三 罪人は逃げ切れるか


 朝。まだ靄が晴れぬ頃、ケイヴは外で人が動く気配を感じ、剣を片手に立ち上がった。


 寝室にはまだ眠るヒナタがいる。彼女を守るため、そのドアの前で座って寝ていたケイヴだが、窓の方へ移動して外の様子を窺った。フローティアに言われてすぐ、ルークが再びここに兵を差し向けるとは考えづらい。が、アンジェリカの手の者がやってくる可能性は十二分にあった。


 そっと窓の外を覗くと、ちょうどやってきた人物が顔を隠すように被っていたローブのフードを取るときだった。現れた顔を見て、ケイヴはほっと胸を撫で下ろす。


「フローティア様、こちらです」


 玄関の鍵を開けて呼ぶと、彼女はすぐに気づいて駆け寄ってきた。遠く離れたところに侍女がいるが、その者は遠巻きに見ているだけだ。フローティアが信頼する侍女で、実は警護も任されていると聞いている。


「朝早くから申し訳ありません、ケイヴ殿。ルーク殿下の目を盗めるときが、この時間帯しか思いつかなくて」


「構いませんよ。こちらからお願いしたことですから。すぐにヒナタを起こしてきます」


 彼女は昨夜、眠りについてから一度も起きていないことは知っている。寝返りを打つ気配すらなかったから、ぐっすり眠っているのだろう。疲れているところを朝早くから起こすのは申し訳ないが、次期王妃となるフローティアを待たせるわけにいかない。


 寝室のドアを叩こうとしたところで、フローティアの手が伸びてきた。ケイヴの手首を掴み、もう片方の手で口を押さえるように「しーっ」と注意してくる。


「まだ寝ているのでしょう? 起こさなくて大丈夫です。先に私と貴方だけでお話しませんか? 事情を知らない人間が混ざるとひとつずつ説明しなくてはならず、時間がかかりすぎます。まずは私たちで情報を共有し、彼女への情報伝達は貴方からお願いします」

「かしこまりました。では、こちらへどうぞ。何かお飲みになりますか?」

「結構よ。ケイヴ殿も座って。卒業式以来なのに、昨日今日と大変なことになりましたね」


 勧められ、まずはフローティアを座らせてからケイヴも隣の席に腰をかけた。寝室にいるヒナタを起こさないための配慮だろう。フローティアは声を潜め、淡々と話す。


「最初に、もう一度伝えておきます。私は城にいるのがアンジェリカ・ルーバスで、こちらにいるのが渡りびとであると思っています。あの女の目はよく覚えていますから。城で出会うなり恨みを持ったような目で睨まれ、すぐに分かりました。彼女が持ってきた金細工、あれを使って召喚したのでしょう?」

「そうだと、私も思います。ヒナタの話によれば、アンジェから入れ替わりを提案されたようです。自分が狙われるから、助けてやると言ったアンジェの口車に乗ってしまったのでしょう」

「あの女は嘘がお上手ですからね。事情を知らない渡りびとが騙されるのも仕方のないことです。ですが、ルーク殿下はこの度もあの女の嘘に騙されて……。今、城ではヒナタは異世界からやってきた聖女として祀り上げられているんですよ。信じられません」

「聖女?」


 突拍子もない話に、つい声が大きくなった。じろりとフローティアに睨まれ、サッと軽く頭を下げると、彼女は小さなため息とともに話を続けた。


「……ええ。自分の世界にも渡りびとの話がある。その話によれば、異世界に渡った人間はその国を救い、安寧をもたらす象徴となるだろうと言われているらしく。殿下に取り入りたいアンジェリカ・ルーバスの嘘でしょう。ですが、その話を聞いた一部の貴族が早速彼女を祀り上げ、特別な客間に通しておもてなしをしているんです。その空気に押されて、城内ではヒナタが聖女だという噂が立ち、ルーク殿下も信じ始めているようで、本っ当に困っています。ただの男爵令嬢である私の言葉は、アンジェリカの嘘よりも殿下の耳に届かないんですもの。嫌になりそう」

「届いていますよ。ただ、殿下は周りの言葉も無視できないだけですから」


 苛立つフローティアをなだめるためにそう声をかけるが、あながち嘘ではない。ルークはなによりフローティアの言葉を信じる。彼女は自分で考え、自分が思うことを口にするからだ。もちろん、口を出しすぎることはない。身分を考え、言わなくていいことは言わずにいる。だが、今回のことは口出ししなくてはならないと思ったのだろう。でなければ、アンジェリカにルークが操られると。


 フローティアの話を聞き、ケイヴにはひとつ疑問が湧く。


「見知らぬ娘の言葉をあっさりと信じすぎているような気がします。その、アンジェの嘘を信じた一部の貴族とは誰でしょうか? もしかすると、アンジェの企みを元から知っている協力者かもしれません。魔法を奪われるはずだったアンジェがその力を持ったままでいるのも、城内に協力者がいるからでしょう。今回の嘘を噂として流し、信じる流れを作っている者こそ、怪しいのでは」

「私もそう思います。殿下の敵……もしくは王族の敵が潜んでいるのではと探っている最中ですが、まだ確証は何も。あの女の嘘をすぐに信じた人物のリストはこちらにまとめてありますので、何か気づいたことがあったら連絡をいただけませんか? 私も引き続き、調べていきます」

「ありがとうございます」


 リストを受け取り、ざっと目を通す。いくつか知っている名を見たが、この人こそ怪しいという人物はいなかった。ルークの側近である双子の名前を見つけたときは頭を抱えたくなった。王子の近くにいる人間が流言に惑わされやすくてどうするのか。


 金細工については、これまたフローティアが対象となる職人のリストを作っていてくれた。一晩でこれらの仕事をやり遂げてしまうのだから、ただの令嬢にしておくには惜しい人物だ。何か役職につけばよく働く、有能な官僚になっただろう。だが、皇后という職も彼女にぴったりなのかもしれないと思う。騙された経験があっても人を信じてしまうルークにはいい相手だ。


 フローティアは城内にいる人物を調べ、ケイヴたちは金細工職人をあたることを決めたとき、まるでタイミングを読んだかのうように寝室のドアが開いた。


「ケイヴ……? おはようございます……」


 眠そうに目を擦りながら出てきたヒナタの姿を見て、ケイヴはパッと顔を背け、フローティアは「出てきちゃだめ!」と叫ぶ。


「なんて格好で寝室から出てくるのよ! 戻って! 今すぐ戻って!」

「え……? あれ、ええと……確か、フローティ……」

「いいから早く戻りなさい!」


 まだ寝ぼけているのだろう。ヒナタはどうしてフローティアに怒られているのかわかっておらず、ぼうっとその顔を見ている。業を煮やしたフローティアが立ち上がって彼女の肩を押し、寝室へと押し戻していった。ガチャンと鍵をかけられたのを聞いて、ケイヴは安心する。


 ヒナタがこちらの世界の常識を知らないのはよくわかっている。が、コルセットもなしに外へ出るのは本当にやめてほしい。マントをかけ忘れ、あまつさえドレスの胸元にあるリボンは解けていた。あれは、本当に心臓に悪い。


「何度目だ……」


 昨日から何度、ヒナタに惑わされている。ケイヴは額を押さえて、固く目を瞑る。


 これまで、ケイヴにとって厄介な女はアンジェリカだった。婚約者である自分にわがまま言い放題で、最終的には殿下と結婚したいからお前は橋渡ししろと命じられ。その裏で殿下に、ケイヴにひどいことをされていると泣きつかれていたのだった。一時期はまともな令嬢からは冷たい目で見られ、男と遊んでみたい令嬢からは嘘八百で弄ばれ。その間もアンジェリカにいいように振り回されて。


 絶対にもう、女に関わるかとケイヴは心に決めた。


 それが今、なぜこんなことになっているのかわからない。だが、手を離せば昔の自分のように泥沼に落ちていきそうなヒナタを、ケイヴは見捨てることができないのだった。


 ■


 金髪碧眼の美少女、フローティアから背中を押されて寝室に戻る。何がどうなっているんだろうと、まだはっきりと起きていない頭で日菜太は考えていた。


 フローティアは物語に出てくるお姫様そのものの可愛さで、緩やかにウェーブを描く金の髪が綺麗だった。ひとつにまとめているのがどこか幼く見え、可愛くてたまらない。白い肌に丸い頰も、お人形さんみたいだ。


「フローティアさんは……可愛いですね」

「お褒めいただき、有難いわ。でもね、ヒナタ。貴女、そんな格好で殿方の前に出るなんて何を考えているの!」


 そんな格好と言われ、自分の姿を見下ろす。コルセットは昨日外したままだが、ドレスは着ている。寝ている間にリボンは解けてしまっていたけれど、見られない格好ではない。なら、髪がぼさぼさだったのがいけないのかと、手ぐしで整えたら「違うわよ!」と怒られた。


「身なりを整えずに殿方の前に出てはだめ! コルセットをつけずに出るのもだめよ。ああ、もう! ケイヴ殿じゃなかったら間違いが起きているところだったわ。危ない……。この子、とっても危ないわ……」


 部屋の中を見回したフローティアはドレスとコルセットを見つけて手に取った。


「ケイヴ殿の話では、ドレスの着方がわからないのよね?」

「ええと、はい。そうです」

「アンジェリカが着ていた服を見たけれど、あれがヒナタのいつもの格好なのかしら? とても不思議な格好だったけれど」

「いつもはワンピースとかスカートを着ています。ショーパンは寝間着ですね。部屋着もあるから、外に着ていくこともあるけど、普段はスカート系が多いです」

「しょーぱん……? それはよくわからないけれど、色々な洋服があるのはわかったわ」


 人と話していると、だんだん日菜太の頭も起きてくる。そうだ、フローティア。殿下の恋人だ。ということは偉い人である。


 日菜太の意識が覚醒するよりも早く、フローティアはテキパキと行動を開始していた。


「ケイヴ殿! 聞こえます? 悪いんですけど、外で待たせている侍女に屋敷から私の衣装を持ってくるよう、伝えてくれませんか。お忍びでよく着ていた服を中心に、ひと通り必要なものを持ってくるようにと」

「承知いたしました」


 ケイヴの声が、畏って聞こえる。やはりフローティアには敬意を払わなきゃいけないんだと日菜太は緊張するけれど、フローティアはそんなのお構いなしに日菜太の体にベタベタ触ってきた。


「あ、あの、フローティア……様?」

「先ほどと同じ、『さん』で構いませんわ。私もヒナタと呼びますから」

「え、ええと……そう、ですか」

「ヒナタ、貴女、結構肉付きがいいんですね。これじゃあ、コルセットもつけにくいでしょう」


 ドキッとした。ダイエットは何度か試みているけれど、成功したあと必ずリバウンドしている。標準体重ではあるけれど痩せている方ではなかった。


「すみません……。ダイエットが上手くできなくて」

「ダイエット?」

「痩せる方法です。えっと、ご飯の量を減らしたり、栄養を考えたり、運動したりすることですね」

「ああ、なるほど。こちらの世界でも減量があるわ。ケーキを食べたいのに、一口も食べられないときなんて拷問に近いものがあるわよね」

「そ、そう! それです! テレビでパンケーキ特集やったら絶対に行きたくなるから見ない方がいいのに、ついつい見ちゃって、パンケーキの代わりにアイスを食べちゃったりするんです!」

「……ヒナタの話には、時々わからない単語が混ざるわ。やっぱり、渡りびとは貴女のようね」


 まあ、顔を見ればわかるけど、とフローティアはため息をつく。


 そういえば、ケイヴだけではなくフローティアもアンジェリカに因縁がある人だ。ケイヴの話によればアンジェリカに嫌がらせをされ、怪我もさせられたという。今、見える範囲で怪我をしている様子はないけれど、見える位置にあるとは限らない。


「あの、ケイヴから怪我をしたと聞きました。もし今辛いなら、座りながら作業しますか? 指示をもらいながら自分で着替えることができると思いますし……」

「大丈夫。もうほとんど治っているの。でも、心配してくれてありがとう。ヒナタはいい人なのね」


 にっこり笑ったフローティアの顔は美しすぎて、日菜太はどきりとした。この顔に、アンジェリカは嫉妬したことがあるのだろうか。日菜太は自分が可愛くないとわかっているから、嫉妬よりも純粋に感動した。こんなに綺麗な顔があるのかと。


 どきどきする心臓をなだめるため、日菜太は視線を逸らして話を変える。


「そ、その、フローティアさんは殿下の恋人なんですよね? 王子様の恋人ってすごいですね。私の世界だと、夢物語です」


 日菜太の言葉に、フローティアは目を丸くし、ぷっと吹き出した。


「あはははっ! こっちでもそうよ、ヒナタ。私、ルーク殿下の恋人になるなんて思いもしなかったわ。何の運命か、今は彼の隣にいられるけれど、私はただの男爵令嬢だから今後はどうなるかわからないわね。夢で終わるかも」

「えっ。でも、殿下はあなたのこと、すごく大事にされているように感じましたけど。……その、私の話を聞かないくらい、アンジェリカに対して怒っていました」


 あのときのことを思い出すと、むかむかする。自分はアンジェリカではないと訴えかけても聞き入れてもらえず、一方的だった。恋人が傷つけられたからだとケイヴから話を聞き、納得はしたけれど怒りは消えていない。


 日菜太の言葉に、フローティアは喜ぶよりも先に申し訳なさそうに眦を下げた。


「殿下はね、真っ直ぐなところがあるいい人よ。でも、だからと言って自分の心のままに人を裁くことは許されないわ。ごめんなさい、ヒナタ。私がその場にいたら殿下を叱りつけて、もっと話を聞くように言えたのに。こんなふうに逃げることになってしまって、申し訳なく思っているわ」

「いえ。殿下のことでフローティアさんが気にされることはありませんよ。私はただ、大切にされているなって思っただけですから」

「大切、ね。恋人としては喜ぶべきなんでしょうけど、今後のことを考えると不安だわ。王族が私情で正しさを見誤るのはよくないことよ。誰かに見咎められ、王族の威信が失われることもあり得るわ。その原因に私がなるなら、最初から排除すべきと言われることもあるでしょうし」


 さっきは笑っていたのに、殿下の話になるとフローティアの表情は沈む。ため息の数も増え、恋人の存在が重荷になっているように見えた。


「殿下のこと……不安なんですか?」

「ええ、まあ」


 自嘲気味にフローティアは笑い、持っていたドレスを丁寧に畳んで椅子にかけていく。


「殿下はお付き合いだけではなく、結婚まで考えてくださっているの。それは嬉しいんだけど、国の大事でしょう? 愛だけで上手くいくとは思えないし、一男爵の娘が王族に嫁入りするのをよく思わない人もいる。今はいいけど、もっと身分も良くて殿下と年が近く、王妃としてやっていける女性が現れたら、私の座は危ないでしょうね」

「愛し合っているだけじゃ、だめなんです……?」

「だめよ。皆が納得しない。だから私、殿下に不甲斐ないところがあるならサポートできるように勉強しているし、社交も頑張っているの。他の婚約者候補が現れても周りが私を選ぶように」


 沈んだ顔をしていたフローティアが、ニッと笑う。そして胸を張って、得意そうに続けた。


「実は学生時代、私以外にもう一人、殿下の婚約者候補がいたの。それがアンジェリカ・ルーバス。ケイヴと別れて殿下に取り入ろうとしてたんだけど、私の方が努力家だったのよ。彼女は後ろ暗いことも多くしていたから、私の努力の方が実ったってこと」

「殿下と結婚するために、そんなに大きな努力が必要だったんですか」


 日菜太の中で、王子と結婚する女性は幸運だけで生きていけるような、夢みたいな設定が強い。二人が愛し合い、悪者は愛に倒れ、周りは祝福する。


 けれどファンタジーの世界でも現実は厳しいようだ。フローティアは笑い、頷く。


「殿下は愛してくれているけれど、国王陛下は違うわ。アンジェリカ・ルーバスに国と王子は任せられないって私に言ったの。私の努力が認められたのよ。だからね、ヒナタ」


 ぎゅっと手を掴まれる。真剣に、怖いくらい近い距離に顔を近づけ、彼女が告げた。


「私は、あの女を再び蹴落とさないといけない。だから、貴女に手を貸すわ。アンジェリカ・ルーバスが二度と殿下の前に現れないよう、徹底的に戦うわよ」


 ヒナタよりも強い意思でアンジェリカに恨みを持っていそうだ。ケイヴに至ってもそう。一部協力者もいるようだけれど、アンジェリカ・ルーバスという人物は人から恨みを買いやすい性格だったのかもしれない。


 気圧されて頷きかけたとき、寝室のドアがノックされる。「侍女から荷物を預かってきました」とケイヴの声がし、フローティアはパッと手を離して、微笑んだ。


「さあ、それじゃお着替えしましょうか!」





 フローティアが侍女に持ってきてもらった洋服は、ドレスとは少し違っていた。こちらの世界のドレスに慣れていない日菜太でも簡単に着替えられるようにと、ワンピース型の洋服を持ってきてくれたのだ。シュミーズのような下着代わりの洋服を着て、コルセットを身につけたあと、ワンピースとエプロンを被ったら終わり。


 ワンピースを着る前に四角い袋状の布がついた紐を腰に巻く。


「あの、これはなんですか? 真ん中に切れ込みが入ってますけど……」

「これは小物入れよ。ワンピースにも切れ込みが入っているから、ここから手を入れて、中に必要なものを入れて。エプロンは切れ込みを隠すために必ずつけること」


 なるほど。つまりこれはポケット代わりということかと日菜太は納得した。洋服自体にポケットがついていないだなんて珍しい。


 コルセットは日菜太一人でも身につけられるようにと、ビスチェ型のものが用意された。前側で紐で編み上げて締めるタイプだ。フローティアに見本を見せてもらったあと、解いて自分でやり直し、むうと顔をしかめた。


「やりづらいですね」

「慣れよ、慣れ。私も普段は侍女に手伝ってもらっているから上手いとは言えないけれど、繰り返していれば見れるようにはなるわ」

「この上に服を重ね着るとは、季節によってはすごく暑そうです」


 今、気候は穏やかだ。二枚、三枚と重ね着しても暑くはないけれど、これが真夏だったら暑そうだ。


 そう思って口にした日菜太だったけれど、フローティアは笑って否定する。


「ここらへんはいつでも今みたいな気温よ。北や南には季節というものがあるそうだけれど、私は知らないわ。日菜太の世界には季節が普通にあるのね?」

「はい。春夏秋冬とあって、地域によってすっごく暑いところと雪が降るところと違いがあるんですけど、私が住んでいた場所は夏は暑くて冬はたまに雪が降るくらいで、過ごしやすいところでした」

「雪ね……。本では読んだことあるけれど、見たことはないわ。私もいつか見てみたい」


 アンジェリカのことが絡まないと、フローティアは穏やかな話し方をする。にこにこ笑いながら話してくれると、こちらに来てからずっと落ち込んでばかりだった日菜太の心も浮き上がってくる。持ってきた洋服はすべてフローティアのお下がりで、流行遅れのものもある庶民向けのワンピースだと申し訳なさそうに説明されたけれど、ファンタジー映画の衣装みたいな洋服はコスプレみたいで楽しい。今まで着る機会はなかったけれど、一度着てみたいなという願望はあったのだ。


 最後にストッキングを履いて、ガーターリングをつけたらフローティアが身嗜みをしっかりと確認した。おかしなところはないかひとつずつ確認するたびに、どこに気をつけて着ていけばいいのか教えてくれる。とにかく脚を見せてはいけないことはわかった。ドレスよりは動きやすい服装だけれど、コルセットを身につけているためか背筋は強制的に真っ直ぐになるし、胸を押さえつけられている感覚はある。


 慣れないなと思いながら、自分の姿を見たくなった。憧れがあった服を着た自分を見てみたいと思うのと、似合っているかどうかの不安だ。思いっきり日本人顔の自分に綺麗なフローティアが着ていた洋服が似合うのか、疑問である。


「あの、フローティアさん。ちゃんと着れているかも気になりますが、変じゃないかどうかも気になるんですけど、どうですか?」

「あら。私は貴女に似合う服を選んで着せたのよ。似合っているに決まってるじゃない」

「でも鏡がないから見れないですし……」

「じゃあ、ケイヴ殿の意見ももらう? 待ってね。あとは髪だけ整えたら終わりよ」


 ぼさぼさになっていた髪を櫛で解かしたフローティアは、紐を使って器用に髪をまとめていく。束にまとめ、くるくるとリボンを巻いていっているのだけれど、教えられても自分でできる気がしなかった。髪もまとめるのがマナーなのだろうか。絶対にまとめなきゃいけないと言われたら、今後しばらく苦労しそうだ。


 ひと通りの準備が終わって、ようやくフローティアから良しと言われたとき、既に朝は過ぎていた。朝早く起きたのに、準備だけにどれだけ時間がかかるのだろうか。教えてもらっていたから余計時間がかかっていたとしても、一人で準備するとなったら時短できる方法を探さないと。


 そんなことを考えながら、寝室のドアを開けようとし、立ち止まる。ケイヴの意見を聞こうと外に出るわけだけど、日菜太としては似合ってないんじゃないかと思う格好を見せるわけである。勇気が必要だ。


「ヒナタ? どうしたの?」

「いえ……。少し緊張しただけです」


 深呼吸を一回して、ドアノブを回す。長い時間待たされていたであろうケイヴは、寝室の前に立っていた。腰に提げている剣の柄に指を当てていて、ドアが開いたのを見るとパッと手を離して薄く笑みを乗せる。


「準備は終わったか。それじゃ、今後のことだが……」

「ケイヴ殿。その前に着替え終わった女性に対して言うことはありませんか?」

「え? ああ、悪い。似合っているよ、ヒナタ。ドレスより楽か?」

「う、うん。変じゃない?」

「変じゃない。ドレスより楽ならよかった」


 それじゃあ、今後のことを話そうかと、ケイヴは話を切り上げてしまう。なんだかフローティアに言われて褒めたようだ。ケイヴが嘘をつくとは思えないけれど、日菜太の格好などどうでもいいというような雰囲気を感じる。


 フローティアも呆れたように小さく頭を振ったけれど、しつこく訊くことはしなかった。


「私は先に城に戻ります。殿下がまたアンジェリカに惑わされていても困りますし、協力者探しのこともありますから。何かわかったら侍女を向かわせますので、ケイヴ殿も彼女に伝言をお願いいたします。ヒナタ、私が教えたことを忘れずに、慎みを持って過ごすのよ」

「はい。ありがとうございます」

「感謝いたします、フローティア様。また後日、連絡します」


 優雅にドレスの裾をつまみ、頭を下げる姿に日菜太は感動した。本当にお姫様みたいだ。


「フローティアさんって、本当に綺麗で、可愛い人だね」


 彼女が帰ったあと、しみじみと呟くとケイヴが笑う。


「学院でも彼女のファンは男女問わず多かったな。人を惹きつける魅力がある人なんだろう。まさに妃に相応しい人さ」

「ちょっとわかるかも」


 殿下には良い印象はないけれど、フローティアは信頼できる気がする。こちらの世界に来て初めて、初対面からそう思える人に出会えた。


 おそらく、ケイヴが助けてくれて気持ちが落ち着いてきたからだろう。ささくれだっていた気持ちも、次に何をすればいいかわかって、混乱も落ち着いた。だから自然とフローティアの良さを受け入れられたのかもしれない。


 彼に感謝をしなくてはと隣を見上げたら、ケイヴはどこか嬉しそうに笑っていた。


「どうかしたの?」

「いや。君の表情が少し晴れ晴れとしているように見えて、安心したんだ。フローティア様の効果はさすがだな。ずっと暗い顔をしていたヒナタに笑顔を与えてくれたんだから」

「……そんなに暗かったかな」

「最初はこの世の終わりみたいな顔をしていた。昨日寝るときも不安があるように見えたが、今はそうでもない。やはり、男が側にいるよりも同性の方がよかったかな」


 最後だけ、ぽつりと呟いたケイヴだけれど、すぐに笑みを取り戻す。


「じゃあ、話を続けようか」


 フローティアのおかげだけじゃない。ケイヴのおかげもあって、暗い表情も明るくなったのだろうと言いたかったけれど、タイミングを逃した。また今度でいいかと思い、日菜太は彼の言葉に頷く。


 席について、簡単な朝食を食べながらこれからの話をする。


「フローティア様から金細工が作れる職人のリストをもらった。俺たちはこれから、ここに名前がある人物を探っていく。城内にも協力者がいると思うが、そっちはフローティア様が探してくれるそうだ」


 ケイヴが見せてくれたリストに日菜太も目を通す。当たり前だけど、言語が違った。日本語ではないし、英語でもなさそうだ。


 人数だけ数えると五人、金細工が作れる職人がいるということになる。


「手当たり次第に当たるの? それとも、目当ての人はいる? アンジェリカと懇意だった職人さんとか」

「アンジェは自分より身分が下の者に興味はないからな……。ルーバス家に出入りしていた職人も当てはまらない。あたりをつけるとしたら、昔旅行したことがある町にいるこの職人か、連絡が取りやすい王都の職人かだな」

「王都って、私が最初に捕まっていた場所だよね?」

「ああ。ここから近い。こっちの町まで行くには馬車を乗り継ぐ必要があるから、アンジェリカ一人で行動していたとすると、王都の職人の方が可能性は高いが……」


 悩むようにケイヴが黙り込む。懸念する点は何か、日向も考えて口を出してみた。


「違っていた場合はタイムロスになる? 二人で手分けして探せる方がいいのかな」

「まだヒナタはこちらの世界に慣れていない。タイムロスになるとしても、何かあったときのため、一緒に行動していた方がいいだろう」

「じゃあ……」

「王都に二人で行く場合、君が目立ちすぎる。さすがに王都の中ではアンジェの顔も知られているからな。罪人として捕らえられている噂も流れているだろうから、誰かに見つかって通報された場合、兵が押し寄せてくる」

「……私がお荷物になってるんだね」


 わかっていたことだけれど、何か手伝おうとしてもこの顔がネックになる。大人しくしている方がケイヴにとっては有難いのかもしれないが、彼は笑って否定した。


「お荷物じゃないさ。殿下がここに兵をよこした時点で、もうこの小屋の中も安全じゃなくなっている。新しい隠れ家も見つけていないから、一緒に行動する方がいいという考えは変わらない。だが、堂々と町中を歩くのは難しいから……」


 腕を組んで考えていたケイヴは、「そうだ」と思いついたように訊いてくる。


「フローティア様からいくつか着替えをもらっていただろう? その中に、ローブはなかったか?」

「ローブ?」

「ああ。彼女もここに来るまで身につけていたから、きっと荷物に入っていると思うんだが」

「ちょっと待ってて。調べてくる」


 急いで席を立ち、フローティアが置いていった鞄を取りに行く。確か、フローティアは着替えを男性に見せるものではないと言っていた。日菜太は寝室で鞄を広げ、ローブらしきものを探し、持っていく。


「これで合ってる?」


 ローブと聞けば、イメージは湧く。フード付きのロングコートだろうと思って見せてみれば、当たっていたようだ。


「ああ、それだ。フードを被って顔を隠すように歩けば問題ないだろう」


 それから、人に声をかけられてもなるべく顔を上げないように、基本的にはケイヴが受け答えをすると決まって、出発した。金細工の職人に会ってもケイヴが話すというから、つい「私も話す」と日菜太は意見した。


「アンジェリカのふりをして会うと言ったでしょう? ケイヴがアンジェリカ・ルーバスに金細工を作ったかと訊いて、相手が素直に答えてくれるとは限らないじゃない。私がアンジェリカのふりをして話した方が、相手の口は軽くなるでしょう?」

「だが、相手がアンジェの依頼を受けた職人じゃなかった場合はどうする? 兵に通報され、君は捕まるぞ」

「それはっ……! ……困るけど」

「なら、俺が前に出た方がいい。君は俺の後ろにいて、話を聞くだけだ」


 それでは、自分も何かしたいと提案した意味がない。ケイヴは日菜太の気持ちもわかると言ってくれたが、協力をお願いするつもりはなかったのか。


 もやもやしながら日菜太はケイヴの後ろを歩いていたけれど、ふと先を歩く彼が立ち止まり、振り返った。


「そろそろ人と会うかもしれない。顔を隠しておいてくれ」


 髪型を崩さないよう、丁寧にフードを被せられた。顔の横に垂れた髪を直すように手が滑ったとき、頰に手の甲が当たる。何気ない仕草だったけれど、ぴくりとケイヴの手が止まって、もう一度、今度は意思を持って頬を撫でてきた。


「フローティア様と話したあとは元気だったのに、俺と話したあとは不服そうな顔をするな。そんなに何かしたいのか?」

「自分のことは自分でできるようになりたいの。もちろん、今は常識知らずで追われている身で、自由に何かできるわけじゃないってわかってるけど……。頼りっぱなしって、申し訳なくならない?」

「女性は誰かを頼るものだって、俺は習ったけどな」

「この世界の常識はそうなんだね」


 常識のズレを知っても、そこに意識を合わせるのは難しそうだ。ため息を溢しそうになって、ケイヴの方が大変なのにわがままを言い過ぎるのもいけないかと堪える。


 だが、昨夜、ケイヴは日菜太にここはわがままを言える環境だと告げたのだ。我慢しなくていいと言ったはず。


 迷い、悩んで口にする。


「頼ることが正しいのかもしれない。でも、できることなら私に金細工の職人の話させて。ケイヴが話して、怪しそうだと思ったら私も口を出す、というのはどう? ケイヴが揺さぶったあとにアンジェリカとして私が出てきたら、相手もびっくりするでしょう?」

「なるほど? 俺が『アンジェリカ・ルーバスが逃げた。魔法を使おうとして失敗したようだ。カンカンに怒っている』とでも言えば、相手がうろたえ、君が来たとき本当のことを話すと?」

「そう。一旦、ケイヴが安全確認をしてるんだから、私が行っても危険はないでしょ?」

「確証は持てない。相手が武器を持ち出してきたら……」

「叫ぶ。すぐ逃げる」


 日菜太の世界で推奨されている防犯方法だ。不審者に会ったらまず逃げる。周囲に助けを求める。通報する。通報はできないけれど、周りに助けを求めて逃げることはできる。


 即答した日菜太にケイヴの表情が柔らかくなった。


「戦う気がないなら、いいか。少しでも危ないと思ったら俺を呼べ。すぐ駆け付けられるところにいる」

「すごく頼もしいけど……なんというか、ケイヴは騎士みたいだね」


 日菜太が金細工職人相手に戦うつもりがないとわかってか、ケイヴは安心したように歩き出した。再び日菜太はそのあとを追いながら言うと、相手は笑って「そうだ」と答える。


「一応、学院では騎士になるための勉強をしていたんだ。幸運にもルーク殿下と親しくなれたから、騎士団へ入るコネはできたな。もし騎士になれなかったときは実家に帰って、兄の仕事を手伝うことになるだろうが、学んだことは無駄にならないだろう」

「騎士団……」

「似合わないか?」

「ううん。似合うとは思うけど、本当に騎士とか王子とかいる世界なんだなって。そういえば、魔法もあるんだよね。未だに見たことがないんだけど、戦うときに使うの? ファイヤーとか?」

「ファイヤー?」


 適当にありそうな魔法をあげてみたら、ケイヴは怪訝そうな顔で首を傾げた。こちらの世界にファイヤーという魔法はなさそうだ。


 なんでもない、と苦笑いで頭を振ったら、ケイヴも深くは突っ込んでこなかった。


「魔法は日常生活に使うんだ。戦いに使ったら、国際法違反で国ごと厳しく罰せられる」

「そうなの?」

「当たり前だろう? もし魔法を戦争に使うようになったらどうなると思う? 簡単に町は破壊され、焦土となるぞ。向こう十数年は作物も育たないかもしれない。遥か昔は国際法もなかったから魔法を使った戦争もあったらしいが、悲惨なものだったと記されている。人は生きたまま焼かれたり、捕虜は氷漬けにされたり、国王を操って内側から国を崩したり。誰でも魔法を使えるからこそ、それを戦いに使わないよう義務付けられた。そのあと、剣の時代がきたみたいだな」

「その法って、律儀に守られてるんだ……」

「守らなければこの世界で生きていけないからな。なんだ、ヒナタの世界はそんな怖いところなのか? こっちは今平和なんだが、ヒナタの世界はどこでも人が死ぬような世界?」

「どう……だろう。国による。私は平和なところにいたけど、人が死なない世界ではなかったよ」


 ファンタジーな世界だから、こっちの方が物騒だと日菜太は思い込んでいた。けれど、もしかすると日菜太がいた世界の方が平和ではないのかもしれない。


 日菜太の答えに、へえ、とケイヴは気の毒そうな顔で相槌を打った。大変な世界から来たと思われたのかもしれない。きちんと否定した方がいいかなと日菜太が口を開きかけたとき、ケイヴが手を差し出してくる。


「ちょっと手を貸してごらん」

「う、うん」


 言われた通り、ケイヴの手を掴む。すると、彼は口の中でぶつぶつと何かを言った。なんと言ったのか日菜太が問う前に、繋いでいた手からほんわりと微かに温もりが伝わってくる。体温とは違う、カイロを持ったときのような熱だ。


「手があったかい……!」


 驚いて顔を上げると、ケイヴが得意げに笑った。


「これが魔法だ。精霊の力を借りて暖を取ったり、涼んだりすることが多いな。あとは家事にもよく利用されている。基本、魔法は火と水、あとは土と木の精霊から力を借りるんだ。だから、農家はよく魔法を使って食物を育てているらしい。魔法の使い方次第で出来が変わるんだと」

「へえ……! 思ったよりも平和的な使い方がされてるんだね」

「でないと、物騒すぎるだろう。町中で魔法を使った喧嘩なんてされたら迷惑だ」


 言われてみるとそうなのだろうと思うけど、イメージと違いすぎてよくわからない。すごいね、と感心するとおかしそうにケイヴは日菜太を見る。


「ヒナタも魔法が使えたら、きっと今の世の中でよかったとわかるはずだ」

「そうだね。魔法、ちょっと使ってみたかったな」


 そんな平和な世界なら、魔法を習って生活に役立ててみたかった。アンジェリカの嘘を暴いたあと、元の世界に戻るまで日菜太はここで暮らさなければいけない。きっと社会は魔法が使えること前提で動いているから、住む家も魔法を使う人のために作られているはずだ。暮らしにくそう。


 少しだけ、ケイヴは魔法を使うコツを教えてくれた。けれど「まずは精霊に力を貸してもらうように……」という説明で躓いた。ケイヴたちはなんとなくだけど、常に精霊の存在を感じているらしい。でも、日菜太は一切感じない。頼むことすらできず、王都に着いてしまった。


「まあ、魔法はまた今度だ。ここからは顔を上げずに、俺の後ろについてきてくれ。手は絶対に離さないように」

「うん」

「俺の知り合いに会ったときは恋人と紹介するが……、ヒナタに問題はないか? 向こうに恋人がいるなら、もっと別の言い訳を考えるが」

「大丈夫。いないから」


 ケイヴはいいのだろうかと訊きかけ、やめた。アンジェリカに怒っている彼が新しい恋人を作っているとは思えない。余計なことは言わないでおこう。


 よかったと呟いたケイヴは、そのまま日菜太の手を引いて歩き出す。森の中を歩いていたときよりも近くに引き寄せられ、日菜太は彼の服を掴んだ。王都は大きな町で、たくさんの人がいる。満員電車ほどではないけれど混雑しているから、はぐれないようにしなければ。


 日菜太が服を掴んだとき、ケイヴは少しだけ振り返ってきた。何をどうしたと驚いた目をしていたけれど、しっかりと服を掴んでいたからはぐれないためだとわかったのだろう。何も言わず、目的地まで歩いていく。


 王都の道は、車道と歩道に分かれていた。車道は馬車が通る道のようで、細い轍のようなものが何条も残っている。場所によっては車道より歩道の方が広く、馬車はすれ違うために道を譲り合うシーンもあった。貴族だけ使う乗り物かと思いきや、バスのように停留所もあり、一般市民が使っている様子もある。


 歩道の両脇には店が続く。一階は店舗、二階以上が住宅となっている建物が多いらしい。屋台のような出店の数は少なく、ほとんどの人が通りを歩きながら店の前に貼られているお品書きのようなものを見ている。ケイヴにあれは何かと問えば「今日の掘り出し物案内か、メニューだろう」と返されたから、日菜太の読みは間違っていなかったようだ。


 通りを歩く人は日菜太みたいにラフな格好をしている女性や、ワードローブらしい姿の男性が多いけれど、店の利用者は馬車から降りていく人もいる。貴族ばかりが馬車を使うのではなく、富裕層なら誰でも持っているのかもしれない。店によって格式が決まっているところもあるようだけれど、ほとんどのお店が誰でも気軽に入っていっている。


「平和なんだね」


 あまり顔を上げないように気をつけながら町の様子を見ていた日菜太がそう声をかけると、ケイヴは「だろう?」と頷いた。


「ほとんど争いがない、平和な国というのがヘレトス王国の良いところだ。本当ならヒナタにも自慢したいところだが、連れてこられた経緯を考えると、良いところだと胸を張るのが難しいな」

「アンジェリカ一人のことで、国全体の良し悪しは判断できないよ。どんな国にも極悪人はいるでしょ?」

「一人じゃないから、ややこしいことになってるだろう?」


 アンジェリカには協力者がいるから、日菜太はこの世界に呼ばれて、罪人にされて困っている。ケイヴはそう言いたいのだろう。


 だけどそれでもこの国が平和で良い国だとケイヴは胸を張っていいはずだ。


「皆が悪い人なら、私もこの国は最悪って思ってたかもしれないけど、ケイヴが助けてくれたから。あなたが良い国って言うなら、そうなんだろうなって思うよ」


 道を歩いていて、不穏な雰囲気はない。皆、それぞれゆるりと過ごしていて、楽しそうだ。一応逃亡の身である日菜太もそれほど危険を感じなかった。


 もちろん、ケイヴは気を抜かない。人とすれ違うときは自然と日菜太を庇い、相手に顔を見られない位置へと誘導してくる。だけど、褒められたことが嬉しかったのか、声は弾んでいた。


「本当はいい国なんだ。すべてが片付いたら、色々案内しよう。ヒナタはどこへ行ってみたい?」

「じゃあ、美味しいもの食べたい。私の世界にはない食べ物とか探して、食べ歩けたらいいな」


 こちらに来てから食べたものと言えば、ケイヴが用意してくれた夕飯と朝食のみだ。狩猟小屋にあった食材で作ったそれは携帯非常食になるものらしく、堅くて酸っぱいパンだった。付け合わせに用意されたのは保存が効くピクルスで、長期保存を目的としているためかこちらも酸っぱかった。だから、こちらの世界にはどんな料理があるのか日菜太はよく知らない。パンとピクルスを食べるなら似た食べ物も多いかもしれない。


 きょろきょろして左右にあるお店を見ていく。ポスターを飾ってあるお店はなく、飲食店では食品サンプルを置いているところもない。どんな料理があるか皆目見当もつかなかった。


 そのうちケイヴは人が多い通りから外れ、細い道に入っていく。建物は高く、道は日が当たらず薄暗くなった。自然、ケイヴの服を掴む手の力が強くなる。何事もないと思うが、急に雰囲気が変わって怖くなったのだ。


 日菜太の様子に気づいたケイヴは立ち止まり、ポケットを探った。


「俺は例の職人のところへ行ってくる。ヒナタは一度、待っていてくれないか」

「え、一緒に行くって言ったでしょ?」

「先に俺が相手を揺さぶって、怪しそうであればヒナタが接触するという話だっただろう? 君はさっきの道に戻って、これで好きなものを食べてきてくれ。この文字が書いてあるお店は外に持ち出して食べることができるから、買って外に出て、この道の入り口のところで食べていてくれ。あそこなら人目もあるし、立って食べていても変な目では見られないから」


 これと言って渡されたのは銀色の硬貨だ。おそらく銀貨だと思うけれど、これで何が買えるかわからない。更にケイヴが紙に走り書きした文字も見る。読めないけれど、テイクアウト可能とでも書いてあるのだろうか。


「お店というか、その人の家の前までついていったらだめ?」

「何があるかわからないからな。俺は絶対に戻ってくるから、それまでいい子で待っていられるか?」

「……待てます」


 子どもじゃないんだから、と言いたくなるのを堪えたけれど、不満は顔に出ていたらしい。ケイヴはおかしそうに笑って、ぽんぽんと頭を叩いてきた。


「ここから出て左に三ついった店は、きっとヒナタが気に入ると思う。ビーンズパイがおすすめだ。何を食べるか迷ったら行ってみてくれ。君の世界にあるかはわからないが、美味しいものだとは保証する」

「私が食べに行きたいと言ったから、お金を貸してくれるの?」

「少しくらい、こっちにいい思い出があるといいだろう? このお金はアンジェが迷惑をかけた詫びだと思って受け取ってくれ。まあ、迷惑の言葉だけで済ませられるほど可愛いものじゃないが……」


 迷ったあと、ケイヴはもう一枚、銀色の硬貨を追加した。


「同じ店にリンゴ酒があるから、それも飲んでいくといい。ちょっと甘くて俺は苦手なんだが、女性には人気なんだと」

「わかりました……」


 受け取らないと、ケイヴが納得しそうにない。もらった硬貨を握り締めて、日菜太は彼の背の先を見る。


「遅くなったら迎えに行く。この先に職人の家があるんだよね?」

「ああ。だけど、迎えは必要ない。ここは暗いから、明るいところで待っていてくれ」

「じゃあ、早めに戻ってきて」


 ケイヴに何かあったら日菜太が心苦しい。一緒についていって自分に何かできるとは思えないけれど、何もせずにいて彼が傷付けば自分を責めてしまいそうだ。


 日菜太のお願いにケイヴは「わかった」と答えたけれど、どうにも落ち着かない。踵を返してさっさと歩いていく後ろ姿を見送り、日菜太は手に残された硬貨を見下ろす。


「……まあ、とりあえず買いに行こうか」


 戻ってきたとき、日菜太が何も持っていなかったらケイヴも気にするだろう。おすすめだと言うビーンズパイとリンゴ酒を買って、ケイヴが戻ってきたとき感想を伝えよう。


 フードの被り直して、来た道を戻る。一人で王都を歩くのは緊張したけれど、周囲を注意して歩いている人はいない。フードを被っている人も何人かいるから、不審な行動さえ取らなければ日菜太だけが変に注目を集めることはないだろう。


 左に三つ。外から見ても何を売っているかわからないけれど、じっと看板を見つめて、意を決してドアを開ける。「いらっしゃいませー!」と店員が元気な声で出迎え、日菜太はどきどきしながらサッと周囲を見回す。メニューがない。見本もない。


 ひとつ前の客がレジカウンターで注文しているのを見て、日菜太もその後ろに並ぶ。注文の仕方を真似て、ビーンズパイとリンゴ酒を無事に手に入れる。


「銀色の硬貨三昧もいらなかったじゃない……」


 よくわからず「百五十ルピです」と言われ、とりあえずもらった三枚の硬貨を出したら、一枚多いですよと教えられた。わざとらしく「間違えちゃいました」と言ったけれど、店員に顔を覚えられなかったかが心配だ。


 二枚の硬貨を出して、もらったお釣りは茶色の効果一枚。ということは、日菜太は三百ルピを持っていて、お店でお買い物をしたから残金百五十ルピということ。……もしかして、ケイヴは自分の分も買ってきてくれという意味で三百ルピくれたのだろうか。


 もう一回、買いに行こうかと思ったけれど、立て続けに行くのも悩みどころだ。食べ終わってから、美味しかったからと理由をつけて行こうと決め、ケイヴに指定された場所へ向かう。


 薄暗い道の先を見るけれど、ケイヴの姿はなかった。順調に買い物ができたから、まだそれほど時間は経っていない。どれくらい時間がかかるのだろうかと考えながら、日菜太はリンゴ酒を入れてもらった瓶を手から提げ、ビーンズパイの包み紙を広げた。


 赤と緑の豆がトッピングされたパイは、包み紙を開けた瞬間、いい匂いが広がる。この世界に来て、初めての買い食いだ。どんな味がするんだろうと、今の状況は一旦忘れてわくわくする。


「いただきまー……」


 小さく呟き、口を開けたときだった。


「アンジェリカ・ルーバス!」


 大きく叫ばれた名に、ぎくりと体が固まった。

 ハッとして顔を上げれば、店が並ぶ通りの先に二人の男がいた。まるっと同じ顔の双子だ。見覚えがあると思い、すぐに彼らのことを思い出す。


 殿下が連れていた男たち!


 急いで日菜太は細い道に入ろうとし、足が止まる。ここを通れば、金細工の職人に会いに行ったケイヴと会ってしまうかもしれない。彼が双子たちと会ったらどうする? 殿下に、日菜太の仲間だったと知られたら、彼の未来が潰れてしまう。


 くるりと身を翻して、日菜太はそのまま店が並ぶ通りを走った。細い道は他にもある。どこにどう繋がっているかわからないけれど、まずは双子たちから逃げて、またここに戻ってくればいい。


 走ろうとした瞬間、焦ってビーンズパイを落としてしまったのはショックだった。せっかくケイヴが気を使って買ってこいと言ってくれたものなのに。

 いい思い出ができるようにって、買ったものだったのに。


 ワンピースの長い裾を持ち上げて、日菜太は走る。きゃあ、と叫ぶ女性の横を通り過ぎて、何やら揶揄するように笑う男たちを避けて細い道に入って、双子たちを撒けるよう手当たり次第に角を曲がっていく。


 狭い場所も体を横にして入っていった。双子たちも臆せずどこでも追ってきて、だんだんと日菜太と双子の距離は縮まっていった。


「……捕まえたぞ!」


 腕を掴まれ、引っ張られ。日菜太は小さく悲鳴をあげて、思いっきり腕を振り回した。


「大人しくしろ、アンジェリカ・ルーバス! お前はルーク殿下の名の下に罰を……!」

「やめてください! 手を離して、変態! 痴漢! 誰か助けてっ!」

「へんたっ……!」


 不審者から逃げるには、叫んで周りに助けを求めるのも必要なんだった。そう思い出した日菜太が適当に叫んだ言葉に、腕を掴んでいた人物が怯む。


 今だ、と日菜太は力任せに腕を振った。そのとき、手に下げていたリンゴ酒の瓶が壁に当たり、ガチャンと割れる。


「うわっ! なんだ、これ……!」

「フィス! 手を離すな!」

「いや、ファイ! これ、毒かも……っ」


 リンゴ酒を毒と間違えた男の手が離れ、日菜太はまた駆け出す。と言っても、そろそろ息が切れそうだ。隠れる場所を探すか、誰かの助けを期待したい。


 だけど、追われている罪人を誰が助ける?


「だれかっ……、たすけ、」


 叫ぼうとしたときと、唾を飲み込もうとしたのが同時だった。変なところに唾が入り、むせる。咳が止まらず、じわりと涙が滲みながら足だけは止めてはいけないと根性で走る。


 が、そんな日菜太を横から伸びてきた腕が再び捕まえてきた。


「やっ……!」

「落ち着け。俺だ」


 抱き寄せられ、囁かれた声に体から力が抜けていった。


 ケイヴだ。


 安心した日菜太に、ケイヴは「しばらく咳は我慢してくれ」と無茶を言う。むせているのを簡単には止められない。だけど、咳をしていれば見つかるから、彼の言うことを聞くしかなかった。


 両手で口を塞ぎ、不快感があっても咳を我慢した。ケイヴは日菜太を抱き寄せたまま、狭い路地の奥へ奥へと進んでいく。


「何があっても動かないでくれよ」


 注意してからケイヴはどこかのドアを押し開け、中に入った。どこに入ったんだろうかと視線を辺りに向けるけれど、真っ暗で何も見えない。埃っぽいのはわかって、更に咳き込みそうになった。


「ぐぅ……」


 小さく呻くと、「しーっ」と鋭い注意が飛んできた。その瞬間、外から「見失ったのか!」と叫ぶ双子の声がする。


 近くにいるようだ。どこかまた角を曲がったに違いないと、彼らは日菜太を探しているのだろう。二手に分かれる声が聞こえ、一人の足音がこちらに向かってくる。


 心臓が信じられないほど早く脈打っている。ドクドクとうるさくて、体が微かに震えた。


 今、見つかったら、どうなるんだろう。


 アンジェリカ・ルーバスの罪は逃亡も加わって、重くなっているのではないか。


 頭の中が真っ白になった日菜太は、更に怖い出来事に襲われる。足元で、何かが動いた。


「ひぅっ……!」

「静かに」


 ケイヴの声は、日菜太にだけ聞こえるように、耳元で囁かれる。落ち着け、と繰り返されるけれど、どう落ち着けばいいかわからない。外には追手、足元には正体不明の何か。怖くて、泣きそうだ。

 というかもう、泣いている。


 震える日菜太を、しばらくケイヴは無言で背中を撫でていた。大丈夫という慰めかもしれないけれど、ちっとも気持ちは落ち着かない。咳よりも嗚咽を我慢しなくてはいけなくて、ケイヴが「もう大丈夫だ」と言うまで日菜太はずっと静かに泣いていた。


「よし、行ったみたいだ」

「外にで……!」

「まだ静かにしておいた方がいい。外に出るのも、もう少し時間をおいてからにしよう。ちょっと待っててくれ」


 何かするため、ケイヴが日菜太を放した。だけど、置いていかれると思った日菜太は彼にしがみつく。


「やだっ。ここで一人にはしないで……!」


 無理だ。真っ暗闇の中、得体の知れないものがいるのに一人にされたらどうにかなってしまいそう。


 顔は見えなくても、声で日菜太が泣いているのはわかっただろう。どこかに行くと思われたケイヴは足を止め、一度、断ってくる。


「少し触れても平気か?」

「うん」

「あまりよく見えないから、どこに触れるかわからないんだが」

「触れてほしくないところは自分で守るからいいよ」


 とりあえず、体の前を守っておけば変なところに触れられる心配はないだろう。日菜太が手を前に差し出したとき、ちょうど伸びてきたケイヴの手が当たる。びくりと大きく反応したのは向こうで、おそるおそるといったように自分が何にに触れているのか指先で確かめてきた。日菜太が指を絡めると、手だとわかってほっとしたのか、ギュッと握ってくる。


 握った手とは別の手が、ぽんっと手の甲に当たった。そのまま、ぽんぽんと肘、二の腕と上がってくる。


 肩まで到達した手は、ゆっくりと横に移動して顔の輪郭に当たる。ぐいっと頰を拭われて、涙を拭こうとしたのかとわかった。


「一人にはしない。足元にネズミがいるから、少し追い払うだけだ。君の足を蹴らないよう、少しだけ離れていてくれ」

「手は握ったままでいい?」

「変な格好になるが、まあ見えないからいいか」


 わざと空気を軽くするように、ケイヴは笑った。「後ろに下がりすぎると服が汚れるからな」と注意したあと、ケイヴの方が横にずれて下がった。日菜太も僅かに後ろに下がり、そのとき足元でまた何かが動いたのがわかる。これがネズミか。野生のネズミはこれまで見たことがないけど、どんな姿形をしているんだろうか。


 確かめる間はない。ケイヴが容赦なく地面を蹴る音が何度か続き、小動物の高い鳴き声が響いた。慌てて逃げていくのも、なんとなく感じる。


「ちょっと可哀想だね……」

「ネズミに噛まれると病気になる。近寄ってきたときは触れないか、追い払うといいぞ」

「病気になるの?」

「……まさか、噛まれたか?」

「あ、ううん。噛まれてない。大丈夫だよ」


 一瞬で声の雰囲気が変わったケイヴに慌てて否定すると、安心したように息をつくのが聞こえる。


「助けに行くのが遅れて、悪かった」


 繋いでいる手を引かれ、再び抱き寄せられる。背に回された手に力がこもり、ぎゅっと抱き締められると安心した。


「手が濡れてたな。何があった?」

「ええと……殿下のところに双子の……騎士? がいるよね?」

「ああ。殿下付きの騎士がいる。あいつらに見つかったのか」

「そう。通りでパイを食べようとしたらアンジェリカ・ルーバスだと叫ばれて、逃げて……。どっちにどう進んだのかよく覚えてないんだけど、途中で捕まったの。そのときリンゴ酒が入っていた瓶を割っちゃって、服にかかったみたい。ごめん。そういえば、手にもかかっているからベトベトするよね」


 必死だったから、手の汚れにまで気を配れなかった。日菜太が手を引こうとするけれど、ケイヴは掴んだまま「問題ない」と答える。


「リンゴ酒の瓶が割れたって、怪我は?」

「たぶんしてないと思う」

「あとで確認しよう。今、痛みはないんだな?」

「うん」

「……よかった」


 よかった、ともう一度、ケイヴは繰り返す。もらったお金で買ったのにパイは落として、リンゴ酒も飲めなくなって申し訳ないけれど、そんなことを謝る雰囲気ではなかった。落ち着いてきた日菜太の代わりに、ケイヴの心臓が大きく鳴っているのが体から伝わってくる。


「その、心配をかけました」

「一人にさせた俺のミスだ。顔を隠していれば見つからないだろうとたかをくくって、君を傷つけた」

「怪我してないと思うから」

「怖い思いもさせた。……遠くで叫び声を聞いたとき、頭が真っ白になったんだ。もし何かあったらと考えたら怖くなって、必死で探した」

「見つかってごめんなさい。私も、もっとちゃんと隠れるべきでした」

「君のせいじゃない。俺の責任だ」

「それも違うと思うけど……」

「いや。俺の責任だ」


 意地でも譲るつもりのないケイヴの態度に、「私のことは全部ケイヴの責任なの?」と問う。そんなことはないでしょうと続けるための質問だったけれど、ケイヴは迷いなく頷いた。


「ヒナタのことは俺の責任だと、俺はそう思っているよ」

「責任感が強すぎるんじゃない……?」

「そんなことはない」


 ケイヴの頭が、日菜太の肩に落ちてくる。顔が横に向いて、額が耳に当たったあと、位置がずれた。生温かい吐息が首筋にかかって何かが呟かれる。静かなのに、何と言ったのかは聞こえない。


「ケイヴ?」

「……安心した。よし、場所を移動しよう。いつまでも二人でここにいると、良識のある人間から叱られる」

「そういうものなの?」

「ああ。これもこちらの常識だ。妙齢の女性はなるべく人目のあるところで男と会うこと。密室で二人きりにはならないこと。ひと気のない路地に連れ出されたりしないこと。間違いが起きないよう、周りから変な目で見られないようにするには大事なことだからよく覚えていてくれ」

「人目を避けなきゃいけない私には難しい条件だね」

「俺以外の相手には気をつけたらいいさ」


 その条件であれば、簡単にクリアできそうだ。今のところ、ケイヴ以外の男性と二人きりになる機会もなく、ケイヴ相手なら間違いが起きることもないから大丈夫だろう。


 うん、と気軽に頷いたら少しの間、沈黙があった。


「行こう。金細工の職人についても話したいことがある」


 手を引かれ、日菜太は路地を抜けた。やみくもに走っていた日菜太と違い、ケイヴは逃げるのに最適な道や、隠れるのに適した場所をよく知っているらしい。周囲を確認しながら、迷いなく小走りに進む。薄暗い路地を進み、運河が流れる橋を急いで渡り、また細い道に入り。


 やがて辿り着いたのは、古びた酒屋のような場所だった。一階は酒場だったけれど、二階以上は宿になっているらしく、ケイヴは宿を取る。親しげに何か話していたところを見ると、馴染みの店のようだ。なら、信頼が置ける宿ということか。


「しばらくの間、ここに置いてもらえることになった。俺はそろそろ殿下の方に顔を出さないと怪しまれるから城へ出るが、君はここにいてくれ。何かあったら店主を頼るといい。いい奴だぞ」

「わかった。でも、私に何かできることがあったら言ってね。金細工の職人はどうだったの? 白? 黒?」


 間髪入れずに問うと、ケイヴは言葉を詰まらせる。言いたくないことがありそうだ。


「もしかして、ビンゴだった?」

「びんご?」

「あ、合ってたってこと。探していた職人だった?」

「認めなかったが、疑わしいところはあったな。目は泳いでいたし、アンジェの名前を出したら追い返された。粘って話を聞いてみたが確証は得られなかったから……」

「じゃあ、明日、私が話を聞きに行ってみる!」


 ようやく自分にも手伝えることができたと、意気揚々と日菜太は手を挙げる。これまで逃げることしかしていない。しかも、毎回ケイヴの手を借りていた。


 やる気満々な日菜太に対して、ケイヴの反応は悪い。ちらっと視線を逸らし、歯切れ悪く答える。


「それは様子見しよう」

「どうして? 怪しかったら私がアンジェリカとして突いてみるって話だったでしょ?」

「殿下付きの騎士に会う前の話だ。今、ヒナタは派手に動かない方がいい。金細工の職人に会って通報でもされたら面倒なことになるから、様子を見るんだ」

「……どれくらい? あまりのんびりもできないでしょう? 私もいつまで逃げられるかわからないし、ケイヴもずっと匿うのは難しいだろうし……」

「無実だと証明できるまで、ずっと助けるさ。だから、心配しないで待っていてくれ」

「けど」

「とにかく、しばらくは隠れていよう。あの辺りは今、双子が捜索しているはずだから、近寄るのは危険だ」


 ケイヴの指摘に、日菜太は黙る。それは理解できる。アンジェリカが現れた場所として、重点的に捜索されるはずだ。しばらく様子を見るのも異論はない。


 けれど、そのしばらくとはいつまでなのか。


 時間は有限だからこそ、日菜太は何もしないで隠れている時間に焦れた。アンジェリカも日菜太が捕まっていない状況に焦り、きっと手を打ってくるはずだ。彼女が何か行動する前に、日菜太も動いた方がいいはず。


 また一晩、考えるしかない。ケイヴは店主を信頼しているようだったから、彼から何か話を聞くのもいいだろう。アンジェリカを出し抜く、良い案が浮かぶかもしれない。


 ケイヴは日菜太の手に傷がないことを確かめてから、出掛ける準備を整えた。「次来るときはフローティア様から借りた服を持ってくる」と言い残し、部屋を出ようとする。


 日菜太はドアのところで立ち止まって見送っていたが、不意にケイヴは足を止め、振り返ってきた。


「君をアンジェリカと呼び止めたのはどっちだった?」

「え?」

「双子の騎士だ。どっちがヒナタをアンジェリカだと呼んだ?」

「ええと……確か、ファイと呼ばれてた方かな。髪の分け目が左側だった」

「ファイだな。ありがとう」


 それだけ言うと、ケイヴは行ってしまった。日菜太はため息をついて、部屋に戻り、鍵をかける。


 今後のことについて、ケイヴと話し合った方がいいだろう。彼にずっと助けてもらうのは日向にとって心苦しいだけでなく、逃亡生活を続けなければいけない苦痛もある。無実なのに、アンジェリカではないのに、そう呼ばれる。なんとかして別人だと証明しなければ、アンジェリカは日菜太としての地位を手に入れてしまう。


 フローティアが言っていた、「再び蹴落とさなければ」という話が頭に残っていた。アンジェリカは日菜太として城内で何かしているのだ。それはフローティアにとって大切な居場所である、殿下の横を奪い取る行為なのかもしれない。


「私の名前で勝手なことをされたくない……」


 部屋に用意されている水差しからコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。


 アンジェリカ・ルーバスが余計なことをする前に、なんとかしないと。


 やはり、多少危険があっても早めに金細工の職人を問い質しそうと日菜太は決め、明日ケイヴに会ったとき説得する方法を考え続けた。




 けれど、それは翌朝、無意味となる。

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