第20話 炎

 炎はある。誰の心の中にも存在する。それがどんな色かよりも、どのくらい熱いかで人生が決まる時がある。いったい彼の心の炎はどのくらい熱かったのだろう。それは焼死しなければならない程の熱量だったのだろうか。



 昨夜、智也とバーを出たのは真夜中過ぎだった。

いつもは家に帰ると、どんなに遅くても出迎えてくれる筈の棗の姿が無い。寝室へ入ると、よほど疲れていたのか棗は身体を丸めるようにしてベッドで熟眠していた。

 酔っていた事もあって、適当にシャワーだけ浴び、棗を起こさないようにベッドへと李仁は潜り込んだ。何となく、いつもよりも棗の身体が熱く感じたが、強い眠気には勝てずに、李仁も直ぐに眠りに落ちた。

 翌朝、目が覚めてみると自分よりも早起きのはずの棗はまだ李仁の隣で丸まっていた。


「棗?どうした?

具合でも悪いのか?そういえば夕べ身体が熱かったが…」


 李仁は棗の額に大きな手を当てがった。やはり僅かに熱い。


「う、ん…、李仁さん。すみません、なんだか怠くて…頭が重いです」


「大丈夫か?医者に行くか!」


 緩慢な動きで寝返りをうつ棗に慌てて李仁は起き上がり、少し赤らんだ顔を覗き込んだ。


「だ、大丈夫です。明け方に薬を飲みましたから、直ぐに良くなると思います」


 ベッドサイドのテーブルには薬の箱と飲みかけの水の入ったグラスが置かれていた。


「いや、しかし医者に行った方がオレは安心なんだが…」


 尚も言い食い下がる李人の手を、棗は熱っぽい手で握り、己の胸元できゅっと握りしめた。少し潤んだ瞳が李仁を見上げている。


「大丈夫。それより、仕事に遅れてしまいますよ?一日中お利口にしていますから、お仕事に行ってください」


 なお渋り顔の李仁に念を押すように頷いて見せるとようやく李仁は医者に行くのを諦めた。


「いいか?具合悪くなったら必ずオレか救急車だ」


「はい、分かってますから。心配なさらず行ってください」


 山程後ろ髪を引かれながら、李仁は取り敢えず朝食をとるためにキッチンへと向かった。途中、リビングのTVを入れると、何やら昨日の火事のニュースらしかった。

 それに気を取られながら、李仁はコーヒーを淹れ、今日はコーンフレークと覚悟を決めて牛乳をかけたそれをリビングへ運んだ。

その間にも、炊飯器でせめて昼間の棗のお粥だけでもとセットし、漸くリビングに腰を据えた。

 ちょうど、TVが昨日の火事の現場を写していた。李仁はコレだと身を乗り出した。高いビルに挟まれた五階建ての建物から火柱が上がり、生い茂る蔦を紙屑のように燃え上がらせている。閑静な住宅街は野次馬で騒然とし、消防車が二台で懸命に放水をしている場面だ。ふと、その建物に李仁は見覚えがある事に気がついた。


閑静な住宅街。

高いビルに挟まれた。

五階建て。

蔦。


「!!!」


 李仁は椅子が床に倒れるほど驚いて立ち上がった。


『木花咲耶』…はる君の工房だ!


 布を頭から被せられた何かが、救急車で運ばれていく。それはもしや、あのはる君ではないか?!

 暫く呆然と李仁はTVの前で立ち竦んだ。まさかあの工房だとは全く想像だにしなかった。気を取り直して棗に知らせようかと足を踏み出したが、その足が止まった。

 この期に及んで、李仁が咄嗟に思ったのは、棗の動揺の事だった。風邪をひいて弱っているからではない。例え、同情といえども棗にはる君のかけらすらも思い出して欲しくは無かったからだ。後々、何かの形で知ったとしても、それは今では無い。

 元彼の死を知らせないと言うのは薄情以外無いかもしれない。

でも、李仁の心は咄嗟にサイドブレーキを引いていた。しかし、本当の驚愕はその先にあったのだ。


 TVはあい変わらず、昨日の家事現場を写していた。

戸惑う近隣の人々。汗まみれの消防士。或いは不謹慎にも携帯で撮影をする人々。人混みの中、一瞬だけカメラがパーンした時、何処かで見慣れた着物姿の人物が一瞬画面に映り込む。


「棗?!」


 その人影は、直ぐに他の野次馬に紛れてしまったが、李仁には間違えようも無く、棗の姿が見えたのだ。燃え盛る炎を呆然と眺め、そしてふっと人混みに消えたのだ。


「何だ?み、見間違えか?いや、しかし…あの着物は確かに」


 いつも着ていた椿柄のアンティーク着物だった。棗が一番のお気に入りの。李仁は慌ててウォークインクローゼットに駆け込むと、棗の着物が仕舞われた箪笥の引き出しを狂ったように全て開けて確かめた。


「無い!なんで無い?!」


なぜオレはこんなに動揺しているんだ?

また棗がはる君に会いに行ったからか?

確かにそれもあるが、何故あの時あそこに棗がいたんだ!

いや、見間違いだ。あの火事を見たなら何かオレに言ってくる筈だ。

いいや、浮気を疑われるのが嫌で言わなかったと言うこともある。いや、でも何故あんな顔で火事を眺めて立っていたんだ?!


 わからない事だらけだった。寝室の扉の影から李仁は棗に声を掛けていた。


「棗、あの、椿の着物は…?随分着ていたから、洗い張りに出そうかと…思って」


「…あれはもう、あちこち傷んでいましたので、端切れにしようかと思って裁断してしまいました」

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