第2話 みどりという女
整体行かなきゃ。脳内にどっと浮かんだ考えを最後に、みどりは意識を手放した。落ちるように寝入ったものの、人体は不思議なもので、信号待ちでは起きないのに自宅前に停車されると何となく気づく。運転手が声をかけてくれ、「あ〜、すいません、降ります、大丈夫です、なんかすいませんね」と、回らない頭で適当なことを言いながらさっさと降りるべくICカードで支払った。それでも領収書はもらう。交通費として後日請求しなければならないのだ。
みどりは都内を中心に、フリーランスとして音響助手をやっている。主にドラマや映画、ドキュメンタリーなどをメインに据えて、人脈と根性だけで食らいついてもう七年だ。
まさに根性でしかやっていけない世界だった。芸能界にほんの爪先を触れさせるような職業で、ドラマ撮影に参加してます、なんて言えば華やかなイメージをもたれがちだが、実際そんな甘っちょろい仕事じゃない。馬鹿みたいに重い機材を担いで抱えて現場を走り回り、深夜にまで及ぶ重労働に眠気を催しながらも必死に声をひそめて吹き抜ける微風のような音も拾い上げる。
今日は女子高生から熱烈な支持を受けているらしい若手俳優の声や物音を拾いに拾ってきた。もともと芸能人に疎かったが、この仕事に就いてからは輪をかけて関心がなくなった。身近になりすぎたせいなのか、暗黙の了解の距離のせいなのか。今日のキャストたちも人が好かった。芸能界の大御所は傍若無人だとか我がままだとか言われがちだが、みどりからするとまったくそんなことはない。どころか、芸能人よりも厄介なのが業界人、というやつだった。好感度なんて度外視だから怒鳴り散らすわ舌打ちするわ。勘違い野郎ばかりだ。
アパートの階段をのそのそと登っていく。大きな機材こそ職場に置いているが、細々としたものはいつも持ち帰っている。同居人が掃除のときにその鞄を持ち上げようとして、腰悪くするやつや、と目を丸くしていた。その同居人はといえば、すでに夢の中だろう。リビングにはやや光量をしぼった電気が点っている。真っ暗な部屋に帰るのは味気ないと気を利かしたのか、はたまた消し忘れか。どちらでもよかったが、人の気配のする部屋に帰るというのは安らぐのだった。
一人暮らしの期間がないわけではない。でも、人がいるほうが落ち着く。同居人である幼なじみはその真逆で、ルームシェアをしているというのに、普段は個室のドアを閉めきってしまって暮らしている。一人になりたいタイプなのだ。だからか、こうして一緒に暮らせているのが奇跡のようだった。
ただいまも言わず、さっさとシャワーを浴びて寝支度に向かう。とっくに日付はまたいでいるが、それでも数時間寝たらまた次の仕事が待っている。同居人の亜子は言う。みどりちゃんって、働いてないと死ぬんか?
そうなのかも、と思う。労働時間も環境もとんでもないブラックだが、働いたぶんの金銭的リターンは大きいし、何より、好きなことをしているという意識がいつも根っこにあった。そりゃあ疲れきったときは常時椅子に座っていられる会社員が羨ましくもなる。でも、じっとパソコンを前に静かにしている自分の姿なんて想像すらもできなかった。身体的に苦しくなるまで、みどりはこの仕事を続けるだろう。その後は貯めた金でのんびりと余生を過ごす。
念入りなスキンケア(屋外での集音も珍しくないみどりにとって、美白への執念は人一倍だ)をこなしたあと、濡れた長い黒髪をドライヤーの微風で乾かしながら、くまの浮いた自分の顔を鏡に見ていた。いくら丁寧にケアしたって、身体中がばきばきで、疲労のせいで目も死んでいる。寝る前のみどりはいつだって貧相だ。人から言われる似ている芸能人はすべて未亡人系か、コアなファンをもつようなグラドル。とはいえみどりは彼女らのような色気や豊満な胸をもっているわけではない。要するに雰囲気と顔のつくりが『そういう感じ』なのだ。
同い年の亜子は童顔で、いまだに大学生くらいに見えなくもない。いや、さすがにもう見えないか。ちょっと貫禄でてきちゃったもんな。化粧や服装のチョイスはいつ頃から変わっていくのだろう。みどりは昔から昭和モダンというか、どことなくノスタルジックな格好が好きだったので、ようやく年齢が追いついてきたというくらいだが、亜子は徐々に変わっていっているように思う。
乾燥しがちな毛先にオイルを塗り込んで、壁の時計を見ればもう三時だった。物音をたてないように自室のベッドにうつむけに横たわった。スマホ、充電しないと……。とてつもなく億劫だったが、ベッドに投げ捨てていた上着のポケットからスマホを取り出してケーブルにつなぐ。六パーセントしか残っていなかった。明日も十時には現場にいなければならない。都内に出るのに乗換などの不便はないが、いかんせん距離がある。亜子は満員電車に乗ると足が震えて立っていられなくなる。数年前、通勤途中に熱中症で倒れて救急車で運ばれてから、トラウマとして紐づいてしまったのか、満員電車がこわいのだ。だから二人で部屋を決めるとき、そこだけはと思って始発駅のある土地に決めた。みどりは満員電車だって全然平気だし、長距離の移動だって別に苦じゃない。
幼なじみの亜子は、はっきり言うなら面倒な人間。生きづらそう。でも、みどりはそれでこそ亜子だと思っている。理解できなくて、おもしろい。ユーモアのセンスが抜群で、よく笑う。ノリのいい人間が好きなみどりは、それなりに数多い友人のなかでも、とくに気に入っているのだ。でなかったら面倒と感じる相手と二人だけで暮らそうとは思わない。開け放った自室のドアの先に、入居してすぐにイケアで買ったでかいソファが見える。かわいい。組み立てるの大変だったな、とふと笑いながら眠りに落ちた。
みどりという女は、とにかく何かしていないと気がすまないたちなのだった。同居人のように日向ぼっこなのか読書なのかわからない時間を過ごすより、何かしら生産的かつ有意義な時間を過ごしたいのだ。亜子の読む本の中の登場人物が動くよりもずっとせかせか動いていたい。仕事はオファーがあれば二つ返事で引き受けるし、たまの休みも誘われればどこにでも行く。フッ軽、と亜子は言う。二人の妹たちも同様のことを言う。おっとりした父より、せかせか働く母に似たのだろう。
人生は有限だ。老後のことも考えると、いまのうちに稼ぎたいし、いろんなところに行きたいし、肉体が衰える前にあらゆる興味を味わいたかった。そういうふうに生きてきて、とうとう三十の節目を迎える。全盛期ではないにしろ、まだ肉体は若く、元気もあり余っている。だから節目であっても、どんなことからも下るつもりはなかった。このまま突っ走って生きていくんだろうなと思う。
仕事のスケジュールが不規則なせいもあって、会社員のような規則正しい生活ではないので、仕事人間のくせに「仕事ばっかりで虚しくないか」というようなことを言われたことはなかった。むしろ、打ち込むことがあっていいね、とはよく言われる。休みさえあれば旅行も行くし、美容にお金もかけるし、習い事もする。密度でいえば、省エネである亜子の五倍くらいの生き方をしていると思う。
恋人は、いない。必要に思えたことがなかった。生まれてこのかた、触れたいと思うような好きな人がいたためしがない。それを特段、おかしなことだとも思ったことがなかった。すぐ下の妹は高校生のときに彼氏を家に連れてきたことがあるが、その下の妹は最近になって初めて街コンに行ったと恥ずかしそうに打ち明けてくれた。両親の仲は悪くないし、他人の恋愛の話を聞くのも好きだった。でも、いざ自分に、となるとしっくりこない。異性、同性、年齢も関係ない。ただただ、恋、がわからない。
好意をもたれていると気づけば困惑する。うれしいというより、何も返せないことに申し訳なくなるのだ。かといって下心をもって触れられれば人並みに嫌悪感は覚える。この業界、セクハラもパワハラも横行しまくっている。亜子はそういうのがとにかく嫌いだから、みどりが打ち上げの酒の席の話をすると、素でドン引いた表情を浮かべる。それで、ああこれって普通じゃないんだ、と新鮮に思うのだ。
亜子の恋愛話はおもしろい。けっこうな頻度で入れ替わる。さすがに隠しているつもりらしいが、朝帰りにはだいたい気づいているし、新しい彼氏ができたとかそういうのも何となくわかるのだ。土曜日にふらりと出かけていく前、化粧を確認していると笑ってしまいそうになる。微笑ましくて。亜子は男女間の友情をまったく信じていない。みどりはむしろその考えこそが極端すぎて面倒だなと思うが、たぶん、相手がどうというよりも亜子はまず男性を『異性』として見てしまうんだろう。二十以上年上のおじさんを好きかもしれないと言い出したときは感心したものだ。
親からは、帰省するたびに結婚の予定を聞かれる。この歳で恋人の一人もいたことがないのに、そんな話があるわけない。お姉ちゃんさ、わたしが先に結婚式挙げてもいいの? 妹の言葉にさすがに申し訳なくなって、調べたことがある。好きな人ができない、と打ち込んでみたら、なるほどそういう性質の人はマイノリティながらにいるらしい。じゃあ問題ない。三人もいるんだから孫くらいは抱けるだろうし、みどりはそんな同情心みたいなもので誰かとセックスしたり子を育てたりするつもりはなかった。
亜子を哀れに思うのは、みどりが自身の性質にあっさり折り合いをつけられたからだ。亜子は同じ恋人と長く続かない。追いかけたいタイプなんだと本人は言い張るが、そんなことではいつまで経っても永遠を誓えはしないだろう。はやく孫を見せてあげたい、かわいい子を産みたいから顔のいい人と結婚したい、キャッチボールが下手だと親からオッケーがでないんだ。亜子はふふふと笑いながら話す。そのたびに、縛られていてかわいそうだなと思うのだ。客観的に見て言わせてもらえば、亜子に結婚や子育ては向いていない。
でも、それでも亜子が子どもを産むんなら、みどりは一緒に育てたいなと思うのだ。亜子よりも絶対に辛抱強い自信があるし、何より、亜子の子ならかわいいだろうから。
スマホのアラーム音で起きたら、すでに亜子の気配はない。オフピーク出勤だから六時には家を出ているのだ。うっすらと香水の匂いが部屋に残っていた。
亜子の香水は不思議な匂いがする。メイドインジャパンを謳った甘さよりもやさしさを感じる香水で、二人で全種類嗅いで吟味して選んだ。首裏に一度しかつけないので、全然減らなくて、買って以来ずっとこの匂いをさせている。みどりはシトラスとか柑橘系の香水を好んでつける。だからこの匂いが似合う亜子は、別の個体なのだと実感する。
鳥の鳴き声。シャワーだけではどうにもならなかった身体の節々の痛みをバキバキと鳴らすことでごまかす。伸びをして、支度にとりかかる。今日は早めに帰れたらいいのに。たまには亜子とどうでもいい話をしながら酒を飲みたい。亜子は外ではたったの一杯しか飲まない。でも家では好きなだけ飲む。その楽しそうな真っ赤に染まった顔を見ていると、うれしくなる。饒舌で、甘えたな声で、でも話している内容はくだらなくて、みどりは涙がでるほど笑う。そのままソファでつぶれる亜子を放置しても、みどりの部屋のドアは開いたままだから大丈夫。
よし、と気合を入れて、スケジュールの表をスマホで見直す。撮影が押さなければなんとか九時には帰ってこられる。もう一度、今度は深呼吸しながら伸びをする。
スマホがメッセージの到着を告げる。亜子からの、起きたかどうかの確認だった。それにスタンプで返し、みどりは洗面所に向かった。
「あ〜こ〜、びしょびしょじゃん……」
洗面台の濡れっぱなしは何度言っても直らない。
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