勿忘草色の輪廻

八稜鏡

勿忘草色の輪廻

 その日、探偵社は異様な程に忙しかった。誰もが出払い、静まりかえった社内で鏡花は一人黙々と書類整理をしていた。

 不意に聴き慣れた陽気な話し声が聞こえ、扉を開ける。

 どうやら電話中らしい、邪魔しては悪いと立ち去ろうとした背中に呼び掛けられ振り向く。

「姐さんがどうしても会いたい用事があるから来てほしいって」

 先程まで電話していた太宰は大股で鏡花の下に向かうと、首を傾げる鏡花に携帯電話を手渡す。

「姐さんが?」

「着物、余っているの有るから今から取りに来てほしいんだって。大掃除していたら沢山出てきて困っているらしいから——」

「でも、でも仕事終わってない……」

「大丈夫、行ってきなよ。適当に誤魔化しておくからさ。それに……」

 太宰は頬を掻いて言葉を濁す。繋がっているから返事宜しく、と身振り手振りで伝え応接間に引っ込んだ。

——声、やつれてたなぁ。

 電話向こうの紅葉の様子を推測し、溜息をく。

「ま、社長に云えば一週間くらい空けられるでしょ。鏡花ちゃんには甘いし」

 珍しく遣る気を出した太宰は早々に外堀を埋めるのであった。






 太宰の策略により紅葉宅に連行された鏡花は、彼女に手厚く出迎えられ面食らう。協定を結んだお陰で多少なりとも交流し、何度か仕送りもしてもらってはいるがこんなに緩くて善いのだろうかと心配になる。それを周囲に問い掛けたら上手いことはぐらかされた。

「会いたかったぞ、ちゃんと食べているかえ?」

「大丈夫」

「それなら善いのじゃが……」

 嬉しそうに鏡花の頭を撫で、優しく手を引く紅葉の背をじっと見上げる。

 彼女の優しさも執着も、知っているからこそ恐ろしい。けれども鏡花はそれを表には出さなかった。

——でも屹度きっと、見透かされている。

「姐さん、鏡花の荷物は何時いつもの部屋で善いですか?」

 荷物持ちをしていた中也に声を掛けられ、紅葉は瞳を細めて頷いた。

「荷物持ってくれてありがとう」

「気にすんな。楽しんできな」

 中也は鏡花の頭を撫でると、颯爽と廊下の奥に消えて行く。

 彼とは探偵社に入ってから会うようになったが、ぞっとする程に優しくて幹部だとは思えなかった。それは多分ポートマフィアという組織の恐ろしさの所以ゆえんなのだろう。優しいからこそ残酷で、仲間を大切にするからこそ残忍なのだ。悪という役柄を街の為に完璧に演じることの出来る不気味で異常なものたち。いや、優しい姿こそが演技なのかもしれない。何方どちら真実ほんとうの姿なのか判別なんて素人ではなくても無理だろう。鏡花の瞳が冷たく淀む。

「鏡花?」

 心配そうに頬に手を当てる紅葉の優しさだけは嘘だと思いたくなくて、大丈夫と微笑む。冷たいその手が母の手と重なる。だからこの人を信じてしまうのだ。






 鏡花は昔のように紅葉の衣装部屋で着物に囲まれていた。

 様々な事情により増えたという着物はどれも絢爛豪華けんらんごうかで、鏡花の目は一層輝く。不安や恐怖など一瞬で吹き飛んだ。

 その様子をそれは嬉しそうに紅葉は見詰めながら、桐箪笥きりだんすから鏡花の身丈みたけに合う着物を探り出す。

「鏡花、これはどうじゃ? これは季節物で冬にしか着れぬからのぉ……おおっこれは正月——」

「姐さん、姐さん。そろそろ並べるのめねえと鏡花が着物に埋れちまう」

 遠くから観察していた中也はその尋常ではない数に頭を抱え、鏡花が座る場所を確保しつつ散らからぬように着物を並べる。

 桐箪笥からそれはもうあふれるように出てくる着物を、楽しそうに鏡花は眺め吟味していた。

「玉手箱みたい……綺麗……」

わっちは直ぐに背が伸びてしまったからのぉ……ふふ、この辺のなら丁度善い筈じゃ。此処の下のはもう少し背が高くなってからかの? 合わなければ縫えば善い」

「最早一年分有るんじゃねえか、これ……。毎日違うの着れるぞ」

「色々貢がれたりしてのう……一度整理せねばと思うのじゃが……中也、今度手伝ってくれるかえ?」

 肩を落として中也は顔を背ける。それでも最終的には何時いつも駆り出されるので頷くしか出来ず、溜息を誤魔化す代わりに乱雑に頭を掻く。

 そんなことは露知らず、というよりは素知らぬ振りをして鏡花が首を傾げて真剣に悩んでいると、紅葉に頭を撫でられた。彼女の幸せそうな瞳に頬を緩ませる。前と何ら変わりないその仕草に胸の辺りがふわふわした。この情動きもちの名前は知りたくない。今はそれで善い。

「愛いのぉ」

「鏡花、引き際を見極める術を教えてやる。本気マジでこれ終わらなくなるぞ」

「大丈夫、楽しい」

「駄目だ。日が暮れる。心配するだろ、手前テメエんとこ」

 心配する中也に微笑むと、気に入った柄を手元に集めていく。それだけで充分楽しかった。何もかも忘れて流して消してしまいたくなる程に……。

「暗くなったら泊まってくから平気。ちゃんと話してある」

「そうじゃなくてなぁ……」

「おおっこれはの人に買ってもらった洋装ドレスじゃ!」

 不意に子供のようにはしゃいで目を輝かせる紅葉に鏡花は歩み寄る。

 その腕に抱かれた美しい服をちょんと上から合わせ、紅葉は無邪気に微笑む。それはとてもとても紅葉によく似合っていた。

「凄い、綺麗なドレス」

の人がわっちの晴れ舞台の為にと天鵞絨ベルベットのフォーマル・ドレスを用意してくれて……」



こうの字は赤も似合うけれど薄桃ピンクも似合うね。うん、これにしよう。今度は着物を買いに行こうね』



「今度なぞ、来なかったがのぉ……」

 途切れ途切れの言葉と共に思い出が蘇る。洋装ドレスを抱きしめ、ゆっくりと紅葉は立ち上がった。

「……少し席を外す。済まぬの」

「姐さん——」

「鏡花、先に選んで待ってようぜ。目は鍛えてるから俺でも手助け出来るし、な?」

「うん」

 紅葉が廊下に出て背が遠くなって行くのを見計らい、中也は透かさず襖を閉める。心配そうに見上げる鏡花の頬を撫でて優しく微笑んだ。

「ごめんなさい」

「気にすんな。よくあることだ」

 何時いつだって一番近くて遠い場所を彷徨う紅葉の心は、月下美人の如く月がかげった時にしか現れない。触れることも許されない彼女の記憶に刻まれる血の匂いは、中也が一番よく知っていた。

「姐さん、何時いつもより目元の化粧が濃かった。何か理由があるのに私、ちゃんと気付いて——」

「鏡花、手前テメエは知っちゃいけねェこともある。戻りたいだろ、踏み込むな」

 陽が沈まぬように、影が忍ばぬように、細心の注意を払って鏡花を招いているのだ。中也は冷たく突き放すかのように線引きをして遠避ける。例えそのことに気付かれていたとしても構わない。ただ、此方側におちないように言葉を研ぐだけだ。

 鏡花は強く握り締めた手を中也にほどかれて、こぼれそうになる言葉を飲み込む。

「……ありがとう」

「よし。それじゃあ姐さんが戻ってくるまでに決めちまおう。鏡花はどういうのが好きだ?」

「これ……とこれも好き。でも色はこっちの方が好き」

「成る程な」

 不意に箪笥からはみ出ていた着物が鏡花の目に留まる。

「これは……」

「姐さんが昔預かったって云ってたな。薄水色だし……悪くねェが少し大きすぎるんじゃねえか」

「母さんが着てたのに、似てる。柄も一緒」記憶をなぞるように着物をなぞる。「私が汚しちゃって染みが落ちなくてこことここ染め直して……」

 袖を見てぼろぼろ瞳から涙が溢れ出す。鏡花の後ろから夜叉白雪が現れ、その背をさする。鏡花はなかば反射的に白雪の胸に飛び込んだ。それはまるで昔のように、あの頃のように……。

 反芻はんすうする記憶の情景が脳内を駆け巡り、心を縛る。

 どうして彼女があれほどまで闇を突き付けながら、執着し慈しむのか鏡花は気付いてしまった。屹度それは言葉にしてはいけない、解っていてもそれでも胸の奥から込み上げてくる。彼女の優しさを無駄にしたくはない。だからこそ声を殺し、言葉を噛み砕く。

「泣くなら今の内に枯れるまで泣いとけ。その内振り返ることが出来なくなるまで遠くなる」

 い仕草と言葉から中也の優しさがあふれ出し、生温い痛みをもって胸を突き刺した。

 ずっと耐える為に見ないようにしてきた、耐える為にこらえてきた。それでもそれは抑え込むには大き過ぎて、あっという間に心が流されていく。

「よく頑張ったな、鏡花」

 中也は鏡花の頭を優しく撫でると、立ち去ろうとする。けれども白雪に腕を掴まれ、つんのめって座り込んだ。

「ここにいて」

 涙混じりのか細い声に中也は気不味そうに頬を掻いて隣に座ると、その小さな背を撫でる。

 耐え忍ぶ痛みを知っていても中也は一言も紡がない。

 ただ、背を撫で続けながら慈しむように鏡花をめる夜叉を見詰めた。

——あんまり自由に動いて鏡花を困らせんじゃねえぞ。

 胸の内で、瞳だけで伝える。意味は無い。無くても善い。

 中也は静かに、静かに涙の音を聞いていた。






 泣き過ぎて寝てしまっていたのか、鏡花は何時いつの間にか布団に横になっていた。

 痛む目元に手を当てて、辺りを見渡す。

「ほほっ可愛い兎目じゃ」

 鏡花の隣にゆっくりと腰を下ろし楚々と笑む紅葉の頭を、鏡花は背伸びして撫でる。

「姐さんも兎目、お揃い」

「ふふ、内緒だぞ」

「大丈夫、姐さんは綺麗だから」

 柔らかい紅葉の手が鏡花の頬を包み、熱を持った目元を冷やす。

「鏡花、これは内緒の話じゃ。秘密にしてくれるかえ?」

「うん、秘密にする」

わっちはのう……好いた男を己の手で殺したことがあるのじゃ」

 細きかいなで鏡花を抱きしめて、小さくこぼれるように囁く。

「あの時はうまく操れず、先代に利用されて夜叉がの人の腹を裂いて——あの感覚は私の手に染み付いておる。やわな人じゃあなかったから息絶えるまでに時間が掛かった。舌も噛めぬようにされておったし、介錯なんて裏切り者にはないからのぅ。わっちはそれを息絶えるまで、じっと見させられ舌を噛んで自害も出来ず、時間がく過ぎ去れば善いとさえ思う程の苦痛を味わった。鏡花、わっちはそなたに同じことをしたのじゃ。それがどれだけの痛みを伴うか知っておった。故に手元から離したくなくてのぅ。此方にいれば、私ならば、傲慢で愚かな考えじゃ」

 紅葉の云いたいことを汲み取ろうとして、その顔を見ようとするが頭を撫でて制された。

「鏡花……首領の命令ならば探偵社の者らをわっちは容易く切れる。そなたにも刃を向けてしまうかもしれぬ……その時は、その時は私を切っておくんなんし」

「解った」

 静かに頷いて鏡花は紅葉の胸に顔を埋める。そうしなければ彼女の涙が聞こえてしまいそうだった。

「それが姐さんの街の守り方なら私はちゃんと立ち向かう」

「嗚呼、成長したのぅ」

「私には受け取ることしか出来ないから。私は貴方のしたことを許せないけど、理解することは出来る。探偵社で皆んなと一緒に居て少しだけ学んだ」

 するりと紅葉のかいなけて離れていった。凛とした瞳で紅葉を見上げる。

 紅葉の瞳に光は無い。けれども相対する鏡花の瞳に宿る光に懐かしさを感じて、一雫ひとしずく涙が頬を伝った。

 手に入らぬ届かぬものにほど人は焦がれるものである。かつてはそうであった。けれども今はただそれが眩しくてそっと瞳を伏せる。

——嗚呼、どうして手に入れようなどとあの時思ってしまったのかのう。

 流れの強い川の真ん中で刀を突き刺して立っている己とは違い、鏡花は岸辺で己の足で確りと立っていた。

 随分強くなったと鏡花の頭を撫でる。

「それは多分、探偵社のお陰」

「でも一番はあのわっぱじゃろう」

「……貴方は今でも——」

「光はもう要らぬ。私には闇が似合う」

 ころころと笑む紅葉の儚さに手を伸ばしそうになり、誤魔化すように鏡花は膝を抱える。彼女はもうずっと届かぬ場所に居るのだ、覚悟をした上で。

 対照的な二人は静かに見詰め合う。光があるからこそ闇がある。闇があるからこそ光がある。だからこそ美しさが際立つのだ。

「さて、そろそろ夕餉の支度をするかのぅ」

「手伝う」

「鏡花の好きなものを揃えてあるから安心せえ」

 縁側を紅葉に手を引かれて共に歩む。

 その後ろを二人の夜叉が静かに見守っていた。






「鏡花、母の着物じゃが……そなたが受け取れるならば受け取ってほしい」

「解った……着るのはもう少し背が伸びたらだけど」

「ゆっくりで善い」

 鏡花の手にその着物を手渡す。

わっちが生まれて初めて暗殺で負けた相手じゃった。幼き私に情けを掛けて、切れた着物の代わりにと己が手に持っていた着物を渡してくれた。恐らくは仕立て直し屋の帰りだったのであろう。けれどもそなたには云えなかっ——」

 無言で紅葉を抱き締めて、鏡花はその言葉を切る。

「大丈夫、貴方も私も生きているから……こうしてまた巡ってきた」

「鏡花……もしもわっちの死にそなたが立ち会ったならば——」帯から小さな装飾品アクセサリーを取り出す。「彼の人の欠片じゃ。首領が残しておいてくれたが、次もそうとはいくまい。わっちの骨と一緒に海にでも投げておくれ」

 にこりと紅葉は微笑む。

 鏡花は何も云えずに頷くことしか出来なかった。






 美しい月夜の晩は寂しくなる、と庭に出て障子に寄り掛かる。

 覚悟の知る美しい姐も母のように何時いつかは居なくなるのだろう。それまでにあの着物を着た晴れ姿をみせてやりたい、と膝を抱えて座った。

 もう少し、あと少し、でもだ遠い。

——何時いつかあの着物が着れるようになれたら……笑ってくれる? 白雪。

 鏡花は隣に立つ白雪に微笑んだ。

 白雪が微笑んでいたのかどうか、それを知るのは唯一人だけだった。


——了——

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