オムライス
りったん
オムライス
彼氏が女を買った。
しかも、明後日が顔合わせと言うタイミングで。
半裸の彼氏と知らない女が抱き着いていた。残業がなくなったってメール打ったんだけど気が付いてなかったらしい。
「あのさ、キャバは付き合いもあるから許したけどさ、デリはなくない?」
「うん……ごめん」
彼氏はバツが悪そうに項垂れる。
「この子は悪くないから、許してあげて」
彼氏、猪原健吾は子犬のような目で私を見上げる。二歳年上だが、おっとりした末っ子気質が可愛くて好きだった。いつもなら「いいよ。しょうがないなあ」って私が許している。
彼の背後には長い黒髪の可愛い女の子が半裸でいる。スマホにくぎ付けでこっちのことは何も気にしていない。
苛立ちはするが、彼女は悪くないことは理解している。
「その子は仕事で来ているだけでしょ。慰謝料とか請求する気ないよ。でも今回の事であんたに嫌気がさした。もう別れる」
私が言うと、健吾は驚いた顔をした。
「うそでしょ?」
「ううん、本気だよ。こんなこと冗談で言うわけないじゃん。むしろこのまま付き合い続ける方がどうかしている」
「浮気じゃないよ? だってデリだもん。心はずっと亜衣ちゃんだけ。亜衣ちゃんが好きだよ」
健吾は真剣な顔で言う。
「あたしの中じゃ風俗も浮気だよ! 結婚する前に分かってよかったよ。今度付き合うときは割り切れる子と付き合いな」
三年間。長いようで短かったらしい。そんな価値観だなんて知らなかった。健吾もそう思ってそうだけど。
「やだ」
健吾が泣きそうな顔で言う。
今まで喧嘩してもなんだかんだで許してきたし、許されてきた。
でも今回は無理。
私のコンプレックス詰め合わせの女の子を買った時点で無理。
「ここ、あたしの名義だから出てって。荷物はあんたの実家に送るから」
「やだよ。俺、亜衣ちゃんと離れたくないよ」
「わがままいうな! あたしをおこらせたのは健吾くんだよ! いいから出てって! ほら、あなたも」
女の子に服を拾って押し付ける。
「あの、お金まだもらってないんですけど。時間超過しちゃったので延長料金も払ってください」
女の子の大きな黒目に私が映る。
「健吾」
「あ、うん」
健吾は財布をベッドサイドのチェストから出す。一枚、二枚と数える姿がじれったくて私は舌打ちをする。
「亜衣ちゃん。ごめん、お金貸して」
「は?」
「ワイン買っちゃったの忘れてた。現金足りない」
うちの親がワイン好きだと伝えたから、明後日持っていくつもりで買ったんだろう。理由がすぐにわかるからこそ悔しい。
「手切れ金でいいよもう。いくら?」
「四万です」
「そんなにすんの?」
私が驚くと健吾はうろたえる。
「オプション込みなので」
女の子は淡々と答えた。
押し問答しても始まらない。
どうせ手切れ金だし、さっさとこの無駄な時間から解放されたい。
「じゃ、四万で。はい、さっさと帰って」
「あの」
「何」
女の子に声をかけられた。いらだちもあってぶっきらぼうに返す。
「……ごめんなさい」
そう言って服を着た女の子はアパートから出て行った。健吾は服を着て慌ててその後を追っていく。
「なんだよ、それ」
とにかくむかっ腹が立つ。
健吾がなぜデリ使ったのとか、色々と聞きたかった。
出てってとは言ったけど、そうあっさりと出ていかれるとは思わなかった。
「あたし、健吾の事、そうとう好きだったんだなあ」
口に出した途端、頬が濡れた。
■
酒とポッキーがあればストレスはだいたいクリアになる。
ビールよりは赤ワインが好きだ。
夕飯ようにと作り置きしていたオムライスは食われた後だった。
健吾が置いてった高いワインをかぶ飲みしてストックしていたポッキーを一度に口の中に放り込む。
バリバリ折れる感触が心地よい。
「あいつの荷物、整理しなきゃな……」
いっそのこと燃やしてやろうか。
思い出すとだんだん腹が立ってくる。
服や小物はともかく、下着を箱に詰めていると虚しくてたまらない。
あらかた片付けが終わり、私は明日の準備に取り掛かる。
世話になった上司が明日退職するのでプレゼントとは別に手紙を書きたい。
「あれ? ここに置いといたアルマーニの紙袋がない」
忘れないようにと玄関の靴箱の上に置いたのだ。小さめとはいえそうそう失うはずはないだろう。泥棒でも入ったのかもしれないが、健吾がどこかにやってしまったかもしれない。
ため息が出る。
自然と顔が強張る。きっと今の顔を知り合いが見たら化け物って叫ぶかもしれない。
「あーもしもし、健吾?」
『亜衣ちゃん! 良かった……もう電話してくれないかと思って……俺、今実家にいるけど、亜衣ちゃんがいいならそっちに戻りたい……ほんと、ごめんね』
健吾の声はでかかったが涙交じりの声で聞き取りにくい。
「許すつもりはないから来なくていい。用事はさ、玄関に置いておいたアルマーニの紙袋知らない?」
『あっ……』
「知ってんのね? 明日必要だから持ってきてよ」
『ごめん……』
「何? 使っちゃった?」
『えと、ユメカが欲しいっていってたからあげちゃった』
今にも消え入りそうな声で健吾は言う。
「は? あげたって……ユメカ? 誰?」
『昨日のデリの子』
「……なんであげちゃうのよ!」
『ごめん! 本当にごめん! 同じもの買って返すから。ユメカの彼氏の誕生日なんだけど、プレゼント買えなくて困ってたって言うから』
「……意味が分かんない。なんであんたがその子の彼氏のプレゼント用意してあげるわけ?しかも私の奴勝手に使って!」
『ごめん! でも本当にユメカが困ってたんだ』
「現在進行形で私が困ってるの! てか、ユメカはどこにいんのよ!取り返してくるから店教えな!」
『……え、でも』
「いいから教えな!」
『教えてもいいけど……俺の事許してくれる?』
「ふざけんなバカ! もういい。自分で探す!」
通話を切り、私は赤ワインをラッパ飲みする。酒には強い方だ。
でも全然酔えない。
サーチエンジンでデリを探す。ユメカという名前だけが頼りだけど、多すぎてわからない。
嫌だけどゴミ箱をあさる。
お店のクーポンらしきチケットが二枚出てきた。
「
一度だけ、迷い込んだことがあるが人の多さと華やかさに目がくらむかと思った。
だが、そうも言っていられない。
覚悟を決めて
■
思った以上の人通りだった。
看板がまぶしいし、華やかな衣装の人たちに圧倒されてしまう。
「思うように進めない……どこの通りだっけ」
スマホでマップを見たが、人に押されたりと視点が定まらない。しまいにはヒールが溝に引っかかって体がぐらりと揺れる。
だが、傾いた体は地面に打ち付けることなく、誰かの手に支えられた。
「お姉さん。危ないよ」
振り向くと髪を金色に染めた男の子がいた。スーツ姿と金髪がアンバランスで違和感しかなかったが、彼は私の両肩を持ち、ゆっくりと立たせてくれた。
「あ、ありがとう」
カラフルな髪の色は周囲に居ないから少し緊張する。どもりながら言うと、男の子はにこと微笑んだ。
「どういたしまして。お姉さん、歩きスマホは危ないよ?ここ人通りが結構多いし……どこか探しているの? 案内しようか?」
男の子に問われたが、まさかデリヘルの店を探しているなんて言えない。
「えっと……いや、大丈夫です。助けてくれてありがとうございます」
アハハと笑ってごまかし、体を反転させた。とにかくここから逃げよう。
「お姉さん。危ないよ」
ぐいっとまた肩を引っ張られる。ただ、力加減をしているのがわかるくらい優しい触れ方だった。
大声で笑いあう酔っ払いが前を過ぎる。あのまま歩いていたら彼らとぶつかっていただろう。やっぱり
「やっぱり心配だから駅まで送るよ。JRまで行けば大丈夫だよね?」
男の子は私の手を握ると「こっち」と言って歩き出す。
「ま、待って! 私行くところがあるの!財布返してもらわなきゃ明日持っていけない!」
私が言うと、男の子はピタっと足を止めた。くるりとこっちを向く顔はきょとんとしてクールそうな顔だったのに子供っぽく見える。
「お姉さん、財布盗られたの?」
「取られたというか、同居人が勝手にデ……デリの女の子にあげちゃったの。違う人へのプレゼントで明日渡さなきゃいけないからどうしても必要なの。店はもう閉まってるし」
恥も外聞というか、一度口走ると止まらない。
さすがに面と向かって言えずに俯いた。彼がどんな顔をしているかわからない。
「……そっか。財布ってどこのブランド?」
「あ、えとアルマーニ。お世話になった上司に渡そうと思って……」
弾みで顔を上げると男の子の笑顔が目に映る。
「オッケー。ちょっと待ってて」
男の子はスマホに何か打つと、「そこの店で少し休もう? お姉さんも歩き疲れたでしょう」と喫茶店にを指さした。
断ろうとは思ったが、彼の自信ありげな表情に心がぶわっと沸き立つのを感じた。彼に任せれば大丈夫……そう思わせる何かが彼にあった。
入った喫茶店はチェーン店だが、木目調の店内が心を落ち着かせてくれる。
「お姉さん、何が好き?」
「コーヒーかな。甘いのは苦手だからブラックで」
「いいね。俺も好き」
向かい合わせの彼は子供みたいに笑った。
年はそう変わらないくらいなのに、ときどきあどけない表情をする。
何もしゃべらないときは涼し気な目元のせいで少し怖く感じるが、笑うとその目が優しくなる。
そこがいいなと思った。
彼と他愛ないコーヒーの話をしていると一人の男の子が喫茶店に入ってきた。彼と同じ明るめの髪を短髪に刈り上げ、ブラウンのスーツ姿だった。目が大きく、顔立ちは驚くほど整っている。
「ルウ! こっちこっち!」
彼が手を振ると男の子は小走りにこちらに来る。手に黒い紙袋が三つぶらさがっていた。
「ども、リュウキさん。お疲れっす。持ってきましたよ」
机に並べられたのはどれもアルマーニのロゴが入った紙袋だった。
「財布、どれがいいっすかね? 写真撮ってきたんで見てください」
「え、えと、これですけど」
私が指をさすとルウと呼ばれた男の子は中身入りの紙袋を私の前に置いた。
「これがそれです。ラッピングもしてありますから大丈夫ですよ!」
「え? 買ってきてくれたんですか?!」
思わず声が大きくなる私にリュウキは唇に指をあてて「しー」と言った。
「あ、ごめんなさい」
「いえいえ。でもふつう驚くよね。俺が魔法で出しましたーって言えたら面白いけど、歌部伎町は夜が主体の街だから、開いている店がいくつかあるんだよ。上司さん、喜んでくれるといいね」
リュウキの言葉に鼻の奥がツンといたくなる。こんなに優しい声をかけてもらったのはいつぶりだろう。
「ありがとうございます。お金、いくら払えば足りますか?」
定価で売ってくれたら嬉しいけど……と思いながら尋ねると、二人はきょとんとした顔をした。
「ルウ、いくらだった?」
リュウキは唇の端を上げて尋ねる。
ピリっと緊張が私に走った。ここは夜の街部舞伎町。うかつだった。私は馬鹿だ。顔から血の気がだんだん引いてくる。
「そうっすねえ……リュウキさんが美女とお茶する代金と同じくらいじゃないっすかね? こんな綺麗な人とタダでお茶できるわけないっしょ」
ルウはニっと笑って「それじゃ!」と喫茶店を後にした。
意味が分からず、ぽかんと口を開いたままの私にリュウキは言う。
「俺の暇つぶしに付き合ってくれたお礼! だからお金はいいよ」
言葉の意味がまだわからない。
アルマーニの財布はそう安いものじゃない。
「え……?」
私が呆然としていると、
「お姉さんみたいな綺麗な人と一緒に過ごしせただけで俺は幸せな気分になれたんだ。だからほんと気にしないで」
「でも」
「いいのいいの。格好つけさせてよ。じゃあ、用も済んだし駅まで送るよ。この町は危ないからね」
リュウキは立ち上がって伝票をさっさと持って行ってしまった。
私が慌てて追いかけても「気にしないで」だけしか言わない。
「さすがに悪いよ。してもらうばっかりは気持ちが悪いから、やっぱりお金は受け取って」
駅前でお金を押し付けるとリュウキは悲しそうな顔をした。
「……うん。ごめん。俺の独りよがりだったね。でも、あなたと一緒に居れて俺は元気になれたんだ。それだけはお礼を言わせて」
リュウキはそう言って私が押し付けたお金を両手で受け取った。
「気づいているとは思うけど、俺、ホストなんだ。お客じゃなくて、普通の人間としてお姉さんと話ができて本当に嬉しかった。ありがとう」
笑顔だったが、その顔はどこか泣いているように見えた。
彼はすぐに走り去って人ごみに紛れた。
電車に乗って家に帰って、ちらかった部屋のまま私は自分のベッドに倒れこんだ。今日は色々なことがありすぎた。健吾のこと、ユメカのこと、リュウキのこと、あれは夢だったのかも。
起きたら健吾がいて、私の買ったアルマーニがあって、いつも通りに戻っているのかもしれない。
そう思いながら寝た。
■
耳鳴りと脳内の雑音が酷い。
めったに二日酔いにならないが、飲み過ぎたらしい。昼休憩が身に染みる。
私が机でぐったりしている真ん前で、友人のミクがしみじみと言う。
「お疲れ亜衣ー。色々大変だったねえ。結婚する前でよかったねとしか言えないけどさ、そう落ち込むなって」
ミクはあっけらかんという。肉食系の彼女は過去に恋人から浮気をされているが、即縁を切って次の恋人を探す程の猛者だ。
「そーだ。合コンセッティングするよー。今度はどんなタイプが良き?」
「合コン!? 行く行くー!! あ、もちろん年収は1000万以上よね?」
私が答える前に割り込んできたのは同僚の宮田陽子だ。同じ部署にいるというだけで仲がいいわけではない。
「宮田さんは誘ってないでしょ。それに1000万以上って気は確か?日本の平均年収データ見てみなよ」
「感じ悪ぅー。そんなんだから彼氏に振られんのよアンタたち。大体、腐れジジイにプレゼントなんてもったいないって! しかもブランドなんてバッカみたい」
宮田は鼻で笑う。
彼女は人の話に割り込んできては何かにケチをつける女だ。
「そんなのあたしらの勝手じゃん。多井田さんには世話になったんだしさ」
ミクが苛立ちを隠しもせず言う。
宮田は「あんたたちが良い子ちゃんするとあたしが迷惑すんの!」と怒鳴ってあたしの椅子を蹴る。
ぷりぷり怒って宮田はどこかへ行った。
今日は残業もなく、ミクとどこかで飲もうかと言う話になった。
「新宿に面白い飲み屋があるの。歌部伎町に近いけど、中に入らないから大丈夫だよ」
そう言われてついていったが、新宿だけでも人は多い。歩くのが大変だ。
「あ」
私が声を上げた。
ミクは「ん?」と振り向く。
「どうしたの」
「リュウキだ」
リュウキが街灯の下でチラシを配っている。確かに目が合ったはずなのにリュウキは知らないふりをする。
「リュウキってあのアルマーニをタダでくれたって子?」
「そう」
「ふーん。かっこいいね。でも……」
「大丈夫、知ってる」
彼はホストだ。
「わかってるならよろしー! ほら行くよ!」
「あ、もうちょっと引っ張らないでよ!」
ミクにひきずられて飲み屋に入り、そこで思いっきり飲み明かした。へべれけになって帰って、ヘパレーゼ飲んで翌朝出社した。
早朝、自分のデスクで書類整理をしていると宮田がにやついた顔でやってきた。また変なことを言い出すなと身構えると、彼女はスマホを差し出してきた。
「ね、見てよ」
「は? 意味わかんない。あんたのスマホなんか見たくない」
「良いから見なよ。リュウキくんとのツーショなんだから」
リュウキの単語に胸が締め付けられる。
「リュウキ……ってなんであんたが知ってんの?」
「あんたらが合コン行くと思って後ろついていったの。そしたらアルマーニをくれた子だって騒ぐから、金回りがいいならゲットしなくちゃって思ったのよ。ホストだったけど、彼かっこいーよね」
宮田がニヤニヤと笑う。
腹の中で嫌なものが溜まる。この女からリュウキの話を聞きたくない。
「あたしには関係ない。もう話してこないで」
私が言うと宮田はむしろ面白がった。
「リュウキくん。二十一歳なの知ってる?。大学行きたかったけど親の自営業が苦しくなってホストで働いてるんだってー」
「いい加減に黙りなよ。自分のデスクに行きな!」
ミクが後ろから怒鳴った。
宮田は頬を膨らませながら、時計を見て慌てて去っていった。
「なんなのあいつ。いつのもまして粘着してくる」
「健吾くんのこと好きだったからじゃない? バーベキューパーティーのとき健吾くん来てたでしょ? あのときめちゃめちゃいい寄ってたし」
ミクが呆れた顔で言う。
今の今まで忘れていたけど、そういえばそうだった。
健吾と破局した私をあげつらいたいんだろうな。
「てか、もうまとわりつかないで欲しいんだけどなあー」
「酷いようなら上司に言っちゃえ」
そんな話をしていた次の日、また宮田がやってきた。
「リュウキくん。年の離れた弟を養ってるんだよー。借金を返しながら兄弟の学費の面倒見てるの。えらいよねー。あ、でもあんたは教えてもらってないんだっけ?」
「あのさ、いい加減にまとわりつくのやめてくんない? あたしはリュウキに未練はないし、もう会うことのない人のこと言いに来ないでよ」
私が言うと宮田は嫌な顔で笑った。
「うそ。リュウキくんのこと気になるんでしょ? だって本当にどうでもよかったらそんな顔してないもん。あー気持ちいわ! あんたの悔しそうな顔ずっと見たかったの」
宮田はアハハと笑った。
自分では見えないからわからないが、今の私は宮田が喜ぶような顔をしているんだろうか。
「ねえ、本当になんでもないっていうなら、一緒に会いに行こうよ。それであんたが動じないならあたしも金輪際ちょっかいかけないからさ」
嫌味な顔とは真逆にネコナデ声で宮田は笑う。嫌いな声なのに、悪魔のささやきのように心地が良かった。
「あんたが諦めてくれるなら、しょうがないね」
そう、仕方のないことなんだ。宮田に付きまとわれてうんざりしているから、しょうがないんだ。
その日は残業があった。
宮田は律儀に待っていてくれた。
「じゃあ、行こうか」
「う、うん」
緊張する私に宮田の顔はどこか輝いていた。この顔は知っている。恋をしている人間の顔だった。
はぐれないようにと宮田は私の手を掴んで新宿を歩く。人ゴミで埋もれそうになりながら、ネオンが輝くアーチの門を潜り抜ける。
いくつかの辻を曲がり、雑居ビルに入った。エレベータに乗り込むと宮田の手が冷たくなっていた。
「緊張しているの?」
思わず聞くと、
「まあね、被りがいるかもって思うとね」
宮田は肩を竦めたが、『被り』がわからない。
「被りって?」
「あ、そうか。この業界用語なんだけど、ホストって一人一人に客が付くのね。自分の指名しているホストは担当って言うの。で、同じ担当を指名してくる人が被り。競合っていた方がわかりやすいかも」
「ライバルか」
「うん、そんなもん」
電子音が鳴る。
エレベータが目的地に着いたことを教えてくれた。
扉が開くと閃光と歓声のシャワーを浴びた。
フラッシュを一気に焚かれたような感覚になる。まぶしくて手をかざすが、それは一瞬だった。
「ミラーボール初めて?」
「う、うん。はじめて」
「あたるとまぶしいよね。でもクセになるよ」
黒を基調としたルームはコの形のソファーがいくつも連なっている。暗くてあまりよくわからないが、ショッキングピンクの間接照明が不思議な空間を演出していた。
「ヨーコさん、おともだち?」
ウェーブのかかった黒髪のお兄さんが声をかけてくる。
「そう、はじめて。とりあえずリュウキ呼んでよ」
「りょーかい。それじゃあ、席に案内するねー」
エスコートされた先のソファに腰を掛け、知らない男の子がにこやかに話しかけてくる。
「はじめましてー。ルキっていいます。俺、ちょー美味い酒作れるんですよ。一杯どうですか?」
「じゃあ、貰おうかな。亜衣も飲むよね?」
「え、あ、うん」
ルキはピンクの髪の可愛らしい男の子だった。ノリが良く、話し上手だ。そして褒め上手だった。
「ヨーコさんすげー! 俺、そんなの知らなかったもん」
「ルキくんはもっと勉強しなきゃダメよー!」
宮田も上機嫌だ。
ほんのささいなことでもルキくんは褒めてくれる。
「亜衣さん。グラスがカラですけど、何か飲みますー? 亜衣さんのネイルカラーに寄せて作りましょうか。藤色って優しい色合いで素敵ですよね。亜衣さんにピッタリじゃないスか」
ネイルに気づいて貰えて嬉しくなった。そういえば健吾は最後まで気が付かなかったな。
「それじゃお願い」
「はーい。それじゃちょっと作ってくる! 席外すのほんとはダメなんだけど許して!」
「もーしょうがないなあ」
宮田は文句を言いつつも顔はいい笑顔だ。彼女のこんな顔は初めて見た。いつも怒るか嫌味な表情しか知らない。
私の視線に気が付いたのか宮田は恥ずかしそうに俯く。
私は何も言わなかった。
二人の間で沈黙が続いた後、ルキの声が大きく響いた。
「お待たせー! ルキ特製亜衣さんに愛を捧げますブレンド! ブルーベリーで藤色を表現してみたよ!」
まるでバラを差し出すようにフルートグラスをルキは私に突き出す。
呆気にとられる私に、
「俺の好みです! 付き合ってください!」
ルキは満面の笑顔で言った。
宮田は噴き出す。
「あ、ヨーコさんひどーい! 俺の真剣さを茶化すなんてせっかくのいい女っぷりが下がっちゃうぞ!」
ルキが頬を膨らませると、宮田はゴメンゴメンと謝る。
未だ笑っている宮田の顔は邪気がなく、ルキの行動が楽しくて仕方がないようだった。
「お詫びにドリンク入れるから機嫌直してよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
「何、ヨーコさん。ルキにドリンク入れんの?」
落ち着いたトーンの声にハっとする。
顔を上げるとリュウキが居た。
「あ、あの久しぶり」
うまいこと言おうとしたけど、ロクに思いつかなかった。
「……何しにきたの?」
リュウキの声は冷たい。心臓がバクバク鳴る。
まさかこんな対応をされるとは思っていなくて、頭を殴られたようにショックだった。
「ちょっとリュウキ。あたしの友達いじめないでよ」
宮田の声で少し落ち着けた。あんなに嫌いだった声なのに。
「ヨーコさんの友達なの?」
「う、うん」
「そうなんだ」
「リュウキ、ずっと呼んでるのに来るの遅い! 今日は最期までいてよ!」
「無理言うなよ。他の卓……いや、なんでもない。お姉さん、ここは俺が奢るから、ドリンク飲んだらさっさと帰って」
リュウキは宮田のおねだりにうんざりと返していたが、私の視線に気が付くと途端に口を噤んだ。
「これルキが作ったの?」
飲みかけの藤色のドリンクを指して言うと、ルキが元気よく答える。
「はいッス! 亜衣ちゃんに愛を捧げますドリンクッでっす!」
「これお前が飲め」
リュウキがグラスをルキに押し付けた。
「へ?」
「俺が作る」
リュウキがそういって奥に引っ込んでいった。
「俺なんかやらかしちゃったかなー。リュウキさん機嫌悪いッスね……」
項垂れるルキは子犬みたいだった。唇をきゅっと引き結び、大きな目をうるうるさせる。
「ルキは何もしてないから安心しなよ。ほら、好きなの注文していいから元気だしな」
「え!? いいの?」
「落ち込んでるルキが可哀そうだからねー」
「ヨーコさんありがとー! ね、ボトルいい?」
とたんに元気になったルキはこてんと宮田の肩にもたれかかり、上目遣いでねだる。
「ボトル……もーしょうがないわね。今回だけだからね!」
宮田が言うとルキは両手を上げて喜んだ。
「うれしー! わーいわーい! 初ボトルー! ヨーコさん大好き! 俺今日最高に良い日かも! じゃ、注文してくるねー!」
飛び跳ねるようにルキは奥へ消えていった。
宮田と二人の時間になる。
重苦しい沈黙を破ったのは宮田だった。
「……リュウキとあんたって一回会っただけなんだよね?」
宮田の声は低い。
「そうだけど」
「ほんとにそれだけ?」
「う、うん。それだけだよ」
宮田の威圧感が怖くて歯切れが悪くなる。宮田の目は猜疑心に溢れていて睨みつけるようだった。
再び沈黙がやってくる。
喉がカラカラに乾いて嫌な汗が出た。
「あれ、ルキはまだ帰ってないの?」
落ち着いた声がした。見上げるとリュウキが黄色のドリンクを持って立っていた。
「あ、リュウキー! もう遅いよ! ルキはボトル入れに行ったの。」
「ボトル入れたの? 高いのに」
リュウキの目が見開く。
「リュウキが機嫌悪いのルキ何かしたかもって落ち込んでたから、元気出させようと思っただけだよ。それに安い奴だし」
「安いっていってもタックスでだいぶ取られるだろ。 あーもう、勝手に頼むなっていつもいってんじゃん」
「怒らないでよリュウキ。 ルキが可哀そうだから……つい」
「ヨーコさんには怒ってないよ。ルキを気遣ってくれてありがと。嫌な態度取った俺に原因があるしね。今日は俺が出すよ」
リュウキはそう言いながら、細長いロンググラスを私の前に置いた。
薄いイエローでチェリーの赤がよく映える。
そういえば今日はシトリンのピアスだった。
リュウキは宮田と私の間に腰を下ろした。
「やっと来てくれた。今日はさ、この子にリュウキを会わせたかったの。前に一度だけあってるんでしょ?」
宮田はリュウキの肩にもたれかかって腕を組んだ。
「覚えてない。もういいじゃんそんなの」
「よくない。この子にアルマーニの財布渡したんでしょ。なんで渡したのよ」
「知らないって言ってるだろ。この話続けるなら俺はもう担当外れる」
「え、ちょっと。いや。落ち着いてよリュウキ。ごめん。悪かったって、あ、ボトル入れる?なんでもいいよ」
「すでに一本入れてるんだろ。それに今の話にボトルは関係ない」
「あ。う、うん。そうだね。ごめん。もうしないから許してくれる?」
「……俺の方こそ機嫌悪くてごめん。接客としてなってないね。 遅くなったけど乾杯しようか」
「うん」
宮田は嬉しそうに笑う。
リュウキの顔は微笑みが浮かべられているが、私と視線が合うとすぐに消える。
気まずくなってドリンクを一気に飲み干した。梅酒だった。甘酸っぱい芳香が口の中に広がる。
「ごちそうさま。私、帰るね」
「あ、そうなの? 気を付けてね」
めずらしく宮田が私を気遣う。
「送り出し行くよ。ヨーコさんは少し待ってて」
「え? いやだ。やだ!」
「わがまま言うなよ。送り出しは店のルールなんだから」
リュウキはそう言って私の手を取った。
大きくて筋張った男の人の手。アルマーニを探した夜以来だった。
廊下を歩くとすれ違いざまに「姫! またのお越しを!」とか「姫、お気をつけて!」と声をかけられる。
恥ずかしくて俯くと、リュウキの手に力が少し入る。温かい手に包まれて気持ちが楽になった。
エレベータに乗り込むと店のBGMや歓声が遮断され、エレベータの機械音だけが響く。
二人だけしかいない空間は気まずかった。
「あのさ」
「え?」
「もう来ないで」
ぶっきらぼうにリュウキは言う。
突き放すような言葉にきゅっと胸が痛む。
「駅まで送れないけど、気を付けて帰って」
エレベータが開くとリュウキを私を押し出すように歩く。両肩を優しくつかまれ、ほとんど後ろから抱きしめられているようだった。
心臓がバクバク鳴った。
「お姉さんとは店以外で会えたこと俺本当に嬉しかった。だからもう来ないで」
リュウキの顔は見れない。
後ろから耳元でつぶやかれる言葉に私はどうしようもなく胸が苦しくなった。
「それじゃ」
背中からリュウキの体温が離れていく。
振り向きたいけれど、体が硬直してできなかった。来る音が響き、エレベータの音が聞こえる。扉が閉じる音でようやく我に返った。
宮田はルキ相手に喚いているんだろうか。
リュウキが戻って笑顔になるんだろうか。
そんなことを考えながら駅へ向かった。足はふらついてのん兵衛みたいだった。
■
二日酔いにはならないが、仕事に身が入らなかった。
店のBGM。クルクル回るミラーボール。目に鮮やかなライト。
初めての体験の余韻がいまだ頭の中に君臨している。
「今日、宮田大人しいね」
「え?」
昼休み、食堂でランチを食べているとミクがそんなことを言ってきた。
いつもなにかしらちょっかいをかけに来るが、今日は来ない。
「一回のみに付き合ったらちょっかいかけてこないって約束したからかな」
私が言うとミクは目を真ん丸にした。
「へえ、意外。約束守る女なんだねえ」
確かに意外だった。
その日は最期まで宮田に会わなかった。
あれから一週間が過ぎた。
着払いで送った健吾の荷物は無事に届いたらしく、健吾のお母さんからわざわざ手紙でおわび状が届いた。慰謝料の話になったが、顔合わせ寸前だったのと特に金銭問題が発生したわけではなかったので辞退した。デリ代金だけは取り返した。
「本当にごめんなさいね。亜衣さんは健吾にもったいないくらいのお嬢さんなのに」
「いえいえお気になさらず。価値観が違っただけですので」
「本当にごめんなさい」
健吾のお母さんは始終謝ってばかりだった。
過ぎたことなので今は特に何も思っていない。むしろ今はリュウキのことで頭がいっぱいだった。恋の思い出を女は上書き保存すると言われるが、本当なんだなって思う。
せっかくの休日だからどこかに出かけようかなとスマホの連絡帳を開く。誰が空いてるだろう。
グループラインに「ヒマー」と投下すると三人が反応してくれた。大学時代の友人たちだ。健吾を紹介してくれた子もいるが、今はとくに気にしない。
ボーリングからのカラオケ、ショッピングと一日楽しんだ。皆が気を遣っているみたいで健吾のことは何も言ってこない。
私の中で健吾の存在がだんだんと消えていった。
代わりに私を埋めていったのはリュウキだった。
アルマーニの財布を買いなおし、尾板さんに連絡して取り替えてもらった。間違えて渡してしまったというと、「いやいや、こっちこそこんな上等なものをありがとうね。何か困ったことがあればいつでもおいで」と優しく言われた。
「せっかくいらして下さったんだもの、どうぞゆっくりなさって」
上品な奥様にソファへと促され、手作りのクッキーを勧められた。会社のイベントごとで奥様とは面識がある。尾板さんが私を可愛がっているからか、奥様もよく私にお菓子やらお土産やらをくれた。
「男の子ばっかりで女の子とおしゃべりしたいのよ」
と奥様は笑う。
どこそこのお菓子が美味しいとか、何々の化粧品の香りがいいだとか、他愛ない話に花を咲かせた。
「ただいまー。あれ?客が来てるの?」
男の子の声がした。息子さんだろう。私はすぐに立ち上がった。
「ああ、いいのいいのゆっくりしていて。あれが次男の
「ようこそ我が家へ。亜衣さんの話は両親から耳にタコができるくらい聞かされております。いつも父母ともどもお世話になっております。これからもどうぞよろしく」
青年は丁寧に頭を下げて挨拶をしてくれた。
黒髪にロングシャツ、ジーパンとラフな格好だからか、丁寧なあいさつがアンバランスでおかしかった。
私もあわてて頭を下げた。
浩紀は健康的に焼けた肌と、奥様に似た整った顔立ちを持っていた。身長が高いのは尾板さん譲りなんだろう。
「スポーツか何かされていたんですか?」
聞くと、浩紀は
「テニスです。今も会社のサークルでやっていますよ。亜衣さんはバレーをされていたと聞きました。今も続けてらっしゃる?」
「いえいえ。大学で辞めました」
ボールを追いかけて打つあの感覚が好きだった。でも、膝と腕がやられる。健吾に「やめて欲しい」と言われたのもある。
「趣味感覚でたまにやるといいですよ。体を動かすのって楽しいですし」
浩紀は朗らかに笑う。
「そうだ。テニスをやってみませんか? 同じボールを追い求めるスポーツですし」
「こら浩紀。バレーとテニスじゃサイズもルールも違うでしょうが」
奥様が窘めると浩紀は心外そうな顔をした。
「それはそうだけど、体を動かしてボールを追うには違いないだろ。いきなりバレー復帰は難しいだろうけど、テニスは人数が二人いれば始められるし」
「ごめんなさいね。この子テニスバカなんです」
「てっきりその道に行くと思ったのにちゃっかり第一志望のメーカー勤務だもんなあ」
尾板さんは呆れたように言う。
「趣味と仕事は分けたかったんだよ。それにモノ作りは大好きだから後悔はしてないさ」
言い切る浩紀に奥様と尾板さんは苦笑する。
話は色々と尽きなかった。趣味の話、仕事の話、庭の話……気が付けば夕食までいただいていた。
「泊っていく?客間があるからぜひ使っていって」
「母さん。無茶言うなよ。亜衣さんが困っているだろ」
浩紀は奥様は窘めて私を玄関に誘導する。
「遅くまでありがとうな。父さんと母さんがあんなに元気なの久しぶりだ」
「浩紀ー。駅まで送るのよ」
「言われなくてもそのつもりー!」
浩紀はそう言ってドアを開ける。
私の手を掴まず、一定の距離を保って歩く。
その間もたくさん話をした。学生の時の話、試合の話。監督が厳しかったこと、先輩がキツかったこと。
あっと言う間に駅に着いた。
「それじゃあ、気を付けて」
「うん、ありがとう」
電車が動き出しても彼はホームで手を振っていてくれた。
とても楽しかった。それでも心を動かす程ではなかった。カバンをまさぐってアルマーニに触れる。
柄は自分で選んだが、リュウキが買ってくれたものだ。
次の日、アルマーニを鑑定に出した。
デザインで選んでいくらくらいのものかわからなかった。
「定価が五万ですね。状態も良いので二万でどうでしょう」
鑑定士の言葉に息をのむ。
心のどこかで偽物だと思っていた。
「やっぱり売るのやめます。ごめんなさい」
ひったくるようにアルマーニを取り、逃げるように店を出る。
本物だった。偽物じゃなかった。
ふざけんな。
なんで本物なんだよ。
あんなに冷たくして、なんで本物なんだよ。
やり場のない怒りを感じた。
むしゃくしゃしてどうにかなってしまいそうで、電車を家とは真逆に乗り継いだ。
新宿でいつも人ごみに流されたのに、今は縫うように歩ける。辻を曲がってエレベーターの前に来た。ボタンを押そうと指を伸ばす。その前に白くて細い指がボタンを押す。
後ろを振り向くと黒髪の女の子だった。
「ユメカ……?」
私の言葉にユメカは目を見開く。
「あのときのお姉さん……どうしてここに?」
聞かれてもそうはっきりと答えたくない。ホストに行くなんて口に出せない。
「もしかしてグルムーンにいくの?」
「グル?え?」
「ここ、この看板」
気が付かなかったが、エレベータの脇に看板があった。ずらりと並んだホストたちの写真が照明で照らされている。
「あ」
思わず声を上げた。
リュウキの写真があったからだ。NO.3と書いていた。意外だった。リュウキならトップをとってもかしくないのに。
「お姉さん、リュウキ狙い?」
図星を指されて言葉に詰まる。
ユメカは無言だったが、いきなり私の腕を掴んだ。
「ちょ、な、なに……!」
「いいから見てて」
死角になるところに連れ込まれ、驚いているとエレベータの扉に人の影が差す。
「ごめん。リュウキ、迷惑だった?」
「……正直困惑してるよ。でも、せっかく来てくれたんだし、ただ前みたいにお金は出せない」
「大丈夫。今日お給料が入ったから安心してよ。それにナンバー上がりたいんでしょ?」
「上がりたいけど百合子さんに無茶をさせたいわけじゃない」
「でも弟さんの学費キツイっていってたじゃん。お金稼がないとダメなんでしょ」
「そうだけど……」
リュウキの顔は暗い。
そういえば宮田がリュウキは親の借金を背負っていると言っていた。真面目なリュウキはお客からお金を引き出すことに向いてないみたい。
カバンの中のアルマーニに触れる。本物だ。まるでリュウキの心みたい。
「あれが育て」
「え?」
小声でユメカに言われて驚く。
「お金を引き出せそうな相手を店ぐるみで囲い込むの。今、リュウキはあの子を太い客……お金をいっぱい使う客に育てているところ」
「どういう……こと?」
「お姉さん、こっち来て」
リュウキと女の人がエレベータに乗り込んだあと、ユメカは私をぐいぐいと引っ張って歩いた。
神殿のような白い壁のビルの前にくると、ユメカは屋上を指さした。
「あそこ、ここじゃ一番有名な場所なの」
「人気のお店があるっていうこと?」
「ううん。苦しくなった女の子がここから飛び降りるの。ここじゃ珍しくもないんだよ。そういう世界だもん」
ユメカがたんたんと言う。
「リュウキは結婚してるよ。女と一緒に住んでる」
「うそ」
「ほんと。家の借金とか弟かもウソ」
ユメカに表情はない。
私は信じられなかった。リュウキの深刻そうな顔は本物だと思った。優しさも、気遣いも本物だった。
「あなたはリュウキの何なのよ」
私にリュウキを取られたくないから、わざと酷いことを言っているのじゃないか。そう思った。だってアルマーニは本物だったから。
「私はエース。一番稼いでいる客のことね。引き返すなら今だよ。もうこっちに来ちゃダメ」
ユメカの言葉に熱を帯びる。
はじめて泣き出しそうな顔になった。
あの後、私はどうしたかよく覚えていない。
ただ、気が付いたら家についていて、アルマーニを手に持ったまま寝ていた。
仕事は順調に進んでいる。
気になる点と言えば宮田がちょっかいを出してくるくらい。
「ごめん。お金を貸して」
「いやいや、昨日お給料出たでしょ」
ミクが呆れた顔をしている。
「そうなんだけど足りないの。あと二万必要なの」
必死に懇願する宮谷はいつのまにかやつれていた。肌は荒れて目の下にクマができていた。
二万。
私が買ったアルマーニの買取価格も同じくらいかもしれない。
「おねがい宮村さん! リュウキが大変なのお願い!」
腕を掴まれて懇願される。
リュウキの名前を出されて心臓が鳴る。
ユメカの言葉の真意は分からない。もし、嘘だったら……。そう思うととたんに罪悪感が込み上げる。
「二万でいいなら、貸す……ううん、あげるよ」
私が言うと宮田は涙を流して喜んだ。
リュウキが買ったアルマーニの買取価格と同じ値段なら構わないと思った。
ユメカの言葉が本当でも嘘でも、リュウキに助けられたのは本当だから。
次の日、上機嫌の宮田が私に話しかけた。
「宮村さんのおかげってリュウキに話したらすごく喜んでたよ」
「そう、良かった。でももうリュウキの話はしないで」
私が言うと宮田は目を丸くさせた。
「あ……そっか。ごめん。もう言わない。でも感謝だけは伝えたくて」
その日、宮田はずっと上機嫌だった。残業の交代も買って出るらしい。
「変わったね。宮田さん」
「そうだね」
「まあ、こっちに被害がないから別にいいけど、日に日にやつれていってる気がする」
ミクの言う通り、宮田の顔色は悪い。
仕事は頑張っているらしいが、効率が落ちて上司から怒られているみたいだった。
私の変わり映えのない生活が続いた。
尾板さんお奥様に休日に呼ばれてお茶するくらいか。
浩紀も交えて話すことも増えた。
仕事も順調だった。
ある日、宮田が会社を辞めた。
「あんなに仕事頑張ってたのにねえ。なんで夜の職についちゃったんだか」
ミクはため息交じりで言う。
社内では宮田の話で持ち切りだ。
宮田が会社で夜の店のブログを書いていたらしい。そのこスタッフとして働いていたと本人が自供し、自主的にやめた。
捨て台詞は「こんな給料でリュウキを助けられるわけないじゃない! こっちからやめてやるわ!」だったそうだ。
私は宮田の気持ちがわかる。
一歩間違えてたら、きっと同じようになっていただろう。
リュウキに助けてもらったときから、私は罠に落ちていた。
「でも宮田さんは幸せだと思うよ。好きな人がいて、好きな人にために働けるんだもの」
私がそういうとミクは変な顔をした。
「あんたバカ? いつのまにそんなバカになったのさ。正気に戻りなよ」
仕事が終わった後もミクは私につきまとい、飲みに誘われてたくさん飲まされた。
「リュウキってチラシ配りしてたあの子でしょ。ホストはやめとけっていってんじゃん。宮田とほとんど同じ思考になってるのやばいよ」
ミクに非難され、怒鳴られ、私は情けなくて泣いた。
休日は尾板さんの家に呼ばれて行った。そこでも悲しい顔をしてしまったらしく、奥様に心配された。尾板さんに促されて話すと止まらなかった。
「よく知らないけれど、夜の人たちはそれがお仕事なんでしょう? プロに素人が適うわけないわ」
言われてふと思い出したのが健吾の事だった。
ユメカも仕事として健吾に夢を売っていたのだろうか。
そういえば、健吾と恋人らしいことをした覚えはあまりない。どっちかというと手のかかる弟に見えていた。それが可愛かったから。
俯く私に奥様は優しく背中を撫でてくれた。
その日は泊まらせてもらい、四人で食事を楽しんだ。
浩紀は海釣りの話で場を盛り上げてくれた。今度、皆で行こうという話になった。
四人でホテルに泊まり、いろんな話をした。
その夜、浩紀に海岸に呼び出された。
「あのさ、俺、亜衣さんのこと好きなんだけど、亜衣さんは俺の事どう思ってる?」
まっすぐ見てくる目は真剣だった。
偽物も本物もない、純粋な顔だった。
「ありがとう。私も浩紀のこと好きだよ」
答えると浩紀の表情が明るくなった。
「だったら、結婚を前提にお付き合いして欲しい」
はにかみながら言う浩紀に私は何も答えられなかった。
浩紀のことは好き。
でもそれは愛じゃない。
胸がときめくような恋じゃない。
「ごめん。それはできない。それに、ホストに入れあげた女なんていやでしょ?」
私が言うと浩紀は目を見開く。
以前の私の価値観と同じなんだろう。同じだったから気持ちが痛いほどわかる。
「それは……」
「価値観が違うとやっていけないよ。好きだけじゃ結婚はできない」
私の言葉に浩紀は俯いた。
「それじゃ」
浩紀を置いて私は部屋に戻った。荷物をまとめてメモに『家に帰ります。』とだけ残した。翌朝、奥様からの着信がすごいことになっていたが、ラインだけで済ました。
これ以上、深く付き合うのは悪いと思った。
代り映えのない毎日が過ぎる。
ある日、新宿に用があったから出かけた。昼間も相当な人ゴミだ。
歩いていると肩を叩かれた。鮮やかな金髪に目を見張る。
ショートの女の子が嬉しそうに私を見る。
「……ユメカ?」
私の言葉に彼女は頷く。
「お姉さん、ちょっと話していかない?」
明るく弾んだ声はユメカと結びもつかなかった。
以前のように引っ張られて行き着いた先は陽光が差し込むカフェだった。
「あのね。あたし、夜の街から足を洗ったんだ」
席に着くなり、弾んだ声でユメカは言う。
確かに今の彼女から夜の雰囲気はしない。太陽がよく似合っている。
「そうなんだ。良かった……でいいのかな?」
私が言うと、ユメカはにこっと笑った。
思えば、この子が引き留めてくれたから私は夜の世界に入らずに済んだ。あのままだったら宮田と同じようになっていただろう。それはそれで幸せかもしれないが、ビルの屋上に登るような末路はいやだ。
「そうだ。あなたにお礼を言いたかったの。あのとき止めてくれてありがとう。でも、なんで止めてくれたの?」
私が聞くとユメカは少し俯いた。
「オムライス」
「え? あ、注文?」
突拍子もない言葉に私があわてふためくと、ユメカは首を振った。
「お姉さんの家にオムライスがあったでしょ? お腹減ったからつい食べちゃったの」
言われて思い出した。
夕飯用にと二人分のオムライスを作り置きしていたのだ。
健吾と食べたのかと思うと腹の中に黒いものが溜まる。
「あれはショックだったわ。なに、オムライスの罪滅ぼしで助けてくれたわけ?」
私が言うとユメカはこくんと頷いた。
私は呆れる。
だが、食べ物の恨みは一生もののと言うなら食べ物恩はそれなりの効果があるのかもしれない。
「手作りのオムライスなんて本当に久しぶりだったの。お母さんが作ってくれたのとおんなじ味で」
ユメカはぽつりぽつりと話始める。
不登校だったこと、新しい父親が嫌で家を飛び出したこと。
リュウキに優しくされて舞い上がったこと、そこからずるずると夜の街に染まっていったこと。
「夜の職業って楽に思われるけど、辛いことがいっぱいある。お酒か薬がないとやっていけない。でもそんな目に合って稼いだ金をホストに貢ぐんだからどうしょうもないよね」
ユメカは苦笑する。
「なかなか抜け出せなかったけど、お姉さんのオムライス食べて、お母さんを思い出したんだ。電話で連絡したら離婚したから戻っておいでって言ってくれて」
ユメカの表情はにやける。
「今はお母さんと一緒に住んでるんだ。私は派遣だけど昼の仕事を始めたよ」
彼女の笑顔はとても輝いていた。幸せそうな顔だった。
「そっか」
「あとね。今更だけど、健吾……さん? あの人、私に手を出してないよ」
「え?」
「あの状況じゃそう思われても仕方ないけど、レクチャーしてたの」
「レクチャー?」
私が聞くと、
「もっと恋人とイチャイチャしたいんだって。だから実験台になってた」
ぶちまけられて私は目が点になる。
「今更なのは知ってるし、だからどうしろってわけじゃないけど、完全に裏切られたままじゃないってこと」
「でもあのあとあなたを追いかけていったよ?」
「あの人、私がホスト狂いなの知っててやめさせようとしてたんだよね。あのままだと私がリュウキにお金渡しちゃうって知ってるから追いかけた。結局、リュウキに渡したけど」
ユメカは自嘲気味に笑う。
でも、今の私はユメカの行動がよくわかる。
夢に侵されたままだったら、私も全財産をリュウキに渡していた。家族のために向いていない仕事頑張る人だと思ていたから
「ユメカの気持ちわかるよ」
私が言うと、ユメカは苦笑した。
「どうしょうもないよねー」
お互い苦笑してドリンクを飲み切り、そこで別れた。
夜の町で会ったユメカより、今のユメカの方が可愛い。
「あ、あの映画今日やるんだ」
建物に張り付いたヴィジョンに告知映像が流れる。
健吾が一緒に行きたいとずっと前から言っていた奴だ。
あいつとは趣味がよく合うし、笑いどころが同じ。
なんのためらいもなく私はスマホで健吾に連絡した。
「久しぶりー。あのさ、見に行きたいって言ってた映画、今日、公開だけど見に行かない?」
スマホの向こうで健吾の喜ぶ声が聞こえる。
その声で私も嬉しくなった。
とにかく今は会って話そう。
今までのこと、これからのこと。
オムライス りったん @rita-n
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