【5】
◆
温まった身体と、鈍痛を孕む下半身。茉咲が置いてくれたバスタオルで身体の水分を拭き取る。優しい柔軟剤の香りがした。
前回置いていった着替えは半袖の黒いTシャツとジーパンだったようで、下半身は良いのだが、上半身は半袖で過ごすにはまだ幾らか肌寒い。ドライヤーで髪を乾かした後もバスタオルを洗濯機には入れず、背中から羽織るようにして、そのまま脱衣所を出た。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま」
彼女が寛いでいる八畳程の部屋に進むと、彼女はベッドに寝転びながら、スマホを弄っているところだった。
この辺にしては少しばかり広いこの物件は、一つの部屋と玄関に続く廊下を引き戸で仕切られた、一人暮らしにはぴったりの1Kの間取りをした部屋だ。八畳程の部屋は落ち着いた色合いの家具で統一されており、二人掛けのグレーのソファーと、薄い生成りの色をした木製のベッド。ソファーの正面には薄型のテレビが配置され、着替えや雑多な物は部屋に備え付けられたクローゼットに全て収められているようだった。そこまで荷物を持っている訳でもないようで、部屋の中はいつ来てもすっきりと片付いている。彼女もまた、几帳面な性格なのだろう。
「シャワー、貸してくれてありがとうね」
「いえいえ、うちだと思って好きに使ってくれていいよ」
どこまでも棘のない茉咲の心根には、図々しい俺でも流石に脱帽せざるを得ない。ここまで毒のない人間を育てるには、一体どれだけの愛情を注ぎ込めば良いのだろう。
「ご飯食べた?」
スマホから顔を上げ問いかけてくる茉咲に、曖昧な苦笑を返した。
「うん、まあ、食べたには食べたよ」
きゅう、と絶妙なタイミングで腹の虫が侘しそうに鳴った。
「……ほんとに?」
「食べたんだけど、ちょっと途中で具合悪くなっちゃって」
「え、大丈夫?」
「今は落ち着いてるけど、まだ少ししんどいから、横になってていい?」
「勿論、もちろん」
こくこく頷きながら、いそいそとその場を空けようとする茉咲を、片手を翳して制した。
「あ、いい、いい。ソファーで寝るから」
「病人をソファーで寝かせるなんてできないよ」
「いい、こっちの方が落ち着くから」
掛け布団を持ち上げかけていた茉咲をさらに制して、俺はもそもそと億劫そうに身体を丸め、ソファーの上で横になった。身体の力を抜くと、途端にずきりと下半身が痛みだす。鉛を埋め込んだような痛みは徐々に強さを増していき、思わず呻き声が洩れそうになった。
茉咲が居る手前、変に弱った態度を見せてはならない。そう思いながら一度ぎゅっと目を瞑り、痛みの峠が過ぎるのを待ち、少し波が引いたところで、ゆっくりと瞼を開いた。
ふと、ぱさりと、身体に柔らかい物が掛けられる。見れば、茉咲が俺に毛布を掛けてくれているところだった。
「酷い顔してる」
俺の顔を覗き込む茉咲の顔は、不安のいろ一色に染まっていた。
「うち着いたときから、ずっと辛かったんじゃない?」
「いや……それよりも、さっきは寒くて、」
勘付かれた。そう思うや、全身に嫌な汗が滲み、身体が強張る。
横になっている俺の傍らに立ち、真っ直ぐに俺の顔を見下ろす曇りの無い眼に気圧される。慈愛のみが映し出された、一切の嫌味を感じさせない、純真な眼差しだった。
怖い。一言、そう思った。
「ありがとう、心配してくれて。少し横になれば大丈夫だからさ、茉咲はベッドで休んでてよ」
痛みを押し殺し、努めて優しく柔和な笑みを浮かべ、心配そうな表情を浮かべ続ける茉咲に向けて腕を伸ばす。目を丸くする彼女をそっと抱き寄せ、ぽんぽんと子供をあやすように軽く背中を叩いた。俺の耳元で彼女は「あ」とか「う」とか、しどろもどろに上擦った声を漏らしている。女らしい反応だった。
抱き寄せた腕を離してやると、茉咲はゆっくりと俺から身体を離し、視線を泳がせ、幾らか顔を紅潮させている。不慣れなんだなと、どこまでも穢れを知らない目の前の女性が、眩しくて堪らなくなった。
「気にしてくれて、ありがとうね」
「う、うん……」
すごすごとベッドに戻っていく彼女の背を見送る。こう見ると、本当に少女のようだ。
「私、そろそろ寝るけど……電気、点けておく?」
「消しちゃってもいいよ、遅くに来てごめんね」
すっかり借りてきた猫のようになってしまった彼女のしおらしい様を見て、少しだけ気の毒に思いながら、しかし面白いものを見ているような気持ちになっている自分がいることにも気付き、全くとんでもない男を引っかけてしまったものだと、目の前の彼女の将来がただただ心配になるばかりだった。
彼女には、もっと相応しい相手がいる。俺のような薄汚れた人間が、彼女という光の傍に、居るべきではない。
「いいよ。じゃあ、おやすみ」
茉咲は部屋を照らしていたシーリングライトの明かりを、枕元に置いてあったリモコンを使い、消灯する。
ふっと、部屋に闇が訪れた。
完全な暗闇の中で、ごそごそと衣擦れの音が部屋の中に響く。茉咲が布団に身体を収め終えた頃、音は時折僅かに聞こえる程度になっていき、やがて完全に聞こえなくなった。
互いの息遣いしか聞こえない、暗がりと静寂。俺はこの、自分が寝入るまでのどうしようもなく寂しい時間が、何よりも嫌いだった。
相手が先に寝入ってしまっても寂しい。けれど、自分が先に眠るのは、無防備を晒すようで怖い。どっちつかずで、どちらも不快で。だからこの時間そのものが、俺は嫌いなのだ。
目を瞑り、痛みを呼び寄せ、息をする。じん、と広がる痛みに身を任せ、今日あった出来事を思い出していく。
今日という日は、ほんの数時間。貴女が夢を見ている間の、束の間の世界。貴女が想像に使う空白の場所を借り、俺という存在の色を反映させた世界。それが『此処』なのだ。
だから、この世界に一日という概念はない。主要な時間のみを切り取って作られた、同じことを繰り返すだけの、酷くつまらない世界。
ここは、俺の為の世界だ。俺が安らぎ、傷付くための箱庭。貴女が傷付かない為に生まれた、俺の居場所を奪う為の居場所。
「朝だよ」
脳裏の外れから、夜半の猫が、俺を呼びにくる。
水面に落ちた言葉が波紋を拡げ、揺れる波が、景色の全てを歪ませ、無意識の底に覆い隠す。
「ああ」
今、行く。
そう言おうとした口許も波紋に揺られて崩れ、泡沫夢幻に消えていった。
また、起きる時間だ。
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