【8】

 ◆



 白米と、お味噌汁と、ふきの青煮と、肉じゃが。何の変哲もない、一般家庭で食べられているであろう素朴で温かな料理達だ。それらを控えめで可愛らしい彼女と二人で箸を進め、温かな談笑と共に完食する。

 彼女の作る料理は美味しかった。

 美味しかったが故に、罪悪感は限界を迎えた。

 時計の短針が真上を向く頃、茉咲はスマホを片手に昨日と同じようにベッドの上に寝転び、いつの間にかすやすやと寝息を立てていた。その様子を、俺はソファーに座りながらぼんやりと眺めていた。

 二分ほど彼女の寝顔を見つめ、全く起きる気配がない事を悟り、ソファーから立ち上がる。

 部屋の隅には、俺が昨日着ていた洋服が綺麗に畳まれた状態でさりげなく置かれていた。畳まれている方は長袖であり、今着ている半袖よりも今の気温に合っている。

 俺は、寝ている茉咲を起こさないようにそっと着替えを済ませ、着ていた半袖の黒いTシャツとジーパンは、少し考えてから全て洗濯機に放り込み、ポケットに自分のスマホだけを突っ込んで、部屋の電気もテレビも点けっぱなしにして、そのまま玄関に向かった。

 部屋から洩れる光を頼りに音を立てずに靴を履き、小さく深呼吸をして、念のため部屋の方を振り返る。

 薄暗い玄関から光が満ちる部屋を眺めてみるが、茉咲が起きてくる事はなく、まだ穏やかに眠っているようだった。

 遠く、目に見える現在が、憧憬に変わっていく。

 俺は何も言わずに踵を返すと、なるべく音を立てずそっと玄関扉の鍵を開け、慎重にノブを捻り、扉を押す。

 ざあ、と降りしきる雨の音が響いた。雨足は強く、傘が無ければものの数秒でずぶ濡れになってしまうことだろう。

 俺は身一つで雨空の下に一歩を踏み出す。打ち付ける雨粒を受けながらゆっくりと扉を閉め、忍び足でアパートから遠ざかり、街灯の明かりを避けて、冷たい闇の中に身を隠した。

 寒い、けれど、茉咲の部屋は温か過ぎた。これくらいが丁度いい。顔に当たる雨粒が、伏せた眦の縁から涙のように落ちていく。

 そういえば、最後に泣いたのはいつだっけ、もう思い出せない。小さい頃はよく泣いていた気がするんだけど、いや、それも可笑しな話か。

 俺に子供時代なんて、そもそも無いじゃないか。

 びしょ濡れの身体を引きずるようにして、とぼとぼと夜道を歩く。住宅街を抜け、大通りに出て、飲み屋街を過ぎ、ホテル街の手前で足を止める。周囲を見渡すと、人気のない駐車場があった。屋根は無いが、まあいいか。

 停まっている車の数は疎らで、それほど多くない。街灯の明かりが少しだけ当たっている縁石に腰を下ろし、目を凝らせば人に見つけてもらえそうな光と闇の狭間で独り、膝を抱えた。

 暫く、雨音を聴いていた。雨粒が作る波紋が、街灯の光を受けきらきら光るのを眺めながら、時間を潰す。

 ぶるりと一つ身震いし、寒さがいよいよ堪え始めた頃に、遠くから水溜まりを踏む音が微かに近付いて来ることに気付く。

 来たか。

「やあ、猫ちゃん」

 違う。俺は顔を上げた。

 そこに居たのは、白磁の色をした肌を玉響のように闇夜に浮かび上がらせた、人形のような子供だった。ふわふわと癖のある髪は微かに水滴を乗せる程度で、子供の周囲だけ違う空間が広がっているかのように現実味がない。

 俺は呆然と目を見開き、ゆっくりと瞬かせる。

「なに」

 人を見下すような笑みを浮かべた子供を前に、俺の口からやっと出てきた言葉は、それだけだった。

 子供は、蹲る俺の目の前まで軽い足取りで歩み寄ると、すっとその場にしゃがみこむ。短パンから覗く骨張った膝小僧が陶器のように白く、作り物なのではないかとすら思う。

「また、駄目だったのかい?」

 子供はこてんと小首を傾げ、楽しそうに俺の顔を覗き込む。

 俺は無表情のまま、子供の紅い瞳を見つめ返した。

「……駄目だったよ」

「そうかい」

 耳も尻尾も生えていないが、目の前の不気味な子供のことを何故か、猫のようだと思った。

「愛情って、難しいねえ」

「そうだね」

 雨音の中、二匹の猫が背を丸め、夜闇の縁で鳴き合う。

 子供は始終、楽しそうだった。

「でも、君は偉いね。ちゃんと逃げずに向き合ってくれているじゃあないか」

「どこが」

 逃げて、逃げて、逃げて。

 何処にも行かず、何処にも辿り着けず、一か所に留まることすら出来ず、嫌だ怖いと駄々を捏ねて、左右の天秤を往ったり来たりと、そんなことを延々と繰り返すこの木偶の坊の、一体どこが偉いと云うんだ。

「神様が創った世界から、ちゃんとはみ出さず、きちんと敷いたレールの上を生きてくれている」

「あんなのが神様なら、世も末だな」

 俺が嘲笑交じりに毒づくと「全くね」と子供も苦笑した。

「俺は別に、決められたレールの上でも、構わないんだけどな」

「そんなこと言って、本当は気になるのだろう?」

 にまにまと、人をおちょくるような眼差しを子供は俺に向けてくる。人の心を完全に見透かした上で、わざと人を試すような言い方をする子供に、思わず苦い顔になってしまう。いっそカッとなって反論できれば楽なのだろうが、子供は的確に俺の図星を突いており、如何せん何も言い返せない。

「君はもっと、好き勝手に生きて良いのだよ」

「そんなわけあるか。俺がこの物語の役を降りたら、茉咲はどうなるんだ」

「僕が何とかしてあげよう」

 簡単に言ってのける目出度い白磁の黒猫を前に、咄嗟に「あ?」と喧嘩腰な態度を取ってしまった。つい素が出てしまった事に気付き、はっと我に返って目を伏せるが、時すでに遅し。子供はこの数分間で一番楽しそうな笑みを浮かべていた。

「出来るわけない」

「出来るさ」

「お前は部外者だろ」

「部外者だから出来る事だってあるのさ」

 肌と瞳以外の全てが真っ黒の子供は、すっとその場で立ち上がった。ここまで雨に降られても、髪や服は雨粒を弾いているかのように、水に濡れている様子はない。対して、俺はバケツの水をそのままかぶったのかと思われるほどに、全身びしょ濡れだった。

「調停者は、第三者でないと出来ないんだ。何処にも属していないイレギュラーな存在でしか、出来ない事がある」

 調停者とは、大きく出たものだ。別に俺やこの世界は他人に面倒を見てもらわなければならない程に拗れているつもりは無いのだが、それは渦中の人間だからこそ思うだけであり、こいつから見ればここはそれなりに酷いものである可能性もある。

 俺自身は別に納得して生きているし、不平不満を抱くこともないんだけどな。

 でも、多分、そうだな。ちょっとだけ我が儘を言うなら、ここは少し、寂しい。

「ふうん」

 あまり興味が無いのを隠しもせずに態度に示すと、子供はくっくと含み笑いをして見せる。

 全く、どこまでも嫌味な餓鬼だ、と思った。

「そうそう、この世界で学んだ君のお得意の持論は、外に出ても案外と役に立つよ」

「何のことだ」

「笑っていれば、大概の事は上手くいく、ってね」

 淡々と口にする子供の言葉は、一言一句全てが、完全に俺自身の心の中の言葉を準えていた。愈々以てこの子供の底知れなさに気味の悪さを覚え、嫌悪と恐怖に眉根を寄せると、子供はけらけらと明朗に笑い出した。それを見て、気でも違ったのかと俺はさらに皺を深くする。

「皆ね、僕と話していると、だんだんそういう顔になるんだよ」

「だろうな、お前と関わった全ての人間に俺は同情するよ」

「あはは、厳しいねえ」

 くすくすと子供は含み笑いを溢しながら、針のように雨粒が降り注ぐ夜闇を仰ぎ見る。現実離れした見た目と言動。重ねて、水に濡れない特異な身体。それら全てがこの世界から異物として爪弾きにされているようで、この子は本当にこの世界の登場人物ではないのだと、十分過ぎるほど俺に確信をもたらしていた。

 子供は右手の平を上に向け、雨粒を受けようとしながら話を続ける。

「君が請け負っている役については、別に気にしなくてもいいよ」

「なにが」

「君が役を降りても、また別の誰かが登板するだけだ。絶対に君じゃないといけない理由はない」

「わかってるよ、そんなこと」

 わかってはいるが、納得は出来ない。俺が辞めれば、他の誰かが俺と同じことをしなければならなくなる。女の子がそれを望む限り、永遠に。

 あんなこと、俺以外の人間にさせるのは忍びない。それ以上に、俺はこの『役』というものに居場所を見出し、『役』でいることで自分を保ってきている。この『役』を失った自分は、一体何になるというんだ。

「与えられた自分の役目を大事にしてくれるのは結構なことだが、そもそも君が外側を知った時点で、君という『役』は破綻しているのだよ」

「……知ったら、駄目だったの?」

「少なくとも、君の思考は外側で得た情報を加味した上でのものとなっている。演者が筋書きを無視して現実の話を持ち出すものじゃあない」

 雨足が弱まった。耳に慣れた雨音が徐々に遠ざかり、厚い雨雲に閉ざされた空が、少しずつ顔を覗かせようとしている。霖雨が、明けようとしていた。

「さて、後は向こうで話そうか」

 子供は上に向けていた手の平を覗き込む。手は一切濡れておらず、残念そうな表情を浮かべ、すっと腕を下に向ける。小さな白磁の手のひらは、どうやら砌下にはなれなかったらしい。

「知りたくて知った訳じゃないんだけど、しょうがねえな」

 俺は腰を付けていた縁石から立ち上がった。濡れた服が肌に吸い付いて動きづらいが、自ら濡れに行ったのだから仕方がない。

 疎らな細い雨はやがて一粒二粒を時折落とす程度になり、そのうち完全に空は泣くことを辞めてしまった。

 もうここに、俺の居場所は無い。

「茉咲は、大丈夫かな」

「先に『役』から外さなければならないから、君より後に来てもらう事になるよ」

「そっか」

 一緒に行こうと、彼女から言われた言葉を思い出す。足並みを揃えて行ける訳ではないようだが、どうやら離れ離れになるわけではないらしい。ほっと胸を撫で下ろしている自分に気付き、やはり自分は、茉咲の事が嫌いではなかったのだなと安堵した。

 次はちゃんと、人の優しさを受け入れられる自分になりたい。誰かの感情ではなく、自分の感情で動き、自分でものを考え、自分で選択していきたい。例えその先に待っているものが、己の死や破滅だったとしても。

 自分で迎え入れた死なら、俺は進んで受け入れられる。

「茉咲のこと、頼んだぞ」

「うん、道案内は任せてくれていいよ」

 雲が晴れた。足元の水溜まりに波紋はもう見えない。空を見上げれば白い三日月が湿気った地上を照らし、取るに足らない汚れた野良猫の、小さな門出を控えめに祝ってくれている。

 そろそろ、時間だ。

「じゃあな」

「うん、また後で」

 ひらりと右手を振りながら歩き出すと、子供も同様に華奢な作り物のような手を上げ、俺の背後に向けて歩きだす。すれ違いざまに手を合わせ、控えめなハイタッチを交わした。子供の手は、やはり作り物だったのか、氷を思わせる冷たさを孕んでいた。

「あ、そうそう」

「どうした」

「向こうに行く途中、僕に少し似た子が居ると思うから、気にかけてやってくれないか」

 思い出したように語る子供の声は、心なしか僅かに弾んでいた。

 この子供に似た子というと、少なくとも一般的に見る子供の姿を想像してはいけないということだけはわかる。やや面倒事を押し付けられたようにも思うが、俺だってこの子に茉咲のことを頼んでいるのだ。お相子というやつだろう。

「わかったよ、見つけたら気にしておく」

「ありがとね」

 最後に子供はにっこりと微笑み、俺の背後に向けて歩き出した。視界から完全にその姿が消えたとき、そういえば俺の後ろは塀じゃなかったか、と、ほんの出来心で後ろを振り返ってみた。

 俺の後ろには、今まさにしなやかに四肢を伸ばし、塀の上に飛び上がる一匹の黒猫の姿があった。一瞬此方に振り返った猫の目は硝子玉のような紅色をしていて、それが闇の中にぽつんと光を帯び、現実味の無い存在感を露にしていた。俺と目が合った黒猫は挨拶とばかりに一つ「にゃあん」と一鳴きすると、塀の向こう側へと消えた。

 なんだか、今更とんでもない化け物を相手にしていた気がして、再び得体の知れない気味の悪さが背筋を這い上がる。とはいえ、猫なら縄張りさえ侵さなければ爪を立てられるようなことはあるまい。近付きすぎない距離感で接し、踏み込みすぎない関係を保てば、それなりに力になってくれる筈だ。

 夜半の猫とは、そういう生き物なのだと思う。

「それじゃあ、行くかな」

 理の、外側へ。

 予め描かれた役割というレールから外れ、今から俺は、俺という人生の物語を綴りに行く。

 以前に見つけたハリボテの夜の亀裂を再度見つけ、今度もその隙間に身体を滑り込ませる。

 降り立った外側は、雑多に積まれた記憶の残骸が時を止めたまま静かに眠る、黒い景色があるのみだった。


 真っ直ぐ、真っ直ぐ、これからを歩いていく。

 俺は俺が思うままに、これからの人生を歩む。

 

「茉咲、先にいってるよ」


 振り返った世界に、雨はもう降らない。

 そこで見た景色を最後に、俺は入ってきた隙間に背を向け、茫漠とした虚無の先に向けて、歩きだした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜半の猫 花房 @HanaBusaxxx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ