一 罪人となった令嬢は逃げる


 見知らぬ世界で眠ることなんてできないと思っていたけれど、体は疲れていたらしい。思いもよらない出来事に現実逃避するかのようにヒナタは眠りこけ、起きたのは太陽が空高く上がった頃だった。


 日差しが顔に当たってようやく目覚めた日菜太はしばらく自分の置かれた状況が理解できなかった。ここ、どこ。なにこれ、と昨晩考えたことと同じパニックに陥りそうになり、自分の姿に目を落として思い出す。


 今、自分は異世界に来て、とある令嬢に成り代わっている。このままだと命が狙われるからとアンジェリカから申し出てくれたことだけれど、朝からどのように行動すればいいかも指示されていたんだった。


「朝には馬車が出るって言ってたのに、今何時……っ!」


 生憎、部屋の中に時計はない。空を見上げても太陽が高い位置にあることしかわからない。正確な時間は測れないけれど、おそらく朝はとうに過ぎている。


 まずい。せっかくアンジェリカが自分の身を犠牲に日菜太の安全を作ってくれたのに、自分でだめにしてしまったかもしれない。


 いや、馬車に乗るべき令嬢を置いて出発するはずない。急げば間に合うはずだと立ち上がった日菜太の耳に、ガチャガチャとドアの鍵を開ける音が聞こえる。


 ハッとしてそちらを見たとき、タイミングよくドアが開かれた。


「ああ、起きていましたか」


 現れたのは金髪碧眼のいかにもな外国人男性だ。この場合、異世界人というべきだろうか。たくさんの飾りがついた白いジャケットを着ていて、彼に従うように他にも数人、男たちが入ってくる。


 こちらは女性一人。向こうは男性が四人。


 とっさに身を守るため、ベッドの後ろに隠れようとした。だけど身を翻した瞬間に腕を掴まれ、捻りあげられる。


「痛いっ……!」

「ケイヴ、そのまま押さえておいてもらえますか」

「かしこまりました」


 力ずくで跪かされ、日菜太は困惑しながらそれぞれの顔をぐるりと見回す。一番偉そうなのはやはり、金髪碧眼の青年だ。日菜太の前に立ち、冷たい瞳で見下ろしてくる。


 それから青年の後ろに二人の男がいて、彼らは双子のように同じ顔をして、部屋を見回していた。ひょろりと細長い彼らは、髪の分け目が左右逆で、まるで鏡みたいだ。なんだか作り物みたいな顔をしている。


 残りは日菜太を押さえつけている男だ。顔はほとんど見えなかったけれど、力強いのだけはわかる。腕も、肩も痛い。


 何が起きたかわからず、顔を動かそうとすれば背後の男……確か、ケイヴと呼ばれていた男が、頭を掴んできた。


「動くな、アンジェ。もうお前は逃げられないんだ」

「え?」

「殿下。シーツが裂かれているようです。窓枠に端が結びつけられています」


 ケイヴの言葉に混乱しそうになったとき、双子の片方が金髪の青年を「殿下」と呼び、報告している。殿下と呼ばれた青年はケイヴがしっかりと日菜太を押さえつけているのを見て、そちらへ足を向けた。


 殿下。ということはつまり……。


「あなたが王子様?」

「今更知らないふりをして、また最初からやり直そうって算段ですか、アンジェリカ・ルーバス。貴女の罪は既に明るみになっているのに、逃げることなんてできませんよ」

「つ、罪ってどういうことですか!」


 慌てて立ち上がりかけ、再びケイヴに押さえ込まれる。「動くな」と鋭い声で命令され、びくりと体が震えた。


 どういうこと? アンジェリカが罪を犯していた?


 昨晩、自分の状況が理解できたと思っていた。この世界で自分は追われる側の人間で、令嬢となり、身を隠すしか方法はないのだと。


 だけど、追われていたのはアンジェリカも同じだったのだろうか。彼女がここに一人でいたのは、囚われていたから? 逃げるために日菜太を利用したのか。


「ま、待ってください、その、殿下」


 呼び慣れない呼称だ。名前はなんて言うんだろうと変なことが気になった。


「私は何も知りません。信じられないかもしれませんが、その、私はアンジェリカではないんです。逃げようと思ったのは、逃げなきゃ王子様に捕まるって聞いて……」

「もう捕まっているでしょう」

「ですから、そうじゃなくてっ……」

「ここにいるのはアンジェリカのみです。三日前に捕らえ、ここにいてもらいました。ドアにはしっかり鍵をかけ、外には衛兵が立っています。窓の外にはいませんが……さすがにご令嬢がドレス姿でここから降りるのは難しかったのでしょう。残念ですね、アンジェリカ。貴女に逃げ場はありません」

「アンジェリカは逃げました! ドレスじゃなくて、私の服で逃げたんです。私はっ……!」

「ええ、そう。貴女は嘘がうまい。息を吐くように嘘をつき、僕を騙し、自分が望む結果を手に入れようとする。ですが、嘘でいつまでも偽り続けるのは難しいんですよ」


 窓から足を動かし、殿下は日菜太の側に来る。話しているときは感情の読めなかった瞳に、明確に怒りが浮かんでいた。


「身勝手な嫉妬からフローティアを傷つけたことを僕は許さない。自分の罪を大人しく償えばいいものを、反省もせず、逃げることばかり考えているのも許し難い。そのために、貴女はなんでも利用しようと言うのですか」

「わ、私、知らな……」

「ならば、証人を。どうぞ、入ってきてください」


 訳がわからず、殿下の視線の先に日菜太も目をやった。何がどうなっているのか……ドアから怖々と顔を出したのは、昨日服を取り替えたアンジェリカだった。


「あ、アンジェリカ! あの、どういうことですか? 私を騙したんですか!」

「きゃっ……!」


 勢い込んで詰問した日菜太に対して、アンジェリカは怯えただけだった。まるで日菜太を凶暴な獣だというように恐れ、ドアの向こうに消えてしまう。


「アンジェリカ!」

「彼女を怯えさせるのはやめなさい。話はあの子から聞いています」

「話って……! アンジェリカはなんて言ったんですか?」

「アンジェリカではなく、ヒノシタ・ヒナタというようです。名も聞かなかったんですね」


 蔑むように睨まれたけれど、違う。その名前は日菜太の名前だ。


 だんだん血の気が引いていった。おかしなことになっている。まずいことになっていると、理解してくる。


 この状況は、だいぶまずい。


「ヒナタは突然、この世界に飛ばされてきたと僕に泣きついてきたのです。自分によく似た顔の人に出会い、その人から自分の代わりに死ねと脅され、ドアには鍵がかかっていたから怖くなって窓から逃げたと。貴女が逃げようと準備していたそのロープで、ですよ。思いっきり突き飛ばしてしまったから死んでいるかもしれないとヒナタは心配していましたが、どうやら気絶していただけのようですね」

「ち、違います! 日菜太は私ですっ……。私が、」

「拘束する際、魔法を使える力はすべて奪っていたつもりでしたが、まさか金細工に魔力を溜めて放出する方法を取っていたとは、こちらのミスでした。本当に貴女は抜け目がない。突き飛ばしたとき、つい手に引っ掛かったというこれを見て、貴女の計画に気づいたんですよ。強引に異世界から自分に似た人間を呼び出し、身代わりを作ろうとしたんだと」


 殿下の言葉に、日菜太は固まった。

 強引?


 アンジェリカが無理やり、自分をこちらに呼んだのか。

 強い怒りが湧いて、歯を食い縛る。


 嘘つき。

 嘘つき。

 嘘つき!


「私が狙われるから助けてくれるんじゃなかったのっ!」

「ケイヴ、きちんと押さえておいてください」


 拘束が緩んでいる隙に相手に詰め寄りかけた。けれど彼の一言ですぐにケイヴが取り押さえてくる。

 痛い。痛くて、情けなくて、泣けてくる。


「なんでこんな目に合わなきゃいけないの……」


 今日は入社日だった。長い就活の末、ようやく就職先を決めたのに。特に入りたいと思っていたわけではないけれど、知らない世界で罪人扱いされるよりずっといい。


「帰りたい……」


 心からの言葉だった。だけど、殿下にはため息だけで済まされる。


「逃げようとしなければ、修道院に入れるだけで済んでいたんですよ。貴女が逃げたから、修道院に入れても逃亡するだろうと判断し、罰が変わったんです。自らの行いが招いた結果だと受け入れなさい」

「私はアンジェリカじゃないのにっ! 外にいるのがアンジェリカなの! 私は、私はっ……!」


 他人を生贄に自分は助かろうと汚いことをした報いが、これなのか?


 怒りが爆発しても、言い返す言葉が上手く出てこない。こんなときくらい好きに罵れたらいいのに、違う、私が日菜太なのに、アンジェリカはあっちなのに、と子供みたいに同じことを繰り返す。


 また、殿下はため息をついた。心底呆れたように、日菜太を軽蔑して見捨てたかのように、踵を返す。


「行きましょう。陛下に彼女の刑を伝えなければ」

「……刑?」

「せめて苦しまぬよう、安らかに眠れる薬を与えます。身支度を整えて待っていなさい」


 それってつまり毒殺ってこと?

 現実感のない展開に、拒絶よりも先に惚けてしまった。アンジェリカが現実を受け入れられなかったと殿下は見たのだろう。小さく頭を振り、歩き出す。


 だけど、日向を押さえ込む手は離れなかった。


「ケイヴ? 行きますよ」

「申し訳ありません、殿下。今日がこいつの最期の日なら、幼馴染として最後に話していってもいいですか」

「……まだ彼女に情が?」

「もう婚約者とは思っていませんが、小さい頃からの友人です。すべての情を捨て切るのは、難しいです」


 また、手が緩んだ。幼馴染、婚約者。そうか、最初こそ強い力で押さえ込んできたけれど途中で優しくなっていたのはそのせいか。


 殿下はケイヴを一瞥し、日菜太には見せなかった優しい笑みを返す。


「君のそういうところが好ましいし、苦労人だなと思いますよ。先に戻っているので、戻りはいつでも構いません。気が済むまで話をしてください」

「ありがとうございます」


 殿下が外に出ると同時に手が離れた。


「大丈夫か? 悪いな、強くやりすぎた」


 今まで後ろに立っていた人物が目の前に回ってくる。殿下の服は煌びやかに見えたけれど、彼のはシンプルだ。御伽話に出てきそうな騎士の服。マントが彼の動きに回せて、ふわりと舞った。


 ようやく彼の顔をまともに見られた。赤銅色の、少し長い髪。目は日菜太と同じ黒だけれど、日菜太ともアンジェリカとも違う光を持っているように見えた。日に焼けた肌は僅かに浅黒く、「ほら」と差し出してきた手は大きくて、手首が太くて、筋張っている。


 手を借りようとし、やめた。


「私、あなたの婚約者じゃありません。アンジェリカじゃなくて、日菜太だからっ……」


 だから、優しくしてもらう理由がない。

 そう拒否したつもりが、ケイヴはうっすらと笑んで「わかってるよ」と答えた。


「お前がヒノシタ・ヒナタで、あの嘘泣きしていた女がアンジェなんだろう? そんなのわかってる。長い付き合いなんだから、アンジェがどういう女で、私をどう見てるかっていうのも理解してるんだ。あいつは私に押さえ込まれて怯えるような性質じゃない」


 逡巡していた日菜太の手をケイヴが取った。引き上げられてよろめいた体をサッと片手で抱き留め、すぐ離れる。椅子を引いたケイヴはそのまま日菜太をそこに座らせ、自分は立ったまま腕を組んだ。


「私にはわかる。が、これじゃあまずいんだ。殿下はお怒りでな。愛しのフローティア嬢がアンジェに嫌がらせを受け、怪我をさせられた。更に殿下に対して心変わりの薬を盛ろうとしたところで、もう慈悲は無くなったようだ。明日には修道院に送られるだろうな」

「え? 王子様は薬を持ってくるって……」

「表向き、アンジェリカ・ルーバスは殺されるってことだ。もう貴族に戻れないよう、人を傷つけることもないよう、身分も魔法も取り上げられる。あいつに頼るものはもうないはずだったんだが……」


 何かを考えながら、くるくるとケイヴは指先で宙に円を描く。「あの金細工……」と呟いているところをみると、アンジェリカが見せたであろう金細工の謎について考えているのかもしれない。


 けれど、日菜太にとって重要なのはアンジェリカが残した謎ではなく、自分の処遇だ。


「私、修道院に行かなきゃいけないんですか? 元の世界に帰る方法はないんですか?」

「……残念だけどな、異世界から人一人を引っ張ってくるって、大変な魔法なんだ。あいつは大きな魔力を持っていたから、事前に金細工に呪文をこめて使ったんだろう。だが、もうアンジェに力はないはずなんだ。危険なことをしないよう奪われたんだから、誰も……」

「アンジェリカより力が強い人は? その、魔法のことがよくわからないんですけど、アンジェリカが最強なわけじゃないんでしょう?」

「いや、あいつが最強だよ。この国で一番強い魔力を持った女で……とにかく最悪な性格をしている」


 腕組みをやめたケイヴが、同情するような瞳で日菜太を見下ろす。


「私たちのもとにアンジェが来たのは、朝方だった。とにかく怯えていて、泣きながら支離滅裂なことを言うんだ。自分は異世界から来た人間だ、自分によく似た女に脅迫されたと。アンジェによく似ていた……というか、本人だったわけだが、とにかく異世界人がアンジェの手によって呼び出されたことはわかった。しかし、その異世界人がアンジェではない保証はないから、いくつかテストをしたんだ。よく話を聞き、私たちの知らないことをすらすらと答えていくのを聞いた。自分の名前、所属、これまでの人生、自分が生きていた世界についても教えてくれた」

「それ、全部私がアンジェリカに教えたことです! お互い、成り代わるために情報が必要だからって」

「ああ、上手く騙されたんだな。あいつはそういうのが上手い」


 ぐっとケイヴが強く拳を握り締めたのは見間違いではないだろう。何か堪えるように表情を顰め、彼がアンジェリカの婚約者だったことを思い出す。……二人の間に何があって、婚約解消に至ったのだろうか。


 ケイヴが黙っていたのはほんの少しの間だけだった。すぐに「魔法のテストもしたんだ」と続きを話し出す。


「アンジェリカ・ルーバスはもう、魔法が使えない。だから、魔法が使えればアンジェではないと判断し、テストした結果……」

「私の世界に魔法はありません!」


 おそらく、アンジェリカは魔法を使えたから日菜太だと信じられたのだろう。だけど、そこからがもう嘘だ。アンジェリカは日菜太から教えてもらったことのうちのひとつ、嘘をついた。


「私は魔法がない世界から来たから、魔法が使えないんです。アンジェリカじゃないけど、魔法の使い方なんて一切わかりませんっ」

「……それは困ったな。アンジェが自信満々で飛び込んで来たのはそれか。君が魔法を使えないなら、より一層アンジェリカ・ルーバスらしく見える。状況を見て判断すれば、君がアンジェリカだ」

「でも……」

「まあ、違うんだよな。わかってる。私だって同じ女にそう何度も騙されない。ただ、殿下は違う。今は頭に血が上っていて、とてもじゃないがまともな判断はできないだろう。アンジェリカじゃないと言い続けても無駄だ。信じてもらえず、君はアンジェとして裁かれる」

「そんな……」

「彼女をよく知る私だって、最初は騙されかけたさ。まさかあいつが、あんな破廉恥な姿で城に来るとは思わないからな。ほとんど下着同然だったじゃないか。君は元の世界で何をしてたんだ?」

「……もうベッドに入ってました。あれは寝間着です。私の世界では普通の洋服で、このドレスの方がおかしいですよ。きつくって、動きにくくて、今も呼吸がしづらいです」


 たぶん、コルセットのせいだ。息を吸い込んでもたくさん空気が入らない。背筋を正し、なんとか呼吸を保っているけれど、混乱する状況に対して頭に酸素が回っていない気がする。


 ひょいっとケイヴは日菜太の顔を覗き込み、眉根に深い皺を寄せた。


「顔色が悪いな。一度、ベッドで休むか?」

「コルセットを少しでも緩められたらいいんですけど……」

「男がいるのに下着を緩めるだって? あのな、君の世界じゃどうかわからないが、あまり品のないことは言わない方がいい。変なものに目をつけられるぞ」


 そんなの知らない。この世界の常識なんて、何もわからないんだ。


 じわりと涙が滲む。息がしにくい。知らない人となって修道院に送られるなんて嫌だ。そこで神に祈りを捧げ続けるのだろうか? これまで神社でお参りすることくらいしかなかったのに、異世界に来て、そんなことするの? 耐えられる?


 頭の中で何も考えがまとまらないのに、ケイヴは「どうする?」と訊いてきた。


「どうするとは……」

「このままじゃ、君は罪を被ることになる。それが嫌で泣いてるんだろう? じゃあ、これからどうするかだ。君はどうしたい? ヒナタ」

「どう、って……」


 解決策がわからない。こうすればいいよと教えてくれたらその通りに動けるけれど、自分がどうしたいかはわからなかった。


「私、この世界のことよく知らないから、どうすればいいのかわかりません……」

「そんな具体的なことじゃなくてもいい。ここから逃げたいとか、アンジェに仕返しをしたいだとか、何かあるだろう。君が、何をしたいのか」

「私が……?」


 困ってしまって、ケイヴを見上げた。だけど彼は答えをくれない。

 日菜太が出す答えを待っている。


 悩んで、俯いて、一度しっかりと目を閉じて、振り返った。昨夜から来てしまった、知らない世界。出会った相手を頼ったら、騙されてしまった。そして彼女の罪を被ることになっている。


 だが、元は自分が彼女に罪を押し付けようとしていたのだ。捕まるかもしれない危険を教えてもらったのに、アンジェリカの言葉に頷くだけで拒否しなかった。


 膝の上で拳を硬く握り締め、自分がどうするべきだったかを口にする。


「自分で、考えられるようになりたい、です」

「ん? 自分で?」

「私がこんな目に遭ってるのも、アンジェリカの言うことを鵜呑みにしたからです。だから、自分で考えられるように……せめて、この世界の常識を知りたいです」

「なるほどな。それは必要だと私も思う。あんな格好で出歩くのが普通だと言われたら、心配で堪らないからな」

「……あと、修道院に行っても元の世界に帰ることは諦めたくありません」


 さっさとこんな世界から逃げたい。そう思って口にしたけれど、ケイヴは眦を下げ、日菜太を哀れむように見つめた。


「ヒナタ、私がもうひとつ、常識を教えようか」


 膝をつき、ケイヴが下から見上げてくる。強く握り締めた拳に手を重ね、労わるようにぽんぽんと優しく叩く。


「修道院に行くのなら、元の世界に帰るのは諦めた方がいい。修道院は俗世から切り離した場所だ。当然、魔法も使わないから知識も集まらない。毎日同じことを繰り返すだけ。滅多に外の人間は来ないし、情報は遮断される。地上にある神の庭と言われるそこは、妖精が入り込む隙がないんだ」

「じゃあ……修道院に行ったら、元の世界に戻る方法を探すことはできないんですか?」

「神に祈るか、神話の中から望みを見つけるかはできるだろうが、魔法で呼び出したものを神が返すというのもおかしな話だろ? 可能性は限りなく低くなるだろうな」


 真剣な顔つきのケイヴと目を合わせ、質問しようと口を開いた。けれど、すぐそれを訊くのは間違っていると思い、閉じる。


 修道院に行かないで済む方法があるのかと、訊きかけた。自分で考えられるようになりたいと言ってすぐにケイヴを頼るようではだめだ。自分で何ができるか考えないと。


 日菜太はぶんぶんと頭を振って、別のことをケイヴに問う。


「修道院に行かない方が、元の世界に帰る方法は見つかりやすいってことでしょうか」

「確証はない。だが、修道院に行くのは……君の目的を考えると得策とは言えないんじゃないかと私は思う」

「でも、ここにいたら修道院に行かなくてはいけないんですよね?」

「……ああ」


 合わせていた視線が逸らされた。優しく落ち着かせるように触れていた手も離れ、ケイヴは立ち上がる。

 短い答えに、まさかと日菜太は勘付く。


「もしかして、私を見逃してくれたり……するんですか?」


 問いには沈黙が返ってきた。ケイヴは迷うように視線を逸らしたまま、うろうろと歩き回る。


 まさか、本当にそんなことを考えているはずがない。この世界の常識がない日菜太でも、王子様の命令は絶対で、ケイヴは彼に逆らえる立場にないとわかる。殿下は日菜太をアンジェリカだと思い込んでいて、修道院に送る予定だ。日菜太が逆らい逃げるのは、殿下の決定に背く行動だ。


 ケイヴがそんなことするはずない。


 親切にされたら、それを信じるべきなのかもしれない。だけど、日菜太は昨夜、親切を装って騙された。ここまでケイヴは日菜太をアンジェリカではなく樋下日菜太本人だと思って見てくれた。アンジェリカがここを出てからの話もしてくれて、日菜太に親身になってくれていると思う。


 だけど、それでも、信じられない。


 ガタリと音を立てて席を立つ。ケイヴがそれに気づいて顔を上げたとき、怖かった。また押さえ込まれるんじゃないかと。逃さないと捕らえられるんじゃないかと思って日菜太は怯えた。


「私……、やっぱり大人しくしています」


 逃げよう。修道院に行けば元の世界に帰る可能性が少なくなると言うのなら、逃げて帰る方法を探さなければ。でも、今はここを切り抜ける。ケイヴが殿下に日菜太の逃亡の意思を告げ口すれば、どうなることか。また彼らが来る前に逃げないと。


 震える手を強く握り締めて、なるべくケイヴから距離を取ろうとベッドの反対側へ回った。そこに腰をかけ、油断なく相手を観察する。


「この世界がどんなところかわからないのに、冒険なんてできません。ここで大人しく殿下が来るのを待って、修道院に行きます。修道院も未知の世界ですが、元の世界でも神様に祈ることはありました。きっと馴染めます」


 上手く嘘をつけているだろうか。震える手を隠せているだろうか。


 なんとか怯えを押し殺し、いつものように、従順で、逆らう意思がなく、なんでも言うことを聞きそうな女のふりをする。


 騙されてくれと日菜太は祈った。ケイヴがわかったと言って外に出たあと、アンジェリカのように窓から逃げればいい。ドレスでロープを伝って下りるのは不安があるけれど、他に手段がないんだから仕方がない。


 視線を逸らしていたケイヴが日向を見た。明るい黒い瞳が日菜太を映し、丸く見開かれる。


「……驚いたな」

「はい?」

「そんなに嘘をつくのが下手な女性がいるとは思わなかった」

「はいっ?」

「元の世界に帰りたいと言う奴が、すぐに修道院に行く気になるはずないだろう。冒険したくない、というのは本当らしく聞こえたが、あとはまるっきり嘘だな。わかりやすい」

「わ、私は本当に……!」

「私の幼馴染は嘘つきだ。とても上手に嘘をつくから、子供の頃から何年も騙され続けてきた。だからかな。女の嘘は嫌いなんだ。嫌いなものはすぐに察せる。学院で周りの女学生が嘘をついているのを見破ったこともあるんだぞ? 君よりももっと上手かったな」

「あなたと私は初対面ですし、何を根拠に嘘だなんて……っ」

「息遣いと目だ」


 カツン、と小さな足音が立つ。日菜太を追い詰めるようにケイヴはゆっくりと歩を進め、目の前に立った。


 まず、指先は喉を指す。


「嘘をつこうとした君の呼吸が乱れている。この状況に動揺しているとも取れるが、大人しくすると言う前に少しだけ様子が変わった。僅かに目が小さくなったように見えるな。悪さを考える人の目だ」


 指先は移動し、瞳へ。刺されるわけがないと思っても、眼前に指先が突きつけられ、どきりとする。


「悪いことなんて考えていません! いきなりこんなところに来てしまって、これからどうすればいいのかって悩んでいるだけ……」

「どう、は答えが出たはずだろ? 修道院に行くと君は答えを出した。そこでは毎日同じことを繰り返すとも話したじゃないか。なら、修道院に行くと決めただけで君の今後の生活も決まったというわけだ」

「決まっていません! 修道院に行っても望みはゼロじゃないと言ったじゃないですか。それを探すんです」

「ああ、なるほど。筋は通ってるな。だが、君の本心じゃない」


 屈み込んだケイヴは、瞳に突きつけていた指先を日菜太の拳の上に乗せる。


「警戒するな。と言ってもアンジェに騙されたあとだと難しいかもしれないな。だけど、私は味方だと思ってほしい。同じ女に人生を狂わされた同志だと。だから嘘はつかず、本音で話してくれ」

「本心です」

「俺は嘘をつく女が嫌いだ」


 貫き通さねばとなけなしの虚勢を張ったら、強い語調で返された。優しかった仮面が剥げ落ち、私ともアンジェリカとも違う輝きがあると思った黒い瞳は鋭く細められ、日菜太を睨む。


 とん、と指先が拳を叩く。


「助けがほしいなら素直になれ。嘘をつくな。本音で話し合えない奴に手を貸すつもりはない。信用できずとも、今、何が自分にとっての最善か考えろ。私がもし君を騙しているのだとしても、それを利用してここから抜け出す方が確実だと思わないか? 私に嘘をつくのは許さないが、本音を見せてくれるなら打算で利用されても構わない。あのアンジェに正しい罰が下せるなら、私が泥を被るのも厭わない。だから……ここに残った」


 もう一度、拳を叩かれる。


「君に本音で話してもらえるよう、私も嘘をついていない。すべて本音だ。……あの女に、罰を与えよう」


 強い怒りをケイヴの瞳から感じた。これまで見ていた哀れみは心からのものだったのだろうか。それともこれも演技なのだろうか。


 演技ではないと思う。だけど、演技だと思いたくない自分の心がそう感じている可能性も否めない。この世界で味方が欲しくて、ケイヴのことを信じたいだけなのかもしれない。


 彼から目が離せなかった。何か言おうと口を開いても言葉が出てこず、頭の中の混乱は収まらない。ただ、味方が必要なのは確実で。この世界を知らない日菜太が無事に生き残るためには、ケイヴのように手助けしてくれる人物が必要だ。


 信じたらだめだ。また、騙されるかもしれない。


 そう心に刻み、日菜太はごくりと唾を飲み込んだ。


「あなたはそこまでアンジェを恨んでいるんですか? 婚約解消は不本意だった、とか?」

「婚約についてはどうでもいい。私自身、彼女に愛はなかった。ただの政略結婚だ。だが、それでも彼女に忠義を立てようとした私に対して、馬鹿にしたような態度は許せなかった。家族を愚弄したことも許せない」

「プライドと家族のため、ですね」


 情が深い人なのだろうか。それなら裏切る可能性も少ないかなと考えながら、日菜太も彼が嘘をついていないか探る。呼吸や目を観察しても見抜けそうにないけれど、観察は怠らなかった。


 日菜太が自分を疑っているとケイヴは気付いていただろうが、非難はしなかった。その目を受け止め、改めて訊いてくる。


「嘘をつかずに話してくれるか?」


 それは、共にアンジェリカに罰を与えようという誘いに乗るか、という問いか。


 日菜太は迷い、頷いた。


「私はアンジェリカをどうにかしたいとは思っていません。彼女に騙されたけど、自分がすべて信じて任せた結果です。最初、私は彼女の身を危険にさらそうとしていたし、今更騙されたから罰を与えたいとは言えません」

「身代わりにされたんだ。言っていいと思うが……」

「言いません。私の願いは、元の世界に帰ることです。ここから……私を苦しめる世界から、逃げたい」


 元の世界に帰ればすべて元通りだ。朝起きて、会社に行く。仕事をする。新しい毎日が待っている。そこに強い希望はないけれど、今いる世界のように絶望もない。


 何もない平坦な毎日に戻りたいと願う日がくるなんて思いもしなかった。


 ケイヴは「わかった」と頷いたあと、再び鋭い視線を向け、問うてきた。


「帰りたいということは、つまり?」


 もう嘘をつくな、本音で話せと暗に込めて尋ねてきているようだ。


 これがケイヴの騙し討ちだったら、日菜太は今度こそ詰む。だけど、ここから逃げると言ったところで今と何の状況の変化がある? もうアンジェリカと思い込まれている日菜太は、逃亡の危険性がある罪人だ。


 大丈夫と自分を励ます。もう何も失うものはないから、この人の話に乗ってみよう。


 彼が言うように利用するのだ。日菜太がこの世界に慣れるまでのサポーターとして利用し、慣れてきたらケイヴの元からも逃げればいい。


 できる。

 やれ。


 深呼吸し、胸を張った。やっぱりコルセットはきつい。たいして大きな呼吸はできなかったけれど、心は決まった。


「私を逃してくれませんか、ケイヴさん? そして、この世界の常識をもっと教えてください」




 そうして日菜太の逃亡劇は始まった。

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