第21話 意気地なし
一言聞けば良い。「君は火事の時あの場にいたね?」と。
大した事じゃない。
「行きませんでしたよ」でも「凄い火事でしたね」でもなんでも良い。あの火事と棗は関係無いと言う確証が欲しい。
だと言うのに、李仁は棗に何一つ聞く事が出来ない。恐らく、何らかの関係はあるのだ。しかもそれは最悪と言う名前をぶら下げているような気がする。そしてそれを明らかにしてしまえば、棗は自分から離れていくような気がする。
本当のところ李仁はそれが怖くて聞くことが出来ないのだった。
あれから三日ほど棗は体調不良で寝込んだ。はる君と工房の人形達は共に天国に召されたが、棗が本当に天国に葬りたかったものも。恐らくはる君と共に昇天したに違いなかった。
李仁の預り知らぬ所で、棗が何をしたのか。或いは何もしていなかったのか、それは当の本人にしか分からない。
だがお互いに固く口を閉ざし、まるではる君なんて最初からいなかったかのように時が過ぎていく。
年末年始の忙しさに忙殺されて、その事は鉛のような塊だけを心に残し、日常に埋もれて行った。李仁はいつか真相を問いただす自分が想像できなかった。
「もう八ヶ月になるんですね。李仁さんと出逢ってから。何だかもっと長い事貴方と過ごしているような気がします」
この所以前と比べると妙に落ち着いてしまった棗が店の帰り道、雪のちらつき始めた鉛色の空を見上げて言った。
「ああ、本当に。長年連れ添った夫婦のような気持ちになるね」
「そうですね、最近はご無沙汰でしたしね?」
悪戯な目つきで棗は李仁を見上げた。はる君の一件からガタガタのメンタルに加え
「明日は元旦だしな。今夜は除夜の鐘を聞きながらの姫始めと行くかい?」
「姫始め?」
「新年一発目のえっちの事をそう言うらしいぞ?」
「除夜の鐘って、鐘一突きで一つの煩悩が払えるんですよね?
ならだめじゃ無いですか?竿一突きで煩悩を一個増やすような事しては。払っても元にも戻ってしまいますよ?」
「結局、人の煩悩なんて底に穴の開いたバケツと同じさ。汲んでも汲んでも尽きはせんよ」
他愛のない下ネタな会話に笑い合う二人だったが、そこに薄い膜一枚分程の隔たりのような物を感じるのは、はる君がかけた最後の呪いなのか。
結局、疲れてこの夜は姫初めとはいかなかったが、翌朝早くに、近くの神社へと開店前の初詣となった。
この神社はここら界隈の氏神様だ。李仁も幼い頃から、元日の開店前には、お参りをするのが慣しとなっていた。
清々しい早朝の神社は、普段は人も疎らだが、流石元日ともなると賑わいを見せていた。棗と李仁も肩を並べて参拝した。
「ふふっ、李人さんは何をお願いしたんですか?」
参拝を終えると二人はのんびりと玉砂利を踏み締めて歩いた。
「今年は棗のご両親にご挨拶出来る様にとね」
棗は暗い顔で俯き、やがてその歩みが止まった。
「良いです。うちは放任ですし、第一海外に行ったきりですし」
「全くご挨拶しないと言うわけにはいかないだろう?ご職業は何をされているんだ?」
「…が、……外交官です」
言い難そうに小声で口籠る棗に李仁は少し驚いた顔で歩みを止めて振り向いた。
「驚いたな、オレの周りに外交官なんて知り合いは一人もいない。本当に外交官なんて職業の人がいるんだな」
大袈裟かもしれないが、心底そう思っていた。
そんな時だ。背後からガヤガヤとお喋りをしながら歩いてくる一団があった。
「あらまあ、李仁。貴方も来ていたのね初詣」
母の声だった。母が商店会のおかみさん連中を引き連れて初詣に来ていた。
「どうも、明けまして…」
はっきり言わない李仁の横で、棗は恐縮するように頭を下げた。
「明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします」
それを受けた母は何処か尊大な態度で「おめでとう」とだけ軽く会釈しただけだった。
独立してから居を移した李仁を久しぶりに見た商店会のおかみさん達は、
棗も李人も困った顔でペコペコと訳の分からないお辞儀をくり返す。
そんな女将さん達に混じって控えめに声を掛けて来たのが、あの小料理屋の若女将の風夏だった。
「リー君。明けましておめでとうございます。今年もお店に遊びに来てね。隣の可愛いお嫁さんも一緒にね」
品のある落ち着いた着物姿の美人の登場に、棗の顔が一瞬曇った。李仁をリー君などと親し気に呼ぶこの女は誰だ。
李仁も和やかな表情で風夏に挨拶をしている。棗は作った笑顔の下で、嫌な感情を押さえ込んでいた。
「まったく、貴女がもう少し積極的に李仁にアタックしていたらねえ。ほんとうに貴女は奥手なんだから」
母の嫌味で無神経な一言でその場が凍りついたのは言うまでもなかった。
「おばさま!」
失礼ですよ。と慌てて風夏は続く言葉を濁した。
「そうですよー、もうこんな可愛らしい方が居るんですから、おめでたいじゃありませんか」
商店会の女将の一人が気を利かせたが、作り笑顔の棗は泣きたい気持ちを抑えるのに必死だった。
それを痛いほど察した李仁は、挨拶もそこそこにその場から離れた。
「気にするな、棗。お袋は誰に対してもああだから」
「あの方。どなたですか?李仁さんをリー君って呼んでました」
後ろから李仁の袖を棗は握りしめてトボトボ歩く。その手を李仁が握りしめる。冷えた手が小刻みに震えていた。
「小さい頃から見知った人だ。智也の事だって彼女にかかればトモ君だ。姉さんみたいな人だから、棗が気にする事はないよ」
「でも、お母様は本当はあの方と結婚させたいとお思いだったんですね」
「棗!よせよ、もう考えるな!」
李仁にそう言われたからと言って棗の気持ちが直ぐに浮上する訳もない。両目から涙が溢れ出る。
無理もない。李仁の母親にあんなあからさまな態度を取られ、親し気に李仁をリー君と呼ぶ女性が突然現れた。
それが李仁の子供も産めるであろうちゃんとした『女性』であり、李仁の母のお気に入りだったのだから。
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