朝露
水研 歩澄
短編作品
「────レンくん」
どこかから、僕の名前を呼ぶ声がする。
ずっと忘れていたような、記憶の底に無理やり押し込めていたような懐かしい声だ。
「レンくん、起きて……起きてレンくん」
その声に呼ばれて、僕は目を開いた。
あたりはまだ薄暗い。夜明け前なのだろう。小さく開けられた窓からは微かに朝露の匂いがした。
見慣れない壁、白く無機質な天井、やけに固いベット。ここはどこだろう。ここにいるとなぜだか不安になる。どうして僕はこんなところで眠っていたんだろう。何も、思い出せない。
「まだ、眠っちゃだめだよ。レンくん」
また、あの声がする。
忘れちゃいけないはずの声だった気がする。耳では確かに覚えているのに、どうしても顔が思い出せない。無理に思い出そうとすると、脳が軋むようなひどい頭痛がした。
君は、誰だっけ?
その答えを求めて僕は静かに起き上がった。
その声を聴き逃さないよう、耳をすましながら部屋を出る。
「こっち……私はこっちにいるよ、レンくん」
周りの景色なんて目にも留めず、声だけを頼りに歩を進める。
それから何分歩いただろう。その声に近づくたびに、僕の目からは涙があふれた。訳も分からずこぼれる涙を何度も何度もぬぐった。
「私はここだよ。レンくん」
もうすぐそこだ。すぐそこに彼女がいる。
自然と歩く足が速くなる。大粒の汗も止めどなく溢れる涙も忘れて、気づけば必死になって走っていた。
次だ。次の角を曲がれば彼女に会える。走れ、走れ!
「────みつけた!」
そこは開けた交差点だった。黒々としたタイヤの跡が乱雑に交差していて、ゴムが焦げるような嫌な匂いがした。
「ここ……は」
その中心に、彼女はいた。曇りのない笑みを浮かべて、一人ぽつんと立っていた。
「ようやく会えたね、レンくん」
ゆっくりと振り向いたその笑顔と目が合って、ようやく、思い出した。
「アカリ……ちゃん」
そうだ。全部思い出した。
君とは中学からの仲だった。僕が落ち込んだ時や挫けそうになった時も、いつだって笑顔で傍にいてくれた人だった。
あの秋の日、僕は君にプロポーズするはずだった。大した稼ぎもなかった僕のせいで、長い間苦労ばかりかけたから、せめてその日は、その日くらいはと思って精一杯いいレストランを予約して、二人で一緒に向かうはずだった。
けれど、僕たちの恋路は最後まで決して報われることはなかった。
その日は僕の仕事が長引いて、慌てて君を車で迎えに行った。君は何度も隣で落ち着いてと言ってくれたのに、僕は予約した時間に遅れそうで焦って周りが見えてなかった。左から突っ込んでくる大型車に直前まで気づけなかった。
運転していた僕のところにもあれだけの衝撃がきたんだ。助手席にいた君はほとんど即死だっただろう。
「ごめん……ごめんね、アカリちゃん。全部、僕のせいだったよ」
「よかった。思い出してくれたんだね」
彼女の優しい笑顔を見ても、溢れ出すのは呑み込めなかった後悔ばかりだった。
「ごめん。君の言う通りだったよ。今回も間違ってたのは僕だった」
「いいの。何度間違えても立ち直れる、そんなアナタが私は好きだったから」
「ごめん!あの日、君に気持ちを伝えられなくて。指輪もあったんだ。今、ここにはないけど」
「いいよ。形なんてなくても、レンくんの気持ちはちゃんと伝わってたから」
「……ごめん。最後まで、君を幸せにしてあげれなくて」
「ううん。最後まで、私は幸せだったよ」
彼女は静かに微笑むと、そっと僕に背を向けた。
「それじゃあ、私はもう行くね」
「待って!ちょっと待ってよ!僕も行くよ。これ以上、僕一人でここにいたくないんだ!僕も一緒にそっちへつれてってよ」
縋るような情けない声だ。けれどもう、僕はこの先、一人で生きていける気がしない。これだけの後悔を背負っていける気がしない。現に、ついさっきまで僕はこのことを忘れていた。一人勝手に忘れたままでいようとしていた。
僕が僕を許せる日は、きっと来ないだろう。だったら、いっそのこと……
「────ダメだよ」
強い、芯のある声だった。
「貴方にはまだ涙を流せる心がある。汗を流せる身体もある。人として、心のままに生きることができるじゃない」
僕を突き放すような鋭い声だ。君はそういう人だった。僕は一度だって君に口喧嘩で勝ったことがなかった。
「でももう、その心が折れそうなんだ。心のままになんて生きていけない。これだけ傷ついて、こんなに辛いのに、まだ僕はここで生きていなきゃいけないの?」
駄々をこねる子供みたいな言葉だった。けれどそれ以外に、僕は言葉を見つけられなかったんだ。今更隠せもしない惨めなホンネだった。
今にも泣き崩れそうになる僕の胸へ、君は優しく手のひらを添えてくれた。
「ごめんね。私はもうアナタのそばにはいてあげられないけど、まだアナタには生きていてほしいから。長くはなかったけれど、私の人生を数えきれないほどの思い出で満たしてくれたアナタに、もう一度笑って過ごしてほしいから」
優しく、柔らかい、胸のすくような笑顔だった。
「だから、最後に少しだけ、アナタの背中を押させてください」
僕の大好きだった笑顔だ。
その笑顔が消えていく。朝日で霧が晴れるように、静かにゆっくりと。
「もしまたレンくんが、どうしようもなく傷ついて、顔を上げられなくなったら、いつでも記憶の中で私を呼んでね。私はいつまでも、そこで笑ってアナタを待っているから」
最後に君は、顔が重たくなるほどの涙を全てすくってくれた。最後の一瞬まで、後悔など微塵も見えない満ち満ちた表情を浮かべたまま。
「ありがとう。さようなら、レンくん」
その言葉を最後に、目の前の景色は色を失くした。
霧は晴れ、僕はその世界から切り離された。
「ぁ……」
目を覚ますと、僕は病院のベットの上にいた。
いつか見た壁、変わらず無機質な天井、やけに固いベット。
事故の後、ここに運び込まれたんだ。何もかも、覚えてる。
「レン!廉‼目が覚めたのね」
すぐ傍らに母親の顔があった。随分とやつれた顔だ。くまもできてる。急なことできっと心配をかけただろう。
「よかった……よかったねぇ、廉。アナタ、朝方に一度心肺が停止しかけたんだよ。ホントによかったねぇ、帰ってこれて」
未だぼんやりとしたままの頭を転がして、窓の外に視線を向ける。
日は昇り、雲ひとつない快晴が広がっていた。空気が乾燥していて、カラカラと音が聞こえてきそうな昼下がりだった。
────朝露の匂いはもう、しなかった。
朝露 水研 歩澄 @mizutogishiro
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