四 身代わりにされた人間は殺される


 早朝。日菜太は隙間風で体が冷え、まだ朝日が空高く昇る前から目を覚ました。


「眠い……」


 昨日も早くに目が覚め、今日も早起きだ。代わりに早寝しているが、日頃夜更かししていた体は朝早くに起きるのに慣れていない。


 目を擦りながら、部屋に備え付けられている盥に水を張り、顔を洗った。この方法は、宿の女将から聞いたやり方だ。腕の太さは日菜太の三倍もあるんじゃないかというほどガタイがいい店主と、胸の大きさは日菜太の二倍はありそうな包容力満点の女将は、日菜太の世話を快く引き受けてくれた。


 ケイヴから渡りびとで世間を知らないと伝えられていたらしい女将は、洋服の埃を払ってハンガーにかけることや、シワが気になるときはベッドのシーツの下に敷いて伸ばすと良いことを教えてくれた。貴族ならアイロンがけができるらしいけれど、一般市民は魔法を使うか、この方法で洋服を綺麗にするらしい。火の魔法が使えたら暖炉に火をつけたり、お湯を沸かしたりできるけれど、日菜太は何もできないから毛布に包まってもらったクリームを顔に塗る。


 メイクを落とさずに過ごして二日。昨夜、女将のおかげでやっと洗顔ができ、化粧水や乳液代わりのクリームももらえてよかった。肌に手を当てると、少し荒れている気がする。


「この状況でスキンケアをちゃんとしなきゃとは思えないけど、帰ったときはひどいことになってそう……」


 日焼けが心配だ。エステの予約でも入れようか。


 メイク道具はないから、すっぴんだ。細くても眉があってよかったと安堵しつつ、寝る前に脱いだコルセットを身につけ、ワンピースに着替えた。慣れず、何度かやり直してやっと着替え終わったとき、ドタバタと下から誰かが駆け上がってくる音がする。


「ヒナタ、ちょいといいかい」


 声は店主のものだった。身なりを確認してから、日菜太はドアを開ける。


「どうしましたか?」


 ドアの向こうには店主だけでなく、女将もいた。一方は険しい顔で、一方は困惑した顔で立っている。


「悪いが、ヒナタ。早急にここを出て、二度とあいつにも関わらないでくれるか」

「え」


 突然の言葉に日菜太が驚くと同時に、女将が後ろから「アンタ!」と怒ったように声を出す。


 人に聞かれるとまずい話なのか、店主は「邪魔するぞ」と強引に部屋の中に入ってきて、女将も続いた。しっかりドアを閉めたあと、店主は腕を組んで仁王立ちで日菜太を見下ろす。


「単刀直入に言う。昨夜、ドイルの旦那が殺された。容疑はアンジェリカ・ルーバスにかかっている」

「ドイルさん、ですか?」

「ケイヴから聞いたよ。金細工の職人を探してたんだろう。その怪しい奴ってのがドイルだ」


 また、衝撃の事実だ。日菜太は目を見開き、固まった。

 嘘だ。


「ドイルはアンジェリカ・ルーバスの怒りを買って殺されたって話でな。国中の兵がお前さんを探している。もちろん、お前さんがアンジェリカじゃねぇことは知ってるが、世間ではそうなってるんだ。もう逃げられねぇだろ」


 また、女将が店主をなだめるように「やめなよ」と背を叩く。だけど、彼の言葉は止まらない。


「ケイヴがお前さんを匿っていたとわかりゃあ、あいつの将来はおしまいだ。せっかく殿下付きの騎士になれるかもしれねぇってときに、変な噂は立ってほしくないんだ。わかるだろう? あいつはいい奴だ。苦労してほしくない」

「それ、は……わかります」


 最初、逃亡を見逃してくれるだけでなく、色々手を貸してくれた。日菜太が誤解をして首に手をかけたときも、理解して、なだめ、ここまでついてきてくれたのだ。


 ケイヴはいい人だ。日菜太の事情に巻き込み、将来をだめにしてほしくない。学校を出て、今後どう働けばいいのかと就活中に悩んだ日菜太にとって、恵まれた職を掴みそうなケイヴのことは応援したい。これまでの恩を含め、身勝手に今後も助けてほしいなんて言えないだろう。


 助けてほしくても、その言葉は飲み込まなくては。

 ぎゅっと拳を握り締める。


「ケイヴの迷惑になることは、私も望んでいません。ドイルさんを誰が殺したのかわかりませんが……、このまま一緒にいることでケイヴの立場が不利になるなら、これ以上頼るのをやめます」

「……ワリィな。お前さんだって、好きで巻き込まれたわけじゃないのに、こっちの事情を押しつけちまって」

「悪いのはアンジェリカですから」


 本当は、泣いて縋りたい気分だ。助けて、見捨てられたらどうしていいかわからない、と。


 だけど、ケイヴと出会って、フローティアや店主、女将からもこの世界の常識を少しずつ学んだ。まだ足りないところはあるだろうけど、そろそろ自分で考えて行動すると自分で決めたことを目指してみよう。


 日菜太は笑顔を作って、顔を上げた。大丈夫って、ケイヴは笑みを見せてくれることが多かった。相手を安心させるには一番の表情だ。


 大丈夫。


「ケイヴが来る前に、ここから逃げます。それで申し訳ないんですが、いくつか手伝ってもらうことってできますか?」

「ああ。もちろんだ。お前、やってくれるか?」


 亭主に聞かれた女将は大きなため息をつく。


「女の子一人で逃げるのは危険だよ。私はやめた方がいいと思う。きっとケイヴが怒るからね」

「だとしても、あいつの将来を考えりゃあこれが一番いい方法だろ?」

「どうだろうね。さあ、ヒナタ。私は何をやればいい? 逃げる方法は、考えているのかい?」


 店主に目も向けず、女将が訊いてくる。日菜太は考え、頷いた。


「女一人が危険なら、男装しようと思います。髪を切るのと洋服の交換と……あとはコルセットをしなくてもいい方法ってありますか? 胸を潰せたらいいので、タオルを巻くだけでもいいかなと思うんですけど、こちらの常識的にどうです?」

「……渡りびとは変なことを考えるんだね」


 女将が顔を顰める横で、店主はぎょっとしている。「荷物を用意してこよう」と足早に部屋を出る彼を見て、やはりコルセットは必ずしているべきなのかと日菜太は理解した。個人的にはずっと、ノーブラのままでいる感覚なのだ。


 それからは、日菜太の要望通り、女将の手で髪は短く切り揃えられ、コルセットの代わりにタオルと包帯で胸が潰された。真っ平らにするのは意外にも難しく、お腹にもタオルを当てることで体の凹凸を隠した。おかげでちょっと小太りの男の完成だ。顔も丸いから、似合っているかもしれない。


「ヒナタはいい生活をしてたんだねぇ」

「はい?」

「肉付きがいいし、肌も綺麗だ。きっと良いところのお嬢さんだったんでしょう?」


 だからアンジェリカの身代わりにもなれたんだと女将は言うけれど、日菜太は苦笑いした。本当のアンジェリカは日菜太とよく似た顔だけれど、強い瞳と自信たっぷりな態度からお嬢様だとわかる。それに、日菜太にはキツかったコルセットを難なく着こなしていたのだ。彼女はきっと細いだろう。


 ふと、ケイヴの横にはそういう女性がいたのだなと思った。きっと抱き締めたとき、太っていると思われただろう。


 男性用の服装は、女性用よりも着やすかった。シャツの裾が長かったのは意外だったけれど、ボタンを締めて女将に姿を確認してもらう。


「まあ、サイズはちょっと大きいけど、そこらへんにいる小僧と同じようなもんだから目立ちはしないね。あと、ローブはこれを着ていくといい。ヒナタが着ていたのは生地が上等だから少し今の服装と合わないね」


 渡されたのは、裾がほつれていて年季の入ったローブだ。確かに、日菜太が使っていたものより今の格好に合う。


「ありがとうございます。あの、たぶん返しに来るのは難しいと思うので、洋服とローブは買い取りでも大丈夫ですか? 宿代も足りるかわからないけど……」


 買い取りと言っても、持っているお金はケイヴからもらったものしかない。あれは一応、もらってくれと渡されたものだから、日菜太のお金として支払ってもケイヴは文句を言わないだろう。


 全財産の百五十ルピを女将の手に乗せたら、相手は目を大きく見開いた。


「何言ってるんだい! こっちの無理を聞いてもらったのに、お金はもらえないよ。必要なら、うちの旦那からもらうから心配しなくていい。アレが出て行けと言ったから、こんなことになってるんだよ」

「でも、私が迷惑をかけたことに変わりはありませんから」

「迷惑を持ってきたとしたら、ケイヴさ。じゃあ、ケイヴから徴収しようかね」


 でも、と更に食い下がろうとした日菜太に、「それよりも」と女将は目を吊り上げる。


「まさかお金はこれだけしか持ってないと言わないだろうね」

「……お金のことはよくわからなくて。銀色のが百ルピで、茶色のが五十ルピで合っていますか?」

「合ってるよ。ちょっと待ってな。旅に出るなら銀貨よりも銅貨や白貨を持っていった方がいい」

「しろか?」


 聴き慣れない単語に首を傾げる日菜太に、女将は一旦部屋の外に出て行き、すぐに戻ってきた。小さな荷物を片手に店主も一緒にやってくる。


「これが白貨だよ」


 手の上に乗せられたのは、親指大ほどの大きさがある硬貨だ。軽くて、一円玉みたいだ。


「白貨は周辺の村でよく使われているよ。銀貨を出されちゃ困るって店もあるから、こっちを持って行きな」

「あ、ありがとうございます」


 日菜太が持っていた銀貨を両替してくれるのかと有難く受け取ったら、女将は更に銀貨十枚を上乗せしてくる。


「えっ、あ、あの、これ……!」

「乗合馬車は銅貨一枚で王都内のどこでも行けるけどね、外に出るなら最低、銀貨五枚は必要だ。途中で休憩もあるから、そこで泊まるときも金がいるからね。周りをよく見て、上手く溶け込むんだよ」

「銀貨十枚って、結構な大金じゃないんですか……っ? 私、お返しできるかわかりませんし、もらえません!」

「返せるかわからないじゃなくて、返しに来るんだよ。ちゃんと逃げて、間違いを正して、またうちに来な。そのときはもっとちゃんともてなすからね」


 一度、ぎゅっと抱き締めてくれた女将は、小さな巾着に銀貨を入れる。そして別の巾着には銅貨と白貨を入れ、日菜太に手渡してきた。


「馬車に乗るときだけこっちの袋を使うんだ。あとはこっちの袋から銅貨や白貨を出すといい。あまり金を持っていると思われない方がいいからね。なるべく白貨を出すんだよ」

「わかりました。白貨の価値はどれくらいですか? ええと、一ルピ?」

「五ルピだ。間違えないようにするんだよ」

「はい」


 銀貨が百、銅貨が五十、白貨は五か。忘れないようにしようと、日菜太は頭の中で何度も繰り返す。


 女将からお金を受け取った日菜太に、今度は店主が荷物を渡してくる。


「着替えやら色々入れておいた。あと、こっちのポケットには小さいが棍棒が入っているからな。何かあったら使え」

「わ、わかりました」


 使えと言われて容赦なく使えるかわからないけれど、丸腰よりも安心だ。棍棒を確認するとすりこぎみたいなコンパクトなものだった。


 お金と、着替えと。色々と用意してもらって、日菜太は深く頭を下げる。


「お手数をかけてすみません。……絶対、返しにきます」


 アンジェリカに負けて、ずっと逃げ続けるなんてしない。必ず彼女の嘘を暴いて、日菜太として戻ってこようと決めた。


 女将と店主に見送られて、日菜太は宿を出た。道中食べるようにとサンドイッチを渡してくれた店主は最後に「すまなかったな」ともう一度謝ってきた。ケイヴのことを大事に考えているけれど、日菜太を一人で出すことも良くないと考えているだろう。ただ、どちらかしか選べないと言われたら、付き合いが長いであろうケイヴを選んだだけで。


 日菜太に彼らを非難して、ひどいと罵ることはできなかった。ポッと出の渡りびとなんていうよくわからない存在のために危険を選ぶ方がどうかしている。助けてほしいのは山々だけれど、一人女将に教えてもらった馬車乗り場へ向かう。


 朝靄で道が見えにくい中、なんとか王都の外に出る馬車乗り場に辿り着いた。けれど、馬車の姿はどこにもない。


「あれ? 場所、ここで合ってるよね……?」


 もう出てしまったのだろうかと周囲を見回すけれど、馬車が来る様子も行ってしまった様子もない。どっちだかわからず、日菜太は右往左往する。


 バス停のように時刻表はないのかと馬車のマークが描かれたマンホールの側でしゃがみ込み、ヒントを見つけようとしていたとき、「何やっているんですか」と声をかけられた。


 どきりと心臓が跳ね、日菜太はぎこちなく振り返る。


「いえ、ちょっとお腹がいた……」


 後ろに立つ人物を見て、目を丸くした。


「ジョン?」


 ケイヴの狩猟小屋で会った、ジョンだ。変なものを見るように首を傾げると、赤い髪も一緒に揺れ、その髪の色にケイヴを思い出す。


 彼はまだ、宿に来ていないはず。


 ジョンと出会ったのは偶然だろう。怪訝そうな顔つきなのもその証拠だ。彼はケイヴに言われて日菜太を探しに来たわけではない。……そもそも、日菜太がいなくなったとして、ケイヴが探すかどうかなんてわからない。


 ふう、とひと息ついて、日菜太は立ち上がった。不自然に見られないよう笑顔で「どうも」と挨拶する。


「すみません。少し休んでいただけなんです。お気になさらず……」

「いえ、あなたが男の格好をしていたら、どうしたのかって気になるでしょう」

「……私が誰だかわかっているんですか?」

「坊ちゃんと一緒にいた女性でしょう? あのあと坊ちゃんから手紙をもらいましたよ。確か、お名前はヒナタ様でしたっけ? ここで何をしているんです? 坊ちゃんは」

「ケイヴとは一旦、別れました。少し、場所を移動しましょう。聞きたいこともあるんです」


 日菜太は頭が痛くなりそうだった。ジョンが自分を見て、すぐに日菜太だとわかったことがショックだったのだ。何のために男装したと思っている。誰にもアンジェリカがいると思われないためだ。


 馬車乗り場から少し離れたところに来ると、ジョンはそこにあった木箱の上に座った。ベンチ代わりに使ってもいいみたいなので、日菜太も隣に座ると、居心地が悪そうに僅かに横にずれた。


「それで、話とは? 僕の質問にも答えてくださいよ」

「ケイヴとは別行動していて、私はこれから馬車に乗るところです。ドイルさんって知ってますか? 私とケイヴは金細工の職人を探していて、そのドイルさんに会ったんですけど、どうやらアンジェリカに関係があるという疑いがある人で。今度、私がアンジェリカとして会う予定だったんですが、殺されてしまったんです」

「……まさか、それであなたは疑われているんですか」

「そう聞きました」


 ジョンはまだドイルのことを知らなかったようだ。昨夜殺されたという話だから、ジョンがいたところまでは話がいっていないことになる。もしくは、宿の店主たちは日菜太たちの事情を知っていて、情報を集めていたとか?


 ふと、彼らの言葉は本当だったのかと疑念を持った。ケイヴを危険から守るための嘘だった可能性はないのか。本当はドイルは生きていて、まだ情報を引き出せるのではないか。


 ここまで世話をしてくれた二人が日菜太を騙しているとは考えにくいし、嘘が嫌いなケイヴが信頼している相手だ。嘘をついている可能性は限りなく低いと思うが……。


「ヒナタ様? どうかしました?」

「いえ。少し、考え込みすぎただけです。……その、様をつけて呼ぶのはやめてもらえると助かるんですが。私は一般市民なので、様をつけて呼ばれるのは慣れなくて」

「構いませんが……。本当に、あの女とは違いますね。アレは、僕に名前を呼ばれるのも嫌がってましたよ。必要最低限、話しかけるなって」

「アンジェリカと私は別人ですからね。違って当たり前です」


 顔が似ているからといって、性格も同じだと思われたら堪らない。きちんと訂正したあと、日菜太は「もうひとついいですか」と質問する。


「ここで王都の外に行く馬車に乗りたかったんですけど、もう馬車は言ってしまったんでしょうか?」

「朝一番のはとっくに出発しましたよ。次は二時間後でしょうか」

「二時間後って、百二十分後?」

「ええと……たぶん。すみません、計算は苦手なんです……」

「あ、いえ。大体で大丈夫です」


 時間の感覚が違うのか、同じなのかがわからなかっただけだ。ジョンの反応を見ると、ほとんど同じらしいとわかった。時計は持っていないから、細かいことは気にしないようにしよう。


 二時間も時間が空くとわかって、日菜太は腕を組んで考えた。とりあえず、腹ごしらえしようか。


「ジョンは何か用事の途中ですか? 私、サンドイッチを持っているんですけど、よければ一緒に食べませんか」

「えっ、いいんですか?」

「食べながら色々教えてもらえると助かるのですが……」

「そのくらい、大丈夫ですよ。いただきます!」


 目を輝かせてジョンはサンドイッチを受け取る。とてもお腹が空いていたのか、急いで包み紙を開いて大きく口を開き、かぶりついた。にこにこと笑っている姿は、最初に斧を持って追いかけてきた人物と同一人物だとは見えない。


 あんな出会いだったのに、一緒にご飯を食べているなんて不思議だ。日菜太もサンドイッチの包みを開いて、かぶりついた。


「それで、何を教えてもらいたいんですか?」

「ええと……まずは馬車の乗り方が知りたいです。馬車が来るまでここで待っているのは怪しいですか? 人目につかないように行動したいんですけど」

「待っている人はいますけど、目立ちますね。人目につきたくないなら、時間まで裏路地にいるのがいいですよ。変なオヤジがいることもありますが、朝は比較的平和です。この木箱の裏に座って隠れながら、路上で寝ているフリをすれば万全です。誰も目をやりませんし、声もかけませんから」


 あと、とジョンは続ける。


「馬車に乗るなら、行き先と理由を告げる必要があります。一番疑われないのは、『ウヴォルトスへ出稼ぎに』がいいですよ。あそこは金脈が出るという噂で、たくさんの夢追い人がいますから」

「う、うぼ……?」

「ウヴォルトス。忘れたら、金脈を当てに行くと言えば大丈夫です」


 ぺろりとサンドイッチを食べ終えたジョンに、日菜太は慌てて自分のサンドイッチを半分こして渡した。


「ありがとございます。馬車の件は安心しました。あと、もうひとついいですか?」

「なんでしょう?」


 嬉しそうにサンドイッチを受け取ったジョンはそれにもかぶりつく。食べ終わったらすぐに行ってしまいそうな気がして、日菜太は早口で訊いた。


「私、男装してたんですけど、なんでわかったんですか?」

「え? ああ……。珍しい髪色だなと思って」

「黒髪が?」

「ええ。道端でしゃがみ込む変な人がいて、珍しい髪色の人がいて、なんとなく。男っぽくは見えませんでしたから」

「見えませんでしたか……」


 もしかして、男装して安全に進もう作戦は失敗しているのだろうか。日菜太を知る人物だったから見抜かれたと思いたいが、油断は禁物だ。せめて怪しい行動は控えようと日菜太は決めた。


「もういいですか? そろそろ買い物に行かないと、帰りが遅くなるので」

「はい、ありがとうございます。あ、ちなみにドイルさんの工房はどこかわかりますか?」


 二時間あるのなら、ドイルのお店を見に行ってみようと思った。店主や女将の言葉を疑うのは申し訳ないけれど、ドイルが本当は生きていた場合、ここで手がかりを失うのは日菜太には手痛い。


「ええ……? 金細工のお店ならいくつか知ってますけど……」


 道を教えるのが面倒だと、顔に書いてあるようだった。けれどすぐに表情は変わり、苦笑する。


「仕方ありませんね。サンドイッチのお礼です。途中まで同じ道ですから、送ります」

「本当ですか!」

「ここに放り出したと言ったら坊ちゃんに怒られそうなので。うちの坊ちゃんは何度も女性に嫌な目に遭わされているのに、お節介を焼くんですよ。人がいいというか、騎士としてのプライドが高いというか。まだ騎士になる前なのに、志だけは立派なんですから」


 呆れているように聞こえて、誇らしげでもある。ケイヴが自分が使う小屋の管理を任せるのだから、二人は仲良しなのだろうし、ジョンがケイヴを誇りに思っていてもおかしくない。


 ぴょんっと木箱から飛び降りたジョンは日菜太に手を差し出す。その手を借りようとして、ハッと思い出し、ジョンの真似をして飛び降りる。


「今は男のふりをしないといけないので」

「男のふりをするには女性らしすぎると思いますよ。見た目だけで騙すには難しいんじゃありませんか?」

「じゃあ、ジョンの真似をするようにします。そうしたら男らしいでしょ?」


 日菜太の言葉に、「どうでしょうか」とジョンは笑った。


 ジョンの後ろについていって、日菜太はいくつかの金細工店を回った。ドイルのお店を知らないジョンは、店の前に行けば職人の名前が書いてあるからわかると言い、ひとつひとつ見ていく。金細工のお店が意外と王都に多く、それだけ王都には貴族が集まっている証拠らしい。


 帰りが遅くなるからと言っていたジョンは、結局目的のお店を見つけるまでついてきてくれた。「ここのようです」と伝えられたお店を、日菜太は見上げる。


「思ったよりもこじんまりとしたお店ですね……」


 勝手なイメージだが、アンジェリカが利用した可能性があるのなら、もっと大きくてきらびやかで目立っているお店だと思っていた。


 隣に立つジョンも同意のようで、腕を組んで首を傾げる。


「あのお嬢様がこんな地味なお店で買い物するとは思えないんですけどねぇ……。本当にそのドイルっていう人が関わってたんですか?」

「それを調べる前に殺されたという話です。自分が利用しないと見えるお店だからこそ選んだ可能性もありますよ。あの、ジョン。ここが殺人現場かどうかわかりますか? 見たところ、規制線はないようですけど」


 お店に張り紙がしてあるけれど、何が書いてあるかは読めない。閉店、準備中の張り紙かもしれないし、他のお店にも貼ってあるようなメニューや商品説明の張り紙かもしれない。


 窓にもドアのガラス部分にもカーテンがかかっているから中が見えにくく、日菜太は後ろに立つジョンを振り返る。と、彼は申し訳なさそうに顔を赤くしていた。


「ジョン?」

「すみません……。僕、簡単な文字は読めますが、張り紙になんて書いてあるかはわからないんです。お知らせと書いてあるから、何かあったんだなとはわかるんですが……」

「そこには、店主が殺害されたためしばらく店を休業しますと書いてあるんだよ」


 しゅんとうなだれたジョンの声に被さるように、別の声がした。ジョンと日菜太は同時に驚いて、声がした方を向く。


 朝靄の向こう、ぼんやりとだけ姿が見え、二人して誰だろうかと顔を見合わせた。一方で、相手はこちらが誰なのか知っているように親しげに話しかけてくる。


「そこの店主、ドイルは昨晩殺されてね。首を刃物でぐさりと、それはひどいものだった。ただ、抵抗した様子はなく、ドアの鍵をこじ開けた痕跡もないことから顔見知りによる犯行だと見られている。ドイルは相手に対して油断し、そして殺された。金目のものは何も奪われていないから物取りでも、下級市民でもないだろう。金に困っているわけではない、もしくは金のために人を殺すなんて許せないとプライドの高い人の可能性がある。……さて、ここで問題だ」


 少しずつ見えてきた顔に、日菜太は心臓を掴まれたかのように驚いた。


「ドイルを殺した人間は誰かな、アンジェリカ・ルーバス!」


 双子の一人だ!

 ジョンの手を引いて、日菜太は走り出した。待て、と後ろから叫ぶ声がする。


「ヒナタ! あの人は誰ですか!」

「殿下の、ええと、側近みたいな騎士!」


 まずい。ジョンも逃げなきゃと思って手を引いたけれど、あそこは他人を装って一人で逃げた方が良かっただろうか。いや、一緒にいたから知人だと思われている?


 どちらにせよ、ジョンを巻き込むわけにいかない。日菜太は走りながら後ろを確認し、双子の……確かファイと呼ばれていた男が追ってきているのを見る。


「ジョン! 二手に分かれましょう!」

「ええっ?」

「私は真っ直ぐ行くから、ジョンは適当なところで曲がって逃げて!」

「そんなことしたら、ヒナタだけ追われますよ! あ、坊ちゃんを呼んで……」

「呼んじゃだめ!」


 ぎゅっと強く手を握り締める。


「自分でどうにかするから、絶対呼ばないで。何も知らせないで! ジョンも今のことは忘れて!」

「そんな無茶な!」

「巻き込んでごめんなさい。お願いだから、無事に逃げて!」


 手を離す。戸惑うジョンの顔をちらっとだけ見て、日菜太は全速力で駆けた。


 今回はドレスではない。スカートでもない。ハイヒールでもない。ズボンなら動きやすく、日菜太はできるだけ長くファイを引きつけようと走る。


 途中でジョンは何かを喚きながら角を曲がっていった。一瞬、ファイが彼を追うのではないかとヒヤヒヤしたが、予想通りファイは日菜太を追いかけてくる。


 そうだ。ファイが追っているのは罪人であるアンジェリカである。


 ジョンが無事に逃げられたことに安堵しながら、日菜太は自分も逃げ切る方法を考える。この前みたいに細い道をいくつか曲がって、どこかのドアを開けて中に入ろうか。だけど、ドアに鍵がかかっていたら終わりだ。日菜太の狙いを悟られるわけにもいかない。


 必ず相手の視界から消えることができる方法。何があるだろうかと考えていた日菜太は、ふと昨日ケイヴと渡った運河を思い出す。


 水の中なら逃げられるかもしれない。


 あの場所がどこかわからないけれど、日菜太は急いで昨日通ったであろう道を探し、路地に入っていった。


 ファイは静かに追い続けている。周りに仲間がいないけれど、もう呼び集められているのだろうか。包囲網ができる前に逃げ切らないと。


「大人しく隠れていればよかった……!」


 馬車が来るまで隠れていれば見つからなかったかもと後悔しても遅い。結局ドイルは死んでいたのだから、店主たちを疑うべきではなかったと悔いたって後の祭りなのだ。


 次は絶対、大人しくしていよう。そう決めた日菜太の視界に、見覚えのある光景が飛び込んでくる。


 運河だ。


「これで逃げられる……っ!」


 ほっと安心して、つい振り返った。ファイは泳げるだろうか、どこまで追ってくるだろうかと気になって。


 そうしたら、ファイがこちらに向かって手を差し出しているのが見える。


 なんだ、あれ。


 走りながら、ぽかーんとその手を見ていた。彼の口が動き、何かを呟いているのがわかる。そして、手元にぼんやりと赤い光が集まって、だんだんと光は大きく、強くなっていく。


 それが何か、日向には確実なことはわからない。


 けれどこの状況はあまりにもゲームや漫画で見たことがある光景に似ている。


「嘘でしょ……? 魔法は攻撃に使ったらだめだって……!」


 そう、ケイヴが教えてくれたのに。


 前を向いて、走った。水の中に落ちればあの恐ろしい光から逃げられると思って。


 柵に手を伸ばし、地面を蹴ったと同じタイミングで後ろから熱風が襲いかかってき、日菜太の体はそれに煽られて空を舞った。



 ■



 ダランの店は一階の酒場も、二階の宿も何度も利用したことがある。そのうちケイヴはダランとその妻のサラと親しくなり、裏口からこっそり入って声をかけることもあった。


「ダラン? いるか?」


 まだ朝は早い。寝ているかもしれないと思ってそうっと裏口から入ったケイヴは、誰からも返事がないので上の階に上がっていった。


 今日はまず、ヒナタと話し合わなければいけない。昨日の彼女は一刻も早く、ドイルと話し合いたい雰囲気だった。それをケイヴは殿下付きの騎士に見つかるといけないからと止めたのだ。


 まさか夜のうちにドイルが殺されるとも思わずに。


 昨日のうちにヒナタとドイルを引き合わせればよかったと思ってももう遅い。自分の判断ミスで重要な参考人を失ってしまったと、ケイヴは重い気持ちでヒナタが泊まる部屋のドアを叩く。


 返事はない。まだ寝ているかもしれないから、下で朝食を取ってから改めて訪ねようかと考える。


 が、足を一歩、横に踏み出したときに違和感を覚えた。


「……ヒナタ?」


 なぜか、ヒナタがそこにいないような気がした。静かな中、眠っている彼女が物音を立てるはずはないし、寝息がドアの外まで聞こえてくるはずもない。だが、一晩彼女の寝室を守っていたことがある身だからこそ、何か違うような気がした。


「ヒナタ。起きているか?」


 少し大きな声で問いかける。このくらいの声の大きさであれば、寝ぼけながらでも起きるはずだ。


 しばらく待ち、何の音もしないのが不気味に思えた。


「ヒナタ、開けるぞ!」


 ドアノブを回すと鍵がかかっていなかった。簡単にドアは開き、その向こうは無人だった。


 誰もいない。


 荷物が片付けられ、彼女が着ていたドレスがベッドの上に置いてある。


 どういうことだ?


「ダラン! 起きてくれ、ダラン! ヒナタが……っ!」


 焦って階段を駆け下りようとしたとき、ハッとして剣を抜き、後ろを振り向いた。背後に立っていたのはダランで、こちらに手を伸ばしかけた体勢で止まっている。


「悪い、敵かと」

「いや、俺も悪かったよ。神経質になってんな、ケイヴ」

「当たり前だ。ヒナタがいない。もしかすると、アンジェリカの協力者にさらわれたかもしれないんだ」


 昨日、ケイヴはあることが引っかかって、フローティアに話に行った。彼女に協力者のことについて相談すると、相手も同様に情報を掴んでいてついさっきまで話し合っていたのだ。ドイルが殺されたと聞き、ひとまずヒナタの身の安全を確保しようと戻ってきたらこれだ。


 なぜ、彼女の側を離れたのか。


 自分を強く責めるケイヴに、ダランは「そうじゃねぇ」と声をかける。


「違うんだ、ケイヴ。ヒナタはさらわれちゃいねぇ」

「だが、部屋にいないんだ! 俺が目を離したから、その隙に……」

「ヒナタは出て行ったよ」


 彼女の姿が見えず、苛立っている心にダランが更に衝撃的なことを言う。


 出て行った?


「まさか。ここを出て行っても、彼女には行く場所がないんだぞ? 自分から出て行くなんて……」

「俺が、ケイヴの未来を潰さないでくれと頼んだ。そうしたら、彼女はわかってくれて……」

「なんでそんなこと言ったんだ!」


 ギリギリのところで冷静を保とうとした糸が、ぷつりと切れた。剣は捨て、素手でダランに掴みかかる。


「ヒナタは渡りびとだと言っただろう! 頼る相手なんていないんだぞ! この世界の常識すらわかっていない! なのに、一人で行かせたのか!」

「そうしないと、お前がいつまでも面倒見るだろ! わかってんのか、相手は犯罪者だ!」

「彼女ははめられただけだ!」


 この、と拳が出かかったところで「おやめ!」と鋭い声で制止させられる。


「他にお客さんもいるのに、廊下で何を騒いでるんだい! 怒鳴るのはやめて、話なら部屋でしな!」


 サラに怒鳴られれば、ダランは途端に弱気になる。ケイヴもヒナタの話を大声でしてしまったことに気づき、反省した。促されるまま、二人で部屋の中に入った。


 部屋に入ってからダランは口を開かない。ケイヴも怒りを鎮めるためにしばらく黙ったまま部屋の中をぐるぐると歩き回り、やがて切り出す。


「どこに行った?」

「馬車に乗る金をやった。だから、おそらく外に……」

「外? 王都の中も知らないのに、外のどこに行くって言うんだ」

「それは……」

「馬車に乗るには行き先を告げなきゃいけない。そこでヒナタは躓くぞ」

「周りに合わせて上手くやってるだろう。あのな、ケイヴ。相手は子供じゃないんだ。この世界の人間じゃないと言っても、常識がないデタラメな人間でもねぇ。追われているなら、お前は関わらずにどっかにやった方がいいだろ? やっと殿下付きの騎士に選ばれそうだってのに……」

「女性一人を見捨てる騎士が正しいのか? 自分の地位のために弱者を見捨てるのが正しいって言うなら、俺にはできない。彼女を助ける」

「ケイヴ!」

「こっちに来て早々、アンジェに騙されたんだ! ……最初は俺のことも信用していなかったし、怯えていた。強がって、警戒心も剥き出しで、ようやく頼ってくれるようになったのに、見捨てられるはずないだろう……!」


 罪人になったと知って絶望していたヒナタが、フローティアと会って笑っていた。彼女も笑うのだと、そのとき新鮮に思ったのを覚えている。どこか悲観的な姿が当たり前に見えていたが、本当はどこにでもいる普通の女性なのだとケイヴは知った。


 追われて、怯えて、ケイヴの手に縋ってくれたときは素直に嬉しかった。信頼を得られたこと、彼女がこの世界で頼れる相手を見つけてくれたと安心したのだ。その相手が自分だったことがなぜか誇らしく、守りたいと強く思ったのに。


 ケイヴは自分の両手を見下ろして、そうかと気づく。


 アンジェリカに捨てられてから今まで、特定の女性を強く想い、守りたいと思ったことはなかった。騎士になるのなら、その守るべき範囲の中に女性も含まれるであろうという義務感しか持っていなかったのだ。


 けれど今、ケイヴはヒナタを守りたかったと悔いている。疑いばかり持っていた相手が自分を信じ、頼ってくれた。騎士としての義務感ではなく、ケイヴ自身の気持ちとしてヒナタを守りたかった。


「……探しに行く」

「もう馬車は出る頃だ。諦めて、自分の人生を考えろ。殿下付きになれるなんて、そうそうない幸運だぞ?」

「女はうんざりだと思っていた俺が、守りたいと思った相手に出会えた。それだって、もうこの先ない幸運かもしれないだろう?」

「は? いや、待てケイヴ。相手は渡りびとで……!」

「あてがないなら、話はあとだ! ダラン、せめて誰が来てもヒナタのことは話すなよ!」


 部屋を飛び出すと、廊下に剣を持つサラがいた。ケイヴにそれを差し出し、「男を探しな」と告げてくる。


「ヒナタは旅の危険を逃れるために男装している。だから、髪の短い男の格好をしたヒナタを探すんだよ」

「……わかった! ありがとう!」


 そこまで用心しないといけないとわかりながら、安全な宿を出たときのヒナタの気持ちはどんなものだったのか。やはり、側にいればよかったと何度も思う。もう一度再会できたときは、二度と離れないと誓おう。彼女が元の世界に帰るのだとしても、その日が来るまでは自分が守るとケイヴは心に決めた。


 階段を駆け下り、裏口から外へ飛び出した。王都の外へ向かう馬車が停まる場所へ足を向け、少し走ったところでケイヴは立ち止まる。


「何しに来た?」


 通りの先、同じ顔が二つ並び、冷たい双眸がケイヴを見据えている。

 ケイヴが剣の柄に手をかけると、双子も揃って同じ動作で剣を抜いた。


「あなたを捕らえに参りました」


 とファイ。


「ここで大人しく、捕まってもらいましょう」


 とフィス。


 双子の言葉にケイヴは唇の端を吊り上げて笑み、足を踏み出すと同時に抜いた剣で彼に斬りかかった。


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