【7】

 ◆



 は、と目を開ける。

 刹那、ずるりと落ちた毛布の柔い感触と、服越しの肌に触れるひんやりとした空気に、ぶるりと身震いを一つ溢す。訳も分からず上体を起こし、床に無造作に落ちていた真白の色をした毛布を拾い上げ、ただひたすら呆けたように部屋の壁を見つめていた。

「あ、起きた?」

 鈴を転がしたように優しい声が鼓膜を擽り、何を思うこともなく声が聞こえた方へ誘われるように顔を向ける。玄関に続く廊下の途中で、髪を緩く一つに束ねたエプロン姿の茉咲が、そこに立っていた。

「茉咲」

「うん、おはよう。っていっても、もう夜だけどね」

 ちゃぷ、と水の音がした。彼女が立っているそこには、丁度台所があった筈だ。大方家事に勤しんでいるところなのだろう。

「もう、夜?」

「そうだよ。朝になっても起きないし、具合悪いって言ってたから、可哀想だと思って起こさないでおいたんだけど……そうしたら一日中寝てて、全然起きないから心配しちゃったよ」

 水道の蛇口から、水が流れ落ちる音がする。何かを洗っているらしい。

 寝ぼけ眼のままぼんやりと壁のクロスの網目模様を数秒眺め、白昼夢を見ているような心地のまま、毛布を綺麗に畳みソファーの背に引っかけると、徐に床に足を付け立ち上がった。一日中ソファーの上で丸くなって寝ていたせいか、腰やら背中やら首が痛い。けれどまあ、今だけだ。少し時間が経てばどうせこの痛みも消えて無くなるだろう。丁度、下半身の痛みが今、消えているように。

 部屋の中を歩き、寝ぼけた頭を起こしに掛かる。やや覚束ない足取りながら、ちゃんと二足歩行が出来ることを確認し、動きに問題はないことを把握した。

 多分、今夜もきちんと動ける、大丈夫。

「何、作ってるの?」

 のろのろと茉咲の背後に向かい、後ろから華奢な身体に向けて腕を伸ばす。あばらの辺りに腕を回して、作業の邪魔になることも厭わず、ぎゅっと一度強く抱き寄せる。びく、と茉咲は小さく肩を跳ねさせた。

 今夜も変わらず、彼女は小動物然とした様を見せ、荒んだ俺の心を和ませてくれる。彼女は其処に居るだけで人の心を癒し、その言動と彼女から生み出される温もりは、問答無用に人の心の傷を癒す。全く、どこを取っても愛らしくて敵わない。口に出して伝えたいけれど、流石に気持ち悪いかな。

「ふ、ふき……」

「ふき?」

 耳慣れない言葉を震える声で呟き、ごにょごにょと口ごもってしまう彼女にきょとんとしながら問い掛けつつ、何のことを言っているのか探るため、肩口から彼女の手元に視線をやってみた。

 其処にあったのはふき、確かにふきだ。茉咲はなんらおかしなことは言っていない。緑色の植物の茎のようなものが、流し台の中でザルにこんもりと盛られている。ザルの横には小さめのビニール袋が口を開けており、その中には茎と同じ緑色の髭のようなものが無数に詰められていた。

「何してるところ?」

「ふきの皮剥き……」

 消え入りそうな声で簡潔に説明をしてくれる彼女に、俺は「あぁ」と納得の返事を送った。

 成る程、この髭のようなものは剥き終えたふきの皮という訳だ。そして今夜はこれを調理に使用し、腹にも人にも優しい手料理を作ろうとしていると、そういう事だな。

「いいね、ふき。料理に使うところ初めて見た」

「実家ではよく食べてたけど、こっち来てからは全然ね。だから、たまには食べたくなって」

 茉咲の実家か、どんな家庭なのだろう。こんなにも茉咲自身は人に優しい女性なのだから、さぞ大事に育てられたに違いない。両親はきっと彼女に優しく、彼女を珠のように大切に扱ってきたのだろう。この無防備な様子を見ていれば解る。きっと道徳に明るい人達で、困っている人を見かけたら必ず助けるよう、きちんと愛娘に教育していたに違いない……なんて、想像上の明るい家庭を茉咲を介して妄想してみる。本当にそうだとしたら、両親にとって俺は悪い虫以外の何物でもないな。

 と、もぞもぞとその場から動きたそうに微かに身を捩っている彼女に気付き、俺は「ごめんごめん」と潔く腕をほどいた。背中越しで表情が見えないので確かではないが、茉咲は名残惜しそうな様子で一瞬だけ俺に顔を向けようとした……そんな気がする。

「ふきはね、食物繊維たっぷりだから、お腹に優しいんだよ」

「そうなんだ」

 ほのぼのと語りながら茉咲はボウルに様々な調味料をあけ、菜箸でざっと掻き混ぜる。次に五徳の上に予め乗せられていた鍋の中に混ぜ終えたばかりの合わせ調味料を加え、コンロを点火した。ザルの中のふきを鍋の中に汁が飛ばないよう慎重に加え、一煮立ちさせる。その過程を茉咲の後ろをぷらぷらと歩き回りながら、子供が親の家事を邪魔するかのように、一定の距離を保って傍観していた。

「ふきの青煮、食べたことある?」

 うろうろと茉咲の背後霊と化していた俺に、彼女は責めるでもなく質問を投げてくれる。

「ないな」

「ふふ、じゃあうちの味付けだけど、今夜は初めての青煮だね」

 どうやら今夜は、茉咲の手料理で夜を越せるらしい。素朴な味付けをする茉咲の手料理は、いつ食べても余計な棘がなく、口にした瞬間に心が落ち着くのだ。例えるなら、実家で食べるおふくろの味のような、変に飾っていない、素顔のままの料理。俺にとっての茉咲の手料理とは、そんな感じだ。

 火を通した鍋から出汁のいい匂いが広がるのを鼻先で感じ取り、想像上の家庭の暖かさを胸の内に思い浮かべ、ほう、と息つく。懐かしい記憶の類は持っていない筈なのに、出汁の匂いを嗅ぐだけで懐古の情のようなものに浸りそうになるのは、俺にとっては実に不思議な心理作用だった。

 ……ぎし、と、心が軋む、音がした。

「ねえ、茉咲」

「ん-?」

 茉咲は菜箸で適度に鍋の中のふきを掻き混ぜながら、生返事を溢す。

「ふきのお礼に今から全然関係ない話、してもいい?」

「えー? うん、いいよ」

 苦笑いを浮かべながら、茉咲は俺の問い掛けを受け入れてくれた。

 茉咲の肩口から、ぐつぐつと煮える鍋の中のふきを眺める。暫くは火の近くから動かなさそうな気配がしたので、もう一度茉咲を後ろから抱きしめた。

 茉咲の身体が、強張る。

「火使ってるから、危ないよ」

「茉咲は、」

 鍋から出汁のにおいと共に湯気が立ち昇り、換気扇に吸い込まれる。

「この世界が、誰かの想像の産物でしかないとしたら、どうする?」

「え?」

 茉咲の耳元で、静かに、息を潜めるようにして、問い掛けた。例えるなら、まるで近くの誰かに聞かれないよう、声を忍ばせる様に。内緒話を、打ち明ける様に。

 振り返ろうとする茉咲を、腕の力を強めて制する。

 自分が今どんな顔をしているのかはわからない。けれど、多分普通のそれではない表情か、或いはそういった気配を匂わせる顔つきになっているのだろうと予想する。

 純真な彼女には、見られたくなかった。

「目に映るものは皆、誰かが想像した舞台で、道を歩く人は皆、誰かにとっての役者なんだ」

「どうしたの、急に」

 不安そうに声を曇らせる小さな彼女に対し、不意に胸が痛み、萎んでいた心を咄嗟に奥深くに仕舞い込む。見えないように蓋をして、何事も無かったかのように笑う。彼女から腕を離し、一歩後ろに遠ざかると、彼女は俺に素早く振り返る。

 純真な双眸が、背後に立つ軽薄な男の姿を、しかと捉えた。

「なんてね」

 茉咲が俺を視界に映す頃、もうそこに俺の本心は、何処にも無かった。余所行きの笑顔で子供のような笑みを浮かべ、不安げな彼女を安心させるべく、にこにことわざとらしく微笑む。俺は、自分で話し始めたにも関わらず、それ以上この話題に触れることもなく「何か手伝う事はない?」等と今更な質問を投げかけた。

 そんな、軽佻浮薄で癇に障る男の態度に、自分の事ながら反吐が出そうだった。

「……もし、そうだとしたら」

 だがここで、自分で話を切り上げてしまった話題を、茉咲は未だ終わらせまいと、根気強く話を続けてくる。

 弱ったな、流されやすい茉咲の事だから、こうすれば流されてくれると思ったのに、当てが外れてしまった。自分としては投げっぱなしで終えるつもりになっていた話題だったので、続けられてしまうとそれはそれで困ってしまう。困ってしまうものの、自分から投げた話題なだけに無視をする訳にもいかず、耳を塞ぎたい自分と、茉咲の考えを知りたい自分が、心の裡でせめぎ合う。

「私は、この世界の外側が知りたいと思う、かなぁ」

「外側」

 ぐうの音も出ない、最もな回答だった。何故なら俺自身、茉咲と全く同じ考えを、過去に抱いたからだ。

 茉咲はコンロの火を止め、真っ直ぐに俺と向き合い、その透明な瞳に汚れきった男の心理を、はっきりと写し出す。俺は茉咲の瞳を直視することが出来なくなり、浮泛な笑みを浮かべながら、明後日の方向に視線を反らした。

「だって、この世界を作った、その『誰か』が暮らす世界が、もしかしたら外側にあるかもしれないんでしょ? その誰かの思惑から外れた世界を、見てみたいと思うのは駄目な事かなぁ」

「いや、そんなことはないと思う」

 思惑の外側が、必ずしも自由だとは限らない。もしかすれば、この世界の方が余程自由で、平穏で、幸せな事だってあり得る話じゃないか。もっと言えば、外側の世界ですらも誰かの空想の産物だという可能性すらある。そうして合わせ鏡のように延々と連なる可能性という世界は、永遠に連鎖し、終わりを見せることは無い。

 その永遠の流転の中のほんの一瞬の片隅の世界が、此処なのだとしたら。膨大に拡がる宇宙のような可能性の海に輪を描く、その輪のほんの一粒の可能性の世界が此処だったというだけの話なのだとしたら。

 与えられた自分の世界、まさに自分達が居る今この場所で、何も知らず穏やかに冷えて、自分が存在したという事実も記憶も残ることはなく、雲散霧消の露と消え、静かな幕引きと共に物語の頁を閉じる事も、悪くないのではないか、と。

 此処の外側に出たところでその一過程は変わらず、少しの世界のずれは莫大な時間と変容を伴う空間の僅かな誤差に過ぎず、誰の意識にも留まることのない極めて小さな誤りは殆どが整合の海に溺れ、正常の範囲内から脱しない俺達は、あたかもそこで真理の正解の一つとして、歴史の中に埋もれていくのだ。

 人の存在なんて、ちっぽけだ。その人がどういった出自なのか、存在の核がどういったものなのか、そんな事は世界にとってほんの些細な話でしかない。

 だったら、今居る小さな鳥籠のような箱庭で、自分の中の大事な大事な青い鳥を、広い空の青さを知ることもなく、生まれた瞬間から永遠に籠の中に閉じ込め、幸せのままに生涯を終えさせるのも、別に罪な事ではないのではなかろうか。

 俺の中の幸せを、俺が守るのは、そんなに悪い事だろうか。

「外側の世界があったら、ここよりもっと、自由に生きられたりするのかな」

「そうだと、いいね」

「もしあったら、一緒に行こうよ」

 彼女は悪戯っぽく「なんてね」と俺の言葉をそっくりそのまま返し、小さくはにかんだ。俺は何も言わずに曖昧に笑うだけで、否定も肯定もせず、その場に立ち尽くすばかりだった。

「……ありがとうね、茉咲」

「何が?」

「ううん、何でもない」

 最後に彼女の温もりを感じたくて、しつこいくらいに彼女を強く抱きしめた。茉咲は今度は肩の力を抜いて楽にしており「よしよし」と抱きしめられながら俺の頭を静かに撫でてくれる。夜に寝る男の撫で方とは、全然違った。本物の優しさが為せる、陽だまりのような力加減と、温もり。鉛の重さを知らない手、芯から冷える雨の冷たさを知らない手、泥のような情に全身が溶かされる悍ましさを知らない、手。

 俺はその手の温もりが欲しくて欲しくて、しかし手に入ってしまえば、あまりの落差に堪らなく恐ろしくなり、耐えられない。

 雨で冷えたままでは寒くて生きられない。偽の愛情の熱に溶かされ、肌が削げては痛くて堪らない。けれど寒くはない、痛みとて熱には変わりない。だが、だからといって肌の溶けない愛情を貪るのは、恐ろしい。

 結局自分は、どれも選べず、何処にも居られず、帰る場所も無い。

 そういう、人間だった。

「ご飯できたら持ってくから、部屋で休んでていいよ」

「わかった、ありがとう」

 屈託のない笑みを浮かべる茉咲の顔を視界に収め、そっと彼女に背を向けた。

 今夜も、雨が降っている。

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