部署に異動するのはあっても、花形職に異動なんて聞いたことがないわ』
『経理から営業か。研修それともOJT? どちらにしても香港へ一旦戻るの?』
『いいえ、営業は上海研修で、そのまま上海勤務よ。長くなりそうだから帰ってから話すわね!!』
『ああ、わかった。俺もなるべく早く帰るよ』
嬉しそうな妻は、弾んだ声で電話を切った。
通話を終えると、紅谷はゾクリと身震いした。
現実にはありえない、良すぎる異動話に中国研修でそのまま本社勤務。
彼らは信用できるよう、証明すると言っていた。
(これがアイツらの差し金、なのか?)
紅谷は口元を押さえて考え込んだ。
ファリンの勤めている会社は大きいとは言えないが、アジアに数拠点を置ける程度の規模はある。
もちろん人事規定やコンプライアンスなども完備しており、そう簡単に個人が人事に口出しできることはないはずだ。
なのに、こんな急な方向変換をさせる事ができた。
これは個人どころかもっと大きな力を持つ者が、人事を変えさせたと言うことだろう。
自分は一体、どこの誰を相手にしているのだろうかと、不安は大きくなるばかりだった。
※ ※ ※
ファリンの異動話の翌日、紅谷はその日の仕事を終えてビルを出ると、狙いすましたように電話がかかってきた。
取る前に意識して視線を探っても、全くわからない。
おそらくもっと遠い所から監視しているのだろう。
相変わらず、公衆電話の着信だ。
せめてもとビルに戻り、物陰に姿を隠してから、通話録音のアプリを起動し、紅谷は応答した。
『ファリンの転勤はお前たちの仕業か?』
『そうですよ。奥さん、喜んでいましたか? ああ、あなたも嬉しい事がありましたね。おめでとうございます、どちらが生まれるか楽しみでしょうね』
『用件は何だ?』
『私の上司が一度お会いしたいそうです。近々お迎えにいきますよ。その連絡です』
『ノーと言っても来るのだろうな』
『もちろんですよ。それでは近いうちにお会いしましょう』
ぷつりと一方的に電話は切られた。
このままではファリンやメイ、生まれてくる子供にも害をなすに違いない。
これはもう本格的に対処すべきだろうと、写真や通話記録のスクリーンショット、履歴などを次々と自身が使っているクラウドサーバーにバックアップに放り込んだ。
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