第22話 亡霊

 柔らかい緋縮緬ひちりめん三尺帯さんじゃくおびで華奢な手首を縛られ、目隠しをされ、しなやかな軀がしどけなく夜具に投げ出されると、今から何が始まるのかとそれだけで棗の胸は高鳴ってしまう。

 視界を奪われ、素肌の上を柔らかい羽が撫でて行く感覚は、目隠しで否応なく視界が遮られている分、肌は鋭敏になり触れられる全てが快感に繋がっていく。

そうやって李仁に散々焦らされた軀は熱を孕み、羽で少し撫でられただけで頭がおかしくなりそうな愉悦に襲われてしまう。

 それをどうにかして欲しくて棗は李仁に泣いて懇願する。貴方が欲しい。貴方を下さいと。

 李仁は棗の腰が浮き上がるほど激しく律動し、その乱れる妖艶な姿は李仁をどこまでも駆り立てた。


「も、ダメ!李仁さんっ!もうっ、もう果てますっ!お願いっ、目隠しを取って下さい!取ってっ…!」


 李仁の愛しい顔を見ながら果てたいと訴えると、李仁は自分の昂まりを待って共に行こうと棗の目から、目隠しを外した。

 棗は愛しい男の顔を漸く正面に捉えると、悦びに満ちた恍惚とした表情を浮かべた。

 だが、その顔は瞬時に恐怖に引き攣った表情へと変貌した。


「ひっ!!!」


 視界が定まって来ると、棗の目の前で揺れる男が愛しい人では無い事が分かる。あのはる君が、薄笑いを浮かべて棗を犯しているのだ。絶頂感は恐怖にとって変わり、はる君の顔が歪み始めると、今度は棗の父に入れ変わる。


「やめてーっ!!嫌だ!嫌だ!来るな!!」


「!!!棗?!」


 突然暴れ出した棗に驚いた李仁が棗の手首を解放してやると、腕や手を振り回して李仁を追い払おうともがいている。


「どうしたんだ?!棗!しっかりしろ!」


 叫ぶ李仁の声よりも、棗の耳に聞こえてきたのは李仁の母の声だ。


「穢らわしい」


そしてあの着物美人がささやいて来る。


「私ね、リー君が好きなの」


 最後に目の前の男は智也になって棗を睨む。


「李仁を玩具にしたら許さない」と。


 棗はたまらず耳を塞いで丸まった。総毛立った皮膚はワナワナと小刻みに震え、涙で顔はくしゃくしゃだった。


「ゴメンなさい!ゴくメンなさい!ゴメンなさい!」


 何に対してなのか、誰に対してなのか、ひたすら棗は謝っていた。棗の中で何が壊れていた。

 記憶の遠くで棗を抱きしめる李仁の声がする。


「棗!!!」


「棗!!」


「棗!」






「だから、私は何も覚えていません。疲れていたから多分、それで…」


白いカーテンの下がる診察室。棗はきょとんとした顔で医者と付き添いの李仁の顔を交互に見た。


「そうですか、じゃあ不眠のお薬だけ出しておきましょうね。後は身体を休めてね、なるべくリラックスしてすごしましょう。今後この症状が続く様ならその時はまた考えましょう」


 医者は通り一遍の話をすると、何をしてくれると言うでも無く診察は終わった。

 棗達が診察室を出てすぐに、インターンの若い医師が棗の元に、診察前に記入したPTSDのチェックシートを持ってきた。


「記入漏れがあったので、ご記入願います」


 棗が記入している間、そのインターンの若者は棗を繁々と眺めている。優しげだが何処か冷たい印象の顔立ちだった。

 案の定、嫉妬深い李仁はカチンと来た。記入し終えたシートを受け取り去っていく後ろ姿を目で追っていると、棗が顔を覗き込んできた。


「李仁さん、怖い顔してますよ?大丈夫、李仁さんの方が素敵ですから」


 見透かされて少しばつが悪い。咳払いをして誤魔化した。


「それより、本当に大丈夫なのか?オレは心配だよ。またあんな事があったらと思うと、当分エッチな事は出来ないな」


「もうっ、すぐそっちの方に持っていくんだから!知りません!」


 可愛く怒って李仁をさっさと置いて歩いていく棗の様子を、さっきのインターンの若者が扉の影からじっと見ている。その口元はうっすらと笑っている様にも見えたが、そんな若者がいることを、棗も李仁も全く気付いてはいなかった。


 病院から帰ると、疲れた様子の棗が居間のソファに座り、衣桁いこうにかかった例の鈍色桜の着物をぼんやりと眺めていた。


「どうした?疲れたかい?今夜は寿司でも取ろうか」


「この着物、初詣に着なくて良かったです。これに袖を通す時はもっと晴々とした気持ちで着たいですから」


 その言葉を聞くにつけ、あの日母の意地悪い言葉と風夏の存在が、棗の心をどれほど傷つけたのだろうかと李仁は思う。

 棗の乱心の理由はそれしか見つからない李仁だったが、その奥底にもっと深い傷がある事までは分からなかった。


「棗、男の子の君が好きだよ」


「李仁さん…、有難うございます」


 しばらく二人は寄り添って、大きな窓の外を眺めながら座っていた。暮れて行く冬の澄んだ空に、うっすら月が滲んで見えた。

 棗は乱心の日の事を医者には覚えていないと言ってはいたが、本当は全て覚えていた。

 自分の問題はきちんと把握していたが、医師に全てを話すつもりは毛頭無かったのだ。

 それはあまりにも複雑で罪深い告白になるからだった。李仁に知られたく無い。ただその一念だった。


 同じ頃、夜勤の明るい病院の窓辺で、あのインターンの青年が、二人が見ていた同じ月を眺めていた。その手には棗のPTSDのチェックシートが握られている。それに目を落とすと呟いた。


「嘘ついていたな、あの美人」

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