第15話 足りない

 李仁と棗。二人とも恐ろしいほど相手への愛と言う名を借りた執着と独占欲を持っていた。そこが深く二人を結びつける一つの要因でもあった。龍がく時、虎もまた咆哮ほうこうする。互いに対峙し、一歩も退かずに愛を叫び合うように。そしてその愛ゆえの行為もまた、エスカレートしヒートアップして行った。



「駄目だ。しゃがむな。今日一日誰にも気付かれなかったら帰ってたっぷりご褒美だ。言いつけが守れなかったら死ぬほど仕置だ」


 分かったかい?と穏やかに李仁が棗の耳元で甘い声音で囁いた。

店のレジに李仁と棗が不自然なほどピタリと寄り添うように立っていた。棗は辛そうに、唇を噛み締め、時折崩れそうになる我が身を机を支えに必死に立っていた。


「もう、もうダメです、これ以上は…!…っん、ン、」


「そんな声出して良いのかい?ホラ、お客さんがいらした…。いらっしゃいませ。棗君、レジを頼むよ?」


 意地悪くにっこり微笑むと、レジに商品を置く客に愛想よくお辞儀をしてレジを棗に譲った。「いらっしゃいませ」と言う棗は、普段通りを心がけてはいるが、いつ崩れるかも知れないと言う恐怖を内包しながら、勝手にもたらされる快感を必死に耐えていた。

 今朝出がけに李仁は棗の秘孔に可愛らしいが獰猛どうもうなピンクローターを仕込んでいた。それは遠隔操作出来るもので、李仁の一存で如何様にも強弱のつけられるタイプの代物だった。

ルールは簡単だ。ローターを入れている事を誰かにバレるかバレないか。無論、バレるようなヘマはしないようにしながらも、その日一日棗を甚振いたぶるつもりだ。必死に笑顔を作り、無事に接客を終えた棗の頭を李仁が優しく撫でてやる。


「いい子だ。ちゃんと出来たじゃないか」


 猫撫で声でそう言われて棗は充血した目で李仁を恨めしげに睨みつけた。


「酷い!李仁さんがこんなに意地悪だなんて思いませんでした、

…ンっ!…ぅ、ぅっ、」


 李仁がローターを強くした。棗は今にもあらぬ声を上げてしまいそうな口を手で抑え込んで呻いた。


「君が言ったんだよ?何でもさせてくれるって」


 そう言われると棗はぐうの音も出なかった。勿論、そんな風に言うのもプレイの一環なのだが。


 棗といると、自分が何処まで行ってしまうのか分からなかった。

今まで誰にもした事のない行為も棗は何処までも受け入れてくれる。そして死ぬほど李仁を甘やかす。こんな状況、どちらが調教されているのかと李仁は思う。どう見たって、二人は隙間無く重なり合っている。愛情も感じる。なのに足りないと思うのはどうしてだ。

一体何が足りないというのだろう。





「もしもし、私です。棗です。

 明日のお昼に会いましょう。必ず例のものを渡してください」


 暗い部屋の中、明かりもつけずに棗は何処かに電話していた。

電話の相手はわからない。李仁はと言えば、反物の買い付けに今日から三日間、金沢に出掛けて家を留守にしていた。電話は用件のみの短い物だったが、李仁の目を盗んでの浮気にしては全く浮かない顔をしていた。


「決着をつけなければ。あの人と決着を、今度こそ」


 一人寝の寂しいベッドの中で、目を爛々とさせて天井を睨みつけ、棗はまるで呪文のように呟いていた。



 そんな棗の状況も知らず、李仁はとある加賀友禅の工房にいた。

友禅といえば、加賀友禅と京友禅が並び立っているが、京友禅は分業で行うことが多く、図案、下絵、糊置き、彩色、中埋、地染め、蒸し、水元、仕上の九つの工程を、それぞれに専門の職人達で仕上げるのに対して、加賀友禅は一人の作家が全ての工程を一貫して行うと言うものだった。そのため、まるで絵画や書道のように、その作品には落款らっかんが入れられる。


 今、李仁の目の前で、最後の落款が穿たれようとしていた。

鈍色の地色に白に近い淡い桃色の桜が溢れんばかりに描かれている。その色は、初めて棗に出会った時、彼が履いていた下駄の鼻緒を思わせる色だった。

 静かな空間で、落款が押され終わると、ため息とともに空気の緊張の糸が切れるようだった。


千悠せんゆうさんの作品ははいつも圧倒される。どれもこれも素晴らしくて全部を持って帰りたくなりますよ」


 千悠と呼ばれた男は、李仁が独立して間も無く知り合った。風貌は今時の若者だったが、その豊かな感性と確かな技術が、李仁の心を掴んだのだった。それから事あるごとに、李仁はこの工房に買い付けに訪れていた。


「何でも持っていって下さい。藤城さんのお店に並ぶなら光栄ですよ」


 友禅の匠と言うには気さくな様子で、己の染め上げた友禅を眺めていた。


「なら、この桜を私に頂けませんか。お客様と言うよりは、着せてみたい人がいるのです」


 きっとこの鈍色と桜が棗に良く似合う。棗の時と同じく、この友禅にも一目惚れだった。


「藤城さんのいい人ですか?」


 半分は社交辞令のようなものだったが、李仁は何の臆面もなく、嬉しそうに「はい」と答えていた。



 そんな頃、棗の方はと言うと、何処かのシティホテルの一室で、あの電話の誰かを待っていた。地味な着物が冴えない棗の顔色を、いっそう青白く見せていた。

 先に到着していた棗は、珍しく緊張した面持ちでソファに腰掛け、時折小さなため息が、無意識に何度も漏れていた。

暫くすると、ノックの音がした。棗はドアの所まで歩いて行くと、覚悟を決めたようにドアを開いた。


「どうぞ、入ってください」


 ぬっと、扉から入って来たのは背の高い男だった。


「棗、逢いたかった」


そう言うと男は棗を抱きしめようと手を伸ばして来たが、棗は両腕を突っ張り、近づくその胸を拒絶した。

酷く暗い顔をした棗は、男を睨みつけてこう言った。


「例のものは何処?はる君」

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