【2】※R-18

 ◆



「君、いつもこうやって、誰かに奢って貰ってるの?」

 薄暗い部屋の明かりが、目の前の男の表情をぼやけさせる。身体に回ったアルコールも相まって、視界が回り、周りの景色があまりよく見えない。ぐらぐらと頼りなく頭を揺らしていると、男は手を添え、次いで髪を掴み、安定させてくれた。

「ふ、」

「強かな子だねえ、お金無いの?」

 男の股の間から見上げた景色は、細い部屋の明かりが逆光となり、酷く暗い。ベッドの縁から足を下ろして座る男と、男の背後からぼんやりと歪んで広がるベッドランプの光を眺める。

 ああそうだ、そういえば俺は、男にご飯を食べさせて貰った後に、近くの高級そうな建物の中に連れていかれたんだっけな、と朧気な記憶を手繰り寄せる。受付で男が、タッチパネルを操作しているのを見た気がするけど……あんまりよく覚えていない。

 口の中で舌に触れる感触が、柔いようで固く、そして蒸れた男の厭なにおいが鼻先を掠める。しかし、酔いが回っているせいでそこまで不快なものではない。恐らく、これで酔いが冷めてしまえば相当な不快感を煽るものに変わるだろうと、回らない頭で予想する。酒に弱いのは不幸中の幸いだろうか。

 お金が無いのは事実だ。その日暮らしの根無し草がご飯を貰って、差し出せるものはただ一つ『自分』だけだ。

 掴まれた髪を引かれ、口に差し込まれていたものが離れる。唾液が唇から糸を引き、その糸の先は男の『それ』の先端へと繋がり、それ全体は己の唾液が包むように濡らしている。顎から唾液が垂れ、酸素不足とアルコールの両方で息を上げていると、男は「上手いね」と髪から手を離し、頭を撫でてくれた。

 男の低い声は酔いの回った頭には心地好く、伸ばされた手つきも優しくて、力の入らない眼で男を見上げれば、その表情はひどく優しくて、にやにやとしていて。少なくともこれから怒り狂って拳を振り上げてやろうという気配は微塵も感じられず、俺は安堵して、男にへなへなと笑い掛けた。

「お金無いから、お礼に出来ること、これしかないんだ」

「自分では、働かないんだ?」

「アルバイトはしてるけど、」

「続かない?」

「……」

 黙ってしまった俺の心中を男は察してか、また手のひらを優しく動かし、頭を撫でてくれる。その手つきに身を委ね、一時だけでも全てを忘れたくて、俺は男の太股に頭を預け、目を閉じた。

 男は暫くの間、俺の頭を撫でてくれていた。

「可愛い顔してるし、愛想もあるから、そういう仕事をしてみたら?」

「……仕事だと、ちょっと違うんだよ。自分で人を選んで、ご飯食べさせて貰って、最後にお礼するのが、いいの。好きでやらないと、厭になっちゃうから」

「そっか。仕事と趣味は違うからね」

 理解を示してくれた男の低い声に聞き入りながら、太股にそっと頬を擦り寄せて微笑む。目前で反り立つそれが一瞬ぴくりと反応した。

「ねえ、変な話、君は後ろもいけるのかい?」

 男の鼻息が、少し荒くなっている。

 これ見よがしに俺は焦れたように身を捩り、わざと身体を庇うような仕草をしてみせる。酔いが回っていても、反射的な反応はしっかりとこなすのだから、全く自分という生き物が心底厭になった。

「出来るよ」

 男の歯が見え、生温い息を感じる。

 ああ、俺も貴方も、この世は心底汚い。貴方に同情して、自分に同情する。

 全く夜は、どうしようもない人間ばかりだ。

「そうか、そうか」

 男はゆっくりと俺の頭を撫で、手の甲で首の表面をさらりと滑り、良い塩梅でこそばゆそうに俺が身体をひくつかせると、頭上から嬉しそうな温い声を漏らしてきた。そのまま俺の腋の下に手を入れ、その場に立ち上がらせる。

 アルコールのせいで、足元が酷く覚束無い。虚ろに蕩けた眼差しを男に向けると、男は愉快そうに笑みを作っていた。

「まだ回ってる?」

「……ん」

「お酒弱いんだね」

「でも、飲むのは、好きだから」

「そうなんだ、可愛いね」

 うつらうつらと舟を漕ぎかける俺に苦笑しながら「お水飲む?」と続けて尋ねてくれた男に、大丈夫、と短く返した。水を飲んだら、酔いが冷めるのが早くなってしまうし、何より水を飲んだ直後に強く突かれると吐きそうになるのだ。この男が優しくしてくれるかどうかはわからないし、なるべくそういう行為の直前の飲食は避けたい。

「服を脱いで、ちょっと横になろうか。楽にしてていいよ」

 そう言って、男は俺の服に手を掛けた。慎重な手つきで丁寧に服を脱がしていく過程を茫と見詰めて、この人はきっと几帳面な人なのだろうな、と思った。

 時折ぐらりと身体が傾ぎ、男に身を預けてしまう。「おっと」と男はその度に俺の身体を抱きとめ、嬉しそうに苦笑する。男の首元に顔が近付くと、使い古した油のようなにおいが鼻腔を掠める。俗に言う、加齢臭というやつだ。

 すっかり生まれたばかりの姿にさせられ、服を着たままの男と自分の対比に、ただひたすら情けなくなる。力や立場の差を視覚から訴えかけられているようで、酷く惨めだった。

「こっちにおいで」

 男はそっと俺の背中に武骨な手を添え、ゆっくりとベッドの上にエスコートしてくれる。白いシーツの柔らかさを膝に受け、そのまま男に促されるままシーツの上に身を横たえた。

 全身にひやりとした感触が伝わり、同時に包まれるような柔らかさに沈む。呆然と仰向けになって脱力すると、途端睡魔が先程より一層、輪を掛けて襲ってくる。瞼の重さに耐えかね、じんわり目を閉じると、男は俺の頬をぺちぺちと軽く叩いて起こしに掛かってきた。

 小さな衝撃に、は、と瞼を開ける。男が俺を見下ろしていた。

「寝ないでね。おじさん、まだ何もしてないからさ」

 頭上から降る声を酒で遠くなった鼓膜で拾いながら、眠たげにうつらうつらと目蓋の開閉を繰り返し、眠りこけそうになって、ぐっと目元に力を入れる。酷く身体が怠い。身を横たえている筈なのに、上下がぐるぐると回り、自分が何処に居るのかよくわからない。

 ん、と男の息遣いが聞こえる。それを合図とするように、ふっとこの男と部屋の空気が、一瞬にして変わるのを全身の肌で感じ取った。

 ぼやけた薄目の景色にどうにか焦点を結ばせると、男の顔が目と鼻の先に近付いてきていた事に気付き、俺が呆けている隙を狙って、唇に柔らかいものが触れる。間を置かずに男の舌が唇を舐め、半開きだった俺の口に男は舌先を捻じ込んで開かせ、生臭い息を引き連れてぬらぬらと口内に侵入し、気儘にその場を蹂躙し始めた。酷く吐き気を催す饐えたような味のする唾液が、口の中を一杯に犯した。

 上手く力の入らない身を捩り、不快感を逃がす。男は尚も口の中を舌先で這いずり回り、吸い上げ、己の口内の唾液を此方の口内へと押しやってくる。強烈な不快感を堪えながら、押し込まれた男の唾液を、喉を鳴らしてどうにか飲み下すと、漸く男は口を離した。だが、どうやら一時の息継ぎの為に口を離しただけのようで、またすぐに唇を食まれ、口内を貪られた。

 舌と舌が絡み合い、苦労しながら吐き気と一緒に唾液を呑み下す。そんなことを何回も、何回も繰り返した。そのうちに息が苦しくなり、男の胸に手を添えるものの、男も夢中になっているのか、吸う口を離してくれない。

 ん、ん、と声を漏らすと、何故か頭を撫でられる。感じているとでも思われたらしい。男の方は鼻で息をしており、生温い息が顔に掛かる。男は呼吸に支障が無さそうだが、此方は息がしづらくて堪ったものではない。

 酸欠で早鐘を打ち始める心臓の鼓動を、朦朧とした意識の中で聞いていると、漸く男は名残惜しそうに口を離した。

 男は少しだけ距離を取り、俺が酸欠に喘ぐ様をじっと楽しそうに鑑賞している。俺は無言で男のにおいの混じった酸素を吸い、荒い呼吸を繰り返す。男は嬉しそうににやにやと笑って、俺の頭を愛おしそうに撫でてくれた。苛立ちと嬉しさが同時に込み上げて、結局嬉しさが勝ったので、呼吸の合間に力なく笑い掛けておいた。

「可愛いねえ」

 男は終始、嬉しそうだった。俺も男の機嫌が良さそうだと感じ、嬉しかった。

 殴られなければそれでいい。怒鳴られなければそれでいい。詰られなければそれでいい。男の意図など知ったことか、ただ笑ってくれさえすればいいのだ。俺に、俺だけに、笑いかけてくれていれば、それがどんな目的であろうと、関係無い。

 ねえ、笑って。もっともっと笑って、ずっと笑ってて。怒らないで、殴らないで、良い子でいるから、優しくしてください。

 お願いします。お願いだから、ねえ。

 男は俺に覆い被さり、文字通り獣のように俺の肢体に唇を這わせ、貪る。首筋から鎖骨、鎖骨から胸部、胸部から肋、肋から鳩尾、鳩尾から股関節、股関節からーーー。

「あ」

 びく、と身体が跳ねた。素肌を晒す獲物の素直な反応を見て、男は心底嬉しそうに口元を歪ませる。

 アルコールが入っているせいか、いつもより力の無い様ではあるが、俺の其処は既に上を向き、先の割れ目からは透明な液体がつ、と垂れてきている。

 男は指先をそれに近付け、垂れていた滴を割れ目に向けて掬い上げるような動作で、反り上がった裏筋をゆっくりと、優しく、撫で上げた。

「いや、」

 男の指が這い上がるに連れ、己の内の劣情も昂り始める。素面のときより余計な思考が挟まらないせいか、湧き上がる熱に素直に流されてしまう。普段から節操は無い方だが、酒が入るとここまで淫らになるものかと、我ながら呆れ返る程だった。

「気持ちいいの?」

 男は下衆な笑みを浮かべながら、わざわざそんなことを訊いてくる。意地の悪い質問だ。

「いや、嫌」

 腰が揺れ、背が仰け反る。不快と快楽の狭間で、身体が熱を上げていく。

 逃げ場はない。俺は此処に居るしかない。此処で、可笑しさを享受するしかない。拒否する心を無視して、熱に思考が蕩けるのを待つしかない。大丈夫、辛いのは最初だけ。怖いのは最初だけ。気持ち悪いのは、最初だけ。我慢すればいい、我慢だ、我慢すれば、そのうち全てがどうでも良くなる。どうでも良くなれば、ちゃんと気持ちが良くなる。わざとらしい声と、わざとらしい動きも加えれば、もっと、もっと、自分を早く騙せる。そうだ、女のように、高くて甘い嬌声を、堪えるように、けれど堪えきれないといったふうに。男も嬉しいだろう、自分の手で目の前の獲物が悦に浸ってくれるなら、男冥利に尽きるというものだ。

「男はね、悦くないと勃たないからね」

 違う、いや違わない、違う、違う、違います、違う。これはそういうんじゃないんだ、違うんだ、違わない、違う。悦くしないといけないんだ、でないと貴方は楽しくない。悦くしないと勃たないから、そう思わなければいけない、そう思わないと、思わないと、思わないと、俺は、俺が、さ。

 辛くて辛くて、やってられないじゃないか。

「あ、ぁ」

 一際、甲高い声が上がった。

 何をしていたのかよく覚えていない。ただただ視界は回り、熱に浮かされ歪む景色の中で、全身に残るのは念入りに愛撫をされた名残。

 足を開き、男を正面に見据えて、この身に男を受け入れていく。だが、慣らしが不十分だったそこを無理やりに抉じ開けられ、激痛が走る。痛い、と口にしかけるのを堪え、けれど漏れ出る声は全て嬌声に変えた。

 痛い、と思考する事を辞める。痛いという言葉を頭の内から丹念に消していく。過ぎたる痛みは峠を越えれば快楽に変わる。待てばいい、大丈夫、これも最初だけ、大丈夫、大丈夫。悟られないように、大丈夫、男はどんな意図で俺が喘いでいるかなんてわからない。大丈夫だ、大丈夫、そのまま、何も言わずに、声を上げ続ければ。そうだ、そう、そう、そう。

「可哀想にね」


 ———え?


 一瞬、耳を疑った。問いかけようとする声は嬌声の真似事に呑まれ、掻き消える。

 何が、何がですか、何が。可哀想? 誰が。俺が? 何処が可哀想なんだろう、どうして急にそんなことを言うんだろう、何か可笑しかっただろうか、不自然だっただろうか、愉しませてあげられなかったんだろうか、怒られるんだろうか、殴られるんだろうか、嫌だ、ごめんなさい、ごめんなさい、怒らないでください、ごめんなさい、どうしてですか、ちゃんと直しますから、ちゃんとそれらしくしますから、だから怒らないでください、お願いします、お願いします、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

「可哀想に」

 男はもう一度、俺にそう言った。

 震える息を携えて、真正面の男の表情を窺うと、男は先程と全く変わらない笑みを浮かべていた。

「かわい、そう?」

「うん、可哀想」

「俺、可哀想、ですか」

「うん、可哀想だね」

 ず、と重い衝撃が全身を突き上げた。

 喉を反らし、掠れた悲鳴を上げる。嚥下を忘れていた唾液が口の端から漏れ出て、藁にも縋る思いで白いシーツを掴む。

 強く揺さぶられる身体と視界。徐々に痛みが解らなくなっていく感覚。快楽に変わった痛覚に溺れ、為す術もなく弄ばれる自分に陶酔する。


 気持ちいいとは、言えなかった。言えば、きっともっと、可哀想になってしまうと思ったから。

 けれど、声を止めることは出来なかった。それは、今の俺がこの場に居る事を許される、唯一の縁だったからだ。

 わからなかった、わからなかった、わからなかった、わからなかった。

 どうして、ねえどうして。


 俺は、可哀想ですか。

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