身代わり令嬢の顛末

天野川硝子

序 身代わりの始まり


 天井から黒い手が伸びてくるのを見た。


 日菜太が目覚めたのは、冷たい空気が頬に当たったからだった。

 窓を開けっ放しだったかなと思って目を開けると、天井から黒い手が伸びていたのだ。なに、これ、と日菜太が固まっている間にそれはどんどん近づいてきて、首を掴む。

 息が止まった。一瞬のうちに視界がブラックアウトし、日菜太は意識を失った。



 きつい匂いが日向の意識をもう一度呼び覚ます。


「うっ……」


 薄っすら目を開けると、見慣れない天井があった。さっきまでいたのは自室のはず。真っ白な天井に楕円形の室内灯があるはずなんだけれど、見えたものは違っていた。


 古い石の天井。室内灯はなく、部屋は薄暗い。灯りとなるのは窓から差し込む月光と壁に備え付けられている蝋燭のみ。それでもなんとなく部屋の中が見えたのは、だんだんと暗闇に目が慣れてきたからかもしれない。


 石の天井と壁。指が触れている床も冷たく、ざらりとした感触がある。どうやら床も石畳のようだ。まるでテーマパークにあるお城の中にいるみたいで現実感がない。


 しかも、目の前にはお姫様みたいに着飾った娘がいる。


「誰……?」


 掠れた声で問う。ドレスを着た娘を、お姫様だと思えなかったのには理由があった。薄暗い中でもわかる顔立ちは、ごく普通の顔。鏡で映した日菜太そっくりだったのだ。


 黒い髪と黒い瞳。パッとしない顔だけど、少しドレスの娘の方が愛嬌のある目元だ。心配そうに眦を下げているけれど、どこか自信を感じさせる瞳の強さが惹きつけられる理由かもしれない。日菜太はここまで自分に自信が持てない。どこにでもいる顔で何の取り柄もない自分は、大学卒業するときギリギリまで就職先が見つからなかった。特筆すべき長所がないどころか、一歩後ろに下がる消極的さが原因だと何度も自己分析で出てきたほどだ。


 自分のようで自分ではない。不思議な雰囲気のその娘は、日菜太が目を覚ましたことに安堵したのか「よかった!」と叫んだ。


「もうお目覚めにならないのかと心配いたしましたわ。世界を超えることで魂や体がどうなることか、わかりませんでしたもの。もしかするとこれは器だけの肉体、魂はないのかもしれないと焦りましたのよ」

「はあ……?」


 喋り方も変だ。こちらの質問には答えず、娘はひとしきりどれだけ心配したのか大袈裟に伝え、胸に手を置き、大きく肩を竦めた。


「ですが、こうしてお目覚めになったんですもの。よかったですわ。まだわたくしの運は落ちていないということですわね」

「あの、すみません。さっきからまったく話が見えないんですが」


 彼女が話している間に体を起こし、周囲を見回した。RPGに出てきそうな古城の一室、というのが一番表現が近いかもしれない。ベッドとテーブルと椅子がひとつずつ。窓は二つついているけれどカーテンはない。外の様子が見えないから一階ではなさそうだ。


 戸惑ってきょろきょろしていた日菜太の質問は三度目だ。話を途中で遮って「どういうことですか?」と訊いても目の前の娘は日菜太を置き去りにして一人で話す話す。ようやく、「あら」と口元に手を当てて振り返ってくれたため、ほっと日菜太は胸を撫で下ろした。


「わたくしったら渡りびとを置いて一人で話してしまって。いけませんわね」

「わたりびと?」

「旅人とも呼ばれていますわ。この世界と別の世界を渡る人間のことを指しまして……つまり、貴女のことですわね」

「……なるほど」


 なるほど?

 頷いてはみたけれど、よくわからない。なにそれ、意味がわからないんだけどと話の腰を折るほど理解できていないわけじゃない。この部屋はRPGによく出てきそう。なら、説明される内容もゲームだと思えば飲み込みやすい。……飲み込んだところで納得できるかは別だけど。


 日菜太が頷いたのを見て、娘はなぜだか満足げに胸を張った。素直に日菜太が話を聞いてくれるのが嬉しいのか、すらすらと続きを話してくれる。


「渡りびとは特別な力を持っていると言われていますの。そのため、国から力を狙われやすく、とても危険だそうですわ。この国でも王子が渡りびとを必死に探しているようですから、きっと貴女は国に捕まり、一生こき使われるのでしょう……」

「へえ……、……え? それで?」


 可哀想に、の一言で締められそうになって、つい口を挟む。わざとらしく目元に指先を当て、さっと涙を拭う仕草を見せた彼女は日菜太の言葉に首を傾げた。


「それで、とは?」

「それだけなんですか? あの、私いきなりこんなところで目が覚めて、その、夢じゃないかって疑うくらい現実感がないんですけど」

「そうなんですのね」

「だから、現実感がない中で『あなたには特別な力があるから一生こき使われます』と言われても納得がいかないというか、なんで私はここにいるのっていう疑問が湧くというか……」


 混乱しながら話していくと、自分が何を聞きたかったのかわかった。日菜太は「そうだよ」と語気を強くし、立ち上がって娘に詰め寄る。


「私、なんでここにいるかわからないんです。この部屋にいるのがあなただけってことは、あなたが関係してるんじゃないんですか。私に特別な力はないし、その、世界を渡る? そんなこともできないし、明日から社会人になるただの女なんですけど……」


 言葉にして自分の本当の現実が戻ってきた。明日は入社式。小さな会社で同期は一人だけ。新入社員二人で頑張ろうねと話して別れたのは二週間くらい前のことだ。

 新しいスーツを用意して、親からは履きやすいパンプスをプレゼントされて。動画を見ながら社会人風のメイクを練習したのに。

 なのにどうしてここにいるのか、日菜太にはまったく理解ができない。


 だけど、娘の方も日菜太の言葉を理解していないようだった。不可解そうに首を傾げ、じっと目を覗き込むように見つめられる。


「特別な力、ないんですの?」

「ありません」

「なら、魔法は何が使えて? 火? 水? それとも土や木かしら」

「魔法っ? 待ってよ、そこまでファンタジーな世界なの……!」


 お城みたいな場所だと思って、ドレスの女の子がいると思って、世界を渡ってきたと言われて、次は魔法? 最後にはドラゴンを倒せと言われたりしないだろうか。


 日菜太が頭を抱えているのを見て、娘の方も何か話が違うと気づいたらしい。「ちょっとよろしくて」と彼女に問われ、日菜太は自分のありのままの状況を話した。


 大学を卒業し、明日から会社で働くことを話したら驚かれた。さらに魔法のことなんて知らず、世界を渡るという意味すらわからないと言えば眉を潜められ、「ならその服は?」と意味不明な質問に「寝間着です」と答えたら卒倒しそうだった。


「服……? それが……? 変わった下着に見えますわ……」

「寝間着だけどパーカーにショートパンツだし、これで外出ることもできるけど……」


 そんなに変な格好ではないはず。だけど、ドレスが普段着の世界で見たら、これは下着に該当するのだろうか。


 困惑する日菜太に対して、娘も大きく動揺していた。いえ、でも、これは……と一人でぶつぶつと呟いている。日菜太はそんな娘を眺めながら、どうしようと悩む。未だにここにいる答えはもらっていない。だけど、娘はカルチャーショックを受けて今すぐに答えられる状態ではなかった。明日の出社に間に合うだろうかとそわそわし出した頃、ようやく娘が立ち直って日菜太を振り向く。


「貴女が何もわかっていないということはわかりましたわ」

「……はい」

「どうやらわたくしたちの世界は大きく違うようですわね。ということは、王子は貴女を捕まえても何も得がないということになりますわ」

「得がないなら、……どうなるんでしょう? 私、もしかしてわけのわからない世界に放り出されるんですか?」


 結局、異世界に来ても自分に特別な力などなかった。長所がない人間の行き場はわかっている。助けがない、自分で足掻いても何も掴めない、先のことなんてわからないまま進むしかないつらさだ。


 思わず娘の腕を掴んでいた。初めて出会った相手だけれど、自分と同じ顔で親近感があるからか、それとも最初に会った相手だからか。彼女に見捨てられなければ大丈夫という根拠のない説から、縋ったのだ。


 だけど一度、娘は日菜太の手を払った。それからにっこりと微笑んで、手を握り直される。


「安心してくださいませ。そういうことでしたら、わたくしに考えがありますわ」

「考え、ですか?」

「ええ。どうやらわたくしと貴女の顔、とても似ているようですし、立場を取り替えませんこと? そうすれば貴女はわたくしに、わたくしは貴女になれますわ」

「取り替えっこしようということですか?」

「わたくしの家は貴族ですから、生活に問題はありませんわ。慣れるまでメイドにすべてを任せておけば、あとはどうとでも。お父様やお母様もめったに顔を見せませんから、安心なさって」

「ま、待ってください! でもそれだとあなたが私の代わりに捕まるってことですよね? その渡りびとってやつに思われて、捕まって、酷い目にあったりしませんか?」

「わたくしは魔法が使えますもの。特別な力がないと判明して放り出される心配はありませんわ」


 ああ、やっぱり特別な力がないと放り出されるんだと怖くなった。同時に、この世界で魔法は大きな意味を持っているのかもしれないと緊張する。娘は当たり前のように何の魔法を使えるか訊いてきた。日菜太が娘に成り代わったところで、すぐに嘘がバレるのではないか。


 怯え、娘の手から離れて自分の手を重ね合わせ握り締める。


 怖い。


 よく知らない世界で、よく知らない場所で、よく知らない人間のふりをしなければいけないのが、怖い。


「帰れないんでしょうか……」

「無理でしょう」


 小さな期待を込め、希望を込めて訊いたけれど、答えは早かった。


「渡りびとはこの世界ではない人間。この世界の人間は別の世界に渡ることはできませんわ。……つまり、渡る魔法はないということですの。貴女に特別な力があれば帰れたかもしれませんが……」

「でも特別な力がなかったのに渡ってしまったわけですし、帰る方法があるかもっ……!」

「ありませんわ。そんなもの、一切ありませんの」


 バッサリと希望を切り捨てた娘は笑う。にっこりと、日菜太とは違う自信に満ちた笑みを浮かべ、ドレスの裾をつまみ、お辞儀した。


「ですから、わたくしの言うことをお聞きになって。貴女はこれから、わたくし……アンジェリカ・ルーバスと名乗るのです。それで、わたくしの新しい名前は何になりますの?」


 アンジェリカと同じ顔なのに、日菜太は情けない顔しかできなかった。なんでこんなことになってしまったんだろうと思いながら、名前を口にする。


「ひなた……。樋下が苗字で、日菜太が名前です」

「ヒナタ様ですわね。ふふっ、ヒナタ様。わたくしたちこれから、お互いの情報をすべて交換いたしましょう。そうして成り代わるのですわ。……生き残るために」


 そうして微笑んだアンジェリカの胸元には、不思議な紋様のペンダントが輝いていた。




 アンジェリカと日菜太の情報交換は夜を徹して行われた。どんな世界に住んでいるのか、自分の立場は何か、これまでどんな人生を歩んできたか。


 彼女との話の中で日菜太が知ったのは、この世界はやはりRPGみたいだということ。生活のほとんどを魔法でカバーし、水、火、草、土といった目に見える自然物に宿る妖精から力を借り、操ることができると言う。教えてもらって日菜太も挑戦してみたが、まるっきりだめだった。「妖精の胎動を感じるのです」と言われたけれど、静かすぎる夜の音しかしない。


 日菜太が今いるのはへトレス王国という国の王都で、この国では王政が敷かれているらしい。首都から離れた街は貴族が管理し、貴族は王から地位を与えられている。貴族にも階位があるらしいけれど、アンジェリカの家は伯爵の地位にある。父親と母親は王都にいることが多く、アンジェリカは王都にある学院を卒業したばかり。明日には領地に戻り、次の社交シーズンまでゆっくり過ごす予定だったと言う。


「ですが、何か嫌な予感というものがして、人目を盗みここに来たのです。すると、自分によく似た顔の人が倒れているでしょう? 格好もおかしく、これは渡りびとではと心配したんですの」

「そう、だったんですね」


 服も交換しながら、ちょっと悩む。今後アンジェリカのフリをしなければいけないということは、この言葉遣いも真似るべきか。できるかなと、日菜太は内心しかめっ面になった。


 ぎゅっとコルセットを締められたときは息が詰まるかと思った。「もう少し優しく」とお願いしたけれど、淑女はコルセットで腰を締め上げるべきらしい。内臓がすべて口から出るかと思うほど強く締め上げられたあと、今度は日菜太が不安がるアンジェリカに服の着方を教えた。終始、「こんな下着みたいな格好で」と顔を青くしていたけれど、最後には勇気を出して着替え、頼りなさそうに窓際に立つ。


「明朝、先ほど教えた宿へ向かってくださいな。そこでメイドが待っていますわ。宿に着き、メイドに会うまでに王国の者に見つかってはなりませんわよ。せっかくこうして成り代わったのが無意味になりますわ。貴女はもう、アンジェリカ・ルーバス。決して渡りびとと名乗らないよう、肝に銘じてくださいませ」

「わ、わかりました。アンジェリカ・ルーバスですね」

「では、わたくしはこれで。……お互い、無事を祈りましょう」


 慣れない手つきでシーツを裂いて作ったロープを窓の外に垂らし、おそるおそるアンジェリカは降りていく。途中、滑り落ちるんじゃないかと怖くなる場面があるけれど、無事に地面まで辿り着いた。


 一度アンジェリカは上を見上げ、日菜太に笑みを返すと小走りに去っていく。さすが伯爵令嬢。足が遅い。あれで逃げ切れるのだろうかと心配だ。


 心配して、日菜太は自己嫌悪にその場に蹲る。


「知らない人を身代わりにしちゃった……」


 自分が助かるために出会ったばかりの人に託して、逃げたのだ。ここが知らない世界で怖いのだとしても、そんなことしてよかったのだろうかと後悔が今更やってくる。


 だけどもう、後戻りはできなかった。

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