第37話 雨の宮殿

「隆さん。もうそろそろです。下に雨の宮殿が見えるはずです」

 電話越しで24時間のお姉さんと隆は話をしていた。

 隆はそれを聞いて、車から下方を見た。

 周囲の平べったい雲からは、大雨が降り続けているようで大地へ無数の縦線が見える。助手席の智子が時を刻む秒針のネジを逆方向に六回巻くと、雲の形が元に戻ってきた。


 豪雨の下にはハンガリーのブタベスト(ハンガリーの真珠というニックネームを持つ宮殿)のような、巨大な宮殿が山の高さくらいで聳え立っていた。町ひとつを飲み込める湖の中央に雨の宮殿があった。大量の雨の滴によって、至る所にある宮殿の屋根の吹きおろしからはキラキラと光る水が下方へと落ち、四方を何万年と強風と豪雨で削り取られた高山で囲まれた宮殿は土砂崩れの不安を醸し出していた。まるで、この湖は堰き止め湖(山崩れなどで川が堰き止められた湖)のようである。

 壮大な外観は、中世のバロック建築とハプスブルク建築でできた青と白で統一され、その宮殿の中央の水門には、正門から裏門へと一本の澄んだ湖の光り輝く水流が貫いている。


 宮殿の四方には巨大な架け橋が掛けられている。

「あれが、里見のいる雨の宮殿……」

 隆はそう呟くと、隣の智子に無言で頷いたが、同時に涙が滲んだ。寂しい気持ちからくる娘に早く会いたい気持ちは無くなるということがないのだな。と、隆は悟った。隣の智子と肩を抱き合った。

24時間のお姉さんの電話はまだ続いていた。

「象に乗った人たちは、まだかしら……?」

 俯いていた智子は、一転して隆の持つ携帯に向かって穏やかな眼差しを向ける。まるで、一筋の希望というよりも、どんなことでも解決してくれる魔法を期待した顔である。


「もうすぐです。後、30分くらいで到着しますから、それまで正志さんたちと高山に隠れていてください。後は脇村兄弟ですね。脇村兄弟は戦闘機で空中へ現れますから、その時は私が話します。そして、これからの隆さんたちの未来に於ける行動を私が伝えます」

 24時間のお姉さんは静かに言った。

「解りました」

 隆は今度は高ぶる気持ちを落ち着かせて、冷静さを得ようとして深呼吸をした。ゆっくりと高山へと軽トラックを降ろしていく。禿げ上がった山だった。

荷台のジョー助とヒロは終始押し黙っていた。


「あ、雲が元に戻ったわ……。やっぱり帰りましょうよ!私はこんな世界なんて真っ平よ!」

助手席の瑠璃は、下に現れた雨の宮殿の規模を知ると悲鳴に似た声を発した。

 その顔は顔面蒼白で、雨の宮殿から目を逸らし、これからの戦いなどは目を瞑って耳を塞いでいたいと思っているのだろう。

 正志は緊迫している顔を引き締めて、

「神さまがいるから、何とかなるさ。瑠璃。俺が死んだら。無事に元の世界へと帰ってくれよ……。なんてな……」

「嫌よ!! 私一人で帰れるわけないじゃない!! お願いだから帰りましょうよ!!」

「瑠璃。解ってくれよ……。どうしても、俺は隆さんを見捨てられないんだ。隆さんは娘のためと下界の世界で、一年間も変人扱いをされてるんだ。そんな人を俺はどうしても見捨てられないんだよ……。それに、俺は一度受けた仕事はどうしても最後までやりたいんだ。ここで、隆さんの娘さんを……いや……隆さんの家族を守るんだ。俺の人生は遊んでばかりいたが、まだまだ無駄じゃないって思うから。だからさ……。解ってくれよ瑠璃。……すまない。」

 正志は真っ青な顔で力なく言葉を並べる。けれども、その声色には並々ならぬ誠意の灯が芽生えていた。正志はここへ来て、この依頼で死んでも人生に悔いはないなと思っているのであろう。震えを極力抑えた手でハンドルを握り、高山へと赴いた隆の軽トラックの後ろに続いた。


 木が至る所で剥げ落ちている高山に隆は軽トラックを停めた。正志のカスケーダも軽トラックの隣へとゆっくりと停めてきた。

 精悍だが焦りを抑えるのに必死な隆と、穏やかな表情のままの智子が車から降りると、緊迫した顔の正志も車のドアを開けて歩いてくる。

 車の助手席にいる瑠璃だけはシートベルトにしがみついて、顔を突っ伏していた。小刻みに震える肩をシートベルトを掴むことで、恐怖をなんとか克服しようとしているのだろうか。軽トラックの荷台からジョー助とヒロが降りて来た。

「どうやら、とんだところだね」

 ヒロはスキンヘッドを撫でて遥か下方にある雨の宮殿に視線を向ける。

「ああ、神々の住む都市よりは小さいが、とても大きな宮殿だ」

 ジョー助は目を細めて宮殿の正門を見つめていた。

 隆も雨の宮殿の規模に正直、度肝を抜かれた。

 こんなところに娘がいるんだ。


 隆は嗚咽しそうな心を必死に抑える。


 俺の娘はきっと、また寂しい思いをしているのだろうか?


 俺はどうしたらいい?


 でも、会えたなら……会えたらなら……。

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