第34話 羽化の兆し
狭山が棗を見つけたのはとっぷりと日の落ちた埠頭のベンチだった。夜のしじまにキラキラと連なる水平線の明かりを、棗はただぼんやりと眺めていた。その顔には喜びも無ければ悲しみも無い。ただ潮風に髪を弄ばれているだけだった。狭山は棗の隣に座り、同じように暗い海を眺めた。
「…彼には会った?」
「はい」
「ついて行かなかったの?」
「…はい」
「…何かあった?」
「…カウンセリング、ですか?…話した方が良いんですかね」
狭山の方を一度も見ずに淡々と話す棗。思考がフリーズする程の何かが起こったんだと狭山は悟っていた。
「…あの二人、お似合いだったな…。私が逆立ちしても敵わないや」
握った両の拳で目を覆い、漸く棗は涙を流すことが出来たのだ。
棗の身に何が起こったのか、その時狭山は知ったのだった。
棗はもっと自分が激情に駆られるかと思っていた、だが悲しみはただ静かに棗の頭上で暗闇のベールを垂れた。
運命の悪戯としか言いようが無い。あの時、風夏より早く李仁が棗に気付いていたら、運命は別の方向に転がっていた筈だった。棗は暫く狭山の肩を借りて静かに涙を流していた。狭山は言葉も無く、穏やかに棗の肩を抱いていた。
「どうしたい?君はこの先どうしたい?…カウンセリングを続けるかい?それとも…もう必要無くなった…?」
元々、李仁が居たからこそのカウンセリングだった。今、目的を失った棗はもうそんなものは必要がないのかも知れない。この先、また愛する誰かが出てきた時のためになどと、漠然とした思いでは再び過去と立ち向かう勇気など持てるとは思えなかった。今は心に空いた大きな穴を修復する事が重要に思えた。
「しばらく気ままに家で過ごせばいいよ」
抱いていた棗の肩が夜気に晒されて一段と冷たくなって行くのに気づき、狭山は棗を抱えるように立たせた。
「帰ろう?夜の海風は体に良く無いからさ」
棗は素直に立ち上がると、狭山に支えられながら埠頭のベンチを後にして行った。
ほんの数秒の行き違いだった。風夏を送り届けた李仁は、どうしてもあの時、棗に呼ばれた気がして埠頭へと引き返して来たのだった。暗い埠頭に等間隔で街灯が灯り、数組のカップル達が身体を寄せ合っていた。一人で佇む人影など李仁を除いては皆無だった。
気のせいだったのか。
李仁は肩を落としてベンチに腰を下ろした。そこにはまだ人の温もりが残されていた。どんな幸せなカップルがここに座っていたのだろう。我が身と照らし合わせると無性に寂しさが募った。そこにはさっきまで棗が座っていたとも知らずに。
車は海沿いを走っていた。真っ黒な車窓は何も見えなかったが、テールランプに照らされた細かい雨粒が窓を流れて行くのを、美しいものでも見るように棗は見つめていた。静かに流れてくるサウンドは何の曲かも分からないが、この光景に良く似合っていた。
「狭山さん。ずっと支えて下さって有り難うございました。
狭山さんが居なければ、私は今も混乱したままだったかもしれません」
「どうしたの、突然。僕の事なんて疎ましいと思っていたくせに」
「ごめんなさい。私はきっととても可愛くなかったと思います」
棗の何処か達観した物言いが気にかかる。まさかよからぬ事でも考えているのではあるまいか。狭山は嫌な予感がして、棗の顔を一瞬だけ覗き込んだ。
「なんだか君らしくないね。そんな風に素直になられると怖いよ」
「ふふっ、酷い。でも、本当に素直じゃありませんでした…」
しばらくの間、沈黙が車内を包んだ。雨を払うワイパーの音だけが響いている。暫くして棗が口を開いた。
「狭山さん。私と話をしませんか」
「ええ?話ならさっきからしてるじゃない」
狭山は話の真意が見えなかった。そんな狭山に棗がポツリと言った。
「…軀で話をしましょう?」
狭山は驚いてハンドルを取られた。対向車線の車にクラクションを鳴らされてあわやと言う所を立て直した。
「凄い冗談だね!今世紀最大のジョークだ!」
「冗談なんて言ってません」
棗は大真面目な顔をしていた。いつもクールに構える癖のある狭山でも、流石に今回ばかりは狼狽えた。
「ダメだよ。自暴自棄になってそんな事、」
「自暴自棄になっているように見えますか?狭山さんなら違うって分かるでしょう?私は言葉でお話しするより軀でお話しする方が…ずっと饒舌です。ダメですか?」
「ダメだよ!そんな事…!」
「いつも狭山さんは私に言ってくれましたよね。快楽は悪い事じゃない。君は悪くないって。悪くないなら何故ダメなんですか?道徳感とでも言うつもりですか?こんな私を肯定しておきながら?」
言葉も恐ろしいほど饒舌だった。狭山の言葉を逆手に取った物言いは、とても自暴自棄になった人間の台詞とは思えなかった。だからと言って、李仁の事を諦めたとも思えない。棗が何を考えているのか、さしもの狭山ですら測り兼ねていた。沈黙する狭山に棗が言い募った。
「一度きりです。私のやり方で貴方と話がしてみたいです」
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