二 逃げる令嬢は味方を得るか?


 アンジェリカは窓から外に降りれないと思った殿下は、窓の下に見張りを置かなかった。そこはアンジェリカが一度逃げ延びた場所だというのに、変わらず無防備なままで、それが役に立った。


 窓の外にシーツのロープを投げる。引っ張ってもロープが切れないかケイヴが強度を確認してくれ、問題ないとわかると日菜太に渡してきた。


 窓を越えるためにドレスの裾を持ち上げると、ケイヴはすぐ視線を逸らす。


「改めて言っておく。女性はそう、脚を出すべきじゃない。職人の娘なら多少は短い丈のワンピースを着るが、太腿を出すのは……」

「でも、こうしないと越えられないでしょう? 私の世界では普通です。今は目を瞑ってください」


 大きなため息をついたけれど、それ以上ケイヴが文句を言うことはなかった。「気をつけて」とだけ告げ、降りていくのを待つ。


 日菜太が先に降りたあと、ケイヴは表から回ってやってきた。仲間を連れてきたら逃げようと身構えていたけれど、彼は一人でやってきて、緊張している日菜太を見て「見張りは部屋に君がいると思い込んでいるよ」と励ましてきた。嘘をつくなと詰め寄ってきたときは怖かったけれど、こうしてみると優しい顔をしている。


 ケイヴには逃げるのを目をつぶってもらうだけでついてきてもらうつもりはなかったけれど、日菜太が先を歩くとケイヴが引き止めた。


「まずそのドレスじゃ目立つから、着替えた方がいい。歩きながら今後について話すが……君、獣道は平気か?」


 そう言って案内のため歩き出したのは森の中だ。ちらりと街の方向を振り返ると、日本では見ない御伽噺のような三角屋根が見える。レンガを積み重ねて建てた家、かな。やっぱりファンタジーだ。


 森の向こうは木々が生い茂り、太陽の光があまり入ってきていない。少し進めば薄暗くなって、足元はじめじめしていた。ケイヴは何度かこちらを振り返ってついてきているのを確認しながら進んでいる。腰から提げていた剣で草を払っているのは日菜太が歩きやすいようにしてくれているのだろうか。


「あの」


 ドレスの裾を持ち上げて、ケイヴに置いていかれないよう大股で進んでいく。


「私、一人でも大丈夫ですよ。ケイヴさんはこれ以上、私に関わらない方がいいでしょう? お城に帰った方が……」

「君一人では危険だ。私も同行して手助けするよ」

「でもっ……!」

「これから君を私がよく使っている狩猟小屋に連れて行く。ドレスの用意はないけれど、アンジェらしく見えないよう変装くらいはできるはずだ。君が身支度を整えている間に、私は着替えを用意するよ。これくらいの手助けは必要だろ? 君はお金を持っていないんだから新しい服は買えないし、宿にも泊まれない。身元保証人がいなければ仕事にも就けない。私の助けが必要なはずだ」


 ぺらぺらとケイヴの助けが必要な理由を述べられては、言い返せなかった。どれももっともな話だ。日菜太はこの世界の常識だけじゃなくてお金も仕事もない。そしておそらく、こちらの世界でもお金も仕事もない人間は人の信頼を得たりサービスを利用したりすることはできないようだ。行政にそういう人をサポートするサービスがあるのかもしれないけれど、今罪人である日菜太は利用できないだろう。


 頼れるのはケイヴだけ。その状況が最初の夜を思い出させ、怖い。


「ヒナタ? どうした?」

「なんでもな……」


 ごまかそうとして悩む。これも嘘に含まれるのだろうか。


「……ケイヴさんしか頼れる人がいないなって気づいたんです。その状況が危ういってことも」

「君の判断は正しいよ。私だけの情報で動くのは得策じゃないからな。だからと言って、気軽に仲間を増やせるわけじゃない」

「わかっています。ケイヴさん以外、頼れないってことでしょう」

「ケイヴ」

「はい?」

「私は君をヒナタと呼ぶ。君も私をケイヴって呼べばいい。同い年だろう? 敬語も必要ないよ」


 ざくっと大きな枝を切ったケイヴは、その枝のしなり具合を見て満足げに頷いた。


「私は、君が私を信用しても問題ないことがわかっている。だけど、君はわからない。君は私のことを知らず、警戒しているからだ」


 皮を剥ぎ、表面を撫でた枝をケイヴが差し出してくる。


「なら、警戒を解く必要があるだろう? 名前で呼び、敬語を辞めるのはそういうことだ。形から入って、まずは友になろう。私が信用できると思い始めれば、警戒して嘘をつく頻度も減るさ」

「今はまだ嘘をついていません。……あの、これは?」


 差し出されたままというのは悪く、受け取った枝を見る。表面が滑らかで棘が指に刺さることもなさそうだ。長さも程よくあり、下に向けると地面に着く。


「大丈夫だと思うが、一応。道を軽く叩きがら進むと蟲を避けられる。ここに毒を持った蟲はいないが、絶対とは言い切れないからな」

「毒……。ケイヴさんには必要ないんですか?」

「私の足はブーツで守られている。それにズボンも穿いているからな。ストッキングとハイヒールだけの君とは違うよ」


 ということは、ブーツを貫通するほど強い牙や顎を持った虫はいないということか。まあ、虫というだけあって小さいのだろう。ドレスをたくし上げて移動する日菜太の方が危険だというのも納得だ。


 有難く枝は使わせてもらうことになった。虫は寄ってこなかったけれど、葉っぱが脚に当たって不快だ。鋭い葉もあってたまにピリッと痛みが走る。


 そうやってだいぶ歩いた頃、ケイヴは立ち止まった。


「あそこだ」


 指差した先にあるのは山小屋みたいな平屋だった。鍵を開けたケイヴは「掃除は行き届いているな」と、ほっとしたように呟く。


 日菜太を招くようにドアは大きく開かれ、ケイヴは無言で入るよう手で示した。


 知らない人の家だ。しかも、男の人の家。他に頼る相手がいないと言っても無警戒に足を踏み入れるのは難しい。おそるおそる近づき、ケイヴの顔を一度見上げ、さあどうぞと促されて決心した。


 ゆっくりと中を見回すと剣やピストルが置いてある。だけどどれもすぐには取り出せないよう、壁の鍵付きで鎖と繋がれていた。


「一応、そこにあるものには触れないように。ああ、小瓶の中身にも気をつけろよ。暖炉の上にある小瓶は毒薬だ。小動物にしか効かないが、人間にも害はある。綺麗な指のままでいたいなら、好き勝手触れないことだな」

「ここがケイヴさんの家ですか?」

「狩猟小屋だって。シーズンオフにたまに来る程度で、あとは一人になりたいときにも来ていたか……」


 思い出すように部屋を見回したケイヴは、小さく息を吐いて顔を上げる。


「アンジェに振られたときも来たんだ。だから嫌な思い出が残った場所でもあるな。そのせいで最近は来ていなかったから、私がここを使っていると勘付く人間はいないだろう。隠れるのにぴったりな小屋、というわけだ」


 なんでもないことのようにケイヴは笑うけれど、ちっともアンジェリカのことを気にしていないようには見えなかった。失恋のことを思い出したくないから、ここには来なくなったわけだろう。ということは、馬鹿にされてプライドが傷つき、家族を愚弄した相手でも情があったのだと思う。


 その情は、未だにケイヴの心の中に燻っているのかもしれない。だから顔の似た日菜太を助けてくれた可能性もある。


 ケイヴは唯一のあったドアを開け、日菜太を振り返る。


「ここが寝室だ。鍵もあるから、休むときは必ず鍵をかけること。男性と二人きりになるときは、ドアは閉めるなよ。必ず少しは開けておくか、人を呼ぶんだ」

「人を呼ぶって言っても、ここにはケイヴしかいないでしょう?」

「君が知りたいこの世界の常識だよ。まあ、ここには私しかいないから、寝室に二人きりになることもない。鍵をかけることだけ忘れないように」

「……わかりました」


 なんだか色々ルールがありそうで面倒だ。早く元の世界に帰りたい。


 それから、ケイヴは簡単に部屋の説明をしたあと、よしっと呟いて腰に手を当てた。


「じゃあ、私は行く」

「えっ!」

「どうかしたか?」

「え、いえ……。あの、私を一人にしていいんですか? その、逃げるかもって心配したり……」

「君が逃げてどこに行く? あてもなく彷徨うほど馬鹿だとは思っていない。さっき、コルセットがきついって言っていただろう。だから、私が新しいドレスを用意する間は楽な格好で過ごすといいさ。戻ってきたらきちんと着てくれ」

「ああ……。はい、ありがとうございます」


 そういえば、服を用意してくれると言った。ドレスという言葉にちゃんと着替えられるだろうかと少し心配があるけれど、アンジェリカに見えないよう、今より地味なものを用意してくれるかもしれない。


 どちらにせよ、お金がなくて信用もない、更には逃亡中の罪人である日菜太にドレスの注文が言えるわけがなく、大人しくケイヴを見送った。


 再三、鍵をかけるようにと言われ、白雪姫の話を思い出す。白雪姫、誰が来てもドアを開けてはいけないよと、小人が注意するのだ。もちろん日菜太はドアに鍵をかけ、誰が訪ねてきても居留守を使うつもりである。白雪姫のように答えたりしない。


 ケイヴの言葉に甘え、昨夜から苦しいコルセットを外そうと上着を脱いでから背に手を回し、紐の結び目を探す。上の方に手を伸ばしづらく、体勢を変え、可能な限り指を伸ばし、四苦八苦しながらなんとか結び目を緩めることができた。丁寧にほどいていくと、少しずつ体の締め付け感が弱くなっていった。


「やーっと、息ができる……」


 ふう、と一息つく。大きく息を吸い込むときちんと肺いっぱいに空気が入って、胸が膨らむ。それからお腹を凹ますようにして息を吐き出し、もう一度深呼吸した。


 よし、と辺りを見回す。ケイヴが日菜太に貸してくれた寝室にはベッドだけでなく、机もある。ペンや紙が置いてあるから、仕事用の机だろうか。それとも寝室にあるから、手紙を書く用の机とか?


 とりあえずずり落ちそうなコルセットを手で押さえたまま、ベッドに寝転んだ。慣れない靴も脱ぎ、ようやく少しだけ気持ちが落ち着く。ここがどこだかわからず、出会った人に騙されたことも、そのあとケイヴに助けられたことも、じわじわと体に染み込んでいく。


「……逃げなきゃ。それで、帰らなきゃ」


 何をどうすればいいかわからないながらも、日菜太の中で目的はできた。とにかく、元の世界に帰ること。アンジェリカは帰れないと言ったけれど、ケイヴはそんなこと言わなかった。彼女の言葉を今更信用できない。ケイヴが無理だと言わなかったんだからそっちを信じようと、日菜太は今後のことを考える。


 帰るにしても、日菜太に魔法は使えない。ということは元の世界に帰る方法だけでなく、アンジェリカよりも強い魔力を持つ人を探さなきゃいけないんだけど、ケイヴは協力してくれるだろうか。彼の言葉を信じる場合、ケイヴはあくまでもアンジェリカに復讐がしたいだけで日菜太を元の世界に帰すと約束してくれたわけではない。


 打算でいいから利用しろとは言ったか。なら、アンジェリカへの復讐を手伝う代わりに、日菜太のために魔法を使えと交渉することは可能な気がする。


「そのためにはアンジェリカがきちんと罰を受けなきゃいけないわけで……。私自身のためにもなるのかな」


 アンジェリカが日菜太の名前を騙っていると証明できれば、彼女は罪人に戻り、罰を受けるはず。ケイヴの目的は達成だ。そして日菜太はアンジェリカではないとわかり、殿下も謝ってくれるはずで……。


「私のことアンジェリカと間違えて罵った償いとして、殿下に元の世界に帰らせてってお願いするのもいいかも。自分で調べるより、王族の力を借りた方が絶対早く方法が見つかりそうだし」


 問題は、きちんと日菜太の願いを聞いてくれるかどうかだ。口約束だけで終わって、帰る方法をまともに探してくれない場合、やはり自分で探すしかない。


 王族に頼みつつ、自分でも探すのが一番早いだろう。ケイヴは殿下と知り合いらしいから、口添えを頼めるだろうか。自分のために元の世界に帰る方法と強い魔力を持つ人を探せと頼んだ挙句、王子様に口添えもしろというのは頼みすぎか? 今だってケイヴのおかげで逃げられ、この世界の常識も教えてもらっている。どこまで頼っていいのか、頼れるのか、日菜太には見当がつかない。


「万が一、お願いを聞いてもらえなかった場合のことも考えておいた方がいいかな……」


 ケイヴが戻ってきたら、日菜太がアンジェリカではないと証明する方法を相談してみよう。それから、元の世界に帰る方法を知るにはどう調べればいいのか、魔法のことについて聞ける人を紹介してもらえたらいいんだけど。


 頭の中でひとつずつ、日菜太は計画を立てていく。人違いから罪人にされ、殿下に殺されると思ったときは怖かった。だけど、今のところケイヴは味方で頼れる人がいるから落ち着いて考えることができる。


 ……でも、下着って言われるコルセットを緩めたままでいるのは良くないかな。


 ベッドから起き上がり、コルセットを付け直そうと後ろに手を回した。と、急に今の自分の状況に気がつく。


 日菜太はベッドにいて。

 コルセットを緩めている。

 ケイヴがそう勧めてくれたから。


 本当に彼は信用していいのだろうか?


 サーッと血の気が引いていった。もしかしたら、日菜太を人目のつかないところへ連れて行き、狼藉を働く計画だったのでは? アンジェリカのことが憎いなら、同じ顔の日菜太で憂さ晴らしをしてもおかしくない。というか、ここに来るまで何度も日菜太はケイヴから注意を受けた。男の前でそういうことをするな、と。自分の行動はここの世界にとって非常識で、知らず誘惑していたとしたら。


 誰もいない、森の奥。

 誰も来ない、狩猟小屋。

 果たしてここは、安全なのだろうか。


 バッと起き上がった。と同時に、玄関の方でガタンと大きな音が鳴る。ケイヴがもう帰ってきた? コルセットはまだ付けられていない。というか、一人でまた紐を結び直すのは難しそうだ。完全にほどいてしまった自分を呪いつつ、日菜太はどうしていいかわからずに寝室のドアへ走った。


 ガチャンと鍵をかけたとき、玄関のドアが開けられた。


「誰かいるんですか? 坊ちゃん?」


 知らない男の声だ。

 まずい。ケイヴ自身ではなくて、他の男を呼んだのか。


 急いで逃げ場を探した。寝室から他の部屋に行くドアはない。知らない男がいる、玄関兼リビングである部屋へのドアしかない。そこへは椅子を立てかけて、日菜太は窓へ駆け寄った。


「坊ちゃん? ……坊ちゃんじゃないんですね」


 男の声が低いものに変わる。がツンッと寝室のドアに体当たりする音が響き、危うく叫びかけた。


「ここを開けなさい! 逃げようたって、そうはいきませんよ!」


 まずい。

 まずい、まずい、まずい!


 何度ピンチに陥れば学習するんだ!


 幸い、窓の鍵は簡単に外れ、すぐに日菜太は外に出た。そのとき、物音を立ててしまったから、相手が「逃すか!」と叫んで移動する足音が聞こえる。


 ドレスの裾を思いっきり持ち上げて、日菜太は全速力で走った。


 靴が痛い。ドレスが重い。道がわからない。


 枝葉が脚や手、顔にも当たるけれど、丁寧に払い除けている暇はなかった。後ろから「待て!」と叫ぶ声がするから足を止めるわけにいかない。


 走って、走って、走って。


「もうっ……! なんでこんな目に逢うの……!」


 夜、ベッドで寝ていただけなのに。いきなり勝手に異世界に連れてこられ、罪を被せられ、男に追いかけられる。私が何をしたと、日菜太は叫びたかった。


 いい加減にしてくれ。

 いつの間にか涙が溢れていて、日菜太は泣きながら走っていた。何度手で拭っても止まらなくて、滲んだ視界では足元もよく見えず、石に躓く。


 もうやだ、と泣き言を漏らしたとき、前方に知った顔を見つけた。


「ヒナタっ?」


 驚いたように声を上げたのはケイヴだ。出て行ったときの格好のまま、形に地味な色のドレスと箱をひとつ持っている。日菜太は夢中で彼の方に駆け寄り、その後ろに回った。まさか日菜太が逃げると思わなかったのだろう。困惑していた様子の彼に縋るふりをして、日菜太は彼の首に手をかける。


「来ないで!」

「何が起きてっ……!」

「坊ちゃん!」


 日菜太の叫びに男二人の声が重なる。やっぱり知り合いか。

「来ないで! 来たらケイヴの首を絞めるから! 私、本気だから! 変なことしたら、絶対、許さないっ……!」


 自分に人を殺せるのか、という疑問はある。だけど、日菜太は必死だった。逃げるためなら汚いことだってしなきゃいけないんだ。ここはそういう世界なんだと、自分に言い聞かせて手に力を込める。


「坊ちゃん!」

「いい。ジョン、下がれ」


 坊ちゃんと叫ぶ男はジョンというらしい。日菜太より少し背が高いくらいの、小柄な男だ。少年にも見えるけれど、逞しい腕には小ぶりの斧が握られていた。赤い髪に負けないくらい顔を真っ赤にして怒っていて、今にも襲いかかってきそうである。少年に見えても油断しない方がいい。


 ぎゅっと手の力を強くした。ケイヴの首は太いけれど、両手で包み込めば握り潰せなくもない。だけど、私がその喉を潰す前に、ケイヴは「落ち着け」と語りかけてくる。


「急にどうしたんだ、ヒナタ? 何があった?」

「白々しいこと言わないで! 部屋にあの男を呼んだでしょう! 人気のないところに連れて行って、いかがわしいことする気だったんだっ」

「断じて違う。待て。落ち着け。ジョンは私の実家の庭師見習いで、たまにあの小屋を掃除しに来てくれているだけだ。たまたまタイミングが合ってしまったみたいだが……」

「嘘言わないで! もう私は騙されないから。この世界は何もかも信じられない! いきなり変なところに来たと思ったら、嫌なことばっかり……っ!」


 これが夢だったら、どれほどいいか。


 ケイヴの首に、日菜太の指が食い込む。殺気立ったジョンが足を一歩踏み出したけれど、ケイヴが素早く手のひらを見せて制止する。


「ヒナタ。私は味方だ。共にアンジェに罰を与えようと言っただろう」

「嘘だ」

「嘘じゃないさ。もし、私が本当に君に何かするつもりだったなら、ここまで連れ出す必要なんてなかった。あの部屋で何が起きても、誰も私を責めはしない。罪人が一人、遊ばれただけで終わるんだよ。わざわざ連れ出す方が私にとっては危険なことで、ただ遊びたいだけならメリットのない行為だ。君を助けるために、危険な橋を渡っていると理解してくれないか?」

「そんなの信じない!」


 ケイヴはいい人。そう思って信じようとしたけれど、無理だ。


「ケイヴは私を助けたんじゃない。自分がしたいことをするために連れ出したんでしょ。あの小屋で休んでって言われて休んでたら、ドアをこじ開けられそうになったんだよ。逃すかって、追われて、逃げて、なんで……」


 手から、力を抜いてはいけない。

 でも、泣くと勝手に体から力が抜けていく。


「なんで私ばかりこんな目に遭ってるの……? 私が何かした……?」


 帰りたい、と呟いた。もう、ケイヴの首に手をかけているだけで、力は入らない。それを察したケイヴが日菜太の手を取ろうとし、ハッとして飛び退く。


 コルセットを取り、下着を身につけていない胸元を守るように手を胸の前で重ねた。振り返ったケイヴに優しさはなかった。高い位置にある顔を睨み上げると、彼はその場に跪き、日菜太を見上げる。


「君がこんな目に遭っているのはアンジェリカのせいだが、ここまで逃げてきたのは私の連絡不足と、君自身の疑い深さだ。狩猟小屋を使うのにジョンに何も言わなかったのは私の落ち度だよ。それは悪かった。だが、ここまで一緒に来たんだ。多少は私のことを信じてくれたっていいだろう」

「無茶言わないで。今日会ったばかりの人なんて信じない」


 信じて、こうなったのだ。もう信じたりしない。

 頑なな日菜太にケイヴの表情は険しくなる。それから、ふっと息をついて表情を和らげた。


「まず、私が君を連れ出すことにはリスクがあるとは、信じてくれるか。これはわかりやすいだろう?」

「……まあ、少し」

「では次だ。狩猟小屋で君に休めと言ったのは、疲れが溜まっているとわかっていたからだ。気づいていないだろうが、君はとても顔色が悪い。もっと休んだ方がいいんだよ。そのために鍵がかけられる寝室に案内したんだ。そうすれば、誰も入ってこないだろう?」

「でも、あの人はドアを壊す勢いで入ってきそうだった」


 あの人、とジョンを指すと小柄な彼が若干、うろたえた。だって、と言い訳めいた声を出す。


「知らない人が寝室に篭っているとわかったら、賊だと思うでしょう! 坊ちゃんの留守中に賊が入ったなんてことになったら僕は……!」

「ああ。ジョンは職務を全うしようとしたんだよな。悪い。私がちゃんと連絡しなかったミスだ。ジョンに連絡するより先にドレスの調達をしていてな。まさか、こんなタイミング悪く鉢合わせるとは思ってもいなかった……」


 慌てるジョンをなだめたあと、ケイヴは日菜太に向き直る。

「君にも、怖い思いをさせて申し訳なかった。だが、ジョンは悪い奴ではないと信じてくれ」

「……難しい」


 そもそもケイヴの言葉を信じ難いのに、彼からジョンは悪い人ではないと言われたからって信じられるはずがない。


 日菜太の警戒を見て、ケイヴは頭をかく。


「じゃあ、君はこれからどうする? 私に常識を教えてくれって言っただろう。逃げるために必要なことを教え、力を貸す。これが私と君の関係じゃなかったか?」

「それ、はっ……! そうだけど……っ」

「利用するつもりでついて来たんだろう。こんなことで逃げ出すのか」

「こ、こんなこと、じゃない!」


 大きなため息とともに吐き出された言葉にカチンときて、日菜太は近くの葉っぱをむしって、ケイヴのに投げた。風に乗って葉っぱは彼には届かず流れていったけれど、ジョンは殺気立ち、日菜太を睨みつけてくる。


 だけど、日菜太に彼を気にする余裕はなかった。


「あなたにはわからないかもしれないけど、知らない世界で、知らない男の人と行動するのがどれくらい怖いか、想像してみてよ! ここに来る前に逃げるべきだったかもしれない。あなたについて行かない方がよかったのかも。そんなふうに一気に冷静に考えられるわけないじゃない! どうすればいいか、何ひとつわからないんだから!」

「こうして私に怒鳴ることも正しいことかどうか、わかってないんだな?」

「知らないっ!」


 もう一度、葉っぱをむしった。その瞬間、ジョンが足を踏み出し、ケイヴは彼を制止するように片手を挙げる。


「ヒナタ。泣いても状況は変わらないとわかってるだろう」


 いつの間にか、子どもみたいにぼろぼろと涙が溢れていた。それを指摘されてカッとしたけれど、日菜太が大声を出すよりも先に、ケイヴが「落ち着いて」と一歩、近づいてくる。


「今、混乱しているんだ。怖いことが起きて、頭の中でちゃんと考え事ができていない。だから感情的になって言いたいことを言ってしまってるんだな」

「し、知らなっ……」

「君がこちらの世界に来たのは昨晩のことだというのを、私ももっと考慮すべきだった。アンジェに騙されたことだけ、私の仲間だということだけを意識しすぎてたな。悪かった」


 更に一歩、ケイヴが近づいてくる。日菜太は無意識に後退り、ケイヴを睨んだ。


 滲んだ視界の中、彼が足を止め、視線を合わせるように腰を屈めるのを見る。まるで小さい子の相手をするように、優しい声と表情で「大丈夫だ」と告げてくる。


「私は君のことをよくわかっていなかったが、これからちゃんと理解するよう努めるから。ヒナタが知らないことはちゃんと教えよう。私が怖いなら、あまり近くにいないようにする。だけど、困ったことがあったら助けるから、安心して頼ってくれ」

「……嘘でしょ、それも……」

「嘘じゃないよ。まずは……そうだな。ジョン、悪いが今日は帰ってくれないか。彼女と二人だけにしてほしい」

「えっ! で、ですが、その人……」

「彼女に危険はない。心配せずに一旦、屋敷に戻っておいてくれ。必要なことがあれば連絡する。ああ、わかっていると思うが、今日ここであったことは内密に。兄さんにも決して口外しないよう、私との約束だ。いいな?」

「それは、もちろん。旦那様に告げ口するような真似がいたしませんが……。本当に坊ちゃん、いいのですか? その人と二人で残してしまって。その人、アンジェリカお嬢様では……」

「え?」


 一瞬、ケイヴは惚けたように驚き、それから笑った。


「なんだ。ジョン、そこを気にしていたのか。アンジェと俺を一緒にすることを心配してるのなら、問題ないさ。この子はただの女の子だ。アンジェに似過ぎた、不幸な子」

「そう、なんですか?」

「ああ。アンジェが相手なら俺が一緒にいるはずないってわかってるだろ? あいつを相手にしているなら容赦しない。さっさと殿下に突き出して、せいせいしているさ」


 さっぱりとした言い方に、その言葉の重さを日菜太は見逃しそうになった。殿下に突き出すということは、アンジェリカを修道院に送るということだ。罪人が罰を受けるのは当然だとしても、幼馴染みで婚約者だった相手に何の感情も抱かず言えることではない。


 本当にケイヴはアンジェリカが嫌いなのだ。


 ジョンは彼の言葉に少しだけ安心したらしい。「何かあったら絶対に連絡ください」と念を押し、何度も振り返りながら去る。


 二人きりで残されると、苛立ちばかりで荒ぶっていた日菜太の心も少し落ち着いた。知らない男がいなくなったからだろうか。ケイヴも出会ったばかりの人であることに変わりはないのに、彼と二人きりならどうしてか冷静を取り戻そうとできる。


 とにかく泣くのはよそうと涙を拭った。日菜太の様子が変わったことにケイヴも気づいたのか、まだ離れた位置からハンカチを差し出してくる。


「使うか?」

「……汚しちゃうけど」

「構わないさ。泣かせたのは俺……私だから」


 ふと、一人称を言い直したのが引っかかる。ケイヴはずっと自分のことを『私』と言っているけれど、たまに『俺』と口にする。本当はそっちがケイヴの素の言葉なのだろうか。


 ハンカチを受け取り、日菜太は軽く頰と目元を拭いた。濡れたハンカチをどうしようかと迷っていると、ケイヴが再び手を差し出してくる。返してもいい、ということかなと日菜太がおずおずとハンカチを渡したら、何事もなかったかのようにポケットに仕舞った。


「もう一度、ちゃんと話をしようか。小屋に戻るのは怖いか? 気にならないなら、このままここで話すのもいい。街道から離れた場所だから、そうそう人も来ないだろうしな」

「……なら、ここで」

「わかった。じゃあ、少し待っていてくれ」


 警戒して距離を取る日菜太に対して、ケイヴは無理に近づこうとはしなかった。少し離れたところで葉っぱを足でどかし、小石を拾って遠くに投げたあと、自分が身につけていたマントを敷いた。


「ここに座ってくれ。私はこっちにいるから」


 三歩ほどケイヴが離れて腕を組み、立つ。

 こことは、人のマントの上だろうか。躊躇して足を踏み出せずにいる日菜太に、ケイヴは不思議そうに訊いてきた。


「どうした? 目の前で敷いたから、そんな危険はないとわかってもらえたと思うが……」

「あ、いえ。これ、ケイヴのマントでしょう? その上に座るなんて……ちょっと、というか、だいぶ申し訳ないです」

「気にせず座ってくれ。まあ、立ったままでも構わないが……本当、君は変なところを気にするんだな?」


 これもまた、この世界の常識というやつだろうか。人のマントの上に平気な顔して座れと言われても、日菜太にその勇気はない。ケイヴに勧められても日菜太は逡巡し、結局マントを拾い上げて土を払った。


「悪いから、私も立ってる」

「なら、それは羽織っていてくれ。できれば前を隠してもらえると助かる」


 指摘され、コルセットを外していたことを思い出した。窮屈な思いをしなくていい分、とても息はしやすいけれど、下着をつけていないと指摘されるのは恥ずかしい。ブラをアンジェリカに渡したから、本当にノーブラだ。


 慌ててマントを体に巻きつけると、ケイヴは僅かにほっとしたように表情を緩めた。


「よくないことだとは思うが……確かに君には、コルセットは合わなかったのかもしれないな。少しだけ顔色が良くなった気がする。顔が赤いのは、走ったせいかもしれないが」

「そ、それは何も言わないで。話し合いするために残ったんでしょ」


 顔が赤いのは恥ずかしいからだ。窮屈だけど、嫌だけど、戻ったらコルセットをつけようと思っている。


 ぎゅっとマントを掴む手に力を込めた。ケイヴと何を話せばいいのか、頭の中で整理をする。


「……ケイヴは、あの家で何かしようと思って私を連れ込んだわけじゃないって、そう信じていいだよね?」


「ああ。信じられないと言うなら、こう考えればいい。自分に何かするつもりなら、連れ出す必要はなかった。殿下の信頼を裏切ってまで、この男は女遊びに興じるのだろうかって。私はそんな男じゃないと断じるが、信用できなくても、殿下の怒りを買うはずないって考えれば納得しやすいだろう? 君と遊ぶために、私が今後の人生を棒に振ると思うか?」

「それは……考えにくい。じゃあ、あの人は本当に偶然来たってこと?」

「その通りだ。月に一度、通っていると聞いている。つい十日前に来たはずだからしばらくは来ないだろうと思っていたんだが、読み間違えた。これに関しては、悪かった。私の全面的なミスだ」


 ケイヴの顔をしっかり観察しながら、彼の言葉に嘘はないか考える。捕らえられていたところを、わざわざ日菜太を騙して連れ出すことに意味はあるのか。殿下はこのことを知らないだろうから、ケイヴにとって危険なことをしているとわかる。


 ジョンについてはどうだろうか。偶然、ここに来たという説明に説得力はあるのか? まず、日菜太を連れ出すことが急に決まった話だ。連絡する暇はなかった。日菜太を一人にしている間に呼びに行ったとも考えられるけれど……。


「……その手に持っているのって、ドレス?」

「え? ああ。今着ているものよりだいぶ質は落ちるが、アンジェが着ないようなものを選んだ。靴もそれだと走りにくそうだっただろう。念のため、ブーツを買ってきたんだが、サイズが合うかが心配だな」


 ケイヴは片手に持っていた服ともうひとつ箱を軽く持ち上げる。これが用意されたものではないとしたら、ケイヴは町まで行って買い物をしてから帰ってきたことになる。時間を考えれば、ジョンに連絡する暇はないはずだ。


 迷い、強く拳を握り締めた。ケイヴ以外も頼れる人がいれば、もう少し慎重に事が進めたかもしれない。警察も、誰も頼れない世界で、彼だけが日菜太の頼りの綱だ。


「わかっ、た。ケイヴのこと、信じる」


 全然納得していない答えだ。彼の言うことは筋が通っている。だから、本当のことなのかもしれない。ただ、素直に信じるには日菜太の心の中はこの世界への不信でいっぱいだ。


 日菜太の答えにしばらくケイヴは何も言わなかった。やがて、「よかった」と呟き、ざくざくと葉っぱを踏みしめて近づいてくる。


 無意識に体が緊張した。もし、もしこの人が悪い人で、上手く日菜太を騙しているのなら、そのうち痛い目に遭うだろう。


「なら、これを。着替えるには小屋に戻った方がいいだろう」


 渡されたのはケイヴが持っていたドレスと靴だった。俯く日菜太の視界にそれが入り、おずおずと受け取る。


「着替え終わったらまた少し歩こう。人気がないところが嫌なら、町に出ればいい。アンジェに見えないようになったら、離れた町で宿を取っても大丈夫だろう」


 ケイヴは日菜太を気遣って提案してくれている。とても有難いし、人がいない森よりも町に出たいと思うけれど、そこが安全なのか日菜太には判断できなかった。ケイヴが先にこっちに連れてきたのは、万が一でも日菜太がアンジェリカとして捕らえられないよう、隠すためかもしれない。好意的に考えるなら、彼は日菜太の安全を考えてくれているはずだ。


 ゆるりと頭を振り、日菜太は顔を上げた。


「大丈夫。あの小屋にいるよ。鍵をかければ問題ないんでしょう? まだこの世界の常識もちゃんとわかっていないのに、知らない人に会って変な目を向けられたら、噂が立つかもしれないでしょう。通報されて、捕まるかもしれない。森にいる方が安全なら、ここにいる」

「安全かどうかはわからない。今のところ見つかっていないだけだ。逃げるなら、一か所に潜むより場所を変えていった方がいい。もちろん、次の逃げる場所はどこか悟られないよう気をつける必要があるけどな」


 だが、そうか、とケイヴは笑む。


「まだ大丈夫なら、しばらく小屋に隠れていてくれ。私は時間が経ったら町に行って、情報を集める。殿下にも上手く言い訳して、私と君が繋がっていると感じ取られないようにしないと……」

「えっ。ケイヴ、どこかに行っちゃうの?」


 なんとなく、いつまでも彼が隣にいてくれると思い込んでいた。逃してくれるとは、手を引いて安全なところに連れて行ってくれるんだと。


 だけど彼は、「当たり前だ」と首を傾げる。


「ずっと側にいたら情報が集められないだろう? じっとしていても事態は好転しない。ヒナタは隠れる必要があるが、私は違うからな。いつまでも戻らないと殿下に怪しまれるし、そうするとここの隠れ家が使えなくなる」

「じゃ、じゃあ、私も何かする! ケイヴばかりに頼るなんて……」

「誰にも見つからないように隠れていてくれ。君がすべきことはそれだけだ」


 よし、とケイヴは意を決めたように手を打ったあと、日菜太へ差し伸べてくる。


「さあ、行こう」


 自然なエスコートなのだろう。けれど慣れない日菜太は一瞬だけその手を取ることを躊躇し、素早くそれを察したケイヴが僅かに困ったような顔を見せる。


「不安か?」

「あ、いえ。こう、人の手を取って歩くことは私の世界ではほぼないから……」

「こちらの世界ではレディは紳士にエスコートされるものだよ。気にせず手を取って、何かあったら渡しに言ってくれ」


 もう一度、さあ、と手を差し出される。今度は日菜太も思い切って、ケイヴの手を取った。人の手を、それも男性の手を握るのは久しぶりで、記憶にある手よりもケイヴの手の方が大きく感じる。それに、ゴツゴツしていた。


 何かあったら頼れと言ったケイヴの顔を見上げ、日菜太は居心地悪く思う。もう既にケイヴのことは頼りすぎている。更に今度は自分は隠れたまま、ケイヴが情報を集め、何かしら行動してくれると言う。これも頼るということのひとつなのかもしれない。だけど、日菜太はしっくり来なかった。


 手を取り、引かれる方向へ歩いていく。そうしなければ闇雲に走ってきた日菜太はあの狩猟小屋に戻れないから。ケイヴが用意してくれた小屋以外に安全な場所を知らないから、彼に惹かれるまま日菜太は歩くのだ。


 そうしなければ自分はこの世界のことが何もわからないのは承知の上で、日菜太は非常に居心地の悪さを感じた。


「ケイヴ、あっ、ええと……ケイヴさん」

「今更すぎる。怒ったときのようにケイヴでいい」

「……さっきはごめんなさい。全部、何も信じられなくて。でも、首を絞めるのは間違っていました」

「いや、その問題はもういい。ヒナタには申し訳ないけれど、首を絞められても力ずくで止めることはできたよ。だから大した問題じゃない」

「でも! 人の首を絞めるのは悪いことだから。ケイヴ……が、私を助けようとしてくれたのに、最低な行動だった。だから、ごめんなさい」


 ケイヴさん、と口にしそうになり、確かにもう今更だと止めた。彼自身、名前で呼べ、敬語は使うなと言った。口調を変えるとどことなくケイヴの機嫌が良さそうに見えるから、畏って相対するのはあまり好きじゃないのかもしれない。


 謝った日菜太に対して、ケイヴの唇は弧を描く。


「私がヒナタを助ける気だと、信じてくれたのか?」

「え? ええと……そう、かな。ちょっと違うかもしれない。ケイヴが私を助けるメリットが全然わからないけど、これまでの行動を考えると悪いことをしようとしているっ結論づけるのは難しいかなと思って。それで」

「信用はできないけど、助けようとしていることは理解してくれたってことか。よかった。そこを受け入れてもらえないと、何度も同じ問題で衝突しなければいけなくなるからな」


 さっき話したことを反芻しながら日菜太が答えると、ケイヴはほっとしたようだった。


「なら、私の言うことを聞いてくれ」

「それに関しては相談があるんだけど」


 すかさず言い返す。と、大きな木の根っこを越えようとして、ドレスの裾を踏んでしまった。慌てる私をケイヴは片腕で腰を掴み、サッと持ち上げて地面に下ろす。慣れている。ファンタジー世界では当たり前の作法なのだろうか。


 日菜太は慣れないから、ありがとう、と返す言葉もぎこちなくなった。どういたしまして、と答えるケイヴの声がスマートなのが、少し悔しい。私もうろたえないようになりたいと日菜太は思いながら、ケイヴに相談したいことを伝える。


「私が足手まといなのはわかるんだけど、ケイヴにすべてを任せて自分は何もしないのは居心地が悪いよ。私は隠れることしかできない? もっと、この顔を使って何かできないかな」

「この顔?」

「アンジェリカ似の顔。あのね、一人のときに色々考えていたんだけど、まずは私とアンジェリカを別人だって証明しなきゃいけないでしょ? どう証明すればいいのかケイヴに聞いてみようと思ったんだけど……私、思いついたの。たぶん、アンジェリカには協力者がいると思うのね」


 アンジェリカは魔法を取り上げられたと言った。本当はもう使えないはずなのだ。なのに、金細工を使って魔法を使ったとか、アンジェリカが日菜太のふりをしているのを見破るために魔法を使わせたらできたとか、おかしい点がある。


 これは、アンジェリカ一人で企てられたことだとは思えない。


「金細工を用意した人とか、アンジェリカが魔法を使えるよう細工した人とか、絶対いると思うの。そういう人に揺さぶりをかけるために私の顔は使えない? アンジェリカのふりをして、その人に『騙したわね!』って詰め寄って、真相を吐かせるの。どう?」


 日菜太の提案に、ケイヴは少しだけ目を瞠った。驚いたな、と小さな声で漏らす。


「そんなこと考えてたのか?」

「考えないと、私はアンジェリカとして逃げ続けることになるでしょ。元の世界に帰りたいけど、今すぐ戻れるってわけじゃないし、直近の問題を片付けないと自由に動き回れないじゃない」

「君の言う通りだけれど、昨日やってきた渡りびとなのに、今後のことを考えていたとは。もっと現場を嘆いているかと思っていた」

「嘆いてはいるんですよ」


 もう慣れっこになっていると思われては困る。慣れない世界に戸惑って、困って、本当に何を信じていいかわからずに動いている。ケイヴだけは、彼を頼らなければどう動いていいか分からないから、頼っている。完全に信頼はできなくても、一切の信用を置けないわけではない。少なくとも、アンジェリカのことに関してはケイヴは信用できる相手である。


 嘆いてはいると言った日菜太を、ケイヴは複雑そうな顔で見つめた。そうか、と呟いた声は低く、彼もまた日菜太の現状に心を痛めてくれていることがわかった。


 暗い雰囲気で森の中、二人で歩くのは気まずい。そこまで仲良くない相手だからこそ、湿っぽい空気は自分の居場所がないように感じられ、日菜太は話を元に戻した。


「それで、どうかな? 私が役に立つことある?」

「アンジェリカとして行動するには危険が伴うから賛同はできない。けど、君の考えは私も良い案だと思う。あいつに関わった人間から、渡りびとを召喚したと証言させれば殿下も今、城にいる人物は誰なのかって疑問を持ってくれると思うが……」


 言葉を切って、ケイヴは考え始める。殿下も疑問を持ってくれると思うが、と何か含みを残した言い方が気になる。ケイヴは何に引っかかっているのだろうか。


 と、彼が話を続ける前に足が止まった。考えていた瞳が前に向けられていて、日菜太も同じ方向を見る。生い茂った木々の向こうは狩猟小屋だろう。だけど、何かが動いている気がする。


「ケイヴ? 何かいるの?」

「……殿下だ。しかも、兵を連れている」

「えっ」


 葉っぱが視界を邪魔して前方がよく見えないのに、ケイヴはそう断言する。日菜太は屈み込んで、葉っぱを避けて先を見ようとしたけれど、ケイヴが腕を引っ張って止めた。


「こっちを見られたら厄介だ。たぶん、私が連れ出したという確証はまだないはずだから、上手くやり過ごそう」

「さっきのジョンっていう人が告げ口してバレてるって可能性はないの?」

「ない。信用できない人間に自分のプライベートな空間の管理を任せたりしないさ」


 はっきりと否定されたら、反論できなかった。ないことはないんじゃない? と日菜太は言いたかったけれど、ケイヴとジョンの仲を知らない。ここでも彼を信用するしかないと口を閉じ、手を引かれるままに茂みの中に隠れた。


「兵が引くまでここに隠れていてくれ。私は殿下と話してくる」

「……わかった。誰もいなくなったら小屋に戻って鍵をかけておけばいい?」

「ああ。一人にするが、今度は私を信じて、逃げずに待っていてくれ」


 日菜太が頷くと、ケイヴはさっさと歩き出してしまった。


 兵が引くまで隠れていろと言われたって怖い。日菜太は震える手をぎゅっと握りしめ、息を殺して様子を見守った。本当はケイヴに一緒に隠れていてほしかったけれど、二人でいても何も解決しないのはわかっている。日菜太ができるのはケイヴを信じ、彼が殿下を説得して兵を引かせるのを待つだけなのだ。


 ケイヴが裏切り、殿下に本当のことを話せば走って逃げなければいけないのだけど。


 ここでケイヴが殿下を説得していたら彼を信じようと日菜太は決めた。王子様を騙してまで日菜太に害するとは考えにくい。


 遠くから様子を見守っていると、ケイヴが殿下に声をかけていた。二人の会話は聞こえないけれど、どうやら言い争いをしているらしいと身振り手振りから見て取れる。ケイヴが何かを伝え、殿下は大袈裟に手を大きく横に振り、そしてケイヴが一歩、彼に詰め寄る。声を荒げているのか、僅かに声が漏れ聞こえ、「もう一度調査すべきです」とケイヴが訴えているのがわかった。だけど、殿下はまともに取り合っていない。


 ケイヴがアンジェリカの嘘を明かそうと行動してくれているのが嬉しい一方で、心配にもなった。殿下は偽者日菜太の言うことを信じている。それに反抗するケイヴのことをどう思っているのだろうか。自分に反旗を翻す人物として鬱陶しがったり、捕らえたりしないか?


「ケイヴ……」


 信じて待っていろ、逃げるなと言われた。だけど、出てくるなとは言われていない。


 ここでケイヴにすべてを任せて隠れていいの?

 もしケイヴが捕まったら、アンジェリカのときのように後悔しない?


 日菜太の頭には、あのとき見ず知らずの娘を身代わりにしたことへの後悔が蘇ってくる。結果としてアンジェリカは日菜太を騙したわけだが、ケイヴは違う。本当に自分のせいで捕まってしまうかもしれない。


 自分が出て行って、状況を説明しようか。そう思って、拳を強く握り締めたときだった。


「動かないで。私にすべて任せて」


 急に後ろから声をかけられて、危うく叫びそうになった。ひゃ、と叫び声が出かかった口を両手で押さえ、後ろを振り向く。日向の意識が前に集中している間、いつの間に忍び寄ってきたのか、一人の娘が立っていた。金髪碧眼の美少女という言葉がぴったりのお人形みたいな人だ。背筋をピンッと伸ばして歩く姿はなんだか凛々しい。


 日菜太の横を素通りしていった彼女は、「何をしているのですか!」とその場によく通る高い声を張った。


「フローティア!」


 彼女の声にいち早く反応したのは殿下だ。フローティア。その名前、聞き覚えがあるぞと記憶を探り、思い出した。


 殿下の愛しい人の名前が、フローティアだった。


 確かアンジェリカに危害を加えられたはずだ。それなのに、日菜太の横を通り抜けて殿下たちのもとへ行った。いや、その前に日菜太に声をかけてから向かった?


 自分に気づいていたのにスルーしていったことに日菜太は驚き、固まった。


 フローティアはなおも声を張り、あろうことか殿下を叱責する。


「これはどういうことですか、ルーク殿下! 臣下であり友人でもあるケイヴ殿を疑い、ここまで追ってきたと?」


 どきりと日菜太はフローティアに注目した。やはりケイヴが疑われているのか。


 フローティアの叱責を受けた殿下は、一瞬うろたえたような仕草を見せたものの、すぐに立ち直って静かに言い返していた。フローティアと違い、声を張り上げることはしないから何を言っているのかわからないけれど、言い返されたフローティアが怒ったことで内容を理解する。


「あの娘がヒナタという名前で、渡りびとだという証拠は何もないのですよ! それなのに、一方の言い分だけ聞いてケイヴ様を疑うとは、浅慮すぎます!」


 大体、とフローティアは苛立ったように言葉を続ける。


「あの女が金細工を持ち、魔法を使おうとしていたということは、他にも魔法を使う手段があるのかもしれません。それなのに、まるで空想みたいな世界の話をし、魔法が使えたからってヒナタと名乗る人物がアンジェリカ・ルーバスではないと決めつけるなんて早計です! 貴方様が私のことを想ってあの女を恨むなり怒るなりするのは嬉しいですが、もっとちゃんと現実を見てくださいませ! 私はまず、あの女のことをもっとよく調べた方がいいと申し上げたではありませんか!」


 怒りを爆発させるようにフローティアが怒鳴るのを聞いて、日菜太はなるほどと納得がいった。フローティアは城にいるらしいヒナタが偽者ではないかと疑い、その女の言うことを聞いて動く恋人に腹を立てているらしい。自分の言うことは聞かず、突然現れた女の言うことだけを聞いているのが気に食わないのだろうか。


 王族と言っても、恋人とは痴話喧嘩をするんだと変なところで感心しながら日菜太は事の成り行きを見守った。フローティアはここにいる日菜太を突き出すつもりはなく、むしろ殿下たちを引き上げさせようとしてくれている。しばらく押し問答が続いたけれど、最終的に殿下はフローティアの説得に応じたようだ。


 殿下がひとつ手を振るだけで、その場にいた兵が皆、従って動く様が怖かった。彼の命令ひとつで簡単にあれだけの人間が動くのだ。もし、国中を本気で探し回られたら日菜太に逃げ場はなくなるだろう。


 最後に殿下はフローティアとともに帰ろうとしたけれど、彼女はそれを固辞した。兵や殿下の姿が見えなくなるまで充分に待ってから、フローティアはケイヴに話しかけ、日菜太がいる方向を指してくる。


 何を話しているのか気になったけれど、今度は彼女も声を張らなかったから内容はわからない。ただ、ケイヴが感謝するように恭しく頭を下げているのを見て、彼女が敵ではないんだとわかった。


 フローティアも去ったあと、ケイヴがこちらに歩いてきた。日菜太は慌てて茂みから飛び出し、彼に駆け寄る。


「大丈夫だったってことで、合ってる?」

「ああ。フローティア様に助けられたな」

「ケイヴに何かまずいことは起きてない? 殿下と喧嘩しているように見えたけど、まさか私の代わりに捕まるなんてことないよね……?」


 さすがにそこまでの事態になったら、彼を頼れない。日菜太は自分の身が可愛いけれど、他人を犠牲にするのはもう嫌だ。ケイヴには上手いこと言い訳してもらって一人で逃げるか、逃げ切れないなら捕まるしかないと思っていたけれど、彼は日菜太の言葉に笑って「ないさ」と答える。


「いきなり逮捕されることはない。今回は君の逃亡がわかって、私が手引きしたのではないかということでプライベートで使っているこの狩猟小屋まで来ただけだ。殿下にはここのことを話したことがあるから、連れ出して逃げたならここだろうと……」

「行動を読まれていたわけだ」

「そうだな。そこは反省する」


 ケイヴは苦笑したあと、真剣な表情に戻って腕を組み、指を顎に当てる。


「だが、なぜ殿下は私が君を連れて逃げたと思いついたのかがわからなかった。私がアンジェを嫌っていること走っていたのだから、連れて逃げるはずがないと考えるはずだと、そう思っていたんだ。そこを……あいつにも読まれたんだろう」

「あいつ?」

「アンジェリカだよ。フローティア様が教えてくれた。アンジェが殿下に、私と君を二人きりにするのは危険ではないかと進言したそうだ。はじめは取り合わなかった殿下も、アンジェの言葉にだんだんともしかしたらって疑いを持ったらしい。それで私が隠れ家に使いそうな場所へやってきたそうだ」

「アンジェリカは、なんというか……自分が生き残るためにはなんでもする人なんだ」

「ああ、そういう女だよ」


 彼女のことをよく知っているケイヴは苦々しそうに頷く。と、日菜太の格好に目を落として、ついっと視線を逸らした。


「一旦、小屋に戻ろう。私が君を匿っていると疑惑を深めたものが置いてある」

「何それ?」

「……コルセットを寝室に置いていっただろう。おかげで俺は殿下にアンジェと床を共にしたと思われた……」


 あ。


 床を共にって、遠回しな言い方でもピンときた。まさか、逃げた先でよろしくやっていると思われるなんてひどい発想だ。そう思って、日菜太は頭を抱えそうになる。さっき、自分も同じような考えを持っていたのだ。誰でも思いつく発想か。


 ケイヴに連れられて狩猟小屋に戻ったあと、話はあとでということで日菜太は再び寝室に籠った。ドレスを着替えてコルセットをつけるためにドアに鍵をかけたけれど、ベッドの上にそれらを並べて腕を組む。


 どう見ても、日菜太が知るドレスの形ではない。


 どうやらこの世界のドレスは上下に分かれているらしいとだけはわかった。スカートになるのだろう広い布は腰に巻きつけるための紐がついている。それから鞄代わりになるのか、ティッシュケースみたいな穴の空いた四角い袋状の布が二つ。よくわからない膨らんだ紐、スカーフのように大きな白い布、シャツのようなものに、上着?


 全部をベッドに並べたあと、日菜太は腰に手を当てて首を傾げる。


「これ、何をどう着ればいいの……?」


 そもそもコルセットを付け直そうとしても上手くできなかった。一人で紐を通し、ぎゅっと強く結び上げることができない。ほどく時点で気づけばよかった。


 一人で着替えは無理だ。


 結局、日菜太はそのままの格好で、ケイヴに借りていたマントを被って寝室から出た。


「着替えは? ええと、サイズが合わなかったとか?」


 気まずそうに問われ、日菜太も申し訳なくなりながら答える。


「着替えの仕方がわからないの」

「わからない?」

「私の世界じゃ、あんなふうに何枚も着たりしないの。Tシャツを着て、ズボンかスカートを穿くくらいだよ。下着だってもっと着やすいものだし……。あれ、何をどうやって着ればいいの?」

「俺に聞かれても困る……」


 心底困った顔でぽろりと返したあと、ケイヴはハッとして咳払いをした。「一度座ってくれ」と椅子を引いてくれた。


 日菜太が大人しく座ると、ホットミルクが入ったマグカップを渡してくる。そして自分は少し離れたところに立ち、別のものを飲んでいた。グラスの色を見るに、たぶんお酒だ。


「まさか服の着方まで教えなければいけないだなんて、思ってもいなかったな」

「私もそこまで文化が違うとは思ってもいなかった」

「さすがに私もそこまで手伝うことはできない。だが、教える人を手配することはできそうだ」

「信用できる人?」


 今日、ケイヴと逃げてきて、ジョンに会った。彼に追いかけられたことは記憶に新しく、これ以上、自分の逃げ場所を人に知られたくないと思った。だけど、ケイヴだけでは日菜太にすべてを教えるのは難しいというのも、だんだん理解してきた。


 ホットミルクに口をつけようとして、あちっと舌を引っ込める。熱すぎる。少し冷ましてから飲まないと火傷しそうだ。


 フーフーと息を吹きかける日菜太に、ケイヴは笑う。


「君も知っている人だ。そう警戒しなくていい。フローティア様だよ」

「フローティア?」

「さっき伝えられたんだ。何かあったら自分を頼ってほしいと。殿下はあの通りで使いものにならないから、できる限り自分が手を貸すと言ってくれたよ。どうやら彼女は城にいるヒナタがアンジェだと気づいているようだな」


 楽しそうにケイヴの口元が歪む。


「フローティア様に見破られているなら、アンジェの未来は破滅の一途だ。彼女は自分がされた行いを許していない。アンジェが一切反省していないせいでもあるが、勇ましい性格だからな。やられたらやり返さないと気が済まなさそうだ」

「それで、さっき私を見た時も素通りしたんだ……」


 きっと、一目見て、日菜太がアンジェリカとよく似ていると気づいたはずだ。それでも素通りしたのは、アンジェリカは城にいて、日菜太は被害者だとわかっていたからだったのか。


 納得した日菜太は、ようやく温くなったミルクを一口飲んだ。フローティアなら確かに警戒しなくていいだろう。彼女はアンジェリカに傷付けられ、恋人をいいように操られている。ケイヴの言葉通りの性格なら、相当頭にきているはずだ。協力者として適している。


 うん、と頷く。


「わかった。フローティアに洋服の着方を教えてもらう。ついでに、他にも色々聞きたいことがあるから、それも教えてもらえると有難いし」

「他? なんだ?」

「ケイヴには言えないこと。女性同士の相談だよ。どうしても聞きたいなら言うけど、最終的に聞いた自分が悪かったって思うのはケイヴだからね」


 フローティアが来たら、コルセットの付け方や服の着替え方だけではなくて、ケイヴが教えてくる女性としてあるまじき行動についても質問してみよう。本当に脚を見せてはいけないのか、これははっきりさせておきたい。あと、今はまだ大丈夫そうだけど、生理についてもどうしていいか聞いておかないと、あとで困ったことになりそうだ。


 日菜太の返し、ケイヴは少し気圧されたように顔を歪めた。「聞かないでおく」と酒に逃げ、話を変える。


「今夜中にフローティア様には連絡を出す。悪いが、今日は着替えに関しては我慢してくれ」

「うん、大丈夫。せっかく用意してくれたのに着替えられなくてごめんなさい」

「詫びはいらない。君と私の世界では色々なことが大きく違うとわかってきたからな」


 ふっと表情が和らいだケイヴの顔が大人びて見える。そういえば、彼らは学校を卒業したばかりという話だった。二つの世界は大きく違うと言われたけれど、学校を卒業する年齢はどうなのだろうか。日菜太よりケイヴの方が年下である可能性は高いように思う。


 年下の男の子に頼りっぱなしなのも情けないが、他にどうしようもない。それで、と日菜太は切り出す。


「さっき話した、私の提案はどう思う? 私をだしにアンジェリカの協力者を探さない?」

「危険だと私は言った」

「でも、良い案だとも言ったでしょ? 協力者を探すにはケイヴの力が頼りになるけど、捕まえるときも頼りっぱなしで私は何もしないのは申し訳ないよ。できることがあるなら、私も協力したい。相手もいきなりアンジェリカが来たらびっくりするんじゃない? 驚いて、色々いらないこと話すかも」

「拷問して聞き出せばいいだろう?」

「……拷問しなくても上手く聞き出す方法があるなら、それでもいいんじゃない? ケイヴは積極的に拷問したいわけじゃないでしょ?」

「婦女子を餌に悪人を釣り上げるくらいなら、拷問の方がいいだろう?」

「よくないと思う」


 これもこの世界の常識なのだろうか。それとも、ケイヴの性格か? 日菜太は迷いながら否定して、もう一度ホットミルクに口をつける。


「私はケイヴに頼らなきゃここで上手く生きていけない人間だけど、あまり誰かを傷つけたくないの。最初はアンジェリカを身代わりに、自分は助かろうとした。それがすごく嫌だったし、そのあと騙されたのもすごく嫌な気分になったから、自分でできることは自分でしたい。なるべく危険にはならないように気をつけるから、少しだけでも力を貸すことはできない? もちろん、私が手伝うことでケイヴが危険な目に遭うなら大人しくここに隠れてるけど……」


 自分のことなのに、ケイヴを手伝うというのは変な感じだ。自分のことは自分ですると言い切れないのも情けない。だけど、なんでもできると胸を張れるほど、日菜太には力がなかった。


 ケイヴはしばらく考え込んでいた。ちびちびとグラスを傾けながら、それが空になっても黙っている。


 だめだろうかと、日菜太は固唾を飲んで見守った。邪魔だと言われたら待つしかできない。


「……ヒナタの言いたいことはわかった」

「じゃあ、手伝ってもいい?」

「もし私がだめだと言ったらどうする? 勝手に動くか」

「大人しくしてるってば」

「私の言うことをちゃんと聞くと、約束してくれるか」


 念を押すようなケイヴの言葉に日菜太は一瞬頷きかけ、止まった。言うことを聞くと了承すれば、彼の言葉に従うことになる。誰かの言うことを聞くだけになるのはやめるんじゃなかったかと、日菜太は悩み、ぎゅっと強くマグカップを握り締めた。


「ケイヴの言うことを聞かなきゃいけないと思ったときは、ちゃんと聞く。でも、なんでも言うことを聞くことはしないと思う。……私の勝手ばかり言ってごめんなさい。ケイヴは私を助ける理由なんてないのに、付き合ってくれてるってわかってるんだけど……言うことを聞くだけなのはやめたいんです」

「別に嘘をつかないなら私は気にしないさ。それに、私が君を助ける理由はある。私はアンジェに正しい罰を与えたいんだから、その過程で君を助けているだけだ。君の無実がわかれば自然とアンジェが罰せられる。そのために助けているんだよ」


 あとは、とケイヴは苦笑いする。


「常識を知らない娘さんを一人にしておくのは心配だから、自分があとで後悔しないよう世話を焼いているのもある」

「常識を知らない娘って……」


 間違ってはいないけれど、大人として言い返したくもなる。日菜太がむっとしたのを気づいてか、「悪い悪い」とケイヴは笑って謝った。


「まあ、常識については今だけだろうさ。俺……私がいなくても大丈夫になったら、もっとヒナタも自由を感じれるんじゃないか?」

「……ちょっと気になってるんだけど、訊いてもいい?」

「なんでもどうぞ」

「ケイヴは自分のこと『私』って言ってるけど、本当は『俺』って言う方が言いやすいの?」

「え」


 笑っていたケイヴの表情がぴくりと固まる。突いてほしくない話題だったかと、日菜太は急いで手を振った。


「別に話したくないことだったら言わなくていいから。なんとなく気になっただけで、聞かなきゃいけないことでもないし……」

「いや、話したくないことじゃないよ。ちょっと馬鹿みたいなことだからさ。言うのも恥ずかしくてあまり人に言ってないだけで。けど、そうやって気にしているのも恥ずかしいことだよな」


 空いたグラスにケイヴはお酒を注ぎ足す。デキャンタに入っている赤い液体をじっと見つめた彼は、それを掲げて日菜太に訊いてくる。


「ヒナタは飲めるか?」

「あ、うん。それは何?」

「我が国、ヘレトス王国産の赤ワインだ。ええと、ブドウで造られたお酒で少し度数は高いかな。口当たりはいいから飲みやすいとは思うが、酒に弱いなら飲む量は控えた方がいいな」

「ワインなら私の世界にもあったし、飲めると思う」


 原材料も同じようだから、二つの世界にまったくの共通点がないわけではないようだ。ケイヴが注いでくれたグラスを受け取り、こくりと少しだけ飲んでみると覚えのある味がする。


「これ、私の世界のワインと同じだ!」

「へえ。全然違う世界ではないってことか。ということは、渡りびとはある程度共通点のある世界からやってくると考えられるのか……」


 ケイヴもワインで喉を潤し、ふうと息をつく。


「自分のことを『私』って言うのは、意識してのことなんだ。前は『俺』と言っていたんだが、アンジェに裏切られたあとにやめた。特別な意味はないんだが、もう誰にも騙されないようにっていう意識づけかな。嘘をつく奴に対しての防衛でもある。壁を作って、相手を遠くから観察して、自分から相手に近づいていっても相手に自分を見せないための殻のようなもの……って意識かもしれない」


 考えながらケイヴはぽつぽつと話し、グラスをぐるりと回す。


「アンジェに裏切られたときに変えたのは覚えている。けど、変えたからって何がどうなるってわけじゃないんだよなぁ」

「……ケイヴはアンジェリカのことが本気で好きだったんだね」

「そういう感情はなかったと言っただろう? 政略結婚だったから、恋愛感情というのもわからず、ただ親の言いなりになっていたんだ。それも貴族社会のひとつだから仕方ないとは思う。が、ヒナタの話を聞くと、言うことを聞くだけは嫌だというのも理解できるな」

「私のはわがままだよ」

「わがままを言える環境なら、言ってしまった方がいい。で、ここは君がわがままを言える場所だ。俺の言うことを聞きたくないときはそう言ってくれ。無理のない範囲で君の意見は聞くし、絶対に言うことを聞いてもらいたいときは怒鳴ってでも従わせる。あとは、自分の行動次第だ。好きにしてくれ」


 グラスを窓際に置いたケイヴは、ゆっくりと日菜太の方へ歩み寄ってくる。視線は真っ直ぐに日菜太に向けられ、怯えていないか、逃げようとしていないか観察しているようだった。


 日菜太がそのままでいると、まだ半分以上ワインが残っていたグラスと、ほとんど飲み干したマグカップを受け取り、笑った。


「今日はここまでにしよう。今夜中にフローティア様に連絡を取って、明日中には着替えられるようにする。君はゆっくり休んで、今後に備えてくれ」

「これからどうするかの相談はしなくていいの?」

「金細工の職人を探すか、城にいるであろうアンジェの協力者を探すか、どちらかにしようとは考えているが、これもフローティア様が来てからだな。彼女がアンジェの企みを見抜いているなら、何かしらの行動をされているはずだ。そういう行動力に長けた、怖い方なんだよ」


 片手でグラスとマグカップを持ち直したケイヴは日菜太の肩にかけられているマントを持ち上げ、体が隠れるようにかけ直した。顔の横に垂れる髪を指先ですくい取り、耳にかけたあと笑いかけられる。


「とにかく、今日はもうおやすみ。君も疲れているだろう?」

「……ありがとう。ケイヴも疲れているでしょう? その、昼間は暴れてごめんなさい。明日もよろしくお願いします」


 立ち上がり、マントがずり下がらないよう手で押さえながら頭を下げる。するとケイヴも恭しく胸に手を当てて、「こちらこそ」と頭を下げてきた。騎士というのはこんな感じなのだろうかと、ファンタジーの世界に来たのを強く思った。


 ケイヴに促され、日菜太は一人で寝室に入る。きつく言いつけられたから窓だけでなく、ドアにも鍵をかけた。殿下の兵に荒らされた跡があるけれど、ベッド周りだけは綺麗に片付けられ、ゆっくり休めるようになっている。


 並べていたドレスとコルセットを抱えて、テーブルの上に移動させる。靴を脱いでベッドに寝転ぶ。少しだけ埃っぽく感じるけれど、床の上で寝落ちした昨日よりは快適だ。人を身代わりにしたという罪悪感もない。


 目を閉じた日菜太は、目まぐるしく起きた今日までのことを思い返す。いつの間にか罪人になっていて、殿下に追われ、ケイヴに助けられ。更には殿下の恋人らしいフローティアも日菜太の味方らしいとわかり、今後やるべきことも見えてきた気がする。何をどうすればいいかわからなかったときに比べ、何をすればいいかわかっている今は気持ちも落ち着けさせるのも楽だった。


「明日はフローティアに色々教えてもらって、それから……」


 ケイヴと改めて今後のことを相談する。


 彼の言葉を思い出し、日菜太はぎゅっと強く目を瞑った。意識して『私』と言うのは、相手を警戒してのことだったのか。なら、『俺』というときは気が緩んでいるから? ケイヴは自分の前で警戒心を解くときがあるというのが意外で、むず痒くて、深く考えないようにする。


 ケイヴと日菜太はある意味、共闘関係だ。だから警戒するより味方意識が強いのだろう。


 日菜太も、あまり彼を警戒しなくていいのかもしれない。そう思ったら気が楽になり、スーッと意識は眠りの中に落ちていった。

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