第2話 最初の婚約者
第二章
二 最初の婚約者
「ヴィオ様、失礼いたします」
ロッソとルーカを見送った後、図書室の扉をぼんやり眺めていると、エミリィちゃんが濡れたハンカチでオレの唇と頬を拭い始めた。
「ひゃっ、冷たい」
どうやら水差しの水を使ったようだ。
常温の筈なのだが、不意を突かれたので驚いてしまった。
しかし、エミリィちゃんは驚くオレに対して全く遠慮すること無く、ゴシゴシと唇と頬を拭う。
「エミリィ、痛いよ~」
「少しじっとしていてください」
暫くし続けて気が済んだのか、やっとハンカチをオレの頬から離してくれた時には若干ヒリヒリしていた。
エミリィちゃん、細身なんだけど意外と力があるんだよな。
そりゃあ、メイドなんだし色々と力仕事とか有るんだろうな。
一方、お姫様も二階から木を伝って下りるくらいの筋力と運動神経は有るようだけど、やっぱりエミリィちゃんと比べると大分非力だ。
ここのところ勉強の合間に軽い筋トレもしているんだけど、女の子ってマジで筋肉が付きづらいんだな。
元々のオレ自身もあんまり筋肉は付かなかったけど、もうちょっとマシだった気がする。
まぁ、筋トレの成果が出すぎてお姫様がムキムキになったら、それはそれで困るか。
「これであの無礼な婚約者候補殿の
強くこすりすぎだと注意しようと思っていたけど、エミリィちゃんがあまりにも清々しい笑顔を見せるので、何も言えなくなってしまった。
しっかしエミリィちゃんってば、ほんと可愛いなぁ。
普段はあまり表情豊かじゃ無いんだけど、たまに見せる笑顔とか眩しすぎる。
マジで狡いって。
姫ほど目立つ可愛さじゃ無いけど、クラスに居たらかなり高ランクの可愛さだし、かなりモテると思うんだよなぁ。
オレが元の身体だったら……ああ、また詮無いことを考えてしまった。
でも、元の状態だったら勇気が湧かなくて、可愛い女の子に声なんて掛けられなかったかな。
姫の魂をこの身体に戻して、今度こそちゃんとしたイケメンに再転生した暁には、作戦を『いのちをだいじに』から『ガンガンいこうぜ』に切り替えていく所存だ。
あっ、でも『ガンガンいこうぜ』って回復魔法使わないんだよな。
振られたときとかキツいから、やっぱり『バッチリがんばれ』くらいがバランス良いのか。
っつーか、そもそも誰かオレにザオラル……いや、ザオリクをかけてくれないかな?
この際ザオでも良いから。
だけど、HP1で蘇るのはキツいかぁ。
「ってかさ、エミリィはレオーネ様に対して結構毒舌なんだね」
「そうでしょうか?」
素直な感想を口にすると、エミリィちゃんは意外そうに少し釣り目がちで真っ黒な瞳を見開いた。
ちょっと猫みたいなんだよな、この娘。
「うん。面会権も取ってくれたから、もっと好意的なのかと思ってたよ」
「はぁ……。レオーネ様には面倒なので一々説明しませんでしたが、面会権に関してましては、また夜中に抜け出されても困るからと、国王陛下が許可したらしいですよ」
「らしいって、どういう事?」
オレが疑問を口にすると、エミリィちゃんは呆れたように肩を竦め、濡れたままのハンカチを片付け始めた。
「一介のメイドである自分が、直接国王に許可を取ってこられるわけありませんよ」
「ふぅん」
「とにかく、差し出がましいのは承知の上で言わせて頂きますが、正式な婚約者でも無いのに、レオーネ様はヴィオ様に接触しすぎです!」
片付けのためにオレに背を向けていたのに、凄い勢いで振り返り、力強く言い放った。
ハンカチの片付けといっても、茶器の乗ったトレイの端に畳んで置いただけなので、もう終わったようだ。
「確かに、接触が過ぎるよな。マジでそれに関してはエミリィに同感だよ。と言うか、他にはどんな婚約者候補が居るんだよ?」
あまりの剣幕にビックリして、つい話を変えてしまった。
本当はオレだって文句も言いたいんだけど、相手の方が怒っている時って怒りが落ち着いちゃうんだよな。
しかし、新しい話題は大声で話せない内容らしく、先程のロッソへの文句とは打って変わって、エミリィちゃんは声を潜める。
「神の祝福を受けた『
「あっ、そうか。えっと……ちょっと記憶がハッキリしないんだけど、直接会ったことは……」
エミリィちゃんの声が小さくなったので、自然とオレも声を潜めてエミリィちゃんに近づく。
オレの記憶を心配してか、エミリィちゃんの表情が少し曇る。
そういや、元々は国内に留まるはずだったと鏡の中のお姫様も言っていたような気がする。
それも嫌で魂が抜けちゃったんだもんな。
「自分が城に入った時には、もう国外の方と婚約するという話が進んでおりました。ですので、詳しいことは分かりませんが、その方と会ったという記録はありませんでしたよ」
「そっかぁ、でも急に婚約が無かったことになったら、その相手の人もこの国で暮らしづらいんじゃ無いのかな?」
ちょっと違うかも知れないけど、クラスメイトと付き合って別れちゃったのと似た感じで気まずいような気がするんだけど。
自分が良くても、周りの腫れ物に触るような目線がキツいというか……。
幸いというか残念ながらというか、オレはそう言う経験無いけど、クラスの中では、まぁ、あるよな。
あれ、気を遣うクラスメイトも大変なんだぞ。
甘酸っぱい教室の空気を思い出しつつ、会ったことの無い最初の婚約者を心配していると、エミリィちゃんが軽く首を振る。
「恐らく、心配には及びませんよ」
「そうなのか?」
「ええ。そもそも、『
「そっかぁ。それはせめてもの救いだな」
「ヴィオ様はお優しいんですね」
「優しいって言うのとは違うと思うけど、急に将来の予定が変わって困ってるのはこっちだけじゃないだろうからさ」
「……そうですね」
「あと、国外の婚約者候補はどうなっているんだ?」
「はい、それに関しては、こちらを見て頂くと分かりやすいかも知れませんね」
エミリィちゃんが壁に掲げられたこの周辺の世界地図を指差す。
ここ何日か勉強したので、地理に関しては少し分かるようになってきた。
このアメジスト王国は、北は森で囲まれており、南は半島になっている。
ただ、海辺は崖が多く、漁師の漁船が出入りするくらいで、海洋貿易は盛んでは無い。
貿易は主に森や山を通った陸路で行われている。
で、森や山を抜けた北側を接する隣国が、ロッソ達のガラッシア帝国だ。
北西と北東も僅かながら他の国と接している。
「この、帝国以外の隣国二国と、あと、帝国と接している全ての国でそれぞれヴィオ様の婚約者候補を出すという噂にはなっていますよ」
「え?」
帝国は領土が広大なこともあり、アメジスト王国と共通の隣国二国以外にも五国と接している。
つまり、あと最低でも七人の婚約者候補が居る訳か。
……その候補達がみんなロッソみたいに押しの強いタイプだったら、マジでオレ、身も心も持たないぞ。
「ただ、足並みを揃えずにレオーネ様がいらっしゃって、あくまで成り行きでたまたまだとは思いますが、ヴィオ様と定期面会していますし、そんなに周辺は騒がしくはならないのでは無いでしょうか」
「それは助かるよ」
「レオーネ様と会われるのも如何なものかと思いますが、あのお飲み物で倒れて以来のヴィオ様の記憶混濁も有りますし、今は少しでも落ち着いてお過ごしになって欲しいと存じております」
「あっ……記憶混濁ね」
姫様の魂が抜けてしまう切っ掛けになった紅茶に入っていたのは、毒物なのか、何なのか。
そう言えば、それについても調べないとな。
「記憶混濁は早く治って頂きたいですが、不謹慎かと思いますけれど、倒れてからの方がヴィオ様は生き生きしておられる様に感じます」
「生き生きって……」
「申し訳ございません」
「いや、怒ってないよ。私は今、生き生きしてるのかな?」
「はい。ヴィオ様のお側に居させて頂き一年。いつも伏し目がちに物思いに耽っておられた姫が、脱走したり、勉強したり、そして自分にこんなに話しかけてくださるなんて……。ここ何日かでとてもお近づきになれたように感じて……本当に不謹慎ですが、嬉しく思っております」
そう言って頬を赤く染めるエミリィちゃんを思わず抱きしめたくなる。
でも、本当の姫の魂は自室の鏡の中。
オレは魂の抜けた身体を間借りしているに過ぎない。抱きしめるのは出過ぎだろう。
「そう言って貰えると、私も嬉しいよ」
少し背伸びしてエミリィちゃんの頭を優しく撫でる。
「ヴィオ様。ありがとうございます。さぁ、そろそろお部屋に戻る時間ですね」
エミリィちゃんが図書室の時計を確認する。
「そうだね。じゃあ、いつも通り今机に乗っている本は後で部屋に運んで貰って」
「かしこまりました」
エミリィちゃん、本当に良い子だな。
テキパキと準備するその背中を見て、しみじみと思う。
姫の魂がちゃんと戻った暁には、今のオレと居るとき以上に二人には仲良くなって欲しいな。
そして無理なことは分かっているが、美少女同士が仲良くキャッキャウフフしている様子を写したい。出来れば動画も欲しい。
妄想でにやけた顔が資料棚の硝子扉に映り、折角の美少女姫が台無しな表情になっていたので、誰にも気付かれる前にさっと表情を引き締めた。
いくら可愛くてもダメな表情って有るんだな……。
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