第31話 恋恋歌
棗と狭山は差し向かいで座っていた。過去の自分と対峙ししている棗は時折感情の昂りに言葉に詰まりながらも少しずつ狭山に己の過去を喉から絞り出していた。
「これでも最低じゃ無いって言えますか?私の過去なんて最低最悪ですよ。醜くて話にならないでしょ?私は可哀想な被害者なんかじゃありません!こんな汚らわしい世界が好きで好きで堪らなかったんですよ。こんな人間…助けてやろうなんて思えますか?」
棗の全身が戦慄いていた。両手で自分の両腕を摩っても擦っても震えは止まらない。狭山には棗が流す涙が血の色に頬を染めているように見えた。そして狭山は黙って棗を抱きしめた。
「君は醜くも汚らわしくも無い。快楽に流されるのは人間だからだ。大丈夫だ。君はそのままで良いんだよ」
「気休めを言わないで下さい!李仁さんのお母様の言ってることは正しいです!」
「じゃあ、彼を諦める気なのかい?」
棗は激しくかぶりを振ると涙が散った。しゃくり上げながら幾度も幾度も涙を手で拭った。
「もう遅いです。今更です…っ、…気がついた時は好きになってた。…一緒に暮らし始めて取り止めようもなく深く愛している事に気がついた。愛の歓びを識るたびにどんどん苦しくなって…っ、
なのに…なのに彼といると幸せなんです…っ、う、ぅ、っ、、」
棗は声を喉奥で押し殺して咽び泣いた。幸せならそれで良いじゃないかと人は言うのだろう。素直に幸せになれない人間がいる。歓びに出会うと尻込みしてしまう人間がいる。傷を負ったものにしか分からない苦悩を狭山だけは分かってやれた。
棗の涙が止まるまで、狭山は棗を抱きしめ耳元で繰り返した。君は穢れてなどいない。快楽は罪ではないのだと言うことを。
一頻り泣いて疲れた棗をベッドに寝かしつけると、狭山はその寝顔を眺めながら棗の心の在り方を探った。
性に対しての羞恥心を奪われながらも、体は奔放に造られた棗が本当に愛する事を覚えた時、過去の自分を激しく嫌悪した結果、自家中毒を起こしてしまった。恐らくそうなのだろう。
だが狭山はまだ他に、大きなトリガーが潜んでいるように思えた。棗に絡まる太い糸がまだ何かあると感じていた。
それから棗は口を閉じたきり、自室から出てこなくなってしまった。そんな棗に狭山は食事だけをせっせと運んだ。手をつけて貰えない日もあったが、根気強く粘った。
棗は狭山に過去を告白してから頭も身体も鉛で塞がれたようだった。
一旦吹き出したどす黒い物は棗を包めて、なかなか逃してはくれなかった。手を動かす事も足を動かす事も、全てが億劫だった。
自室のベッドに寝転がって、スマホを日がな一日中眺めて過ごした。
一日のうちの何時かは李仁もきっとスマホを見ている時があるだろうと思うと、スマホを手にするとそこに李仁の温もりさえ感じた。今にも李仁がスマホを見ているかもしれない。
メールも着信もどのくらいあるのか怖くて見られなかったが、ボタン一つで李仁に繋がると思うと、スマホから目が離せなくなっていた。
何とは無しに導かれた何処かのサイトに流されてきた。そこは様々な人が様々な心模様を綴っていた。
つらつらと眺めていると、一編の詩篇のようなものが棗の目に止まった。
『この胸に花は咲く。
毟っても千切っても花は咲く。
忘れたくても忘れられない君が咲く。 龍』
まるで今の棗の心持ちだった。これを書いた人の悲しみや苦しみが棗の心に流れ込むようで、何度もその詩篇を読み返した。
匿名のそこは返信機能など無く、ただ綴られた言葉が流れていく。棗は思わず、その詩に寄せて言葉を綴っていた。きっと書いた誰かに気づかれる事も無いだろうけれど、どうしても書いてみたかった。
綴り終えると棗はその詩に虎と言う名前を書いた。
いつか見た屏風絵に、虎と龍が真っ向から対峙し、一歩も引かぬ形相で睨み合っている図が描かれていた。棗はその迫力に圧倒され、魅了され、暫く眺めていた事を思い出した。
龍の名前を見た時に、それと対峙していた虎と言う文字が自然と頭に浮かび上がった。
どうせ誰にも届かずに流れていく言葉だ。分かっているのに自然と指が動いていた。
李仁は今日も、風夏の店のカウンターで酔えないひとり酒を飲んでいた。ベロベロになってしまいたいのに、こんな時に限っていくら飲んでも酔えなかった。
風夏もカウンターの客を相手にばかりはしていられない。一人ぼっちになった時に、何となくスマホに手が伸びた。何度、メールを送っても、何度電話をしてみても棗からは何の返信も無い。
ネットに繋ぐと消し忘れた履歴に指が触れた。いつぞや自分の愚痴めいた詩のようなものを綴った事を思い出す。
「馬鹿だよな、こんなとこに愚痴なんか書くとはオレも終わりだ」
その窓を閉じかけた時、不思議な詩篇が更新されているのに気がついた。それはどう見ても、自分への詩篇の返歌に見えた。
『毟られても千切られても花はきっと咲くでしょう。心に種がある限り。 虎』
李仁は何度もその詩篇を読み返した。この言葉を綴った誰かも今、同じ思いに苛まれているのかもしれない。
棗が消えてから初めて李仁の心に暖かさのようなものが感じられた。
この夜、李仁はいつまでもその一編の詩を眺め続けていた。
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