第32話 出て来い!

 ここの所、李仁は自分の台所代わりになっている風夏の店で、一人味気ない夕食を摂るのが常だった。

 味気なくとも、少なくとも人が行き来する場所に身を置いていたかったのだ。

忙しそうに立ち働くカウンターの風夏を眺めていると、手の空いた少しの合間にカウンターを移動して来た風夏が、李仁に小声で話しかけて来た。


「リー君、明日お店お休みの日でしょ?私とデートしてくれない?」


 デートを誘う言葉にも、女特有の生々しさは無い。実にさらりと言って来た。長年の付き合いで、こんな風に誘われたのは初めてだった。李仁はそこに誰かの意図を感じてジャブを打ってみた。


「若女将、もしかしてお袋に頼まれた?」


「あら、失礼しちゃうわね。違うわよ。純粋なおねだりよ」


「オレなんかじゃなくてもっと良い人がいるだろう?風香さんはおモテになるから」


 皮肉でも何でもなかった。良く常連さんや男友達と出歩いている風香を見かけていたのだ。

 こんな時に、こんな風に誘って来られると、今の李仁は母の差し金かとつい勘繰ってしまう。


「女盛りが誘っているのに連れないのね。

実は甥っ子の誕生日にネクタイを上げようかと思ってるんだけど、リー君センスいいでしょ?手伝って欲しいのよ。ダメ?」


 毎日美味しい食事を提供して貰っている身としては、風夏にこんな風に頼まれたら、断るのも気が引けた。

 気分の塞ぐ毎日に没我していた李仁には気が重かったが、どうせ家に居ても誰がいる訳もない。死ぬほど退屈な時間を持て余すよりは良いかもしれないと引き受けた。今は焼き餅を焼いてくれる人も居ないのだ。


 二人は駅前で待ち合わせをした。初めて棗とデートの約束をした時も駅前で待ち合わせをした。棗は遅れて、はる君と別れてきたのだと泣いていた。

 一年前の事なのに、随分昔の事のように感じる。もう一年。まだ一年。あの時の棗の急いた下駄の音が耳に残っている。

 雑踏に目を閉じて、あの日の下駄の音を耳が探すと、微かに遠くで下駄の音が聞こえてくる気がした。それは記憶と重なるように李仁へと近づいてくる。ハッと目を見開いて近づくその足音に振り向いた。


「棗…っ!」


「お待たせ、リー君」


 そこにいたのは棗ではなく、いつも店で見る馴染みの着物姿の風香が立っていた。


「待った?」


「…いや」


 李仁は気持ちを置き去りにした笑顔を浮かべながら、二人連れ立って雑踏の中へと消えて行った。


 その頃、智也は真面目に仕事をしていた。結婚をしたからには働いている姿でも見せないとならない。

自らが運転する車の中で、引っかかってしまった渋滞に苛ついていた。

 こうしていても、今日は店が休みの筈の李仁が孤独を持て余しているのではないかと気にかかって仕方ない。

 妻の手前、李仁とばかりつるんではいられずに、結婚の不自由さをひしひしと智也は感じていた。

 そんな事を考えていた折も折り、目の前の横断歩道を渡ってくる目立つ着物姿の二人連れが目に入る。

李仁と風夏だ。

 智也は一瞬、複雑な気持ちになった。棗の事は気に食わなかったが、二人には上手くいって貰いたい気持ちだった。

 李仁は棗を待つと言っていた。なのに早速、風夏とデートしている姿に釈然としない思いが過ぎった。

 車はまだ交差点の所で動かなかった。横断歩道を渡ってこちらに向かって来る二人に向かって軽くクラクションを鳴らした。それに二人が気づくと、智也は窓を開けた。


「よう、お二人さん!デートか?」


「あらトモくん!お仕事?」


「最近は真面目だな。かみさんの尻に敷かれてんじゃないのか?」


「うるさい!黙れ!

何?今日は二人で何処行くんだ?」


「もう行ってきたのよ」


 そう言うと、風夏はネクタイの入った袋を掲げて見せた。


「今から鈴ヶ森埠頭で景色を眺めて帰るところよ。トモ君が仕事じゃなかったら三人で行けたのにね」


「アッハッハ!良く言うよ風夏さん。流石商売人だな」


 すっかり話が盛り上がっていた所を動き始めた後続車が早く行けと、クラクションを鳴らした。智也は慌ててアクセルを踏んだ。去り際にクラクションを二回鳴らし、手を挙げるとその場から離れた。


 智也はそれからずっと、二人のことが頭を占めていた。風夏は李仁の母が李仁の嫁にと切望する女だ。そこへ持ってきて、棗の事で神経をすり減らしている今の李仁とのツーショットだった。

 世間的に見ても、李仁と風夏が結婚する方が自然なのだろう。四つ年上の姉さん女房と年下の男の嫁さん。どちらに軍配は上がるかと言えば一目瞭然のような気がする。

 智也はざわついた気持ちを押さえながらも、目の前の仕事を片付け、お得意様から帰る所だった。駐車場から少し狭い道路に出ると、一台の白いクーペが路肩に止まっている。こんな狭い道で邪魔だなと智也がチラリと車を見ると、運転席から降りて来た男が近くの店へと入って行くのが見えた。

 だが助手席に人影がある。キャップを目深にかぶり、顔の半分が覆われるほど大きなサングラス。色白で小柄で一見男か女か判別がつきかねる。まるで棗のような人物。


棗のような?


 車で脇をすり抜ける智也は目を疑った。


「白山…なつ、め…?」


まるでスローモーションを見ているようにゆっくりと、そして確信を持って目の中に飛び込んだ。

 智也は反対側の路肩に車を乗り上げ猛然と外へ出て来ると、その白いクーペの助手席のドアへと取り付いて怒鳴り声を上げた。


「お前!!

出て来い!!白山棗!!」

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