【4】

 ◆



 彼女の住んでいるアパートの部屋へと向かう道すがら、辛うじて止んでいた雨が再び降り出して、乾きかけの俺の服は再度びしょびしょに水濡れる羽目になった。

 さっきまで汗でべたべたして気持ち悪かったのが、今度は雨の水分を吸った服が肌に張り付いて気持ち悪い。次から次へと運がない。けれど、いつも通りの事ではあった。

 雨粒が髪の間を伝って頭皮を流れ落ち、やがて顔へと流れてくる雫を服の袖で拭う。拭っても拭っても垂れてくる。上手くすれば袖に付いた酸っぱいにおいも落ちるだろうかと、わざと吐瀉物が付着していた部分を空に翳してみるが、ひたすら腕が重くなっただけだった。

 とぼとぼとみずぼらしいなりで夜道を歩く。大通りを抜け、住宅街に入り、車のヘッドライトに照らされて、道の脇に身を寄せる。寒さに身震いするものの、冷えた身体を温める術はない。どんどん自分が惨めになっていくのを感じた。けれど、不快ではなかった。

 水を吸って重たくなったスニーカーで、ばちゃりと水溜まりを踏む。と、玄関扉の横に備え付けられた玄関灯の明かりが、雨に濡れた景色の中で一つ、弱々しく点っているアパートの一室が視界に入る。二階の角部屋。あそこが、茉咲の住む部屋だ。

 重い足取りでゆっくりと階段を上り、髪や顎から水滴を滴らせつつ、扉の前に立つ。部屋のインターホンに手を伸ばしかけて、そういえば今は深夜だったと伸ばした手を引っ込めた。代わりにポケットの中へと手を入れ、スマホを取り出す。降りしきる雨粒で滲む画面の向こう側には開きっぱなしにしていたトーク画面があり、そのまま簡潔な言葉を打ち込んで、送信する。

『着いた』

 扉の向こう側から、ごそごそと何かが動く音が聞こえてきた。トントントン、と軽い音が此方に近付いてくる。それが彼女の足音だと気がつくのに、それほど時間は掛からなかった。

 ガチャ、と目の前で鍵が開く音がした。扉にドアスコープが付いていることを確認し、この部屋の主はちゃんとこれを活用したのだろうかと、人を疑うことを知らない純真さに老婆心ながら少し心配になった。

 扉が開かれ、部屋の中の光と空気が、屋外に漏れ出てくる。暖かな温度が、雨で冷えきった視覚と触覚を擽った。

「わ、びしょ濡れだね」

 扉の向こうから現れたのは、俺より10センチ程背丈の小さな女性だった。俺自身そこまで身長は高くない方だが、それでも身長差を感じる辺り、彼女も一般的な女性より小柄な部類に入るのだろうと思われる。

 服装は、室内着として使用しているらしい素朴な色合いのTシャツと短パンに、白いパーカーを羽織っている。肩より少し下まで伸びた細く柔らかそうな髪は無造作に下ろされており、微かにシャンプーの優しい匂いがしたので、恐らくお風呂上がりだったのかもしれないと察しを付けた。

 小柄な女性―――茉咲は、玄関先から現れた陰気な濡れ鼠を見るや、柔和な相貌を狼狽に陰らせ、あわあわと落ち着きの無い様子を見せ始める。一見すると、まるでものを知らない子供のようだと思った。

 まぁそれは、俺の方がそうなんだろうけど。

「風邪引いちゃうよ、早く中に入って」

「ごめんね、お邪魔します」

 茉咲は濡れそぼった素性の知れない男を不用心にも招き入れ、その男が玄関で雨粒を滴らせながら棒立ちしている間に慣れた手つきで扉の鍵を閉めた。

 彼女は慌てた様子で小走りに玄関から一番近い部屋に入り、そこからフェイスタオルを一枚広げて持ってきてくれた。礼を言って受け取ろうと手を伸ばした矢先、タオルは俺の手をすり抜け、茉咲の手によって俺の頭にぱさりと掛けられる。そのままわしわしと濡れた犬猫を扱うような手つきで髪の水分を拭き取られ、俺の方は呆然とされるがままに項垂れていた。

「お風呂、今お湯抜いちゃったばかりなんだ、ごめんね」

「……ううん、いいよ。シャワーだけ借りたいんだけど、いいかな」

「もちろん!」

 茉咲は手早く俺の髪を拭き終えると「濡れたものは全部洗濯機に入れていいよ、明日一緒に洗っちゃうから」と言いながら、風呂場へと案内してくれる。

 廊下を歩きながら床を濡らしてしまっている事に罪悪感を覚えつつ、きっと俺がシャワーを浴びているうちに、彼女は律儀にこれも拭き取ってくれるんだろうな……と、何処で今回の恩を返そうかと考えあぐねていた。

「シャンプー、私のだけど平気?」

「逆に俺の方が茉咲に訊くべきだと思うんだけど、借りても平気?」

「それは勿論、もちろん!」

 こくこくと力強く頷く少女のような女性の姿に、小動物を前にしているような錯覚を覚えた。

「私、一人暮らしだから、女性ものしか持ってなくて……いつもこれで大丈夫なのかなあって、心配だったの」

「いやいや、いつも急に来て借りてるのはこっちなんだからさ、茉咲が気にすることじゃないよ」

 お互いに恐縮し合いながら妙な距離感の会話を続け、途中で俺がくしゃみを一つ溢したところで、はっと茉咲は思い出したように「ごめんね、ゆっくり温まってね!」と慌ただしくその場を後にした。

 一人暮らしの女性が住む部屋の脱衣所に一人取り残され、場違いな男の身に少しだけ、そわそわと立ち尽くしてしまった。立ち往生をしたところで濡れた服が乾くわけでもなし、冷え切った身体が温まるわけでもない。それに、こうなることを承知で俺は茉咲と連絡を取り、此処へ来たのだ。彼女も当然のように迎え入れてくれていることだし、ここは彼女の好意に甘えておくべきだろう。

「……」

 湿った服は肌に吸いつき、思っていたよりも脱ぎづらい。四苦八苦しながらなんとか服を脱ぎ捨て、吐瀉物が付着している上の服以外、全てを洗濯機に入れる。洗濯槽の中には、今日茉咲が着ていたのであろうワンピースが収まっており、あまり飾りっ気のない色柄が彼女らしくて、逆に可愛らしいと思ってしまった。

 再び一糸纏わぬ姿になると、何故だか急に心細くなり、忘れていた痛みと重さが下半身を苛み始めた。痛みに顔を顰め、その場に蹲りたい衝動に駆られる。冷えた肌にはびっしりと鳥肌が立っており、失った体温はなかなか返らない。

 もう少し、もう少しだけ忘れていてくれ。身体さえ洗い終えたら、どんな痛みも享受するから。後はお前らの好きにしていいから。頼むよ。

 情けなく自分を鼓舞し、一旦己の痛覚に見切りをつけると、漸く俺は風呂場へと足を踏み入れた。普段決まった女性一人が使う浴室はすっきりと片付き、きちんと掃除が行き届いている様子が窺える。先程まで使用されていた痕跡があり、ぬるい温度の床と室内の湿気に継ぎ、シャンプー等の甘い匂いも僅かに香っている。毎度思う事だが、こんなに華が似合う浴室を野郎の皮脂油が穢して良いものかと、利用させて貰う度に不安は募る一方だった。

 無理やり意識から外した痛覚が戻ってくる前に、手早く済ませてしまおうと、頭からシャワーのお湯をかぶる。ついさっきまで使用されていただけあり、お湯は待たずともすぐに出てきた。冷えた身体が一気に温められ、ようやく人心地つけたような気がする。

 シャワーで温まりながら、浴室に持ってきていた洋服をお湯で揉み洗いし、吐瀉物が落ちたことを確認してから、硬く絞って、浴槽の脇に置いておいた。後で洗濯機に入れておこう。

「着替え、前に置いていったやつ、ここに置いとくね」

 ふと、脱衣所の方から茉咲の声が聞こえた。いつの間にかそこに居たらしい。

 そういえば、前回この家の洗濯機に入れた服は、そのまま置いていったんだっけな。それでその時も、前に置いていった着替えを着て、その日は帰ったんだったか。確か、そういうことになっていた筈だ。

「ありがとう」

 シャワーの音に声を搔き消されながら、扉越しの茉咲にお礼を言うと「はーい」と可愛らしい返事があり、軽い足音が遠ざかっていった。

 本当に、彼女は甲斐甲斐しく、親切で、気が利いて、どうして俺のような浮浪者一歩手前を家に上げ、こんなにも世話を焼いてくれるのか、俺は本当に彼女の気持ちがわからない。

 ただ、優しい人間というのは、不幸の渦中に居る人間に対し、いかなる理由があろうと無かろうと、手を差し伸べずにはいられないのだと思う。そういう類の人間もいるのだ。それを利用し、優しい顔を作って不幸の上に不幸を塗りたくって相手を弄ぶ人もいれば、彼女のように純粋に相手を助けようとする人だっている。

 世の中は、そういうふうに出来ている。様々な人間が十把一絡げに世界を作り上げ、それぞれが各々の信念と思惑の狭間に揺れ、それぞれの人生を歩んでいる。

 俺だってそうだ。こんなに情けなく惨めな生き様は『俺』という個性が成り立った上での、結果でしかない。

「……」

 示された道を踏み外し、敷かれたレールを往く俺は、貴女にとっては優しいだろ?

 ねえ、俺は、いい子ですか。

 可哀想じゃ、ないよ。

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