六月にはハンドクリーム

六月にはハンドクリーム

 排水溝の上を通る度、天ぷらや豚カツの衣の腐敗した匂いが立ち込める。だからこの排水溝の側では慎重に息を止めていた。


 調理台の上に並べられているメンチカツやコロッケが売れ切った後のトレイを手に取る。

 このまま油を下水道に流すわけにはいかない。

 中に残っている衣の残骸と油をビニール手袋で落としゴミ箱に捨て、トレイをシンクに置く。それを繰り返す。


 青葉あおばひばりはいつものように洗い物を始めた。




 油でギトギトになった手を何度も石鹸で洗う。

 漸くべたつきがなくなるとひばりの手はカサカサになって罅割れている。どうも二十代女性の手とは思えない。


 一年弱このアルバイトを続けて誰にも褒められない。

 別に良かった。大学の講義の空き時間に身体を動かせてお金が貰えるのだ。運動サークルに入るより効率がいいでしょう?


 帰ろうとしたら傘を忘れていたことに気付く。口の中で舌打ちをする。


 外の暗闇の中でアスファルトにパタパタと弾ける雨音が雨の冷たさを知らせた。

 ひばりは上着を手繰り寄せ、自身の二の腕を掴んだ。


 夜の闇に同化し見えない雨の中を走る。首筋に雫が滑り込んで気持ち悪い。


 漸くアパートに帰り着いた。暗い部屋に入る。

 疲弊しきった頭のせいで自分の「ただいま」の声は言ったそばから、言ったか言わなかったか忘れてしまう。


 風呂のお湯を溜めながらスマホを弄る。母からメールが来ていた。

 チェックしようとして、着信音が鳴った。これも母からだ。


 ああ、今話したくないな。ぐじゅぐじゅした苛立ちが心臓内部に膨れ上がる。


 母とは取り留めのない挨拶や近況報告を交わす。


『どう? バイトは』


「どうってこともないけど。遅刻もなく無難に仕事してる」


『いい人いる?』


 それは彼氏に出来そうな男がいるかってことか?

 排水溝の残飯の処理を教えたり、腐敗臭に満ちたゴミ捨て場のゴキブリの踏み潰し方を教えたりしてる後輩はいるけど、そこで恋が芽生えるって? 馬鹿らしい。


 ひばりは母への相槌に不機嫌さが混じらないように神経を使ってやっと電話を切った。

 どっと疲れていた。




 バイト先、一人で黙々とトレイや金網、トングを洗う。


 お湯に毎回火傷する手が赤い。金網に引っ掻かれてできた傷に洗剤が染みる。


 帽子の中の前髪が汗でおでこに貼り付いている。そこを肘で擦って何とか痒みから気を逸らしつつ、床掃除用の洗剤を入れ替えようとした時だった。


 ピシャと強力な液体洗剤の雫がひばりの頬に飛び散った。


「いたっ……」


 頬に火傷したような鋭い痛み。

 慌てて水道水を掬って何度も洗い流す。


 アパートに帰宅し鏡を見ると、頬が日焼けして皮が剥げたようになっていた。

 これ、化粧で誤魔化せるかな……。


 風呂から上がり髪を乾かしてから布団に倒れ込んだ。

 目の端が部屋の隅の燃えるゴミ袋に突っ込んだ雑誌の広告を捉えた。『ジューンブライド』の文字がプリントされている。


 ひばりに結婚願望はないが一生キャリアウーマンで生きていきたいとも思わない。

 どっちつかずの自分を非難する声と、だいたい世の中皆どっちつかずだろという気持ちが拮抗する。


 その夜の夢は結婚式場だった。何と花嫁が自分で絶望的にマーメイドドレスが似合っていなかった。




 大学の講義の四限目が終わった後だった。


 女性の先輩に呼び止められた。その人はその日初めてグループワークの話し合いをした時に隣にいた人だ。

 当たり障りのなく話しながらも程良く会話は盛り上がっていた。


 女性の先輩は手が綺麗だった。

 第一印象は「爪に色がついてる……」だった。ひばりは洗い物のバイトであるためネイルなんぞは御法度だ。


 彼女はひばりに「青葉さんは何かアルバイトしてる?」と訊いてきた。


「あ、はい。掃除のバイトをしてます」


 彼女は「へー、そうなの」とリアクションしながら、がっかりした色を隠し切れていない。


「実は私ね、ブライダルのバイトしてるの。良かったら青葉さんもどうかなって思ったけど、忙しいわよね?」


 ブライダルというと結婚式場で受付をしたり、食事を用意したり、式を進行したりする仕事だろうか。

 なんて、オシャレな! とひばりは唖然とした。


 そういえば以前、友人も家庭教師のバイトをしているというようなことを話していた。

 友人の愚痴に相槌を挟んでやりながら、綺麗で清潔そうで給料もひばりより断然良さそうな仕事をしていてそんなに不満があるのかあ、と何というか厭味ではなく感心した覚えがあった。


 ひばりは躊躇なく女性の先輩の誘いを断った。

 断り方の言葉選びに迷ったので歯切れは悪かったが、心の中では話を持ち掛けられた時点で断ることを決めていた。


 彼女はすぐさま誘いを断ったひばり自体に興味を失ったようで、愛想のいい表面上の笑みを浮かべて去っていった。


 女性が去って次の講義までの空き時間をぼーっと過ごしていた時になって漸く、ひばりは今のバイトを辞めるという選択肢を一瞬も検討しなかった自分に疑問を持った。




 毎回毎回ひばりの中に、何でこんなバイトを続けてるんだろう、という疑問がふっと湧いてはテキトーな理由をつけたり放置したりするうちに忘れている。


 だから、その答えを見つけたのは唐突だった。


 ひばりはバイト帰りに一週間分の食材を買い込むのが習慣になっている。買い物用のカゴが埋まっていくのに満足感を覚えて少しスッキリした。買い物依存症というほどではないが、ある意味買い物に嗜癖している自覚はあった。


 フライパン買わなきゃと思い至って調理用具のコーナーに来た。


 何となく包丁が並んでいるのに目を留める。

 値段に雲泥の差があるのだなと苦笑いし、陳列棚の下の方に視線を移すと、子供用の包丁があった。


 プラスチック製で軽く切れ味の悪い、あの包丁だ。


 喉の始まりというか舌の付け根というか、兎に角その一点が熱く締め付けられたように、ひばりは泣きたくなった。


 あれは小学校低学年だった。

 滅多に台所には立ち入らせてくれない母がひばりを呼び、野菜炒めを作った。学校の『調理実習を自宅でやってみよう』という課題だったのかもしれない。


 ひばりの記憶の大部分は台所では不機嫌そうにしている母の姿が占めているのだが、その時だけは違った。


 母がひばりを褒め笑っていた。

 包丁で人参を切り豚肉を切る度に「上手ね」と歓声を上げた。その時に作った野菜炒めが驚くほど美味しかったことを鮮明に思い出す。


 ……ああ、そうか。


 空いたジグソーパズルの空間にピースが落ちてきてぴったりはまった感覚だった。


 私は、嬉しかったんだ。


 母しか入れない台所。幼いひばりが母を手伝おうとしても逆に台所を汚してしまって、口には出さないが母は疲れた顔をしていた。


 ひばりは母に申し訳なくて堪らなくて、そのうちに料理からは遠ざかった。

 だから、台所はずっと暗黙の立ち入り禁止場所になっていた。


 大学に入り、一人暮らしを始めて漸く自炊を始めた。最初はご飯の炊き方すら分からなかった。

 アルバイトを始めて、バイト先で洗い物をしている自分はもう母の力になれない幼い子供ではないのだ、と思うことが出来た。


 そうして実際ほぼ毎日三時間の洗い物をしているとどれだけ母が苦労していたか思い知る。

 母がひばりに家事を手伝わせたがらなかったのは、それがひばりの勉強時間を削ってしまうことを懸念していたことも理由の一つだと今なら分かる。


 ひばりや父がテレビを見ている間に皿洗いをしていた母の背は小さく丸まっていた。

 水音が五月蝿くてテレビの音が聞こえないと何度自分は毒づいただろう。


 母は「あら、それはごめんなさいねぇ」とおどけて笑っていた。「じゃあ、ひばりが代わりに家事すればいいでしょ」とは絶対に言ってくれなかった。

 中学生まではそれが悔しくて、わざと母と衝突するまねまでした。




 買い物を終え、アパートに帰ると、母からメールが来ていた。


『ハンドクリーム、送ろうか?』


 ふふ、と笑みが零れた。


 母さん、私もう流石に子供じゃないんだから必要なものは自分で買うよ。

 もう世話をされる対象じゃないんだ、と思うと同時に、やはり母は何でもお見通しだなとも思う。


 その晩は珍しくひばりから母に電話した。


「もしもし、母さん? ごめん、寝てた?」


『ううん、お疲れ様。どうしたの?』


「お疲れ様。いや、何があったわけでもないけど話したくて」


 ぽつぽつと最近のニュースについて会話し電話を切った。


 疲労感は何一つ軽減していないくせにイライラは消えていた。


 ひばりは明日ハンドクリームを買おうと決めて手のひらに目を落とした。

 水に浸かり過ぎた指の腹はふやけ、かさついてささくれ立った手が、母の手とそっくりで少しだけ誇らしかった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

六月にはハンドクリーム @kazura1441

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ