第3話 きみの下着

「次なに開ける?」

「んー、みどりちゃんのやつちょっとちょうだい」

「スパークリング?」

「赤」

 ダイニングに置かれたテーブルの上には、デパ地下の惣菜がパックのまま並び、その周りを囲むようにしてビール缶やワインボトルが点在している。ペールブルーのヘアバンドで前髪をあげた亜子の顔はすでに額から耳から真っ赤になっていて、彼女より多く飲んでいるはずのみどりの顔色は平素となんら変わりはない。とはいえ、顔や態度に出にくいだけで、宅飲みらしくそれなりの量を口にした自覚はあった。

 よたよたとシンクでグラスを水洗いする亜子を横目に、サーモンとイカのマリネをつつく。互いに気にしないたちなので、パックの中にある惣菜はめいめいの箸が直で刺さり、取り皿もなく口に運ばれていく。赤ワインがいいと言われたものの、みどりの気分では白のスパークリングだ。であるので、無視して開けてしまう。椅子に腰かけ直した亜子は、嬉々としてグラスをこちらに差し出した。みどりは泡立たないようにゆっくりと注いでやった。それから自分のグラスにも。

 家でこそ省くが、みどりは食事のとき、誰かとシェアするものの取り分けを率先して行うタイプである。面倒見がいいというのでもなく、そのほうが手っ取り早いと感じるからだ。反して亜子は、不器用なんだもんと笑って決して取り分けしようとしない。確かに不器用だと感じることも少なくないが、それはひとえに『気にしい』のせいなのだ。ただ皿に取り分けるだけで、大袈裟なほど緊張する。誰に対してもそうで、みどりの皿にサラダを乗せるときですら、なんか偏っちゃった、ごめん、と途方に暮れる。

 赤がいいと言っていたくせに、ぱちぱちした舌触りに甘い味、亜子は上機嫌だった。こういう無邪気な顔を見ていると、外で飲まないのは正解だなといつも思う。すぐに寝落ちしてしまうし、電車なんかではとうてい帰ってこられないだろう。まあ、そういうのを言い訳にしてどこかで寝て帰ってくる日もあるんだろうけど。

 出社が週に二、三回になった頃から、亜子の暮らしぶりは目に見えて落ち着きはじめた。曰く、生活リズムこそが心の平穏、だそうだ。世間的に自粛が叫ばれているので、亜子はデートの回数もあきらかに減った。とはいえいつだって「デート行くの」とからかうと、違う、会ってみるだけ、と答えるので、亜子はいまだ恋路にさすらう狩人なのだろう。もともとインドア派よりではあったものの、いっそう家でのんびりすることが増え、寝る時間や起きる時間が徹底されるようになった。たまにこうしてみどりに付き合って晩酌するものの、日付をまたいでしばらくすると「寝ます」という宣言が入る。正直みどりとしては飲み足りないが、たのしい気分のまま一人で飲むのも嫌いじゃない。

「みどりちゃんはさぁ、めっちゃポジティブ」

 そういうとこ、好きや。亜子が両手に一本ずつ持った箸でサーモンをちまちま引きちぎりながら笑った。何の話をしていたのだったか。

「私もう最近、この世のおっさん全員許さんて気持ちよ。おっさんてだけで許さん。ほなけどみどりちゃんはおっさんにもやさしい。何とかええとこ見つけてそれを大事にできるやん、私もそういう人間になりたい……」

「ポジティブとかそんないいもんじゃなくて、諦めよ」

「いや、やさしい。私は諦めてなお怒りが勝るんじゃ」

 積み上げたサーモンのかけらをそうっと持ち上げ、口に運ぶ。魚の餌みたいになった魚をおいしそうに食べている。たぶん、亜子の不器用さは人目を気にするからだ。すべてにおいて。

 野生の猫みたいなアーモンドアイはすっぴんでも酔いでとろけていても大きい。まつエクではなくパーマだから、量こそ少ないものの、きれいにカールしたままのまつげたちがその大きな瞳を囲っている。アルコールのせいで毛穴が開いていた。でもそれすらも亜子そのものだと感じさせた。

「みどりちゃんのポジティブやさしいシンキングになりてえ……」

 この頃、亜子は会社での微妙なセクハラに耐えかねて、パッと見『おじさん』に区分される男性がことごとく憎いのだ。みどりの職場でのハラスメントに比べれば疑問符しか浮かばない程度のものだし、亜子の対応も曖昧でよくないと思う。だが、それでも亜子は傷ついている。怒りに変換して、怒りをぶつける対象を広げて、何とか堪えようとがんばっている。

 こういうときの亜子は共感を求めているだけだ。みどりはつい「どうしたいの?」とか「こうしたら?」とか、問題を解決できるようにアドバイスをしてしまうが、そうじゃないっぽいことのほうが多いのだと二人で暮らすようになって気がついた。ささいな愚痴を聞く頻度が増え、『亜子』という経験値を積み、気がついたのだ。

 ゆるい寝巻きのTシャツの肩がずり落ちて、ナイトブラの紐が見えている。黒の太めのストラップ。ぼんやりと眺めているとさりげなく隠された。みどりちゃんなあに、とテーブルについた肘、そこから伸びる腕、手のひらが頬を支えて微笑んでいる。

 そういえば亜子とルームシェアをはじめていちばんに驚いたのは彼女の下着だった。ほとんど穴、すなわちレースでしかない、適当に洗濯してよかったのか迷うようなショーツ、さらには同じデザインでしっかりワイヤーの入ったブラジャー。みどりは、どうしても欲しいモチーフのものを見つけてしまわない限り上下ともにユニクロで済ませてしまう。仕事柄、ブラトップは楽で、伸縮性のあるショーツは頼もしい。みどりにとって、亜子が普段つけている下着は間違いなく『勝負下着』というやつに分類されてしまう。かといって誰かに見せるような場面はないので、ちょっといいとこで食事をするだとか、そういうときくらいしか思い浮かばない。

 亜子は毎日、他人に見せる可能性を案じて上下揃い総レースの下着をつけているのだろうか。室内干しの洗濯バサミの痕が残らないようにちょっとだけ気を遣いながらピンチしていって、サイズをちらりと見ては「おわ、」と思って、しばらくは洗濯のたびに彼女の下着を気にしていた。

 別に見られるために毎日気合を入れているわけではないと知ったのは、一緒に新宿のルミネ全棟を練り歩いているときだった。そういやパンツに穴あいとんだわ、と亜子が言うので、そりゃあんな薄っぺらいレースじゃあね、と笑って下着のずらり並んだショップに入った。みどりもかわいいものは好きなので、ランジェリーショップの華やかさというのは素直に楽しい。何色? うーん青系かなあ。これかわいない? みどりちゃん好きそー。こっちは? 亜子っぽい。そんなふうにいつもと変わらず脳を通さない会話をしながらかわいい下着たちを品定めしていた。やがて亜子はいくつかのブラジャーをまとめて試着室に入っていった。

 ーー思いっきり持ち上げた自分の胸ってやわらかくて好きなんよな……。

 盛れるブラを試着しショップバッグに収めて出てきた亜子は、うっとりとした声音でそう呟き、みどりは「マジか」と思った。心臓のあたりをふにふに指先で押しながら弾力を確かめている亜子を見つめる。彼女はすくなくとも月に一度は痩せたいと叫ぶが、ダイエットに成功したことはない。好きな人ができると露骨に食事量を減らすし腹筋をきたえ始めるが、結局のところ、すらりとした体型でいたことはないのだ。

「どんなときでもかわいい下着でテンションも上がるし、もうね、胸があるだけ女でよかった」

 揺れを抑えるような下着でないと仕事中に気になるみどりからしたら、その発想はなかなかの衝撃だった。その日、亜子はラベンダーカラーのレースの上下を買って帰り、寝る前、おもむろに上下セットの下着を部屋から持ち出してきてゴミ袋に突っ込んだ。穴のあいたというパンツとその揃いのブラジャーなのだろうか、でもブラジャーはまだ使えるんじゃないのか、と思ったものの、もちろん口にはしなかった。

 過去に得た『亜子』という経験値のひとつだった。

 そうすると、亜子もそうなのだろうか。同居のなかで『みどり』という経験値を得て、レベルアップしているのだろうか。していくのだろうか。家族以外の人間と同じ屋根の下で暮らすのは初めてではない。だけれど、二人きり、というのは初めてなのだった。日本人、女性、同い年。だいたいが同じ属性である存在なのに、時に得体の知れないものに思えてくる。そんな未知の経験がたのしい。

「亜子、寝んの?」

「まだ食べる」

「キッシュあっためる?」

「お、いっちゃう? お皿とってくるわ」

 さらにふらついた足取りで椅子を立ち、たった一切れのキッシュよりも二回りほど大きめの皿を持ってきた亜子は、みどりがキッシュを移すのを待っている。そうしてプラスチックのパックから滑らせて載せてやれば、「何ワット何秒?」と尋ねられる。適当でいいよと答えると困らせるので、六百で四十秒、と告げる。亜子はようやく電子レンジに皿を押し込んだ。箸で食べられなくはないが、カトラリーボックスからちいさめのフォークを二本もってきたのは、酔っ払いにしては良い判断である。物事を考えていないときのほうが積極的に気を利かせることのできるひと、それが亜子。

 思うに、自意識が強すぎるのだ。誰もそんなにあんたのこと気にしてないよ、というのは、やさしさとして言葉にしても、きっと亜子を傷つける。だから言わない。

「んまいねー」

「ねー」

 パイ生地が好きなので、みどりはふちのほうから攻めていく。亜子は卵が好きなので、ごく自然に細いほうからフォークで掬っていく。

「何キッシュ?」

「プレーン」

「プレーンて何」

「何だろ……、ベーコン、卵、ほうれん草?」

「ほうれん草ないで」

「じゃあプレーンマイナスほうれん草キッシュ、しめじ入ってるわ」

「しめじ?!」

「え、何でそんな食いついてくんの」

「場違いやんしめじちゃんはさ……」

 亜子がふふふと卵のなかからキノコを引きずり出して晒し者にする。そのくせ恭しく掲げ口に運ぶ。しめじに対する意見は実にどうでもよかったが、その一連の行動に対してみどりは馬鹿みたいに声を上げて笑った。

 べつに相性がいいから同居しているのではなかった。それでも見知らぬ人よりはずっと気兼ねしなくていいし、一緒にいてたのしいと思ったから二人で暮らしている。恋多き亜子はそのあたりをどう考えているのか知らないが、みどりとしては恋人ができたからという理由で解散する想像もつかなかった。純粋に、これからを一緒に過ごすなら亜子がいいと思ったのだ。

 鈍いゴールドのフォークはどんどん攻めてくる。しめじいじめにはすぐに飽きたようだった。

 家族以外で、きっとみどりにしか見せたことのないだろう顔。幾度の夜をともに明かしても、亜子の完全な素の顔を見たことのある男はいないに違いなかった。亜子は、コンタクトレンズのお泊まり用洗浄グッズや簡単な化粧品をポーチに持ち歩いている。朝帰りでも、ちゃんと眉が整っている女なのだ。

 それが今の亜子ときたら、まるきりすっぴんだし、真っ赤だし、眼鏡だし。髪も適当にひっつめて毛玉のついたヘアバンドで持ち上げているだけ。Tシャツの肩が落ちて、またしてもストラップが見えている。じっと見つめていてももう気にする素振りもなく、何ならほの白い胸元を支えるブラすら見えそう。繊細なレースでも淡い色合いでもない、補正するためだけの下着。気を抜き、テンションも上げなくてもいいとでもいう、いわば証みたいな素っ気ない下着だった。

「みどりちゃん、あとちょっと食べちゃっていいよ」

「はい、ありがと」

 この調子でいくと、食べ終わったら寝てしまうような気がした。もっと話したいが、日付を超えて一時間。亜子にしてはよく起きていたほうだろう。

 アルコールと久々の安息で浮ついたみどりの頭はひとつの期待を弾き出す。これから先、三十を過ぎて、もしかしたら四十とか五十とか。いっそ二人でバリアフリー完備の部屋に引っ越して、互いにヨボヨボのくせに介護しあうのもいいんじゃないの。揃ってノーブラで、おしめ着けて。

 そんなふうに、同じ思いを持っていてくれたら最高なのに。

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