【3】

 ◆



「最後にもう一度、キスしてもいいかい?」

 エレベーターの中でそうはにかみながら問いかけてきた男に、俺は「いいよ」と微笑んで返した。

 狭い箱が地上に着くまでの僅かな時間。男は女を扱うような手つきでそっと俺を抱き寄せ、やおらに唇を寄せて、俺というモノを執心深く堪能する。ねっとりと絡みつく男の舌先が、言葉にせずとも、この時間が終わるのが惜しいと思ってくれていることを、暗に示してくれているようだった。

 ものの数秒間の接吻の後、次第に弱い浮遊間が消え、地上に着いたのだと察する。男も同様に気がついたのか、潔く唇を離し、今更照れくさそうに俺の顔を見詰め、まるで初恋をした青二才のように微笑んだ。

 酔いは、残念ながらすっかり冷めてしまっていた。

 エレベーターは音もなく地上に到着し、静かに外界へと続く自動ドアを開いてくれる。まるであの世のようにしんと静まり返ったホテルの中から、生まれ落ちたようにエレベーターの向こう側へ足を踏み出すと、宵越しよりも幾らか静けさを孕んだ、夜の街の景色が広がっていた。

「送っていくよ」

 男は俺の手を掴み、指を絡ませようとしてくる。俺は一度男の手をぎゅっと握ってやってからその手を離し、言い訳をするように笑い掛けた。

「ううん、平気」

「遠慮しないで」

「いや、近くに友達の家があるから、そこに泊っていくつもりなんだ」

「そうかい? 本当に?」

「本当だよ。今日はありがとう、ご飯、ご馳走様でした」

 屈託のない子供のような笑みを浮かべ、男の腕に縋りついて、肩口に頬を摺り寄せた。スーツの固い感触が頬にざらりとした感触を残す。少し不快だったが、今更もう、細かい事は気にしないことにした。

 男の方もまんざらではないといった様子で、もう一度俺の頭を撫でると「じゃあ、また連絡するね」と柔らかに笑った。

 うん、と俺は礼儀の知らない子供のように無邪気に返し、男が向かう方とは反対方向にくるりと身体を向ける。

 と、背後からまた声が掛かった。

「友達の家まで送ろうか?」

「いい。友達にはバレたくないんだ、ごめんね」

 追い縋ろうとする男に振り返り、やんわり断りを入れると、今度こそ男は諦め「そっか、しょうがないね」と残念そうに眉を下げ「またね」と手を振り、漸く俺に背を向けてくれた。

 俺は暫く男に手を振り続け、背を向けて歩き出しても、名残惜しいとばかりにちらちらと男の方を振り返る。何度も何度も振り返っていると、男は角を曲がる直前で一度振り返ってくれて、お互いにそこで手を振り合い、男は面映ゆそうに角を曲がって行き、そして完全に見えなくなった。

 かちりと、自分の中で何かが切り替わる音がした。

 貼り付けた甘い笑顔を夜道の端に落とし、急いでズボンのポケットからスマホを取り出すと、事後に交換した男の連絡先をすかさず拒否リストに登録する。そのままスマホをポケットに仕舞い、周囲に開いている店は無いかと視線を泳がせ、しかしホテル街であるこの道では見当たらず、舌打ちを溢す。

 ああ、店まで持たない。

 しょうがない、この通りを抜けた先は飲み屋街だ。誰かに見られても、飲み屋から人気のないこの道に迷い込んだ酔っ払いだとでも思ってもらおう。

 周囲を見渡し、夜半の時間帯のお陰か歩いている人は一人も居ないことを確認すると、これ幸いとばかりに路地の暗がりへと身を隠し、完全に闇と同化した。

 顔を顰め、腹を抑え、口元に手を当てがって、その場に蹲る。う、う、と通りすがりの善人に聞かれればすぐさま駆け寄られてしまいそうな、人を不安にさせる引きつった嗚咽を漏らす。唾液が余分に分泌され、飲んでも飲んでも口内に溢れてくる。

 ああ、多分、駄目そう。

 胃の底から狭い食道を通って、嫌な音を立てながら、男に奢ってもらった晩御飯が喉奥から溢れだした。静かで真っ暗な夜道に、びしゃびしゃと不快な音が響き渡る。こんなに詰まっていたのかと思うくらいに、固形も液体も区別なく溢れ出て、いろんな味がぐちゃぐちゃと口内に絡みつき、その全てを胃酸の酸味が纏め上げ、酷く落ち着きのない不協和音を乱雑に奏でてくれていた。

 二、三回の嘔吐だけでも一度にかなりの量を吐き出し、あぁ勿体ない、と吐きながら肩を落とした。折角タダで食べさせて貰ったのに。

 涙と鼻水も吐瀉物と一緒に流れ出て、ハンカチもティッシュも持っていなかったので、服の袖でごしごしと猫が顔を洗うように拭きとった。が、袖に吐瀉物が付着し、酸っぱいにおいが纏わりつく形となってしまう。ひどく不潔だった。

「あー……」

 一頻り嘔吐を終えると、茫と己が吐き出した吐瀉物を薄明りの元で見下ろし、暫く眺めていた。

 焼き鳥と、だし巻き卵と、あとなんだろう、キャベツ……細かく散ってるこの塊は豚肉か? あーもう、前回は我慢できたのに、今回は駄目だった。もうちょっとなぁ、優しくしないでさ、雑に、物みたいに扱ってくれたら、こんなに気持ち悪くならずに済んだのに。突き方は良かったじゃん、まるで配慮が無くてさ、ねえ。

 しかし、痛みで全身に汗をかいたせいで、身体がべたべたして気持ちが悪い。何より男が肌を舐めたときに付いた唾液が全身に残っている。早く洗い流したい、早くシャワーを浴びたい。


 嫌ならやらなきゃいいのに。


 そう、脳裏で誰かに、言われた、気がした。

 いや誰かじゃない、自分だ、自分の、声だった。

 煩いよ、放っておいてくれ。これが俺の生き様だ、こうしないと俺は俺を保てないんだ。俺はこれからを生きるために明日も知らない誰かに擦り寄るし、自分を守るためにこうやって身体を差し出し続けるのだ。何が悪い、これの何が悪いというんだ。どうしてこれが『嫌』と云うことになるのだ。納得がいかない。

 俺は全てを間違えている、けれどそれの何が悪いんだ。

 独りで自分に憤慨し、周囲に誰も居ないことを確認してから、目の前にあるコンクリートの塀を力任せに思いっきり蹴る。爪先を打った。物凄く痛くて、思わず星一つ見えない空を仰いだ。

 今までの人生で一度も運動部に所属した経験がなく、走ることも儘ならない極度の運動音痴が、格好ばかりつけるべきではなかった。次からどんなに腹が立っても物に当たるのだけはやめよう。うん、もう、踏んだり蹴ったりだ。

 爪先の痛みが落ち着くのを待ち、一息をついて、とりあえずシャワーを浴びられる場所について考えを巡らせてみる。思いつく限りでは、ネカフェやら漫喫やらと出てくることには出てくるのだが、如何せんそこを利用するための金が無い。

「……」

 また少し込み上げてきたので、汚い水溜まりに追加で数滴、胃酸を溢しておいた。腹の物は粗方出ていったようで、腹の虫が鳴りそうな具合に胃の中は閑散としていた。もう疲れて、どうでもよかった。

「しょうがねえな……」

 思い至ったら、気が変わる前にさっさとした方がいい。手早くスマホを取り出し、闇の中で電源ボタンを押すと、画面から放射される眩い光がぱっと周囲に広がった。目の痛みを覚えるのと同時に眉根を寄せ、暫くは顔を顰めながら画面を指でタップし、操作を続けた。やがて目が慣れてくると無表情で操作をするようになり、しっかりと見えてきた画面内部の情報を、頭で処理していく。

 メッセージアプリを開き、目当ての名前を探し、トーク画面を開く。会話の履歴が残っていたのでざっと読み返してみると、かなり穏やかなやり取りで、この場所と画面内の温度差に何だか別世界を覗き込んでいるようなギャップを感じ、心が追いつかず変な感じがした。

『今から行っていい?』

 この一文だけを送った。もっといろいろ言った方が良いとは思ったが、疲れと空腹と脱水で頭が回らなかった。

 返事は思いのほかすぐに返ってきた。

『いいよ』

 とっくに日付が変わっている時刻だというのに、この子はこんな遅くまで何をしていたんだろうか。まあそれは俺にも言えることか。ともあれこの子が夜更かしで助かった。俺は早速吐瀉物を避けながらふらつく足で通りに出て、画面の向こうの相手の居場所へ目的地を定め、歩き出した。

『いつもありがとう、茉咲』

『いえいえ』

 行儀悪く歩きスマホをしながらメッセージを続けると、律儀にもすぐに既読が付き、あまり間を置かずして返事が返ってくる。彼女は俺には勿体ないくらいの良い子で、人の事を最優先に考える優しい女性だ。加えて、困っている人を放っておけない、極度のお人好しでもある。


「だから、さ」

 だからこそ、俺は彼女の事が、苦手だった。

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