第37話 『棗倶楽部』
あの日棗が智也の結婚式会場から姿を消したのは、母の意地悪い言葉が原因だと李仁は思っていた。だが、事はそう単純明快なことでは無いらしい。
狭山が店を去る時、「もう一つのトリガーだ」と言っていた事も気にかかる。
そして何よりも、棗が何処へ行ってしまったのか。自分はあまりにも棗の事を知らなすぎる。
冷静に考えれば不思議な存在だった。いつの間にか己の中に入り込み、いつの間にか深く心に食い込んでいた。そしていなくなった今も棗と言う楔はがっちり食い込んで己を離さないのだ。
狭山に棗は何を話したのか、恐らく狭山はそれを言わない。患者の秘密は墓場まで持って行くだろう。知りたい。棗の事が知りたい。棗が居なくなって初めて李仁は強く思った。
棗の切れ端は何処にある?唯一の手掛かりであるはる君は死んでしまった。
後は何だ?
棗には祖母がいると言っていたが、実家の場所も良く知らない。
ならば大学教授はどうか。
大学の名前も教授の名前も分からない。
李仁は家に戻ると、棗の衣類が仕舞われている箪笥をひっくり返して棗の痕跡を探した。身分証明書になるような物は無いのか。すると、何か紙のようなが物が入った茶封筒が、たたまれた着物の間からパサリと足元に落ちて来た。李仁はそれを拾い上げて中を開いた。中には四万円ほどが入っていた。封筒を改めて見ると、そこに大学の名前が印字されていた。
いつか棗と一緒にいた初老の大学教授。その顔や風貌を李仁は朧げだが覚えていた。棗に繋がりそうな細い糸を手繰るように、その教授を探し出すしか手立てはなかったのだ。
仕事をしている以外の全ての時間を、李仁はその大学教授を探し出す事に費やした。職員名簿を手に入れ、何とか名前だけは分かったが、個人情報の壁に阻まれ連絡先までは分からない。李仁は何日も校門前でまるで刑事ドラマのように粘り強く待った。そうして数日経った昼下がり、待ちに待った大学教授は現れた。
「稲本教授…!稲本教授ではありませんか?」
李仁は彼を追いかけると、大学の敷地内に入る直前に捕まえた。
「そうですが…」
李人は膝に手を当てて息を切らせながら教授に尋ねた。
「あのっ、あの…、白山棗さんをご存知ですか」
教授の瞳が狼狽えたのを李仁は見逃さなかった。
「知っていますよね?見たんです。貴方と彼が一緒にいるところを!教えてください!棗の事ならどんな事でもいい!お願いです!もう貴方しかいないんだ!」
一気に捲し立ててくる李仁を通りすがる学生達が怪訝そうに眺めてくる。教授は慌てて李仁の腕を取ると、立木の影へと引っぱり込んだ。
「分かりましたっ、分かりましたが、貴方は誰ですか?」
「失礼しました。私は藤城李仁という者です。棗が貴方のお手伝いをしていた事を知っています」
「…あ、ああ、確かに、手伝ってもらったことはあるが、何故そんな事を聞くんですか。棗君とはどんなご関係で…」
「亭主です。いや、少なくとも伴侶だと思ってます」
そう言うと、教授はかなり驚いた表情をした。
「あ、あの子に、伴侶…?柘植さんは亡くなったのでは…」
「柘植さん?」
「はい。火事で亡くなった拓殖晴臣君ですよ」
「え?!何ですって?晴臣…はる君』の事ですか?!教授は彼と棗の事をご存知なんですね?!
教えてください!棗の事をもっと!お願いします!」
「い、いやっ!知らない!私は良くは知らないよ!知っていたとしてもこれくらいだから…っ」
やましい事でもあるような慌てぶりでこの場を去ろうとしている教授の腕を李仁は捕まえて言った。
「過去を責めるつもりはありません!ただ知りたいだけなんだ、棗と言う人のことを!」
過去にこの教授と棗に何があったかなど李仁は知らない。完全に当てずっぽうだった。
教授と一緒にカフェに居た時の違和感を信じてカマをかけたのが当たったのだ。李仁は強気に出ても行けるという確信を得た。
「ここで大声で喋ってもいいんですよ?」
「ま、待ってくれっ、授業が終わったら、君の話を聞こう!」
「名刺を下さい。そこに時間と場所をお願いします」
李仁はこの細い糸を決して離さない覚悟だった。教授から待ち合わせの時間と場所を記された名刺を受け取ると、自分の名刺も差し出し、取り敢えず教授と別れた。何故あんなに慌てていたんだろうあの教授は。
指定された時間、李仁は指定された店で教授を待っていた。品の良い個室のあるカフェだった。
「お、お待たせしました」
約束通り教授は現れた。李仁は取り敢えず昼間の非礼を詫びた。
何から話せばいい。
「あの、棗君は…元気にしていますか」
先に教授が口を開いた。
「私が別れた時には、棗は混乱し、酷く憔悴していました。今は元気かどうかも分かりません」
「そうですか…その、『棗倶楽部』の事は本人から聞いたのですか?」
李仁が脅した事が余程恐ろしいと見える。年甲斐もなくおどおどしい様子が滑稽だった。それは初めて聞く単語だった。
「…『棗倶楽部』とは何ですか?」
「えっ、貴方は知っているんでしょ?知っているからあの時私を脅したのでは…ま、参ったな、いや、参った、、、」
狼狽え方が尋常では無い。教授は吹き出した汗を然りにハンカチで拭っている。
「酷いですよ、これじゃ騙し打ちじゃ無いか!わ、私は失礼する!」
李仁は立ち上がって帰ろうとする教授の腕を取って引き留めた。
「待ってくれっ!貴方をどうこうするつもりは毛頭無いんだ!ここで聞いたことは忘れます!ですから教えてください!オレは知らないといけないんだ!」
弱ったなあ、と教授の心の声が聞こえて来る。一向に腕を離さない李仁に、とうとう根負けするように教授は座り直した。
「私も今よりは若くて、ちょっとした好奇心だったんだ。『棗倶楽部』は彼の父親が主催していた淫行パーティーの事です。
少人数で月に数回ほど行われていたんですが、そこで…棗君はホステス役を…していたんです。
ホステスと言っても酒の酌では無いですよ?わかりますよね」
声を潜め、李仁に顔を寄せ、小声で話すその内容は俄かに信じられないものだった。まるで現実味のない、ドラマか小説の中のような世界。
「ホステスって…、棗はその時いくつだったんですか!」
「…十五か十六かその辺りでは無かったかと思います」
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