第33話 残酷な時限爆弾

智也は車の窓ガラスに張り付くように鬼の形相で中を覗き込んだ。咄嗟の恐怖で棗は慌ててロックをしようと手がもがくが、動揺してうまくかからない。その隙に智也が一気にドアを開けて上半身を中へと突っ込んで来た。


「と、智也さん…っ?!な、何でっ!」


智也は強引に棗のシートベルトを外して、白い長袖Tシャツの胸倉を掴むと勢いよく車外へと引き摺り出した。


「やっ…やめて!やめて下さい…智也さん!!…ひ…っ!」


棗は道路に引き摺られるように尻餅をついた。キャプとサングラスが転がった。

それでも智也は胸ぐらを掴む手を放さない。開いたドアに頭を擦り付けるようにして揺さぶられた。

気乗りのしない外出の褒美がまさかこの様なものだとは。思いがけない出来事に棗の頭はクラクラしていた。


「お前なあ!何やってんだよこんな所で!李仁が毎日どんな思いをしていると思ってるんだ!!

俺、言ったよな。李仁を玩具にしたら許さないって…!」


「ちが…っ、誤解です!これは…っ、、」


はたから見れば、か弱い女が道端で暴力を受けて脅されている構図だ。

外の喧騒に、慌てて狭山が車へと戻って来るとこの騒ぎだった。


「アンタ何やってるんだ!彼を離せ!!」


狭山は転んでいる棗の元に駆け寄って、智也の手を胸倉から引き剥がして突き飛ばした。

無論、二人は面識などは無い。

突き飛ばされた智也は突然現れた男を怪訝そうに睨んだが、狭山もまた同じような眼差しを智也へと向けていた。


「しかも…何だ、この男は!」


智也は責めるような目つきで、もう一度棗の胸に腕を伸ばしたが、それを狭山が阻止して厳しい口調で言い放った。


「僕はこの人のカウンセラーだ!アンタこそ誰だ!いい加減止めないと警察を呼びますよ!」


「俺はこいつの亭主のダチだ!

カウンセラーだと?そんな怪しい話が通用するか!どう言う事なんだこれは!アンタがこいつをかどわかしたのか!こっちが警察に訴えたっていいんだぞ!」


智也は浮気現場を発見したような気持ちだった。

この時の智也の目には、親友の妻が別の男と不貞を働いた上の逃避行の図にしか写らなかったのだ。この時、智也もまた李仁への恋慕が故に頭に血が上っていたのだった。


「このまま李仁のところに戻るなら、俺がこの場で連れて行く。さあ、どうする」


狭山は詰め寄る智也と棗の間に割り入った。


「棗さんは李仁さんに手紙を書いた筈だ。暫く時間をくれ、必ず帰ると」


「それはこいつが一人でいると思ったから李仁は耐えたんだよ!別の男と一緒となると話は違う!」


俯いて立ち上がる棗の目からは涙が溢れ出していた。

戻るとも、戻らないとも今の棗には答えられず、それを優柔不断と受け取った智也は、そんな棗を見捨てるように後ろを向いた。


「今、李仁が近くにいる。李仁に逢いたければ鈴ヶ森埠頭だ。俺が言えるのはそれだけだ」


それだけ言うと、智也は自分の車へと振り向きもせずに戻って行った。

タイヤをキャン!と鳴かせながら智也はその場を立ち去った。

始めは李仁と共に幸せになれたらそれで良いとさえ思っていたものが、この日この時から、棗と李仁は一緒になるべきではないと考えは180度変わってしまっていた。

去り際に李仁の居場所を教えたのは親切心では無かった。棗に引導を渡すためだった。

棗が埠頭に駆け付けた時、李仁と風夏が二人きりでいる場面を目撃する事になるのだ。

智也は棗に必ず爆発するとは限らない残酷な時限爆弾を仕掛けたのだった。


棗は無気力に助手席に戻ると、魂が抜けたような顔で一点を見つめたままだ。

李仁が近くにいる。

まるで魔法にかけられたように、その言葉だけが頭の中を反芻していた。


「彼に会いたい?」


静かに発進した車の中で、狭山はそんな様子の棗を気にかけ、横目でその表情を覗った。

棗は狭山の問いには答えずにずっと俯いたままだ。

車が信号でゆっくりと止まった瞬間だった。矢庭に棗は顔を上げた。シートベルトを外し、再び動き出した車から外へと転がるように飛び出した。

あっと言う間の出来事だった。


「棗さん!!」


咄嗟のことに狭山は慌てたが、動き出した車の流れに抗えず、人混みに棗を見失いながらも狭山はそのままアクセルを踏むしか無かった。


鈴ヶ森埠頭。鈴ヶ森埠頭。棗は頭の中で繰り返しながら、埠頭への道を走っていた。

信号が赤になっているにも拘らず走る足も、李仁に向かう心も止められなかった。クラクションを鳴らされても耳には入らなかった。

そこに行けば李仁に会える。その一念だった。

己をしっかり見つめ直せるようになるまでは会わないと決めたのに、李仁が側にいるのだと思った瞬間、もう耐えられなくなっていた。

階段を駆け上がると視界が開けた。夕暮れ間近の海が潮風を孕んで棗を包んだ。

すれ違う人々はトワイライトを楽しむカップルばかり。その中を一人、背の高い懐かしい姿を探して棗は走った。

海に落ちて行く雲間の太陽が残照を放った時、海に突き出したカフェのテラスに李仁が佇む姿を棗は見つけた。

夢にまでみた見間違いようもない愛しい人の凛々しい着物姿。


「李仁さ、ん…っ、」


荒い呼吸に声が掠れる。最後の力を振り絞って棗が叫んだ。


「李仁さん!!」


李仁は棗の声を聞いた気がして視線を巡らせた。海の方から聞こえた気がしてデッキの手すりに身を乗り出して声の主を探した。


「リー君。はい、コーヒー」


その時、背後から風夏の声がして、李仁は風夏の方に視線を向けた。

風夏は買ってきたコーヒーをにこやかに李人に差し出していた。


「あ、ありがとう」


気もそぞろになりながら、李仁はそのカップを受け取っていた。

それは棗を探す李仁に向かって、棗が手を振ろうと手を上げた瞬間の事だった。


風夏が李仁に微笑んでいた。

李仁がありがとうとコーヒーを受け取っていた。

目の前の二人は仲良さそうに寄り添って見えた。


待っていてくれると思っていたのに。


智也の仕掛けた時限爆弾は音もなく静かに破裂した。

棗の足元がまるで砂地に立っているように崩れて行った。

埠頭に夜の帳が訪れ、棗の姿を隠して行った。

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