仁兵衛さん

さかさま宇宙猫

仁兵衛さん

「仁兵衛さん」


俺は夏休みに大学の友人田中、鈴木と一緒に田舎に2週間くらい滞在することになった。理由は別に大したことじゃない。3人揃って田舎育ちで大学のために都会に出てきた俺たちは、バイトやら講義やら都会の喧騒に疲れ果て、なんとなく田舎の空気に癒されたかっただけだ。かと言って帰省して過ごすのも大学生として味気なかったし、誰かの実家に泊まるのもなんだか気が引けて話が進まなかった。そこでふと見つけた田辺津村という村に行くことにした。その村はホテルはひとつも無いが民宿をやっているところが1件だけあった。観光客も来ないド田舎だが、そこが俺達にはぐっと刺さったわけで、満場一致で即決。バイトだけは散々してきたからお金はたくさんある。なら2週間くらい泊まってしまえ!という経緯があり、訪れることになった。


「出ていく時はクソ田舎なんておさらばだ!って思ってたけどやっぱり俺らは田舎人なんだなぁって実感したわ」

鈴木は運転しながらちらりと振り返って田中に応える。

「だよな!講義中に急に川で魚釣りしてぇ…とか蝉の声が聞こえてくると小さい頃家の周りで乱獲してたなぁとか懐かしくなるんだよなー」

田中は興奮気味に声を張る。こういう気持ちは一部の田舎人にしか分からない感覚だろうけど奇跡的に俺らは全員似たような感覚を持っていた。

「おら、そろそろ着くぞー」

鈴木が顎で先を指すと整備されてはいるものの今まで木しかなかった景色に家がぽつぽつと見え始めた。

「おつかれっすー。運転任せっきりですまんな」

荷物をまとめながら労う。ミラー越しに手を金のマークにしているのが見えたので、俺の最新のゲームを貸してやると言う意味でゲーム機をひらひらさせると、鈴木は親指を立てていやらしい微笑みを浮かべた。


その後宿に着くと外では既に女将さんらしき人が出迎えてくれていた。見た目は70代くらいの方だったが元気で優しそうな印象を受けた。

「やぁ遥々よく来てくれました。お部屋は用意してありますので上がってくださいな」

俺たちは重めの荷物をそれぞれ下ろすと、古めかしい日本家屋の軋む床を静かにあるいて着いていく。

「ここが泊まって頂く部屋です。かなりの広さはあると思いますけど若い男の子3人やったら窮屈かもしれんねぇ」

女将さんが扉を開けると十分すぎるくらいに広く、でも日本家屋ならではのこじんまりとした温かみも感じる部屋だった。

「いやいや十分ですよ。むしろこんなに安く泊めてもらっているのに勿体無いくらいです」

鈴木は愛想良く女将さんにお辞儀をしている。一方田中はもう荷物を下ろして、そわそわと部屋を見渡して、襖を開けようとしていた。

「ではごゆっくりしてください。うちは私と孫の琴美しかおらんし、隣の家もそんなに近くないのでいくらでも賑やかにしてもらって構わんからねぇ」

砕けた敬語がまたなんとも温かさを感じていい雰囲気だった。

「あ、天井裏の入口が押し入れの中にありますから、たまに板が外れて落ちてくることがありますけど気にしないでくださいな。それでごゆっくりね」

俺たちはお辞儀をすると女将さんはご飯の時間だけ伝えて女将さんの部屋に戻って行った。

俺たちは直ぐに荷物を解くと、ゲームやらお菓子やらを取り出す。そこに襖を開けて布団を発掘してきた田中が敷きだして、もう怠惰を極めた格好になっていた。

「布団汚したら申し訳ないからお菓子は畳で食べろよ田中」

「は?なんで俺だけなんだよ、新橋もだろ?」

「俺とお前とは違うんだよ。普段の行いってやつ?」

「お前ゲームで散々負かせてやるからな」

田中はわざわざ持ってきた大きめの家庭用ゲーム機をテレビに繋いで、コントローラーを俺に渡してくる。格闘ゲームは苦手な上に田中が凄くやり込んでるから鈴木も俺も到底勝てない。


そんなこんなで昼過ぎに着いたのに気づけば外はもう暗くなっており、部屋の奥にある厨房からなにやらカタコトと音がしだした。

「そろそろ飯か?」

田中はトイレのついでに様子を見てくるも言って出ていった。

「散々お菓子食ったくせにお腹すいて仕方ないんだなあいつ」

鈴木は呆れた顔で俺のゲーム機にかじりついている。

「おいそろそろ俺にもやらせろよ」

「このゲーム今どこも売り切れで買えないからもうちょっとだけやらせてくれー」

鈴木は俺が貸しているゲームソフトの先行販売の抽選を外していて、一般販売もあまりの人気さに売り切れ続出で買えずずっと羨ましがっていた。

「なぁ新橋、ここのステージどうやったらクリアでき…」

鈴木が言いかけた時にどたどたとうるさく鳴らしながら帰ってくる田中があまり勢い良く扉を開けるから鈴木に直撃した。

「おい田中ぁ!お前のせいでやられたじゃねぇかよ!」

自分の痛みよりゲームを優先するところはゲーマー魂というかなんというか。しかし田中も普通じゃなかった。

「ちょちょ!きいてくれ!多分女将さんがいってた琴美ちゃんって子なんだろうけどめっちゃ美人だった!やべぇ!廊下であったら挨拶してくれた!やべぇ!」

要領を得ない話だが、あまりにも興奮した様子から相当好みだったとわかる。

「どんな感じの子なんだ?」

「髪が肩くらいで、ちょっとつり目で、背はそんなに高くなくて、めっちゃ大人っぽい20歳くらいの子!」

おおよそ田中がいつも好きになるタイプと同じような特徴だった。

「そんなに騒ぐからいつもお前そういうタイプの女に嫌われるんだぞ」

ゲームを邪魔されて不機嫌な鈴木はゲームに視線を落としたままぼそっと呟く。

「え、まじ…?」

素直な田中はそれを聞いて急に静かになった。

するとしばらく静寂があった後にコンコンとおとがした。皆はーいと応えて扉をあけると女将さんがご飯が出来ましたと告げて、食卓に案内してくれた。


「は、はじめまして。琴美といいます。私がおばあちゃんを手伝い始めてから初めてのお客さんなので上手くいかないこともあるかもしれませんがよろしくお願いします」

食卓に着くと待ち構えていた女の子が少し早口に自己紹介をしてくれた。しかしその琴美と名乗る女の子は歳が20歳くらいなのと身長が低めという以外は長めのストレート、ぱっちりとしたたれ目気味の気の弱そうな田中のはなしていた子とは全然違う女の子だった。横を見ると田中も首を傾げていた。

「とりあえず冷めないうちに頂いてください」

女将さんの催促で食卓につき、揃って夕食を食べ始めた。味は優しい家庭の味という感じで上手い下手とは別の次元の美味しさだった。

比較的静かな食卓は美味しいのと相まって一瞬だった。

「ご馳走様でした」

声を揃えて手を合わせると各々部屋に戻っていく。俺達も部屋に戻った。

「さっきの子誰だったんだ…?この家に居るのは琴美ちゃんと女将さんだけらしいし…」

「近所の子じゃないか?都会でもあるまいし近所付き合いくらいあるだろ」

俺はそれよりもゲームの続きしようぜ、と俺の持ってきた得意のシューティングゲームで対決しようと誘った。田中もすぐに気のせいだと思ったのか楽しそうに乗っかってその日は終わった。


「おい新橋、田中そろそろ起きろよ、飯の時間だぞ」

鈴木に叩き起こされて目が覚めるともうとっくに朝だった。午前9時。昨日は11時くらいには寝たはずだから流石に寝すぎた。横では同じような田中も目を擦っている。

「野郎に叩き起されるのってなんか悲しいな」

田中が寝起きの頭でぼそりと呟く。

「ならとっとと彼女でも作って2人で旅行でもしてろ。俺も野郎2人の横で目覚めるのは虚しいわ」

既に用意が整っていた鈴木は俺たちが寝てる横で起こさないように静かにゲームでもしていたのだろう。田中なら間違いなくちょっかいかけて起こしてくるから優しいやつだ。俺たちはさっさと顔を洗うと部屋の外へ出た。廊下では琴美ちゃんが洗濯ものを運んでいるところだった。

「あ、おはようございます。朝食はもう用意できているのでおばあちゃんに言ってきます。少し食卓に座って待っていてください」

洗濯ものを縁側に置くと、ばたばたと廊下をかけて厨房へ消えていった。俺たちは食卓へ向かい雑談をして待っていた。

「おまたせしました。男の子の食べる量はよく分かりませんけど、おかわりはあるからたくさんお食べなさいな」

女将さんは琴美ちゃんと一緒に和食の朝食を運んできてくれた。2人はもう済ませてあるのか今回は一緒には食べずに一礼するとまたばたばたと掃除や洗濯に取り掛かったようだった。

「うまいな…俺久しぶりにまともな朝飯食ったわ…」

俺はなんだが胸のあたりがじーんとした。田中も全力で首を振った。きっちりとした鈴木だけはしっかり毎食栄養を考えて自炊しているが、俺たち2人は適当で買った惣菜やインスタント食品ばかりたべている。親元を離れて数ヶ月、食の温かみを知った気がした。


その日は一日念願の釣りをしてすごした。一匹もつれなかったけど。

「ただいま帰りましたー」

「あれ、女将さんも琴美ちゃんも部屋か?」

2人ともマメな人達だから帰ってくる音がしたら手が離せない用事でもない限り出迎えてくれそうなのだが当たりはしんと静まり返って人気がなかった。俺たちは一応夕飯のこともあるし知らせに行こうと探すことにした。こんこんと女将さんと琴美ちゃんの部屋をノックするが返事はない。俺たちは顔を見合わせて首を傾げながら厨房や食卓も見回ったがどこにもいなかった。

「買い出しか?」

俺たちは諦めようとしたが、厨房の奥にもう1つ部屋を見つけて一応、とそっと覗いてみた。その時の俺たちにはあまりプライバシーという概念はなかったのかなんの躊躇いもなかった。

その先の光景は妙に頭に焼き付いた。中には女将さん、琴美ちゃん、あともう1人女の子がいた。その子は特徴から恐らく昨日田中がみた子だとわかる。けれども妙なのはその様子だった。3人輪になって一言も発さずに手を動かしていた。手話だろうか。

「あの子、昨日挨拶してくれたのに…」

田中はふと呟く。それが本当ならあの場にいる全員声で話せるのに手話で話している。流石に手話教室とは思えない張り詰めた空気が流れていて俺たちは変な胸騒ぎがした。

「げ…」

俺たちは全員焦った。その直後、扉が開く。3人が出てきたのだ。俺たちは逃げる間もなく凍りついた。3人も驚いたようなしまったと言うようななんとも言えない顔をした。

「見てたんか?」

ため息混じりに女将さんが呟く。俺たちはなんだか分からないがやばい事をしたってことだけはわかった。

「はい…」

「まぁ清さん、別に隠すほどのことではありませんよ。えっと誰も手話の内容はわからないですよね?」

田中の言ってた女の子は俺たちを見回した。みんなが首を横に振るとにこにこと笑う。

「ならなんの問題も無いですよ!皆さんは祟りとか幽霊とか信じます?」

俺たちはみんな民俗学専攻なのでそういう分野は避けて通れない。もちろん俺たちは田舎の土着信仰とかそういう類のものが好きではあった。

「信じるかはともかく興味はあります」

鈴木が代表して応えると俺たちも合わせて頷いた。

「ならよかった!お部屋でのんびりお話でもしませんか?」

女の子は琴美ちゃんをひっぱって琴美ちゃんの部屋の方向を指さす。女将さんはもう1つため息をつくと、琴美ちゃんにお菓子を持っていくよう指示した。


琴美ちゃんの部屋は簡素であまり趣味のものを見つけられなかった。唯一大きめのくまのぬいぐるみがあったのがなんだかぐっときた。

「私は仙崎朱音といいます。この村で仁巫女という役割に当たっているんです。というのもこの村の言い伝えというか信仰というかそういうのがあるんですよねー」

朱音ちゃんは琴美ちゃんが持って来たコ〇ラのマーチを頬張りながら口の中のお菓子が無くなった頃に途切れ途切れに自己紹介をする。

「朱音ちゃん、もうこの1箱しかないからこれ以上たべちゃだめだよ」

「はいはーい。じゃあずっと私が話っぱなしになるけどこの村のことを教えるね」

ジュースでお菓子を流し込むと改まって話を始める。俺たちはただ黙って朱音ちゃんの方を見つめた。


「この村は昔キリスト教が主に信じられていたんだよね。江戸時代かな?この村に仁兵衛さんっていうの凄い農家さんがいてね、なんと触っただけでその土地の栄養と必要な肥料、適している農作物がわかるとか。その噂がこの土地をかつて治めていた大名にも伝わって、その人に頼まれて仁兵衛は領地の色々な村を回ってアドバイスをしてたそうな。そのお陰か全国的に飢饉が起こった年でも、元々蓄えがあったからこの領地内の村はほとんど飢えで死者を出すことなく越すことが出来たんだって。それで仁兵衛さんのことを大名は凄く気に入っていて何度かお城にスカウトしていたんだけど、仁兵衛さんは自分の村のことが大好きだったから断ってずっとこの田辺津村に住み続けたの。その大名がキリシタン大名だったから仁兵衛さんもキリスト教信者になったのよ。でもある時からキリスト教の弾圧が始まった。大名は改宗を余儀なくされたし、村々にはキリシタンを捉えようという人々がやってきた。仁兵衛さんはそいつらに捕まってしまったの。特に仁兵衛さんの存在は他の大名には良く思われていなかったから1番酷い穴釣りという刑で長い間苦しみながら殺された。でも誰も助けなかったの。散々力を借りた大名も無視、村の人たちも仁兵衛さんが苦しければ苦しいほど助ければ自分もこうなると思って手が出せなかった。仁兵衛さんは死ぬ直前は恨み言や呪詛のようなものを呟きながら死んだんだって。それからその領地一体は物凄い凶作になった。土地から芽すら生えないようなこともあった。これは仁兵衛の祟りだ!そう思った人々は大名を中心にこの村に仁兵衛さんを祀る神社を建ててキリスト教を手放さなければならなかった村の人達はたちまち土着信仰として仁兵衛さんを信仰したの。そしたら凶作は収まり、かつての豊かな土地ではないものの普通の暮らしに戻ることが出来たんだとさ。それから田辺津村では仁兵衛さんに毎日魚と米と酒を捧げて、年替わりで村の若い女が仁巫女という役割を担うという文化ができたの」


朱音ちゃんは話し終えるとコップの残り少ないジュースを飲み干した。琴美ちゃんはそれを見て自分のコップを渡すとそのジュースも飲み干した。

「と、言うわけ。手話で話していたのは仁巫女の役割に秘密があるんだけどそれは内緒!仁兵衛さんは読み書きも出来るし耳も聞こえるから声に出しちゃだめなの。仁兵衛さんに分からない方法で秘密のことを話さなきゃいけないから村のみんなは大体手話が話せるのよ」

俺たちは息を飲んだ。思ったよりも本格的な話だった。そうなると俺たちは俄然興味が出てきてもっと聞きたい気持ちもあった。

「じゃあそろそろ次の家に行かなきゃならないから帰るねー。琴美、ジュースとお菓子ありがとう!」

「その分明日お菓子貰いに行くからね」

琴美ちゃんは手を振って朱音ちゃんを見送るとこちらに向き直った。

「あの子お喋りだから騒がしかったけどごめんなさい。こうやって誰か知らない人が来るのは初めてだから嬉しいんだと思います。特に仁巫女はこの村の全部の家を回らなければ行けないので知らない顔なんてないんです。もうお部屋でゆっくりしてもらって構わないので許してあげてください」

琴美ちゃんはぺこりとお辞儀をする。俺たちもぺこりとするとそそくさと琴美ちゃんが部屋を後にした。


「な?朱音ちゃんめっちゃ可愛かっただろ?」

「お前の趣味ってかんじ」

本人の前では抑えていた興奮が限界に達したのかはしゃぎ回る田中。一方鈴木はなにやらさっきの話が気になるのか上の空だった。

「新橋は琴美ちゃんって感じだよな?」

「あ?勝手に決めんな」

俺は図星と言うよりもなによりも琴美ちゃんに聞かれることを恐れた。俺は田中のような下心丸出しの馬鹿だと思われたくはない。

「なぁあの話どう思う?」

「信仰のやつ。面白かったよなー俺は朱音ちゃんが可愛くてあんましきいてなかったけどな!」

期待して損したような顔をして俺の方をみて感想を促してくる。

「俺は…仁巫女の内容が気になった」

「だよなー。家を駆け回り、声では伝えては行けない話を手話でする。そんなの大学で色々先行研究見せられたけど聞いたことない類だった。多分昨日も伝えに来てたと思う。毎日家屋を回ってわざわざ何を伝えてるんだ?」

鈴木はうんうんと唸っている。確かにそこの疑問点は俺も同じだった。恐らく部外者は知っては行けないようなものなんだろうけど気になるし少し研究に使えるかもという期待もあった。

「明日も多分来ると思うし2週間で緊急手話特訓でもして勝手に解読してみないか?別に声に出さなきゃいいんだろ?」

テンションが上がった田中はパソコンを取り出して検索画面を見せてきた。

「いいのか?なんか気が引けるけど」

「大丈夫大丈夫!バレなきゃいける!」

俺たちは好奇心に負けて田中の提案に乗ることにした。


それから6日後、いよいよ滞在も後半に差し掛かった時。俺たちは山や川やらを駆けずり回りながら合間合間に手話の勉強をした。俺たちは今までの頭に叩き込む勉強とは違う自主的に学ぶ楽しさにハマっていて、早すぎたり専門的だったりしない限りはかなりわかるようになった。腕試しだ!というノリで朱音ちゃんが来るタイミングを見計らってまた奥の部屋を覗きに行こうと画策していた。そうと決まれば話は早い。俺たちは今日はひたすらゲームで時間を潰しながら物音がすれば確認、ということを繰り返そうということになった。


「今日は村の重蔵じいさんという昔の大地主さんが皆さんが来なさったことを喜んで、農業体験でもして見たらどうだ、と誘ってくれたんですよ。良ければどうです?」

朝食の時、女将さんにそう切り出されて俺たちはぎょっとした。別に言ってしまえば手話覗き見作戦は明日でもよかったのだが、ついさっき決めて士気を高めてきた俺たちはもう完全に見てやるという気でいたからどうしても今から変更するのは気が乗らなかった。

「いやぁゲームの決着が上手くつかなかったので今日はゲームしようって話してたんですよ。明日お伺いしますと伝えてもらっても宜しいですか?」

鈴木が上手く返してくれたので俺たちは内心親指を立てていた。でも何故かその日は女将さんも食い下がらなかった。

「でももう今日で苗植えを終えてしまうそうで明日じゃ出来ないかもしれんねぇ。行くなら今日行った方がいいと思いますよ」

女将さんは少し厳しい顔をして俺たちに返した。俺たちは困った。ここまで言われると断る理由が見つからない。

「じゃあ午前中にお伺いします」

鈴木は少し悔しそうなのを悟られないように笑いながらそうとだけ返した。女将さんももうまた柔らかい笑顔に戻っていた。


「やっぱりなんか怪しくないか?」

鈴木は悔しかったのか布団をぽすぽすと叩きている。

「なんか女将さん俺たちに出ていって欲しいような感じだったよな。琴美ちゃんはいつにも増して静かだったし」

俺も居心地の悪さを感じていた。

「午前中って言ったけど出ていった振りをしてこっそり見てみるか?」

俺たちは行ってないことがバレることも恐れたがそれよりもこのモヤモヤを解消させなければ気がすまなかった。俺たちはさっさと用意すると入口が見える木陰や岩陰に構えながらじっと様子を伺った。


案の定出ていって1時間もしない間に朱音ちゃんはやってきた。俺たちは間を開けて後を追う。そして部屋に入ったのを見届けるとそっと扉をあけて縦に並んで覗き見る。

「幽霊」「来る」「客」「殺す」「?」「あげる」「命」「生きる」「私たち」「幸せ」「?」「喜ぶ」「今夜」「部屋」「寝る」「来る」。簡単は所は俺たちでもしっかりとわかった。唯一分からない何かが途中に入ってくるが、だいたい理解はできた。俺たちは全てが終わる前にそっと宿を後にする。そして宿からかなり離れたところでぶわっと汗が吹き出てきた。

「なぁ…俺にはあの人たちの会話が俺たちを今夜幽霊の生贄にされるって見えたんだけどきのせいだよな」

田中は強ばった顔を俯きながら何とか動かして言葉にする。

「俺もそう思った。もしこれが仁巫女の役割ならさ、仙崎さんは幽霊と交信してそれを伝える役割とかじゃないのか…?」

まさかと思った。馬鹿馬鹿しいと。信仰や言い伝えとそれによる風習が今でも残ることはよくあるしそれに関して俺たちはなんの疑問も持たない。でもなにかと交信している、信仰に値する何かが今もここにあると思うと急に現実味がなくなる。信じられなかった。でも恐怖を感じずにはいられない。

「俺たち今日何されるんだろ」

ぼそりと呟くと不安になり、俺たちはお互い顔を見回すと重蔵さんの家に行って、ここで見た事をバレないようにしようと走った。


「ん?遅かったがよぉきなさった。あんたらが清さんのいってた客だろ?さぁもう遅いから俺だけで苗植えをしようと思ってたところだ。その服じゃ汚れるから俺の服を貸してやる。コツを教えるからしっかり農業の難しさと面白さを知って帰るんだ」

荒い言葉遣いとは裏腹に明るい笑みと焼けて皺だらけの顔はなんとも懐かしさを含んだ顔だった。俺たちは正直上の空だったが何とか取り繕って農業体験を楽しませて貰った。


「よく頑張ってくれたから今日中に無理だと思ってたが全部植終わったな。なかなかやるじゃないか、助かったよ」

途中重蔵さんの収穫した野菜料理を食べさせてもらいながら夕方6時頃まで苗植えをしていた。はっきりいってクタクタだったが今夜何かが来ると知っていた俺たちに帰って休みたいという気持ちは湧かなかった。

「ありがとうございました。では俺たちはそろそろ帰ります」

「あぁ達者でな。清さんにもよろしく言っといてくれ」

達者でなという言葉がなんだか胸を掴んで話さなかった。この人は知っているのかどうなのか。気のせいなのかそれともこの村全体で俺たちを殺そうとしているのか。


夏真っ盛りだったがもう辺りは暗かった。疲れた顔をしている俺たちを女将さんは既に外で待っていて、風呂は用意できているから先はいっておいでと駆け寄ってきた。ありがとうございますとだけ言うと俺たちは狭い風呂に3人体を突っ込んで顔を見合わせる。

「女将さん、今日で苗植えを終わらせるって言ってたのに重蔵さんは今日では終わらないと思っていたって言ってたよな」

「やっぱり何か変だよな。正直怖い」

おれは暖かい風呂に入りながらも全身を支配する寒気に嫌気がさした。

「今夜寝ずに起きるか?結局何かあったとしても俺たちには何も出来ないし」

俺たちは無言で頷くと適当に体を洗ってさっさと風呂を出た。


「疲れただろうからたくさん作ったんよ。いくらでもお食べなさい」

今日は夕食だが2人は席につかずにじっとこちらの食べている様子を見ているだけだった。なんとも居心地が悪い。味のしない料理を流し込むと俺たちは直ぐに部屋に戻った。

「絶対おかしい。これは間違いなく何か来るって…」

田中は疲れと心労で完全に撃沈していた。でも目を閉じれば寝てしまうほどに体は疲れていたからいつもならそこまで苦でない徹夜も今回ばかりは辛い戦いになりそうだ。

「とりあえずゲームでもするか?」

みんな眠たい事を悟った鈴木の提案に乗って人生で1番楽しくないゲームの時間を過ごした。そんなこんなしていると時刻はもう 2時に近くなっている。辺りは静けさに包まれて、気づけば無言の時間を過ごしていた。俺はもう起きているのかどうかもわからない状態だ。1時頃までゲームをしていたが、女将さんにそろそろ寝た方がいいと促され、そこから1時間は電気を消した部屋でなんとか起きているやつが寝ているやつを起こしながら凌いでいた。

「…俺は夜型なはずなんだけどな…」

「俺もだよ」

「俺も徹夜ゲームとかはよくやるし疲れても余裕だと思ってたぜ…」

心ここに在らずでもなんとか会話を絶やさないようにぼそりとしゃべり続ける。

「そうだ、俺…」

田中が何か言おうとするのと同時に遠くで物音がする。

ざざざ………どたどたどた……ずずず……

俺たちは凍りついたままその音に耳を傾ける。何人かいるような音だ。玄関の方。

キュッ……とんとん……

この床をする高い音は廊下で何度も聞いた、琴美ちゃんの靴下の滑り止めに似ている。

「琴美ちゃんと女将さんか…?」

「いや、もっと居る」

鈴木は手を4にした。4人?一体だれだ…?

な……て……おこ…………い……

何か誰かが話している。俺たちはそっと扉に耳を当てて外の声を聞こうとする。

もう…ぐ……あ……らっしゃ……

何かが来た…?いらっしゃったと聞こえた気がする。

「この声は朱音ちゃんだろ…」

田中は暗い中でもぼうっと浮き出るほどに真っ青になっていた。たしかにこの高い声は朱音ちゃんのものによく似ている。この時間に朱音ちゃんが?俺たちは限界まで耳をつける。心做しか声がこちらに近づいてきているきがする。

ようこ……らっしゃいました仁兵衛さん

「…!?今、仁兵衛さんって……」

「やっぱり間違いじゃなかったんだ!仁兵衛さんは本当にいて俺たちを殺しに来たんだ!」

小さい声で話しているせいか焦っているせいか田中の声は掠れて聞こえにくかった。

…やはこのおくのろう…をすすんださき…ふたつめの…びらのおくです

「まちがいない、俺たちの部屋だ………」

俺たちは扉から離れて部屋を見渡すも、窓がないこの部屋では押し入れくらいしかなかった。

「押し入れじゃばれるよな…」

「とりあえず重い荷物全部扉の前におけ!その間になにか考えよう…」

「幽霊って壁すり抜けるんじゃねぇの!?」

もう大パニックだった。とりあえず荷物を積んで押し入れに入って作戦会議をしようとするも、どきどきして声が出ない。

きぃ…きぃ…ずずず………

何人かの足音が近づいてくるのがわかる。

「やばい!来てる!どうしよう!」

コンコン!

扉がノックされる。俺たちは全員その場で固また。背筋に物凄い寒気が走り、手が変な汗と震えで痛み以外の感覚がなくなる。ちぎれそうなほどの不安が心臓を急かす。

「夜分遅くにすいません!琴美です!私の火の不始末から厨房で火事が起こっています!どうか早く出てください!」

琴美ちゃんの慌てた声が聞こえる。一同は混乱を極めた。

「どういうことだよ…火事?ほんとなのか?」

「俺たちをおびき寄せるための嘘だろ!」

俺たちは身動きもせず、気づかないで寝ているということにした。

どんどんどんどん!

「みなさん!お願いします起きてください!もう火がそこまで来ています!」

琴美ちゃんはさらに声を張り上げた。演技にしては真に迫っていた。俺たちは一切信じなかったが、そのあまりの必死さに更に怖くなる。

どんどんどんどんどんどんどんどん!

尋常ではない速さでノックが繰り返される。

「なにぃ!おい琴美聞いたか!重蔵じいさんのところにあいつらが行ったのは12時頃や!」

「えっでも出ていったのは10時頃でしょ!」

ノックが止まり、女将さんのいつもとは打って変わった低い声が響く。

「こんだけ叩いてでぇへんのや、絶対聞いとった!逃がすな!」

俺たちは弾かれたように飛び上がり、また作戦会議を始める。

「どうしよう!やばい!」

「でもなんでか扉は開けてこない!なんでだ!安心していいのか!」

「知らねぇ!でもいつかは逃げなきゃずっとここにいる訳にも行かないだろ!」

外では先程より足音が増えているように感じる。ノックの音と琴美ちゃんの声だけが聞こえたのが、女将さんの声を皮切りにどよめきがあふれている。

「女将さんの言ってた天井裏に逃げよう!」

俺たちは押し入れの上の段にかけ登る。鈴木はほとんど音を立てることなく天井の板を外すと首を突っ込む。

「お!広さ的に他の部屋にも続いてるから行けそうだぞ!」

鈴木が手をかけて登っていくのを見ると俺たちは多少の貴重品とお菓子を取りに帰ってから天井に登る。周りを見渡すと、遠くに微かに光が漏れていて、その他にもダンボールやらが隅に固められていた。

「荷物が置かれているってことは人は来るんだな。そう長居も出来ないわけか」

俺たちは光のところまでいって穴を覗く。見覚えのある部屋、琴美ちゃんの部屋だ。

「やっぱり他の部屋と繋がってるんだな。隙をみて脱出するしかないか」

「あっちのダンボールみてみないか?」

田中が指さした隅のダンボール3つくらいは確かに少し異様ではあった。

「まぁもしかしたらはしごとかかもしれないしな」

俺たちは方向転換してダンボールに這って行く。田中が躊躇いなく箱を開けると絶句する。

「なにがあるんだ?」

俺たちもつられて中を見ると、そこには古そうな本と2つの血塗られたような男の面が入っていた。

「な、なんだよこれ…」

「本の方みてみる…」

鈴木はかび臭い本を開けて数ページぺらぺらと捲る。

「この家の家系図か?」

江戸、明治、と年号とともにたくさんの人の名前が書かれていた。平成まで来た時、俺たちははっと息をのんだ。

「琴美、茜…」

他にも重蔵、清など見覚えのある名前が載っている。

「みんな親族、なのか?」

琴美ちゃんの上には康雄、翔子という名前があって赤の墨でバツ印がされている。

「親がいないのはなんだ、死んだのか?」

俺はなんとなく面を手に取って裏を見ると、そこにはビッシリと名前らしきものが細かく書かれていたがその中に康雄の字があった。

「うわぁ…気持ち悪い…」

もうひとつの方にも翔子の名前があった。

「死んだからここに仕舞われたのか。だからなんなんだって話なんだけども…うーん…」

他のダンボールの方には予備の面なのか裏に何も書かれていないものが5個入っていて、もうひとつは鍬がひとつ入っているだけだった。ダンボールの後ろの壁にはなにやら御札のようなものが張っていて余計に気持ち悪かった。

「その本に書かれているのはそれだけか?」

俺はもう一度鈴木の手元を覗く。

「あとは相続の方法とか、埋葬方法とかだけだな」

おそらくあとは地域の風習などをまとめてあるよくあるものなんだろう。

「とりあえずどうにもならないものなのはよく分かった。俺たちは逃げる機会を待つしかない」

俺はダンボールを片付けて俺たちの部屋の入口位の位置を探りなんとか外の様子を見ようとする。幸い隙間はたくさんあったので目をくっつければみることができた。

「面…………」

「あ?どうした新橋」

「男の面を付けた人がたくさん……」

眼下に広がったのは20人以上の面をつけた人達。それが俺たちの部屋を凝視していた。やばい。俺たちが想像していた何倍もやばい。直感的にそう感じとれるほどに異様を極めた光景だった。つられて見に来た2人も同じく青ざめて慌てる。これだけの人数がいたらかなり待たなければ気づかれる。でも部屋に居なければここにいることなんてすぐばれる。

「そうだ、面をつけて紛れて隙を伺えば…」

「バレたら終わりだぞそれ」

「俺達には車がある、俺がキーを持ってるし何とかなるはず…」

俺は車のキーがある事を確認すると、面を取り出す。スペアと琴美ちゃんの両親用の面とは古さ以外はほとんど変わりないように見えた。

「でもこのお面綺麗だしバレないか?」

鈴木は見比べながら唸る。

「じゃあ2人は両親の方をつけて1人スペアを付けるしか…」

「俺新しいの嫌だ!バレたくねぇ!」

「そんなの俺もだわ!」

「そうだ、運転は新橋なんだし俺たちがなんとなく紛れてる隙にさっと車のエンジン掛けてきてくれよ。それなら別に多少綺麗でもバレないだろ?」

俺は行きの運転で鈴木を気の毒に思ったことを心底後悔した。田中は免許持ってないから押し付けられないしと思って引き受けたものだったがこんな災難になるとは。

「…わかった。ただしほんとにバレるなよ?バレたらお前ら置いて逃げるからな」

俺は新しいお面を手に取る。

ぎしっ

……………。俺たちははっと息を飲む。音は俺たちの部屋の方向から。そっと覗くとお面の集団は俺たちの部屋に押し寄せて隅々を探し始めていた。

「……………!?」

てっきり入ってこないものと思っていたからパニックになる。

「いまだ!逆に琴美ちゃんの部屋から出れば…」

「お父さんとお母さん」

俺たちは振り返ることが出来なかった。この声は、間違いない。

「琴美ちゃん………」

「だから覗き見はダメだって言ったのに」

朱音ちゃんも天井裏に登ってくる。

「嘘を着いてごめんなさい。別に仁兵衛さんなんていないし生贄なんて嘘。みんなあなた達が見ていることを知っての嘘。全てはただ、この天井裏に来て欲しかっただけ」

琴美ちゃんは嬉しそうに静かに笑いながら頭を下げる。俺たちはどっきりなのかなんなのか、安心していいのか怖がっていいのかよくわからないまま、ただ話に耳を傾けていた。

「この地域にそんな伝承があるのもこの風習がそれに基づいているのも本当だけどね。でもそれが目的じゃない」

「それはね、この部屋で、その2つのお面をあなた達のうち誰か2人に付けてもらうこと」

「…どう、して?」

鈴木が恐る恐る聞き返す。

「私のお父さんとお母さんになってもらうの。そういうしきたり」

3人が嘘をついて俺たちを怖がらせて、天井裏へ逃げることを促したのはわかった。でもお母さんとか代換えだとかやっぱりわからない。

「………!面が取れない!」

田中はガリガリとお面と肌の間を爪で引っ張るが一向に取れそうにない。鈴木も俺も慌てて引っ張ると俺は難なくとれた。なんだ、お前もふざけているのかと言おうとした時

「俺も………」

鈴木は面をこちらに向けてあたかも引っ張れと言うようだった。俺は鈴木のお面に手をかけて力任せに引っ張ったがもはや肌と同化したようにビクともしなかった。

「え?」

「あなたたちがお父さんとお母さんなんですね。ふふ、よろしくお願いします」

琴美ちゃんは感慨深そうに近寄る。2人はそのままぴくりとも動かなくなる。

「え、あ、あの、えっ………」

俺は言葉を失った。半分放棄した思考の中でお父さん、お母さん、面、琴美ちゃん、などの言葉をぐるぐると掻き回しさらに頭を混乱させた。

「予備のお面を取り忘れたのはミスだったけどちゃんと付けてくれてよかった。田中君、鈴木君、ずっとずっとよろしくね」

琴美ちゃんは親しそうにあいつらに話しかける。混乱しているのか動けないのかわからないが2人はなにも言わず何も動かない。

「新橋君は帰っていいですよ。これ以上はいらないから」

とても突き放した言い方だったが、これほど安心したことはなかった。しかしとてつもない罪悪感に襲われて、今にも泣き出しそうだ。

「じゃあ行こうか。2人には下の部屋を使ってもらって新橋君は私が送っていくよ」

朱音ちゃんはそう促すと、琴美ちゃんにつられて2人は屋根裏から降りていく。俺は呆然として動けなかった。

「車は私の運転するから新橋君は動けるようになったら言ってね」

どれくらいの時間がたったかわからないがふと顔を上げる。朱音ちゃんはもう天井裏にはいなかった。部屋を出る。彼女はとても寂しそうな顔でぼーっと玄関の外を眺めていた。俺の主に気づいたのか、朱音ちゃんは行こうか、と声をかける。ただ後を追って俺は鈴木の車に乗り込んだ。


「まだよくわからないでしょ。そらそうよね、私だってこんなことしたくはないんだけどね」

俺はただ窓の外を見ながらぼんやりとする。

「とりあえず何でこうなったかを説明するとね、琴美は3年前に両親を亡くしたの。理由は心中自殺。しきたりに縛られたこんな田舎に閉じ込められて嫌になったんだろうね、特にこの家は本家だから外に行ったりしてはいけない。奥さんが本家の家系で旦那さんが重蔵さんの息子さんなんだけど、まあ息子さんの方が思ったよりも縛りが多くて参ったらしく崖から飛び降りて死んじゃった。でもこの田舎では50歳未満の両親が2人とも死んだ時はこの村以外の人を親にするっていう風習があるの。多分これも仁兵衛さん繋がりで、弾圧されて子供だけが残った家を何とかするために別の村から人を連れてきたのね。その時の名残だけど今はそんなことしてないんだけど。でも本家だけは別。それに琴美も17で両親を亡くして、同じ歳の子供も私くらいしかいないから寂しさでおかしくなっちゃったんだ。ずっとお父さんとお母さんがいつか迎えに来てくれるって言っててなんだろうね、私じゃこの孤独はどうにも出来ないんだって感じたな。でも私も儀式だけだろうって。どうせ監禁するくらいだろうから警察に言えばなんとかなるだろうって思ってた。でも……」

はじめて俺は朱音ちゃんが俺と同じような気持ちでここにいることがわかった。

「…朱音ちゃんも信じてなかったのか?」

「もちろん。きっと警察にいって、古い風習を正して貰えば琴美も目が覚めるだろうって考えてた。でもあれはもう…」

宿を出る時、見送るようにこちらを見つめる琴美ちゃんと2人。2人の男の面が少しずつ、中年くらいの女と男に変わっていることには精神的に疲れた俺でも気付いた。あれはもうただの風習なんてものじゃない。

朱音ちゃんの声が震えている。けれどにげようとはしていなかった。

「どうして朱音ちゃんはそんなに冷静でいられるの?しっかりしてて、俺が情けない。今も友達を置いて、遠ざかって、自分だけ逃げようと…」

「ずっと小さい頃から傍でみていたの。狂信的な大人と耐えきれなくなった人達。なんとなくただの風習ではないんだろうって感じていた。驚いてはいるけど腑に落ちた感じ。それに今は琴美のことの方がショックだから。だって…ずっと隣にいたし、辛い時たくさん一緒に泣いて、励まして来たつもりだった。でも私の存在なんて紛い物の親にすら叶わなかった。だって…あんなの!あれは琴美の親じゃない!ただの客じゃない…全くの他人じゃない…!私はそれにも叶わなかった。私のやってきたことも…全部琴美には何にもならなかった…」

朱音ちゃんは山道に車を止めてしばらく泣き止むのを待つ。俺には友達を救うことも朱音ちゃんの涙を止めることも出来なかった。1番無力なのは何もしていない俺なのに、この子はたくさん背負ってたくさん裏切られてさぞ辛いだろう、とそんなことしか考えられなかった。

「あいつらはどうにもならないのか…?」

「…多分もう手遅れ。きっとそのうち琴美の親として生き始める。警察には言っておくけど多分どうしようも無い。私がどう言っても何もならない。私は加担した側だからこういうのも良くないけど、ごめんなさい。本当にこんなことになるなんて思ってなかった…」

別に俺は朱音ちゃんを責めようとは思えなかった。同じ被害者であることは間違いない。でもだからといって諦めてこれから何事もなく暮らそうとはおもえない。

「清さんから軽く説明は受けたけど、私が知っているのはこんな感じ。無責任だけど、無力なのは私もなの。私は本家から一番遠い血筋だし、仁巫女も私たち遠い血筋が担う雑用みたいなものなの。決して仁兵衛さんと対話できるような神聖なものじゃないの。ただ村の奥の仁兵衛さんを祭る祠にお供え物をして、村の人たちの安否を確認するだけの仕事。手話だって卑しい私たちは本家とことばを交わすことが許されていなかった名残。小さいころから神聖だ名誉だと聞かされていたけど、所詮は大人の汚い身分や上下の押し付けだって知ってた。だからこそ私は何にも信じていなかった。信仰も神も村の人も」

出会ったとき、明るくてこの村には似合わないような子だと思っていた。その明るさは今はないものの、きっといまこの村で唯一この村に似合おうとしていないのはこの子だけなんだとわかった。

「もし、警察を呼んで何にもならなかったら、私は知り合いの寺も頼ってみようと思う。やっぱり琴美の目を覚まさせてあげたい。死んだらもう二度と戻らないんだって。辛くても今度はずっと私が傍にいるからって言いたい。こんな村を出て、二人で街で買い物をしたりしてすごしてみたい。村の森にすら入れずにずっと家の中に閉じ込められるようにすごして、両親をなくして、ただの新橋君の友達でも親と呼んで頼らなくちゃならないくらい弱ってしまったあの子をこのままにしておきたくはない。だからもし、あの二人が元の二人に戻るようなことがあったら、そのときはまたあなたに会いに行くよ」

彼女の顔はとても凛々しく、先程の泣き顔とは打って変わった決意に満ちている顔だった。

「俺も協力したい。友達があんな目にあって1人で帰るなんて出来ない」

「…いいえ帰って欲しいの。きっとこの先は身分とか伝統とかこの村の人間の話になってくる。きっとあなたが関わる問題じゃない。だから男手が欲しくなったらお願いするかもしれないけどとりあえずは私に任せて欲しい。大丈夫、お母さんとお父さんにも協力してもらうし案外孤独じゃないの。村を出ていった人たちも本当は故郷を去りたくはないはず。風習なんかをなくして住みやすい村に変えたい人たちもいるはずよ」

俺はまた無力なままだ。歯がゆい。でも足でまといになることはよく分かっていた。

「…ひとつお願いしていい?」

「俺にできることなら何でも」

「私の家に都会の写真を送って欲しいの。季節ごとの風景とか、たくさんの人でごった返した街並みとか。携帯は持ってないから、もしいい写真が取れたらその度にたくさん送ってくれると元気が出るな。ずっと憧れていたけど私にはこの先の道の駅くらいまでしか行ったことがないから。パソコンだって買うお金もないし、ずっとずっと本と琴美が見せてくれたネットの写真だけだった。たくさん見てみたいんだ。いつかこんな街も琴美と一緒に歩ける夢を見たらきっと元気になれると思う」

とても切ない気持ちになる。俺たちが田舎だのなんだの騒いでいたのが恥ずかしくなるくらいこの子達は田舎に縛られて生きてきたんだ。

「…もちろん。俺、あんまり上手くないけどたくさんとって送るよ。任せっきりでごめん。ありがとう、いい知らせが来ることを待ってる」

「…うん。さ、もう道の駅に着いたよ。この近くにレストランがあるから朝ごはんでも食べておいで。私はこの後警察や寺を回ってから村に戻るよ」

「車ないけど大丈夫?」

「住職さんが送ってくれるから平気。むかしはここまで家出して、よく住職さんに送って貰ってたから」

静かに微笑む。とても儚く見えて、だからやるせなくて、でもだからこそ精一杯微笑み返す。

「またね」

「うんまたね」


それから5年、普通に働いて日々に忙殺されながら生きている。写真を送り続けているものの未だに返事は来ない。でもこの5年で写真の腕はだいぶ上がって、この間コンクールで佳作までは取れるようになった。俺の友達たちも一緒に写真をはじめて、グループとしてSNS上で話題も集めている。俺の写真はちゃんと勇気づけられているだろうか。

「今度田辺津村に二人で写真取りに行こうぜ!俺の大事な友達がそこに住んでいるんだ」

「おっあの朱音って子?ずっと写真送り続けているだろ?一途だな〜」

「ところでなんで送り続けているんだ?」

「んー…何でだっけ。まぁきっかけなんて忘れた!」

「なんだよそれー。でもロマンチックだなぁ」

「じゃあ決定な。ちゃんと予定空けとけよ」

『午後のニュースをお知らせします。今日未明、田辺津村付近で仁神琴美さん25歳とその祖母の仁神清さん76歳の遺体が発見されました。琴美さんの母親であり、清さんの娘である翔子さんに話を伺いました…』

「うわ話してた時に。物騒だなぁ…琴美って子はしってるのか?」

「んー…多分知らないな」

「まぁいいや8月くらいな!運転は任せたぜ山崎」

「帰りの運転はお前だからな、新橋」

「へいへいー。……」

「どうした新橋?」

「…いや、なんでも。楽しみだな、田辺津村」


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仁兵衛さん さかさま宇宙猫 @suiren_nei

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