第4話 とくべつじゃない
みどりちゃんは私のことを詳しく知らない。
彼女は人間が好きだけど、個々人に対しては深い興味をもたないのだ。一緒にいてノリが合う、話がおもしろい、センスがいい、とか、そういう「おっ!」と感じるところがある人を好むものの、それはあくまでも日々がたのしくあれば最高だなっていうだけなのである。ここまでは事実で、ここからは推測。みどりちゃんが人間関係においてポジティブなのは、マイナスの部分を知ろうとしないからだろう。嫌だなと感じるところがあっても多少であれば目を瞑るし、目に余ればあっさり距離をとる。そりゃ人間だもの、完璧なんて存在しない。だけれど、みどりちゃんは欠点を美点で覆い隠すことで許す。
私は、ものすごく人を選り好みする。そして、自分が選り好みしている自覚があるので、同時に自分も必ず選り好みされていると思って生きている。つまり、私はそれなりにみどりちゃんのことを知ったうえで好んで彼女と一緒にいる。私の持論でいけばみどりちゃんも私を気に入って自ら選んで一緒にいてくれていることになるが、その熱量がだいぶん違うのだと思う。
感情において、同じだけのものを返して欲しいと願うことはあまり良い結果をもたらさない、というのは、学生時代に学ぶ処世術の一つだろう。人間は時として野生動物以上に気まぐれ。一晩寝て起きたら考えが百八十度変わっていた、なんていうのは良いほうで、一秒後の感情だって御しきれないこともある。
だから、みどりちゃんが私のことを詳しく知らない事実に関して、私から何かを望むことはないのだ。私がみどりちゃんを知りたいと思う気持ちと同じくらいの熱量で私に興味をもって、受け入れてほしいと夢想するのは、あまりにも馬鹿な考えと割り切らなければならない。
みどりちゃんは出張中だった。五日間ほどロケで地方に行っているらしい。だから私はめずらしくダイニングで仕事をしていた。ダイニングのテーブルはみどりちゃんの私物だ。引っ越す際、ほとんどの家具はみどりちゃんのものを流用することにして、二人で折半して買ったのは、テレビ前の特等席となるソファのみ。新生活を始めるにあたって、レンタカーを借りて八王子のイケアまで必要な家具を揃えに行った。ソファのめんどくさい組み立てはほとんどみどりちゃんの指示によって行われた。私は失敗することが苦手なので、言われるがままに動くほうが圧倒的に気楽だった。てきぱき物事を決めたいみどりちゃんと、相性はいいと思う。
一人きりの部屋で、ぼんやりと仕事中の原稿を眺めていた。集中力が切れたから、こんな無意味なことを考える。
他者への興味関心の深度について。個性というべきそれをうまく処理する方法について。あるいは恋と友情の違いについて。
私がみどりちゃんに惚れる、あるいはみどりちゃんが私を好きになる想像をしたことがないといえば、嘘になる。そしてそれが決して叶わない現実であるとも理解している。私とみどりちゃんの間に横たわる、大きく広く、はてしない溝。壁でも川でもいい。なんなら海でもいい。私たちの価値観はあまりにも違いすぎる。
完全に集中力は死んだ。赤字を入れていたゲラに付箋を貼って、今日はもうここまでにしようと片付けに入る。調べものに使っていたノートパソコンのブラウザのなか、いくつものタブを閉じて、その代わりにYouTubeを開く。うざったい広告を五秒待ってスキップ、好きなアイドルのミュージックビデオを流し始める。家事の苦手な私でも、ゴミ出しと食器洗いはできるのだ。一人分のマグカップとティースプーンなんて一瞬で終わってしまう。キッチンは清潔なままだ。
あと三日で帰ってくるみどりちゃんに、何か労わりのようなものをあげたい気持ちはあった。でも、家事スキルも余分なお金もない私では、帰ってきた彼女に笑顔でもって「おかえり」と言うことくらいしかできない。それが彼女にとって、どれだけの価値になるのか、考えないようにはしていた。
みどりちゃんにとって、私は友人のなかでも一緒に住んで苦じゃない程度の存在。それだけで満足しなきゃ、墓穴を掘りそうだった。ルームシェアを始める前から決めていた、みどりちゃんを好きにならない、という縛り。それでも時々顔を出すのは、好きかも、という気持ちより、彼女の特別になりたいという、よりいっそうタブーとしている感情だった。
撮影の最終日、何時くらいに上がるんだろう。出迎えられる時間には帰ってきてほしいな、でも週のど真ん中だから私はさっさと寝てしまっている確率のほうが高いよな。
就業時間が、まだあと三時間ほど残っていた。しかしもう一度仕事に手をつける気はさらさらなかった。テレワークでの私の仕事ぶりといったら堕落の一言に尽きる。朝起きて始業時間前に上司に今からやりますといった旨のメールを送る。そこから八時間経って、今日はここまでにしますとまたメールを打つ。その間、私は昼寝したりゲームしたり本を読んだり、好き放題に過ごしている。もちろん、与えられた仕事は出社日までには終わらせておく。そしらぬ顔で提出して、また次の出社日までに仕上げておくべき仕事をもらう。
窓の外からはさんさんと陽の光が入ってきていて、うすっぺらくてきれいなレースのカーテンが眩しい。繊細な花模様のレースはみどりちゃんの趣味だった。私の部屋のちいさな窓には、遮光度一級のカーテンがかかっている。しかもたいてい閉め切っているので、年中薄暗い。こだわって買った家具といえば、鏡台にもなるデスクだろうか。みどりちゃんは好きなものに囲まれていたいとのことで、アンティーク調の家具をそこここに散りばめて生活している。
他人と生活できなさそう、とは、家族にも友人にも言われ通しの事実だった。ルームシェアを決めたとき、母親はすごく心配そうに、「いきなり出ていくのだけは迷惑かけるからしちゃいけない」と何度も念押ししてきた。気分屋の私と誰よりも長く付き合ってきた人間の言葉は重みが違う。でも安心してほしい。私はみどりちゃんとの暮らしをとても気に入っているし、通勤も金銭面もメリットしかない。
出ていくことがあれば、それは私がみどりちゃんを愛してしまい、それを口に出してしまったときくらいだろう。
みどりちゃんは私に詳しくないので、おそらく、私がバイセクシュアルということを知らない。自分が同居人の恋愛対象になりかねないというおぞましい現実を知らない。知られたら、どうなるんだろう。深刻にとらえることなく、ルームシェアを続けてくれるんだろうか。
続けてくれるだろうな、と自嘲の吐息が落ちた。みどりちゃんは誰にも恋をしないから、誰のことも特別にしないから、双方が同じだけの思いをもっていないかぎり、私の性嗜好も深く興味を示さないのだろうと、その寛容さが容易に想像できた。でも私はきっと振り向かない好きな人と一緒に暮らし続けうるのは無理だ。
仕事中に使っていたメモパッドに『LOVE』と書きなぐった。『LIKE』じゃだめ。私の心は、いつも『LOVE』に飢えている。
純な恋愛ソングを聞きながら思うのは、はやく恋人をつくらないと、という焦燥だった。でもこのご時世、出会いは皆無に近い。かといって職場の男の子に露骨に声をかけるのも無理だ。ソシャゲを開こうとしていたスマホで、ネイルの剥げかけた爪先は勝手に緑のアイコンを選ぶ。立ち上げると、それなりにトーク一覧の上のほうにある元彼の名前を前に逡巡する。タップ、そして他愛のないメッセージを打ち込んだ。どうせこの状況ではしばらくは会うことも抱き合うこともできない。でも、今でも決定的な一言でよりを戻せそうな彼が私を忘れないように呪いをかけ続ける。マッチングアプリで知り合った男の人にも当たり障りのないメッセージを送る。
こんな閉塞感ばかりが襲う部屋で、恋愛対象になり得る存在と二人で暮らしていれば、短絡的な私の頭はすぐに勘違いを起こす。
みどりちゃんの部屋はいつもドアが開いている。着替えるときすら、堂々とそのまま。私はそのたびに罪悪感に押し潰されそうになる。男の人の肌の匂いが好き。自分よりも大きな手が好き。でも、触れたら滑らかで柔らかそうな白い肌にも欲情できる自分の性癖が憎い。
絶対に、誰のことも好きにならないみどりちゃんだから、私は正気を保てている。アセクシュアルなんだろうと思う反面、もしも彼女が恋する日がきたら、私はそれを受け入れられるのかな。
絶対に好きにならない。大切だから。気づかないふりをして、友人だと暗示をかけている私は、神様から見てさぞ滑稽に違いない。
愛されたい、と高らかに歌い上げるアイドルの、そのきらめきは私の胸を刺してやまない。
喝采 雨山 @chuka_umai
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