五 身代わり令嬢と渡りびと


 フローティアはケイヴを見送ったあと、侍女の働きで手に入れた証拠を持ち、落ち着きなく部屋の中で動き回っていた。城内にいる協力者が誰なのか突き止めることはできたけれど、まさか金細工の職人が殺されるとは思わなかった。そこまで読むことができなかった自分をフローティアは責め、だんだんと気持ちが急いてきている。


 アンジェリカが先を行く。フローティアが彼女の嘘を暴き、罰を受けさせようと思っても、潰されてしまう。せめて侍女が手に入れた証拠は握り潰されないようにと祈りながら、自分の両手でしっかりと持っていた。


「フローティア様。落ち着いてください。すべて滞りなく進んでおりますから」


 焦るフローティアを諌めるように侍女が言う。幼い頃からフローティアの面倒を見てきた彼女には、主がだんだん余裕を失ってきているとわかったのだろう。薄っすらと笑んで頷き返すけれど、信用しておらず、「大丈夫ですよ」と小さな子どもをあやすように繰り返した。


「その証拠があれば、あの憎き女の嘘を暴けます。あとは協力者を捕らえ、渡りびとを連れてくれば計画通りに事が進められるでしょう」

「わかってる。わかってるわ……。でも、あの女は土壇場でいつも予想外のことを起こすでしょう? 渡りびとを呼んだように、何か策を売っていたらと思うと不安で……」


 はあ、と大きくため息をつく。


「私がこんなことじゃいけないってわかってるのよ。殿下はお人好しで、あの女の嘘に気づいていないもの。私がしっかりしなきゃって思うのに、不安が消えないの」

「フローティア様にはわたくしもついております。ご安心ください」

「ええ……」


 そうは言っても、フローティアの不安は消えない。アンジェリカは何をするのかわからないという怖さがある。魔法を封じても、彼女は城内に味方を得ていた。捕まるとき彼女の味方はいなかったはずなのに、協力者の手引きを得て金細工を手に入れ、彼女自身の魔力も封じられなかった。


 アンジェリカは国内でも特に強い魔力を持っている。自分では敵わないと知っているからこそ、フローティアは恐ろしい。


 早く渡りびとを連れ、ケイヴが戻ってこないかと待ちわびていたときだった。


「フローティア様! お待たせして申し訳ありません!」


 騒がしく部屋の中に入ってきたのはフィスだ。その肩に担がれたボロボロになったファイを見て、フローティアはどきりと緊張した。


「しゅ……首尾は、どうでしょう?」

「見ての通りです」


 フィスは「汚してしまいすみません」と一言謝り、ファイを床に投げた。ファイは体中に傷を作り、腕は縛られ、満足に動けないようだ。けれどフローティアを見た瞬間、ハッとしたように飛び起きた。


「フローティア様!」

「おい、ファイ! 動くな!」

「うるさい! なんだってお前はそう、考えが足りないんだ……!」


 腕は縛られたままでも綺麗に跪き、フローティアに頭を垂れるファイはルーク殿下に忠誠を誓う騎士のはずだ。今も、ルークの恋人であるフローティアに礼儀を尽くしているように見える。


 だが、実際は違う。

 ファイはルークを裏切り、アンジェリカに協力した。


 行動と態度がちぐはぐだが、フローティアはこういった状況に慣れている。忠実な僕のように頭を下げているファイを一瞥し、なおも兄を怒鳴ろうとしたフィスには手振りで下がるよう指示をした。


 一歩前に出ると、ファイが軽く身震いする。気持ち悪いと、素直にフローティアは思った。侍女が警戒し、フローティアの横につくが、まだ手は出してこない。ただ彼女もフローティアがよく出くわすこの状況を熟知している。


 フローティアは小さく息を吸い込み、嫌悪感が声に出ないよう気をつけて問うた。


「あなたがアンジェリカに味方したのですね」


 殿下付きの騎士がアンジェリカの計画に手を貸していると知り、フローティアは彼を捕縛する方法を考えた。疑われていると気づかれずに捕らえる方法。ケイヴには申し訳ないが、彼には何も言わず、フィスにだけ本当の狙いを告げて二人でケイヴを捕らえに行ってもらったのである。


 見事作戦が成功したのは安堵した。けれど、フローティアの言葉にファイは心外そうに否定する。


「いいえ。味方するだなんてとんでもありません。私はあの女のことは心底嫌っているのです。味方だなんて……」

「ですが、魔力を奪う儀式の邪魔はしたでしょう。渡りびとを呼ぶ金細工もあなたが彼女に手渡したはずです」

「それは……」

「ドイルとあなたが交わした契約書は私の手の中にあります。殺せばすべて闇に葬れると思いましたか、ファイ・ジーグス」


 名を呼べばファイの目に輝きが灯った。まるで病にかかったかのように、ぼうっとした声で「これが一番だったのです」と答える。


 ああ、やはり。


 一瞬、フローティアはおぞましくなり、体を引きかけた。だが、ルークの恋人となり、彼の隣に立ちたいと思うのならば自分の運命にも立ち向かわなければならないだろうと留まる。心配そうに侍女はフローティアを見守っているが、フィスの方は何が起きているかわかっていないようだった。


 それもそうだろう。一人の女性に勝手に憧れ、恋焦がれ、暴走する男がごまんといるわけがない。それでも、確実に数名はいる。一年に一度二度、フローティアはそういった男たちを見てきた。目を合わせて微笑めば、それが社交辞令とわからずに「俺に惚れている」と惚れ込む男。疲れてため息をつくところを見れば、悩み事があると思い込み「私がすべて解決しましょう」と状況を振り回す男。遠くから呼び掛けられた声が聞こえなかっただけで「嫌われた」と思い込み死を選ぶ男。何がどうして自分の周りに変な男が寄ってくるのかとフローティアの悩みは絶えないが、侍女に言わせれば「美しいフローティア様に酔ってしまわれるのでしょう」ということだ。意味がわからない。


 そんな男たちをフローティアは嫌っていた。だが、お人好しのルークにだけ、フローティアは心を許している。彼の心は王族としては危ういほど純粋で、騙されやすく、フローティアのことも無垢な目で見つめてくるから素直に愛せた。男たちに悩まされたところを助けられ、友人になり、片思いするまで時間はかからなかったのだ。


 ルーク殿下はフローティアを救った。だからフローティアもルーク殿下を救うのだ。


 目の前に大嫌いな男がいても怯まず、見下して、声を張る。


「一番とは? あなたがすべきことはルーク殿下の護衛でしょう。ルーク殿下のお側でお守りすることがあなたの仕事のはずなのに、どうしてあのように危険な女を逃したのですか。そして、ルーク殿下のお側に置くことを許しているのです」

「すべてはフローティア様のためです」


 名前を呼ばれるだけでゾッとする。フローティアは不快に顔をしかめたあと、無表情を取り繕った。


「理解できません。アンジェリカ・ルーバスを自由にすることが私のためになるとは思えません」

「あの女はいずれ自滅するでしょう。ですが、フローティア様。あなたを救うには今しかありません」

「救う?」


 意外な言葉に首を傾げる。どうせ彼が勝手に思い込んだ救いだろうとフローティアはまともに取り合うつもりはなかったが、予想通りファイは自分勝手な言葉を並べる。


「ルーク殿下はあなたのことを大事にできていません。在学中はあの女に惑わされ、今も嘘を信じて匿っている。フローティア様のお側にいるのに相応しい相手ではないでしょう」

「……だからアンジェリカに手を貸したと? 私のために」

「はい」


 何の迷いもなく頷く。自分の行いが本当にフローティアのためだと信じて疑っていないのだろう。


 だから、アンジェリカが渡りびとのふりのを手伝い、ルークと結婚するに相応しいという噂も率先して流したのか。フローティアが必死になって手に入れたルークの隣を奪おうとしているのか。


「じゃあ、私の隣は誰が相応しいのかしら。もしかして、自分だと言いたいの?」

「まさか! フローティア様はそのままでよろしいのです。誰にも頼らず、一人凛として立っている姿がお美しい。他の誰も、あなたの隣に立つことなんて許されません」

「そう……」


 苦しみもすべて、一人で背負えとこの男は言うのか。自分は正しいと信じる傲慢な男が、自らの幸せを決めつけて行動したことが恨めしい。本当に男たちは嫌いだ。


 フローティアは大きく息を吐き出し、フィスに目を向ける。


「連行しなさい。ルーク殿下には私から伝えます」

「かしこまりました。……あの、フローティア様。もうひとつ報告があります」

「なんでしょう」


 ルークには殿下付きの騎士が罪を犯したことだけでなく、彼の部下を勝手にフローティアが動かしたことへの報告もしなければならない。ルークは何かあったらフィスやファイを頼っていいと言ったが、まさか本当に力を借りることがあるなんて思いもしなかった。彼自身が何を言ったとしても、いち男爵令嬢が勝手に殿下付きの騎士を動かしたことは許されることではなく、何かしらの罰が必要だろう。


 気が重く、フィスのもうひとつの報告を聞くのも内心は嫌だった。良い予感が何ひとつない。


 フィスの表情も暗く、「その」と一回言い淀んでから続ける。


「ケイヴから、渡りびとを探している旨はお聞きいたしました。その渡りびとに関するご報告です」

「何かありましたか」

「それが……」

「私が殺しました」


 弟の声を遮り、ファイが告げる。


「渡りびとがいると、困った事態になるとアンジェリカに言われましたので。下手するとフローティア様と殿下が再び付き合いだすかもしれないと言われ、殺しました」



 ■



 殺した。

 渡りびとは始末した。


 ファイの口からその言葉を聞いたとき、ケイヴは何も考えられなくなった。まさか、と言いかけ、彼が笑っているのを見て本当なのだと血の気が引き、体が冷えた。


 邪魔だったから。いない方が便利だから殺した。どうせこの世界にいなかった人間だ。死んだところで誰が困るわけでもあるまい。いる方が困るのだ。


 だから、殺した。


 顔を隠していたヒナタを迷いなくアンジェリカと呼んだことで、ケイヴに薄っすらとファイに対する不審感が芽生え、フローティアから彼が協力者だったと聞かされたとき、なぜそんなことをファイがしたのか理解ができなかった。いい人だと、ケイヴは思っていたのだ。黙ってルークにつき、淡々と仕事をこなす彼のことを先輩として敬意を払っていた。


 だが、邪魔だから殺したと言ったファイの目は、ケイヴが知る先輩の目ではなかった。


「嘘だろ……!」


 フィスにファイのことは任せ、ケイヴはヒナタを探して王都中を走った。男の姿をした令嬢を見なかったかと言えば、誰もが怪訝そうな顔で首を傾げ、知らないと答える。怪我人はいなかったかと聞けば、まったく見当違いの人物の情報が知らされる。


 朝、喧嘩して怪我をした奴の情報ではない。朝露に滑って転んだ商人の情報ではない。夫婦喧嘩の末、二人して治療を受けている情報もいらない。


 ケイヴが求めているのは、この世界にいないはずの人間の情報なのだ。


「どこにいるんだ……っ」


 死体すら見つかっていないのはおかしいと考えた、自分の頭に苛立った。そんなこと考えるべきではないと思うのに、冷静に、騎士としての訓練を受けた頭は診療所だけではなく身元不明の死体が運び込まれる検死所にも立ち寄るべきだと、足を向かわせた。結果、男装した女性の死体はなく安堵したが、ならば今どこにいるのかと焦る。


 ファイは殺したと言ったが、死体はどこにあるかは知らなかった。どっかへ行ったと答えたのだから、生きている可能性もゼロではない。


 生きていると信じて、ケイヴは走る。


「あ……! 坊ちゃん!」


 泣きそうな声で名前を叫ばれ、ハッとして足を止めた。転がるようにして走り込んできたのはジョンだ。毎週、市場に買い物に来ているのは知っていたが、既に帰っている時間のはずだ。


「どうした、ジョン。悪いが、俺は今急いでいて……」

「大変なんです! ヒナタが、ヒナタが魔法で焼かれて、どっかに流されて……!」

「ヒナタの居場所を知っているのか!」


 ようやく掴んだ手がかりにほっとすると同時に、信じられない言葉に驚いた。魔法? ファイは人に向かって、魔法を使ったのか?


 はい、と答えたジョンはベソをかきながら一方を指す。


「う、運河の方に、落ちていきました。あの、知らない人に追われて、僕は逃げろと言われて……。けれど、心配だったから隙を見て追手を倒そうと思ったんです。けど、あの人、魔法を使って!」

「わかった。話はまたあとで詳しく聞かせてくれ。先にヒナタを探しに行こう」


 気が動転しているジョンも指示を出せば「はい」と答えて、体が無条件反射するように動き出す。走り出すケイヴのあとをついてきながら、「ひどい人です。魔法で攻撃は禁じられてるのに」と泣いていた。


 ジョンがこれほど取り乱すということは、その魔法がかなり強力だったということか。ケイヴまで動揺すれば落ち着いて行動できなくなると、自分を律しようと意識したが難しい。


 魔法で殺されたのか。魔法を使ったからファイは死んだと思い込んだのか。血を流して水の中を漂っているのなら、今は危険な状態ではないのか。頭の中で様々な可能性が浮かんできて、ヒナタの死顔を想像できてしまった自分が怖くなる。


 死なないでくれと願っているのに。


「こっちです!」


 途中でジョンが先を走った。彼の導き通りに進むと、焦げた臭いに気づく。


「使ったのは火の魔法か」

「はいっ……! ヒナタの背中が焼けたように見えました。それで、ここから下に……」


 柵から身を乗り出すようにして下を見ると、川が流れている。僅かに人が歩くスペースが両端に取られているが、どこにも人影がなかった。


「ヒナタ! ヒナタ、いるなら返事をしてくれ!」


 思わず叫んでも無意味に反響するだけで返事はない。


「ジョンは上流の方を念のため、見てきてくれるか。俺はこのまま下流に向かう」

「わかりました」

「見つかったらすぐに医者を。いや、フローティア様のところに連れて行くのがいいか。馬車を手配して、彼女のところへ」


 はい、と力強く返事をしてジョンは駆けていく。ケイヴも川の流れに沿って、下流を目指した。


 背中を焼かれたということは、どの程度の火傷を負っているのか。その状態で水の中に落ちたということは皮膚が剥がれていないか心配だ。昔、大きな火傷を負った同級生が勢い余って水をぶっかけて皮膚がでろりと垂れたことを思い出す。……ヒナタは今、どんな状態なのか。


 水の上に浮かぶ人の姿はない。まさか、もう海まで流されたのか?


「ヒナタ!」


 頼むから、手に届くところにいてくれ。

 祈りを込めて叫んだとき、キラリと視界の端で水面が輝いた。なんとなくその光に気を取られ、視線をそちらに向ける。


 キラキラと。ケイヴを呼ぶように光はちらつき、その光の先を見たとき目を丸くした。


「ヒナタ!」


 肩まで水に浸かっているヒナタが、疲れたような顔で上を向いた。顔色は真っ青だが、僅かに唇が動いている。


 生きている。


 急いで柵を乗り越えて、そのまま下に着地した。足の痛みは忘れて水の中に手を突っ込み、ヒナタの体を引き上げる。


「大丈夫か? 怪我、は……」


 背中には焼け焦げた服の跡。だが、なぜか皮膚だけは無事だった。


 予想とは違った事態に体は一瞬硬直するも、「ケイヴ」と小さな声で名前を呼ばれて我に返る。


「どうした? 寒い、よな。ちょっと待っててくれ」


 自分が着ていたローブを脱いで彼女にかけ、火の精霊にお願いして暖を取った。ヒナタは小刻みに震えながら、小さく頭を振った。


「寒いけど、そうじゃなくて」

「ファイに襲われたことなら聞いた。あいつは今、捕らえられている。だから安心して……」

「そうじゃなくて。ケイヴはここにいたらまずいんじゃないの?」

「何が」


 思ってもいなかった問いに、本気でわけがわからずに訊き返すと、ヒナタは眦を下げて俯いた。


「私と一緒にいたら、ケイヴによくないことが起きるでしょ……。戻った方がいいよ」


 ヒナタの言葉を聞き、そうだったとケイヴは思い出す。そもそも彼女が一人で宿を出たのはケイヴに迷惑をかけないためだったのだ。もうそんな状況ではないだろうに、なぜ今そんなことを言うのかと、彼女を強く抱き締めた。


「あの、ケイヴ……」

「俺と離れて君には悪いことが起きた。だからもう、手放さないぞ」

「私の話じゃなくってね……」

「君のことは、俺にとっても大事なことだ。だから、俺によくないことが起きるとしたら、ヒナタと別れることだと思ってくれ」


 強く抱き締めても彼女が痛がる様子はない。いや、「ちょっと痛い」と苦情は来たけれど、ケイヴの腕の力が強いせいだ。


 なぜ、火の魔法で攻撃されて彼女が無事なのかはわからない。

 けれど生きていて良かったと、ケイヴは心から精霊に感謝した。

 彼女を攻撃しないでくれてありがとう。



 ■



 ファイから攻撃されたとき、あ、これは死ぬなと日菜太は思った。熱風に煽られて空を飛び、飛行機でもなくこんな高いところまで空を飛んだのは初めてだとぼんやり思っているうちに、体は一直線に水の中へ落下した。


 叩きつけられると思った一瞬のうちのあと、バシャンと派手な水音とは反対に、日菜太の体は水の膜で包まれたように守られていた。わけがわからないまま流されていき、ファイを撒けたようだと安堵したあと岸に到着する。どうやら運河の通路らしいそこによじ登ろうとして、自分の格好に気がついた。


 熱風はただ温かい風だと思ったけれど、どうやら物を焼くことができたようで洋服の背中側がまるっと焼けていたのだ。胸を潰し、体型をごまかしていたタオルは水の中を漂ううちに取れていて、とてもじゃないけど外に出れるような格好ではなくなっていた。


 どうしようどうしようと迷っている間、水は日菜太を避けるように流れていき、しばらくするとキラキラと光りだしたから不思議だ。何が起こっているかわからずにいると、ケイヴの声が聞こえ、今に至る。


「あの、ケイヴ……。痛い」


 腕の力が強すぎて体がみしみし言いそうだ。それに、痛いだけではなくコルセットもタオルもつけていない姿で抱き締められるのは恥ずかしい。彼の体に自分の胸が押しつけられているのはしっかりと感じているから、相手も気づいているはずだ。


 けれど、ケイヴはいつものようにこの世界の常識を解くことはしなかった。腕の力を緩め、間近で顔を見ても泣きそうな表情で安堵する。


「背中は痛くないか? ジョンが、君は焼かれていたと言っていたんだが」

「え? 熱風が吹いた気はしたけど、焼かれてはいないよ。それより、ジョンは無事なの? あの、ごめんなさい。私がジョンを巻き込んでしまって……」

「彼はそんなふうに思っていない。怪我をしていないならよかった」


 髪を撫で、もう一度抱き締め直される。肩にケイヴの頭が乗っかって、日菜太は狼狽した。さっきからケイヴの様子がおかしい。よほど心配させたことがわかり、「ごめんなさい」と改めて謝る。


「出て行くにしても、書き置きくらいはしておくべきだったね。その、言葉は書けないけど、代筆とか頼んで……」

「そんなものがあっても心配した。言っただろう、もう手放さないと。俺の側にいなければだめだ」

「うん……。ごめんね」


 そんなに追い詰めるほど心配されたのか。日菜太も軽くケイヴを抱き締め返したあと、やっぱり気になって体を離した。


「ヒナタ」

「ごめん。その、服がボロボロだから……。隠してもいい?」


 ようやく、ケイヴの視線が日菜太の体に向いた。今まで一切気づいていなかったのかと驚くくらい素早く、ローブの前を閉じられる。


 耳まで真っ赤になったケイヴは横を向き、ごほんとわざとらしい咳払いをしてから向き直ってきた。


「服の新調はあとでもいいか? 先にフローティア様のところへ向かいたい。きっと着替えも用意してくれるはずだ」

「ええと、隠せられるならいいんだけど、私がフローティアさんのところへ行って迷惑にならない? 殺人容疑がかかってるって聞いたんだけど……」

「犯人は誰かわかっている。それより、事の真相を明かすために君が必要だ。……アンジェリカの嘘を暴くぞ」


 最後の言葉に、ケイヴがなぜここまで心配して探しに来たのか、日菜太はピンときた。あの憎きアンジェリカを罰するために日菜太が必要で、それなのに怪我をして使い物にならない可能性があったからか。


 アンジェリカの嘘を暴くのは、日菜太にとっても重要なことだ。ローブの端をぎゅっと握って、頷いた。


 そのあと、日菜太たちはジョンと合流した。彼は日菜太を守ろうとし、一部始終を見たらしい。怪我もなく生きていたことを喜んでくれ、勢い余って抱きつかれそうになったけれど、日菜太の格好を知っているケイヴが止めてくれた。


 ジョンが用意した馬車に乗り、フローティアが向かっているであろうとケイヴが話した王城へ向かう。日菜太が王城に訪れるのは初めてのことだ。こんなボロボロの姿で足を踏み入れてもいいのかと臆したけれど、ケイヴが堂々としていて、周りは奇異な目を向けながらも止めてはこない。声をかけてくる人物がいても「フローティア様に頼まれてルーク殿下にご報告を」と伝えれば、何かあるんだなと察したように引いていく。


「ケイヴはここの人たちに信頼されているの?」

「どうだろう。学院でルーク殿下と親しくなって、何度か王城には来たから、殿下のお気に入りに変なことをしたくない輩が多いんだろう。俺自身への評価はまた別だ」

「ふうん……」


 けれど、誰も止めに来ないのは不自然だ。濡れ鼠の日菜太も普通に通っているのに、平和だからって警備を甘くするのは危険に感じる。


 ケイヴは迷いなく進み、やがてひとつの扉の前で立ち止まった。そこにはファイと同じ顔をした男が立っており、瞬時に日菜太はケイヴの服を掴む。


「この人……!」

「フィスだ。ファイの双子の弟で、味方だよ。心配しなくていい」


 紹介されたフィスは丁寧に日菜太に頭を下げたあと、申し訳なさそうに詫びてくる。


「兄が大変なことをしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。謝罪のみで済ませられることではありませんが、今はご容赦ください。また後ほど、改めてお詫びさせていただければと思います」

「……いえ。フィスさんに何かされたわけではないので、そこまでお気になさらないでください」


 日菜太はケイヴの顔を見上げる。フィスはお詫びのために来たけれど、「今は」「後ほど」と言った。つまり、謝罪よりも先にやらなければいけないことがこの扉の先にあるということだ。


「アンジェリカが、この部屋にいるんですか」


 緊張で言葉が畏る。ケイヴは頷き、濡れた日菜太の髪を手で拭うように撫でつけると、笑みを見せた。


「俺の後ろにいてくれ。何があっても守れる」

「……はい」


 体術や剣術を日菜太は取得していない。ここで大立ち回りができるわけないから、大人しくケイヴの言葉に従った。


 ノックをすると、フローティアの声で「入りなさい」と返事があった。


「失礼します」


 部屋に入る作法はケイヴの真似をする。中に入り、お辞儀して、ドアを閉める。「こちらへ」と声をかけられてからフローティアの側に行った。


 彼女は日菜太を見ると驚いたように目を丸くする。


「生きていたの?」

「え?」

「あっ。ごめんなさい。この男があなたを殺しただなんて言うから……」


 この男と指したのはファイだ。彼もまた、驚愕している。


「嘘だ。確かに魔法で殺したはず……!」

「ただの熱風じゃ死にません。高さはあったけど、運よく水の中に落ちて衝撃も少なかったので助かりました」

「ただの熱風で殺したと思うはずないだろう! 俺は確かに焼き殺そうと……!」

「黙りなさい、ファイ。あなたに発言権はないわ」


 自分の殺され方を聞きそうになったけれど、フローティアが止めてくれたおかげで聞かずに済んだ。彼女は不思議そうにしながらも「生きていてよかった」と日菜太の無事を喜んでくれる。


 フローティアが日菜太の無事を喜んでくれている横で、困惑した表情を浮かべている人物もいた。殿下だ。更にその後ろには、今回の元凶となった人物がいる。


 アンジェリカは殿下を盾にするように立っており、怯えているふりをしながらも油断なく周囲を観察していた。こうして再び相対すると、アンジェリカと顔の造りは似ていても、雰囲気は自分とまったく違うと感じる。自信に満ちた瞳だけでなく、その態度も。日菜太なら自分が悪いことをしているとわかっていて、堂々と嘘はつけない。嘘をついたあとはおどおどして、後悔して、悩むだろう。


 日菜太は、ケイヴの手を掴みかけた。アンジェリカが殿下を盾にするように、日菜太にとってケイヴが頼れる人物だ。だが、ここで人を頼るのは負けな気がして、ぐっと拳を握り締めて耐える。


 全員が揃ったのを見て、フローティアは微笑んだ。


「お待たせして申し訳ございません、殿下。このように、アンジェリカとヒナタの両方をひとつの場に集めたかったんです」

「あ、ああ。いえ、フローティア。君を傷つけた人間を捕らえるためですから、時間はどれだけかかっても構いません。ですが、どうして二人を同じ場に? ヒナタはアンジェリカを前にして、こんなに怯えていますよ」


 殿下は自分の後ろに隠れているアンジェリカをヒナタと呼び、心配そうな顔を見せる。俯きがちだったアンジェリカの顔に、ほんの少しだけ笑みが乗ったのを日菜太は見た。フローティアから彼女を蹴落とさなければいけないと聞いてはいたけれど、本当に殿下の恋人の座を狙っているのかと驚いた。


 何もわかっていない殿下の言葉にフローティアは微笑みを崩さなかった。「それはですね」とゆったりと言葉を続ける。


「どちらも自分がヒノシタ・ヒナタだと名乗るものですから、私、どちらが本物なのか殿下とともに見定めたいと思ったんです。そのために、この場を設けました」


 まず、とフローティアは捕らえられているファイを指す。


「先に殿下にご報告した通り、この男はアンジェリカ・ルーバスと通じており、ドイルを殺し、さらには魔法を使ってヒナタを殺そうとしたと証言しております」


 ファイの顔を見た殿下は、少し傷ついたような表情を見せる。ファイは主を前にしてもフローティアの方を向いていた。なんだろうか。フローティアを見る男の目は、正気を失っているように見える。


 見つめられているフローティアは一切、彼に視線を向けず、問いかけだけする。


「自分の口で証言なさい、ファイ」


 名前を呼ばれたことで、ファイの目は輝いた。はい、と答える声は餌をもらった犬のように弾んでいる。


「私はアンジェリカ・ルーバスから話を持ちかけられ、彼女の計画に協力いたしました。異世界から渡りびとを呼ぶ金細工を作れる職人を探し、アンジェリカ・ルーバスの魔力を封じ込める儀式の邪魔をし、そしてすべてを知る金細工の職人と、邪魔者である渡りびとを始末いたしました」

「あなたに計画を持ちかけたアンジェリカとは、どちらの女性かしら」

「あちらでございます」


 ファイは真っ直ぐに殿下の後ろに立つ娘を指す。アンジェリカは「そんなっ」と弱々しい声で叫び、殿下の服を掴む。


「私は知りません! 知らないうちにこの世界に連れてこられて、わけがわからないまま脅されて……! 無我夢中でここに逃げてきたのに、犯人扱いするんですかっ」


 ひどい、と涙を零す姿に、日菜太はイラッとした。その言葉、すべて日菜太が言いたい台詞だ。


 泣くアンジェリカに殿下が「大丈夫ですよ」と慰めの言葉をかければ、フローティアもイラッときたようだ。罪を犯したとは言え、元は自分付きの騎士の言葉を信じないとはと呆れただろう。そんなフローティアにファイが詰め寄る。


「これでわかったでしょう、フローティア様! あのような男の側であなたは幸せになれません。お望み通り、私が知っていることをすべてお話ししたのです。殿下と別れてください!」

「えっ」


 アンジェリカを慰めていた殿下が、パッと顔を上げ、振り向いた。視線の先ではフローティアに縋るようにじり寄るファイがいて、殿下はカッとなったように叫ぶ。


「彼女に近づくな、ファイ!」


 何か呪文を唱える間も感じなかった。叫んだ瞬間にフローティアとファイの間に水の壁ができ、殿下はフローティアを抱き寄せる。


「フローティア様! 私が話せば、殿下と別れてくださると約束したでしょう!」

「彼女が何を言ったか知りませんが、もし別れると言われても私が手放しません。再びプロポーズし、結婚します。フローティアは私の婚約者です。近寄るな!」


 更に水がファイを追い返す。「外に出せ!」と殿下が命令し、フィスがファイを掴み上げた。やめろ、離せ、フローティア様! と叫ぶファイはそのまま部屋の外に連れ出される。しばらく彼の叫び声が聞こえていたけれど、やがて静かになった。


 ぽかんとしているのは日菜太だけだ。ケイヴは当たり前のような顔をして立っていて、フローティアは恋人に守られたことが嬉しいかのように笑っている。殿下は怒り心頭だ。


「別れると約束したのですか? 私の側にずっといてくれると、先に誓ったでしょう?」

「約束しないと話そうになかったので」

「だからと言って、私との誓いを破ることになる約束はしないでください。……怪我は? どこにも触れられたりしませんでしたか」

「はい。ありがとうございます、ルーク殿下」


 フローティアのお礼に、厳しかった殿下の表情も和らいだ。なるほど、二人は相思相愛なのかと日菜太は納得し、アンジェリカの方へ目を向ける。


 一人、置いてけぼりになっているのは彼女だ。慰めてくれていたのに、すぐ殿下はフローティアの元へ駆けつけた。おそらく殿下は誰に対しても優しいのだろう。だが、最愛の人は決まっている。フローティアに害をなす人物を決して許さないのが、証のように。


 フローティアがアンジェリカを蹴落とさなくても、彼女は同じ土俵に上がれないのだ。


 じっとアンジェリカを見つめていると、不意に彼女も日菜太を見た。同じ顔。目が合った瞬間に憎悪に燃えるように睨まれ、日菜太は怯みかける。


 だけれど、一歩後ろに下がる前に、ケイヴが一歩前に出て日菜太を背に隠した。


「お前が巻き込んだ人間だぞ、アンジェリカ。睨む前にいうことがあるだろう」

「……何のお話をされているのか、私にはわかりません。私は一体、どうなってしまうんですか? 何がどうなっているの……」


 両手で顔を覆い隠し、アンジェリカが泣く。殿下は駆け寄ってアンジェリカの味方をしようとしたけれど、フローティアが震える手で軽く袖を掴んだだけで立ち止まった。怯えているように見える恋人から離れられないのだろう。アンジェリカの狙いは外れ、彼女の嘘泣きがヒクッと固まった。


 フローティアの行動とアンジェリカの行動や態度を見て、日菜太は察してしまった。もしかすると自分はただの三角関係に巻き込まれただけじゃないかと。アンジェリカは王子様の恋人になりたくて色々画策し、フローティアは彼女を殿下に近づけまいと行動する。周りの迷惑は考えない行為だ。


 罪から逃れたくて身代わりとして呼ばれたのだと思っていたけれど、本当の狙いは渡りびとという前科がない、憐れみも誘える立場から殿下を誘惑したかっただけか。


 そして、この問題の解決方法もわかった。フローティアはアンジェリカの感情を刺激している。おそらく、本人がボロを出すのを待っているのだ。アンジェリカの前で殿下と仲良くし、嫉妬を抱かせて、怒りを誘っている。けれどアンジェリカも我慢強く、まだボロは出さない。


「……色々と混乱しているなら、まずは最初の状況に戻すのはどうでしょうか?」

「え?」

「最初の状況?」


 弱い女のふりをしたアンジェリカが涙で濡れた目を上げ、フローティアも怪訝そうに首を傾げる。日菜太は頷き、殿下に尋ねた。


「彼女は自分がいた世界とは違う環境に戸惑っているんでしょう? なら、こっちの世界の枠に押し込めないで、元の世界の通りに過ごさせたらどうです?」

「何を言っているんですか、君は……」

「洋服ですよ、殿下。彼女、今はドレスを着ていますけど、元はパーカーとショートパンツを穿いていたはずですよね。それに着替えてもらったらどうですか?」

「アンジェリカ! 君は彼女を辱めるつもりですかっ? あんな下着同然の格好に着替えろなど、おかしなことを……」

「もともと彼女が着ていた洋服ですよ、殿下。渡りびとが元いた世界では当たり前の格好です」


 殿下が驚き、フローティアやアンジェリカの顔が引きつった理由はわかる。数日しかいなくても、ケイヴに色々と教えられたのだ。女性が脚を見せてはいけないのが常識の世界でショートパンツなんてあり得ないだろう。誰も穿きたくないだろうし、良識のある人間はわざわざ穿かせようとなんて考えない。


 だけど、日菜太は違う。


「殿下。以前も申し上げましたが、私が樋下日菜太です。だから、私はあの洋服に着替えて皆さんの前に出ることはできますよ。部屋着だからちょっと恥ずかしいですけど、非常識って言うほどでもありません。スーパーとかコンビニにはあの格好で行ってましたし、高校生のときは普段着でもありましたし」

「す……、こうこうせい?」

「どうでしょう。あの洋服を着れた方が日菜太ってことにしてくれませんか。自分が着ていた服に着替えられないなんて、そんなはずないですもんね」


 にっこりと、アンジェリカを挑発して笑う。着替えられるものなら着替えてみろと、日菜太は思った。自分が着るなら恥ずかしくないから気にしない。アンジェリカが着替えたら、それはそれで次の手だ。


 彼女が怒って本性を出す方法を考え、煽るだけ。


 日菜太の企みに気づいたか、フローティアは少し離れてたところに立っていた女性を呼びつけ「着替えを持ってきて」と命じた。


「ルーク殿下、物は試しですわ。自分が着ていた洋服を着れないことはないでしょうし、着替えてもらいましょう」

「ですが、フローティア……!」

「お城に駆け込んできたときのヒナタは、自分が恥ずかしい格好をしているなんて思ってもいませんでした。これが普通だと、今説明されたようなことを言っていたでしょう。なら、自分がいた世界の格好に戻るだけですわ」


 もちろん、とフローティアは付け足すのを忘れない。


「無理に着替えろとは申し上げません。慣れない洋服を着るのは大変でしょうから。ただ、こちらの自称ヒナタに代わりに着てもらいましょう。彼女もまた、渡りびとだと主張されているのです。普通にあの洋服を着られるのか、確認するのも悪くはありませんわ。まあ、私でしたら嫌ですけど……。あのように脚が見えている洋服ははしたなくて、淑女として見ていられませんから」


 きつい言葉に、日菜太もうっと黙りかけた。それでは日菜太がはしたないみたいだ。ケイヴもちらちらと振り返ってきて、本当に着るつもりなのかと心配しているようだ。


 完全にこちらの世界に身も心も染まったつもりはないけれど、文化が違う場所で自分を押し通すのは難しい。郷に入れば郷に従えともいうことわざもある国から日菜太は来たのだ。そうだよね、はしたないよねとショートパンツを穿くのはやめたい。


 そんなことを考えていたけれど、フローティアから命じられた女性が着替えを手に戻ってきたのを見たとき、思わず叫んで飛びかかってしまった。


「これは隠してください!」


 何のために使うかわからなかったのか、嫌がらせなのか。綺麗に畳んだパーカーの上に乗せられていたのはブラだ。ショーツは隠してあるのに、どうしてブラだけ表に出ていたのかわからない。


 急いでパーカーで包んで隠し、誰も見ていないか振り返って確認した。が、皆、ぽかんと日菜太を見ている。


「ヒナタ……? どうかしたのか?」

「え、ええと……」


 ブラが丸見えだったので隠しましたと説明しなければいけないのか。


 この世界にある下着と、日菜太がいた世界にある下着は違うから、何を隠したのかわかっていないのだろう。「今のは?」と殿下に問われて、日菜太は顔を真っ赤にして俯いた。


 答えなきゃいけないのか。


「……下着です」


 恥ずかしい。ショートパンツを着るのより、ずっとずっと恥ずかしい。


 納得した面々が黙り込む中、フローティアだけがおかしそうに吹き出した。


「脚を見せるのは平気でも、やはり下着を見られるのは恥ずかしいというのはどこの世界でも同じなのね。それにしても、変なの」


 ちらりと彼女の視線はアンジェリカを刺す。


「この服はあなたのものではなくて? あなたは下着を見られても恥ずかしくなかったのかしら」

「そんなこと……!」


 フローティアの言葉にアンジェリカは目を剥いた。きっと本来の性格が出たのだろう。怒りに満ちた顔は、最初日菜太が出会ったときの顔に似ていた。


 だけど、そのまま怒るようなミスはしない。「私の位置からではよく見えなかったの」とだけ答えた。


「まあ、そういうことにしておきましょうか。では、どちらのヒナタでも構いませんわ。どなたがその洋服を着てくれるのかしら。あなた? それとも、あなたかしら?」


 順々にフローティアの視線が突き刺さる。日菜太に異論はなく、アンジェリカは自分が着ると言い出す勇気が出てこなかったようだ。軽く手を挙げた日菜太に「ではあなたから」とフローティアが指示をする。


 着替えの場所は逃げないようにと、同じ部屋の中ですることになった。姿を隠すための衝立が用意され、それを設置したケイヴは日菜太が衝立の裏側に回ろうとしたとき、そっと声をかけてくる。


「本当にいいのか? そんな服装……」

「私の世界では普通の服装なの。そんなって言わないで。着替えにくくなる」

「……わかった。すまない」


 一度離れようとしたケイヴだけれど、足を止めてすぐに戻ってくる。なんだろうかと顔を見上げると同じタイミングでケイヴも屈もうとして、思ったよりも近い位置に顔があった。


 パッと離れたのはケイヴが早い。日菜太はびっくりして固まってしまい、彼が「なんでもない」と言って去ったあともすぐに動けなかった。心臓が、すごく早く脈打っている。


 深呼吸をして心を落ち着けさせたあとに着替えを始める。衝立に借りていたローブをかけ、ボロボロの服も置く。そして、数日ぶりのブラだ。コルセットではない。日菜太の世界にある下着を身につけたら、お腹は苦しくないし、解放感があるし、それにしっかりとバストを支えられていると感じる。お肉を寄せ集めてカップの中に収めるのも久々だ。巨乳というほど胸はないけれど、心なしか大きくなって帰ってきた気がする。


「感動だ……」


 やっぱり下着は重要だ。

 いつもの自分の服に着替えるだけで、気持ちは少し晴れやかになった。苦しくなくて、身軽で、動きやすい。膝上まであるストッキングも脱ぎたかったけれど、靴下は穿いてこなかったから靴を履くのにストッキングは脱げない。だけど可愛くないから、ガーターリングを解いて下にずらす。ルーズソックスは流行らないかもしれないけれど、全体的なコーディネートはさっきよりマシなはずだ。


 身なりを確認して、よしっと日菜太は衝立の裏から出た。と、殿下とケイヴはこちらに背を向けていて、アンジェリカは目を大きく見開き、フローティアも少しだけ困惑気味だ。


「あの、着替えたんですけど……。どうかされましたか?」

「ヒナタ。衝立は脱いだ服を置く場所ではないのよ」

「あ、すみません」


 これもはしたないって言われるのだろうか。たぶん男二人は日菜太が脱いだ服を見ないように背を向けている。


 衝立から脱いだ服を取り、悩んで床に置いた。そうしてもう一度皆の前に出るけれど、殿下もケイヴも日菜太を見ないようにしている。


「あの……」

「気にしないで。あまりにも堂々としているから、見ることができないだけよ」


 さて、とフローティアは話をもとに戻す。


「こちらのヒナタは問題なく着替え、自分の格好に違和感を覚えているようでもないわ。それじゃ、次はあなたよ。自分がヒナタだと言って駆け込んできたあなたは、この服が着られるかしら?」


 殿下が目を逸らしているのをいいことに、アンジェリカは隠さずフローティアを睨み、「ひどい」となじった。


「私ができるはずないでしょう。こちらの世界の常識を教えられたあとに、はしたない格好をしろだなんてひどすぎますわ。あなたには人の心がないんですの?」

「でも、こちらのヒナタははしたないと思わずに着ているようですけれど」

「そんなの! 彼女に恥ってものがないからでしょう! 人に罪を着せるような恥知らずが、自分の格好に気を配るとでも思って? 最初に入ってきたときは男の格好をしていたわ。そんな破廉恥な格好も平気でできるのは、その人に恥がない証拠よ!」

「あら、ひどい言い方ね」


 フローティアとアンジェリカの言い合いに、日菜太はひっそりと傷つく。恥がないわけではない。破廉恥な格好をしているとも思ってない。常識が違うだけなのに、どうして自分が悪いことをしているように感じなければいけないのか。


 と、二人が言い争っている間に少しだけ移動していたケイヴはローブを片手に戻ってくる。「悪い。着替えの中から持ってきた」とローブを肩にかけてくれる。無言で前を閉めるように指示され、言われたように閉じた。ほっとしたのはたぶん、ケイヴと殿下だ。


 アンジェリカから失言を引き出そうとし、フローティアは丁寧に煽り続けている。それに対してアンジェリカは自分がヒナタだという姿勢は崩さないものの、憐れみを誘うような話し方は変わっていた。


「どうしてわたくしが疑われなければならないんですの! わたくしはその女に騙されたと言っているんです。渡りびとはこの世界に必要な存在なのに……。それを疑い、取り調べるような真似をするだなんて、あなたは最低な女ですわ!」


 怒りに任せ、アンジェリカはフローティアに手を振り上げた。だけど、フローティアは動かず……代わりに、殿下がその前に立つ。


「……落ち着いてください」


 静かな声に、びくりとアンジェリカが肩を震わせる。あ、あ、と急に弱りきった声を出して、わっと泣き出した。


 アンジェリカが泣くと、殿下も弱い。フローティアに手を上げられかけたことで怒りを見せてはいるが、まだ未遂だ。そして、泣いている娘はついさっきまで自分が渡りびとと信じていた人物である。


 けれど、化けの皮も剥がれてきて、殿下も純粋にその人が日菜太だと信じれなくなっただろう。


 大丈夫ですよとは言わず、泣かないで、落ち着いてとアンジェリカを慰めている。寄り添いもしないその光景を見て、日菜太は声をあげた。


「わかりました。私がアンジェリカ・ルーバスということでいいです」

「え」

「え?」

「ヒナタ!」


 唐突に認めた日菜太に、三者三様のリアクションが返される。泣いているアンジェリカの声も心持ち静かになったようだ。


 日菜太は殿下に頭を下げ、再び告げる。


「私がアンジェリカ・ルーバスだと受け入れます。ですので、まずはフローティア様にお詫びしてもよろしいでしょうか?」

「フローティアに……? 構いませんが……」

「ありがとうございます」


 くるりと身を翻し、日菜太はフローティアの前に立つ。フローティアは、一体何をする気なのかと目で訴えてきていた。彼女はアンジェリカを蹴落としたい。だから日菜太がここで身を引いては困るのだろう。もちろん日菜太もアンジェリカの罪を引き継ぐのは嫌だ。


 今、アンジェリカは窮地に立たされている。自分の嘘がバレるかもしれないと焦っているだろう。だから、そこに畳み掛けるのだ。


 プライドが高い彼女の名を使って、日菜太は床に跪き、深く頭を下げた。


 土下座だ。


「アンジェリカ・ルーバスとして謝罪いたします。この度はフローティア様にお怪我を負わせてしまい、大変申し訳ございませんでした。アンジェリカ・ルーバスがしたことはすべて、身勝手で、他者を顧みず、自分の利益だけを追い求めた最低な行動でした。フローティア様以上にルーク殿下に相応しい方はいません。これから、アンジェリカ・ルーバスはフローティア様に忠誠を誓い、ルーク殿下と末長く幸せに暮らせるよう尽力いたします」


 こちらの世界の謝罪方法は教わっていないから、自分がいた世界と漫画やゲームでありそうな台詞を繋げて言ってみたが、どうだっただろうか。許されるまで頭を下げ続けていたら、不意に手を取られた。


「やっとわかってくれましたか、アンジェリカ!」


 感動したように叫んだのは殿下だ。その後ろでアンジェリカの顔は真っ赤に染まり、反対にケイヴは真っ青になっていた。


「あなたが自分の罪を認めてよかった。それに、私とフローティアのことを祝福してくれたのも嬉しいです」

「はい。フローティア様以上に素晴らしい方はいません。アンジェリカなど、フローティア様の足元にも及ばないクズで、性悪で、最低なにんげ……」

「わたくしはその女よりもずっと特別な人間ですわ!」


 ついに激昂したアンジェリカが、殿下の頭越しに日菜太の髪を掴んできた。痛い、と思ったのも束の間、すぐに手は離れる。


「彼女に触れないでもらおうか、アンジェリカ」


 日菜太の髪を掴んだアンジェリカの手を、ケイヴが握り締めている。「離しなさい!」と腕を振ろうとしても振り解けないほど強い力で、アンジェリカの手がみるみる真っ赤になっていった。


「け、ケイヴ! ちょっと力を緩めた方が……」


 慌てて日菜太は殿下の手を振り解いてケイヴに縋った。容赦ない握力でアンジェリカの手首が今にも折れてしまうんじゃないかと思った。アンジェリカも痛い痛いと騒いでいる。


 ケイヴは日菜太を一瞥したあと、乱暴にアンジェリカの手を離して突き飛ばした。そして、剣を抜き、彼女の首元に突きつける。


「殺しちゃだめ!」

「殺すわけないだろう。牽制だ。……殿下。もう、誰がアンジェリカ・ルーバスかはおわかりでしょう?」


 フローティアの横で呆気にとられたように殿下は立っていたけれど、ケイヴの言葉で我に返った。「ええ」と頷いたあと、申し訳なさそうに頭を垂れる。


「私が……また騙されたんですね。申し訳ありません、ヒナタ。私がしっかりしていなかったせいで辛い目に遭わせてしまいました。会ったときも強く当たってしまって……」

「殿下! 騙されないでくださいませ! わたくしがヒノシタ・ヒナタですわ! 皆がわたくしをひどい目に遭わせようとしているのです。あのアンジェリカと組んで……!」

「残念ですが、それはありません。私は友人と恋人のことをよく知っているんですよ」


 小さくため息をついた殿下は、真っ直ぐにアンジェリカと向き合う。


「ケイヴはアンジェリカにとても怒っていた。そしてフローティアは自分を傷つけた人物が反省していないにも関わらず助けようとするほど、お人好しではないんです。だからどちらもアンジェリカ・ルーバスと手を組むことはあり得ません。手を貸すとしたら、ヒナタの方にでしょう」

「……すみません。私が先に、ヒナタをアンジェリカと勘違いしたため、殿下を惑わせる結果になりました」

「ケイヴのせいじゃありませんよ。私が騙されやすいのはわかっていますから……」


 申し訳なさそうにケイヴが謝ると殿下が苦笑する。そして、涙ぐんでいるアンジェリカを一瞥した。


「フローティアに出会えたことは、私にとっての奇跡です。あなたのような女性を伴侶に選ばずに済みました」

「ルーク殿下、わたくしは……!」

「申し開きがあるのなら、あとで聞きましょう。フローティアを傷つけたことだけでなく、新しい罪も問わねばなりません。ケイヴ、彼女を連れて行ってください」

「かしこまりました」


 殿下の命令にケイヴは剣を収めてアンジェリカの腕を掴んだ。「痛いわ!」と泣く彼女に対し、無言で連れて行こうとする。けれどアンジェリカは踏ん張って意地でも動こうとせず、殿下に懇願する。


「助けてください、殿下! 嘘をついているのはこの方たちです!」


 演技も神がかっていたけれど、殿下は彼女を振り返らなかった。アンジェリカは次にケイヴに縋ろうとし、視線を動かしたところで日菜太と目が合う。


 あなたさえ。

 そう、小さく口が動いた気がした。


 けれど、実際は違うことを言ったのだろう。恨みをぶつけるように伸びてきた手から、本日二度目の赤い光を見る。ファイが見せたそれと同じ光に、日菜太は瞬時に魔法だと気づいた。


「っ! アンジェ……!」


 ケイヴが止めようとするが、アンジェリカの方が早い。


「貴女が大人しくしていればよかったのよ!」


 熱風どころか火の玉だ。逃げようとしても恐怖で体が動かず、日菜太は手で顔を庇うようにして立ち竦んだ。




 ヒナタ! と叫ぶケイヴの声だけが、耳に響く。

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