黒(短編小説)

白い壁。一面にはカーテンのない大きな窓と俯瞰した小さな街の一部。それ以外にはなにもない。棚も机も冷蔵庫も汚れも何もかも。ただひとつ、黒いグランドピアノを除いて。


「どうして、何もない」


小さな呟きは白い壁に反射した光に吸い込まれて消えてゆく。こうしてまた私が白にかき消される。今の私には何もない。グランドピアノだけが最後の灯のように儚く揺れながらそこにある。大きなはずなのに、少なくとも生まれたときから私の傍にいたこれは、記憶の中ではもっと立派で威厳があった気がした。いまは子供の吐息でも消え去ってしまいそうなほど白に侵されている。


「ド、レ、ミ、ド、レ、ミ」


震える手で慣れた心地の鍵盤をなぞる。弱々しい私の動きを増幅するようにピアノも弱々しい、ぎこちない音色を吐き出した。


「ソ、ミ、レ、ド、レ、ミ、レ」


たどたどしくも自然と動く手に任せながら、頭はなくなった私に思いを馳せる。一週間前、突然私の大切なものが奪われた。その時はこの家にもたくさんの服、おもちゃ、食べ物に思い出のアルバムなんかもあった。午前10時、最愛の夫が最愛の子供と公園に行ったまま弐度と帰ってくることはなかった。私は葬儀にも行けず、泣いて吐いてを繰り返した。私はひとつになった。いや、ほんとは我が身なんてひとつなのに幸せに眩んでまるで彼らが自分のものだと錯覚していただけなのかもしれない。私はなくなった私以外を全部捨てた。捨ててから、自分だけのものなんてほとんどなかったことに気が付いた。服も彼が触れたのだから私だけのものじゃない。アクセサリーも家具も汚れも全部、彼らとともに生きて、死んだ。唯一、実家からこっそり持ってきて、普段入らないマンションの倉庫に入れておいたあの子の三歳のプレゼントにしようとしていたこのピアノだけが皮肉にも私だけの唯一のものになった。


 私は椅子に腰かけ、全く力の入らないやせ細った指を鍵盤に置く。僅かに残っている振動が心を震わせる。久しぶりの感覚。もう長らく何も入れていない胃から込み上げるような衝動を抑えて、息を吐く。吸う。思いのまま、強く叩く。身体は勝手に動いている。まるでピアノに操られるかのように。小さい頃母親が教えてくれた難しい曲。でももう29年も引き続けていると、声を発するように流れ出す。今まで私は声を忘れていたのか。私には声があったのか。込み上げるような情熱も、溢れ出した悲しみも、焦がれるような切なさも、全部私だけの感情だ。脳が焼ける。苦しさと目眩で思わず手放したくなるほどに。より一層鍵盤に体重をかける。私の全てを載せる。指は耐えきれずに動きにくくなるが気にしない。不完全な方が私らしい。15分間の衝動は緩やかに身体を流れ、白い部屋を黒く染める。窓は少しずつ赤を垂れ流す。長い曲だから、覚えるのには相当苦労した。今、この為に母は私に教えてくれたのかと思うほどに私はこの音に生かされている。そう思えば、この曲もピアノも私ではないのかもしれない。私なんて存在しないのかもしれない。けれども、確かに今、この部屋は私だけのものになっている。白は消え、至る所に音を伝わせ、私で蝕んでいる。消えかかった息が、今、最後の産声を上げて、生まれている。全部私だった。この壁も確かに私の部屋なのだ。汚れも確かに私が汚したのだ。きっとなくなった全部が、私だったのだ。私は力を強める。激しく、ただ激しく、最後の旋律を奏でる。もう聞こえない。見えない。視界も黒が支配する。けれど指はうごく。叫ぶ。吐き出す。苦しい。痛い。それが堪らなく幸せで。


指を静かに離す。滲んだ視界では今の惨状を正しく理解はできない。高揚感に任せて、黒く染めた空に窓を越えて近づく。俯瞰した街は、未だ様相を変えないが、黒に染って、吐き出す光の方が灯火のように揺れる。私は手すりにそっと腰をかける。今、世界の全てが私のようだ。震える手ではもうほとんど手すりを掴むこともできない。けれど怖くはない。今なら空に落ちて行ける気がする。大地も空もすべて私なのだから。あぁ、でも何故今になって彼とあの子を思い出すのか。あぁ、あれこそが私だったのかもしれない。ならば。あの日のように歌を歌う。子供のやさしい英語の歌。最後に手を離す。そして大きく叫ぶ。ほっぷすてっぷじゃんぷ!

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