ピア=アーレントの回想 後編




 娯楽小説の出版などを手掛けるホーン・リバー社の編集者、ベティーナ=クスター女史の取材を受け、私ピアと夫ドノバン=アーレントとの馴れ初めを話していた私は、その記念すべき日のことを、詳細に思い出せる。


 私はその日、教会に行きたいと私の主人のジョアン=ニールセン第一王子殿下にお願いし、午前中休暇を貰い、後に夫になる彼にも道案内をしてもらうよう許可をいただいた。

 前日の夕方、夕食の準備の際に私に対して「私はあなたのことが好きです。私と生涯を共に過ごして頂けませんか」そう言って突然求婚を口にした現夫のドノバン=アーレント。

 その日の夜、自分の不注意で椅子から転落しそうになった私を、抱き止めて助けてくれた。その時に逞しい腕と胸に抱きしめられ、強く異性として彼を意識した私のことを後に夫になる彼は全く気付いておらず、その後も何事もなくそれぞれの部屋に戻った。


 彼と2人きりになれば、彼も私にもう一度求婚の話をしやすいのではないか、教会行きとその道案内は、私がそう考えて殿下に願い出たことなのだ。



 その日、暗き暗き森の中にあるヒヨコ岩までエルダーエルフの娘リューズさんを迎えに行く殿下たちを、私と彼は見送った。

 見送った殿下たちの姿が木立に隠れると、彼は戸惑いを滲ませた表情で私に尋ねて来た。


 「どうします、ピアさん。私たちも教会に出かけますか」


 この頃の私は、感情の籠らない物の言い方をしており、逗留していた代官屋敷の家事全般を賄っていたこともあって、他の皆様や一緒に飼っている雪狼のフデなどに一目置かれていた気がする。


 そんな私を好きになった奇特な男、ドノバン=アーレント。


 異性を意識したことのなかった私は、自分にも女性としての魅力があるのかなどと言うことは考えた事が無かった。


 だから、何故私を彼は好きになったのか、それを知りたいと願っていた。


 「……はい、よろしくお願いします、ドノバン先生。少し用意をしてきますのでお待ちいただけますか」


 私はそう言って一度自分の部屋に戻る。


 外出するなど、もしかしたら人生で初めてのことかも知れない。

 孤児院にいた頃は孤児院での日々の仕事に手一杯。

 王宮に上がってからも、王宮敷地外に出る用事もなく。


 用意と言っても、普段付けているエプロンとヘッドドレスを外すくらいしかない。

 エプロンとヘッドドレスを外せば、それで私や同僚のカーヤにとっては休みの服装だ。


 下級貴族家出身の行儀見習いで王宮に上がっているメイドたちは、休日になると私服に着替え、アレイエム市街に遊びに出たり実家に戻ったりしていたが、私たち孤児院出身のメイドは私服など着る機会もないため持ってはいなかった。


 メイド長のイライザ様に、遥か昔にいただいたスカーフを棚から取りだす。


 私をジョアン殿下付のメイドに抜擢して下さったイライザ様が、もし私が外出する機会があったら外で髪を露出するのははしたない女性と見られるのでしっかりこれを被りなさい、と渡してくれたものだ。

 全く外出などする機会が無く、今までずっと棚の奥にしまいこんでいた。

 イライザメイド長の出身国、ハラスの国花チューリップがワンポイントで刺繍された純白の絹のスカーフ。


 それを被り、外出の準備は終わり。


 自室から出て、逗留している代官屋敷の玄関で待つ彼に声をかける。


 「お待たせいたしました。ではよろしくお願いします」


 「で、ででは参りましょうか」

 彼が少し動揺しているようだ。


 もしかして、私のスカーフ姿を初めて見た彼は、私の装いが何かそぐわないと思っているのだろうか。


 不安になる。


 私は預かっていた鍵で扉に施錠し、彼の先導で私たちは教会に向かった。


 私は代官屋敷の敷地内と100m先の村長宅にしか行ったことがなく、こうして違う道を歩くというのも初めてだ。

 代官屋敷から林の木々の向こうに何となく建物らしきものが見えていたが、あれが教会だったのだろうか。

 私はそれすらもわからない。当然行く道などわかる筈もない。


 彼が歩く後ろを私は付いて行く。


 途中、とりとめもない会話をしながら、彼は後ろを歩く私の歩く速さに合わせて、私を急がせたり逆にゆっくりになり過ぎないように注意しながら歩いてくれている。


 さりげない気遣い。昨夜もそうだったが、彼は自然にそれをしてくれる。


 「ピアさん、歩く速さは大丈夫ですか? 速すぎませんか?」


 彼がそう言って私に聞いてくる。


 私にとっては丁度いい速さなのだけれど、彼もそれに合わせてくれているのだけど、わざわざ聞くのは女性との接し方に自信がないからなのだろうか。


 もう三叉路に差し掛かる。


 多分この三叉路を曲がると、それほどかからずに教会に着くのだろう。


 こうした彼と二人の時間は心地いい。ただ、待っていても彼は私に自分の気持ちを話してくれそうな気がしない。


 「歩く速さは大丈夫です。あの」


 「どうされました?」


 三叉路を曲がる。


 私からこんなことを言うのは恥ずかしい。


 少しの間、沈黙してしまう。


 「……私の手に触れていただけませんか」


 昨日、抱きしめられる前に手が触れた時、何だか凄く温かかった。


 あれも多分、私にとって凄く大事な事。


 「ええ、ええッと、……って、手を繋ぎエスコートした方がよろしいのでしょうか?」


 彼は本当に、真面目過ぎる!

 何故、そんなに真面目に取ってしまうのか……

 でも、そんなところも彼の良さなのだ。


 「はい、……いえ、あの、手に、触れて頂けるだけでもいいのですが……」


 私はそう言って右手を差し出した。


 ただ、私の手を取って、触れてくれるだけでいいのに。


 彼はためらいながらも私の差し出した右手をそっと取って、両手で挟み込むように触れた。


 私の右手が、彼の両掌で挟み込まれている。彼は緊張しているのだろうか?掌に汗をかいている。

 最も、私の右手も、いや、触れられていない左手も私の緊張で汗をかいているからお互い様なのだ。

 そして、この緊張は、決して嫌ではない。

 彼の手。意外と大きくて、右手の小指の付け根にはタコができている。きっと、毎日剣の代わりにマチェットを振るっていたからなのだろう。働き者の手。

 これだけ働く牧師は、アレイエム中を探してもそうはいないのではないだろうか……


 そんなことを考えていると、彼が


 「そろそろ手を放してもよろしいですか? あまりこうしていると日光でのぼせてしまいますから」と言って手を離した。


 私は名残惜しさと嬉しさで、ほんのり顔が赤くなっている気がする。


 彼の顔をまともに見ることができずに下を向いてしまう。


 「では、教会はもうすぐそこです。参りましょう」


 彼は私の顔が赤くなっていることを日あたりしたと勘違いしたのだろう。

 実際は白のスカーフが日光を遮ってくれているので、それ程暑くはない。


 私の顔が赤くなった原因は自分だとは夢にも思っていない鈍感さ。


 私は彼に顔が見られないように少し離れて歩くようにした。



 5分ほどで教会に着いた。


 教会の中には誰もいない。

 教会敷地内の畑で農作業をしているのだろうか。

 小さな小さな教会だ。村人からの収入や寄付もそんなに多くないだろう。

 自分たちの食べる物は自分たちで作り遣り繰りしているのだろう。


 彼は私を教会内のベンチに座らせ、この教会の人を呼んできます、と言って外に出て行った。 


 しばらく待っていると40代後半の男性が汗を拭きながら厨房へ行き、水の入ったジョッキを持ってきてくれた。


 ジョッキの水は顔が紅潮して熱くなっていた私にとって美味しかった。


 「初めまして、美しいご婦人。私はこの教会の牧師、イクセル=ルンベックと申します。美しいご婦人、本日はどのようなご用件で当教会にお越しいただいたのですかな?」


 私にジョッキを渡した男性はルンベック牧師と名乗った。

 一人でこの教会を切り盛りしているようだ。


 「私はピアと申します。デンカー坊ちゃんのメイドを務めております。本日は私の懺悔を聞いていただきたいと思い、伺いました」


 実際に懺悔というか、聞きたいことはある。

 本来なら彼に聞くべきなのだろうけれど、それは気恥ずかしい。


 「なるほど。わかりました。神は万物を見ておられます。神に祈りをささげた後、神の代理として私が懺悔をお受けいたしましょう」


 ルンベック牧師に促され、共に神の像の前に行き、祈りを捧げた。


 その後、ほんの申し訳程度の大きさの懺悔室に入る。

 私が先に入り、しばらく待っていると、ルンベック牧師も牧師の部屋に入る。


 「神は常に私たちを見守っておられます。貴方の罪は、神は既にご存じです。貴方の罪を告白なさい」


 ルンベック牧師が外見からは想像できない厳かな声で私に告げる。


 「私は孤児院出身で、そのまま王宮に上がりメイドとして働いてきました。私の居た孤児院は王家の多額の寄付もあって、運営状況は良かったようです。私たちはそれぞれ割り振られた仕事はありましたが、ひどく乱暴されたりだとか、寝る間もなく働かされたり食事に事欠くということもなく、思えば恵まれた環境だったと思います」


 ルンベック牧師は口を挟んだりせず、黙って私の話を聞いている。


 「そして私は7歳の時に王宮に洗濯メイドとして引き上げられました。私は仕事を覚え、自分の居場所を作ろうと必死で取り組みました。やがて洗濯メイドから客室付きへ、更には王子付きのメイドへと引き上げていただけました。

 私は王家の方々には返しきれない御恩を頂いております。私の一生は王家への御恩を返すために捧げよう、そう思ってこの年まで生きてまいりました。

 ですが、昨日、私はとある男性から求婚の言葉を言われました。

 その方は以前からの知り合いで、王子を除けば私が最も長く日常的に交流していた方です。

 私はその方に以前から人としての好意は持っていました。

 ただ、私は異性を好きになるということがわかりませんでした。

 ですから、その方に求婚の言葉を言われた時に、どう反応していいのかわからず戸惑ってしまい、返事などできませんでした。

 その夜私は厨房で作業をする際自分の不注意で椅子から転落しそうになったところをその方に助けていただきました。

 その方は意図していなかったのでしょうが、転落する私を抱き止めて下さったのです。

 私はその方の逞しい胸と腕にしっかりと抱きしめられた時、とてもとても今まで感じたことのない胸の熱さを感じました。

 これが異性を好きになるということなのだと、その時私の胸の熱さが伝えてきたように思います。

 その後、その方がもう一度私に求婚の言葉を言ってくれることを私は期待しましたが、その方も奥手なのか聞かせてくれることはありませんでした。

 私は……その方がもう一度求婚の言葉を言ってくれることを待ち望んでいるのです。

 ですが、王家に多大なご恩を頂き今ここにいる私が、王家に恩を返しきらないうちにそんな事を望むのは王家の方々に対するひどい裏切りなのではないだろうか、という思いも強いのです。

 なのに、そう思いながらも彼と二人で歩き、彼に触れると私は何とも言えない幸せな気持ちになるのです……

 私はどうしたらいいのでしょう? 

 私はそれほど敬虔な信徒ではありません。ですからこれが懺悔になっているのかもわかりません。

 私は何かとても罪深い気がするのです。でも私の罪が何なのか、私には判らないのです……」


 「あなたの気持ちは人が生きていく上で誰もが感じるものですよ、お嬢さん。あなたに罪があるとするなら、それは生けとし生けるもの全ての罪だ。ただ、神はその罪を裁くことはない。神はただそこに在り、全ての営みを見守る存在。

 あなたの気持ちは、あなたの気持ちを伝えるべき人に伝えるべきだ。たとえ相手に伝えることで望まぬ結果となったとしても。その結果はあなただけのものだし、その結果をどう捉えるかもあなただけのもの。

 相手が朴念仁でも、伝えなければ始まりませんし終わりません。

 ではあなたに神の恵みを」


 そう言うとルンベック牧師は先に懺悔室を出たようだ。


 私も懺悔室を出て、ルンベック牧師と連れ立って、待っている彼のところに行く。 



 「アーレント師、久々に牧師として懺悔を聞いてみませんか」


 突然ルンベック牧師が彼に言った。


 「私がですか?」


 彼は突然のことに驚いている。


 「ええ。こちらの美しいご婦人の告白は私よりもあなたが聞いた方が、より神の御心に沿う、そう思いましてね。もちろん無理にとは申しませんが」


 「はあ。わかりました」


 彼は、不承不承といった様子だがルンベック牧師の頼みを引き受けた。


 彼は先に懺悔室の牧師のスペースに入る。


 私はルンベック牧師に背中を押され、もう一度懺悔室に入る。

 その時にルンベック牧師は小声で「頑張って」と私にエールを送った。




 「神は常に私たちを見守っておられます。貴方の罪は、神は既にご存じです。貴方の罪を告白なさい」


 彼の厳かな声。


 私は、ゆっくりと話し出した。


 「神よ、私は仕えるべき主人がありながら、昨日から主人を蔑ろにしてしまいました」


 私の生い立ちなど彼は知っている。だから、端的に私が最も気になる部分を話す。


 「私は昨夜、自分の不注意で、危うく怪我をしそうになりました。それを助けて下さった方がいたのです。私はその方に助けられた時、自分の不注意を悔やみました。その方が注意してくれていたのに、それを聞かずに危ない目にあったのです。その方はそんな私を助けてくれたばかりか、不注意を責めるようなこともされませんでした。私はその方に助けられた時に、その方に抱きしめられる形になり、とても混乱しました。全身が熱くなって、初めての感覚に戸惑いました。でも、けして嫌な訳では無く、むしろ嬉しかったのです。

 私は孤児院育ちでその後王宮に上がったこともあって、男性との接点はほとんどなく、男性に抱きしめられたのも初めてでした。

 私はその時の自分の感覚が良く分からず、今朝、恐れ多くもお仕えする主人に抱き付いてみたのです。相手が男性であれば同じ感覚になるのかと思い、よりによって使えるべき主人で試したのです。王族への御恩を返すどころか、更に甘えるようなことをしたのです。これを罪と言わず何というのでしょうか」


 私の仕えるべき主人、王家の方々と言い換えてもいい。

 私は王家の方々に御恩を返すよりも、王家の方々の好意に甘えている。そして私は王家よりも彼のことを気にしているが、それでいいのだろうか?


 「神は既にあなたの罪を許しておられます。あなたの行動によって主人は不利益を被りましたか?」


 「いえ、私の主人はまったくそのことで私を咎めるようなこともなく、今も私の希望を聞いて休暇を下さっています」


 「でしたら、貴方の主人にとって、あなたは良く仕え、良く働いてくれる良き従者なのでしょう。気に病むことはありません。これからも変わらずに良く仕えて下さい」


 「はい……ありがとうございました」

 

 「あなたに神の恵みを」


 そう言われて懺悔は終了した。





 ガチャッ


 私は懺悔室を退室した。


 彼は敬虔な牧師だ。私の懺悔も教職者として聞いたに違いない。

 王家の御恩に対する向き合い方、それについては道を示してくれた。

 彼は教職者として、私が進むべき道を伝えてくれた。


 それでいいではないか。


 それが彼ではないか。


 彼がそういう人物だと私は解っていたし、そんな彼だからこそ私は惹かれた。



 私は自分が情けない。


 そう、彼が教えてくれた進むべき道を、ひどく色あせたものに感じてしまっている。彼が私を特別な存在だと思ってくれなかったことに落胆している。


 彼が、私の精一杯感じた気持ちに一人の男として応えてくれなかったことに、そんなことを彼が懺悔の場でするはずがないことがわかっていたのに、期待して、それが叶わなかったことで失望している。


 こんなにも浅ましく情けない女だったのだ、私は。






 ガチャッ!




 背後で懺悔室の扉が開き、彼が出てきたようだ。


 今の情けない私の顔を彼に見られたくない。


 私は背を向けたままでいた。




 すると彼は私に走り寄り、正面に回り込むと、私の右手を取り、私の前に膝まづいて私の目を見つめながら叫んだ。


 「ピアさん、私はピアさんの、自分の仕事に誇りを持ち突き詰める姿勢と、自分で出来ることを探して、他の皆を生かす姿勢が大好きです! そしてピアさんの、屈託なく笑う笑顔が大好きです! でもピアさんは、ご自分に厳しくするあまり無理をしてしまう! 私はピアさんが無理をしないように、共に寄り添って支えたい!


 ピアさん、あなたの生涯を私に支えさせて頂けませんか!」


 私は彼に取られた手とは反対の左手で、表情を隠したくて口を抑えながら固まってしまった。

 突然の彼の言葉に私は驚いているのに、私の胸の中の熱さは、私の心は、爆発しそうなほど喜んでいる! 


 昨日の夕方とは違う。


 彼が私を見つめる真っ直ぐな目からは彼の決意が伝わって来る。

 彼の言葉も昨日の夕方とは微妙に違う。

 でも、今日の言葉の方が、より私のことを考えてくれている。

 肩肘張った私のことをそこまで見てくれて、支えたいと言ってくれている。



 私はこの人を、もっともっと感じたい。

 もっと体全体で感じてみたい。

 考えるよりも先に体が動いた。



 私は膝まづく彼の頭を抱きしめた。

 彼も私の腰の上に手を回し、私をギュッと抱きしめ返してくれる。

 そうしてもらえると、彼の温かさがより一層私に伝わって来る。


 そうしながら、私の口からも言葉が漏れ出る。

 私の気持ちが彼に伝わるように、ゆっくり、ゆっくりと漏れて出てくる。


 「私、本当に今まで男性と接する機会が無くて……男性を好きになるってことがわからなかったんです……でも、昨日ドノバンさんに手を触れられて……すごく温かかったんです」


 「はい……」


 「……それで、椅子から落っこちそうになった時も抱きしめられた時に、心臓がこれでもかってくらいに暴れて……全身が真っ赤になったくらいに……熱くなりました……」


 私が抱きしめている彼の頭がゆっくりと頷く。


 「……夜、自分の部屋に戻ってもドキドキしていて……ずっとドノバンさんのことを考えてしまって……今朝、殿下にも同じように抱きしめたり手に触れたりしてみたんですけど、そうはならなくて……今、こうやってドノバンさんに触れていると、嬉しいんです……」


 彼は返事の代わりに私の腰の上に回した腕に力を込めて更に抱きしめ返してくれた。

 お互いの温かさを感じながら、どれくらいそうしていたのか……随分と長い時間だった気もする。


 しばらくそうしてお互いを抱きしめていたが、どちらからともなく力を緩めた。


 彼は私の右手をもう一度取り、手の甲にゆっくり口づけした後、立ち上がった。




 私は嬉しくて少し涙を浮かべた目で彼を真っ直ぐに見つめた。


 彼も私の目を真っ直ぐに見つめ返している。


 彼は身長がこんなに高かったのだな、とふと思う。


 彼は私の右手を取ったまま、左手をそっと私の頭の後ろに回し、ゆっくりと自分に引き寄せる。

 私も左手で彼の腰に手を回し、互いに体を密着させていく。


 私はそっと目を閉じ、彼のことを受け入れようとした。

 私の目に溜まっていた嬉し涙が、まなじりから睫毛まつげを濡らしてツッと零れた。














 「はい、そこまでよ。それ以上はガキどもの教育に良くないからね」


 ルンベック牧師の声が、私の目を開かせた。

 ルンベック牧師の後ろの厨房の扉の陰にサッと小さな人影たちが隠れる。

 何歳の子供たちかは分からないが、好奇心は旺盛だ。


 「全くアーレント師、教職者は結婚して子供を産めよ増やせよって神も言われてるんだから、そんな女心に気づかない鈍感じゃ、改革派の牧師として失格だよ全く」


 ルンベック牧師はそう言いながらこちらに近づいてくる。

 そして手に持った瓶をこちらに放った。

 ストロベリージャムの瓶のようだ。


 ここの教会の手作りだろうか。

 放られたその瓶を、彼がキャッチした。 


 そしてルンベック牧師は子供たちに聞こえないように小声でこう言った。


 「アーレント師とピアさん、王宮の人ってことは、デンカーさんは王族ってこったろ? さっきも言ったけど、ここの教会は狭いから、懺悔といえども気を使いなよ。 身分を隠してるのにわざわざ自分たちでバラしたら元も子もないよ。

 まあ、一応俺も神の僕だから、俺からは絶対に言わないけどね。たんまり寄付も頂いたし」


 続けて


 「アーレント師とピアさんは今日休み貰ってるんだろ? だったらそのジャムあげるから、どっか木陰でピクニックと洒落こんで、お互いもっと話をしなよ。さっきの続きはそっちでやって」


 そう言われて私も彼も顔が真っ赤に染まった。


 確かに教会で結婚式でもないのに何をやっているのか。


 でも、ルンベック牧師は私の気持ちを聞いて、私の気持ちを彼に伝えることが出来るように取り計らってくれたのだ。


 「ルンベック牧師、ありがとうございました」


 私は照れて顔を赤くしながら心からのお礼を言った。


 「いや、ピアさんの告白聞いて、こいつは朴念仁に直接聞かせないとって丸投げしたから、大したことはしてないよ。あんな懺悔の受け方じゃ、牧師としてはどうなんだってどころだな。中央にバレたら厳重注意だよ。ま、惚れた女性に何も言えない臆病な牧師もいるから、フライス村では懺悔しちゃいけないってことだな」


 とルンベック牧師は笑いながら言う。


 「ありがとうございます、ルンベック牧師。この御恩は必ずいつかお返しいたします」


 彼もそう言ってお礼を言うと、ルンベック牧師は


 「恩を返してくれるのも結構だが、まずはそのジャムの瓶、返しに来てくださいよ。

 何せ貧乏教会なんでね、一つの瓶も貴重なんだから」


 そう言って笑った。


 私は彼に小声で言った。


「ジャムの瓶を早く返しに来ないといけませんね。早速今日、酵母入りのパンに塗って、森の木陰で二人で食べましょう」


 彼もはにかみながら


「そうですね。木陰で涼みながら色々と、お互いのことを話しましょう」


 と答えてくれた。


 ストロベリージャムの瓶を抱えた彼の左手とは反対側の右手を、私はそっと握る。


 彼も私の手をギュッと握り返してくれた。












 「ピアさん、それでその後はどうなったんですか」


 ベティーナ=クスター女史が、私に続きを促す。


 まったく、もう少し思い出に浸らせてくれてもいいのに。

 私はお茶請けとして置かれていたストロベリージャムを挟んだクラッカーを手に取り口へ運ぶ。


 「その後は夫と、代官屋敷の近くの川縁の木陰で、朝焼いた酵母入りのパンに頂いたジャムを塗って二人で食べました。

 夕方戻られた殿下には夫と二人で報告に行ってね、殿下は祝福して下さいましたよ」


 「ピアさん、そこじゃなくて、その、教会の続きはどうなったんですか?」


 「フライス村の教会にはその後も夫と二人で通いました。私たちの結婚式も王都でだけでなくフライス村の教会でも挙げましたもの」


 「もう! ピアさんってば解ってるくせに、教えて頂けないなんてひどい」


 「もう私の話はおしまい。ご想像にお任せいたします」



 そう。もう言うべきことはない。

 初めてのキスなんて、言葉で言い表すことはできないものだ。


 ただ、私も夫も初めてのキスは、お互いストロベリーの味だったことだけは確かなこと。





 私は唇に指をそっと当て、指に付いたストロベリージャムを舐めながら、その時の感覚を思い出していた。








 ピア=アーレントの回想 おしまい


 

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ピア=アーレントの回想  桁くとん @ketakutonn

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